
保田に優しく尋ねられ、新垣は怖々と口を開いた。
「悩んでいると言うか・・・あ、一つ聞きたい事があるんですけど」
「ん?何が聞きたい?」
「その、進路って・・・進路というか将来何になりたいのかとか、そうゆうのってもう持ってた方がいいんですか?」
「・・・進路相談か」
保田はカップを手に取ると一口啜った。
そしてゆっくり口を開く。
「そうだね、目標が無いよりはあった方がいいに決まってる」
「あぁ、やっぱり・・・」
「でもだからってすぐに見つけた方がいいなんて言わないよ?だって無理でしょう」
「はぁ・・・」
「無理やり目標持って、それだけしか見なくなると自分が本当にやりたい、なりたいものを見落としちゃう」
「・・・」
「ん〜、新垣は何が好き?」
「え?」
「あー、何が好きと言うかそうだな、何をしているときが楽しい?」
肩を落とす新垣に保田は軽く笑ってみせた。
何をしている時。
遊んでいる時は楽しい。
もっさんや吉澤さんと話している時だって楽しい。
でもこうゆう事じゃないよな。
「・・・よく分からないです」
保田は「そっか」と呟いて立ち上がった。
そして狭い部屋をゆっくり歩き回る。
やがて窓のそばで立ち止まって、新垣に振り向いた。
「よし、じゃあまずはチャレンジしてみよう」
「チャレンジ?」
「そう。チャレンジ、挑戦。いろんなものに手を出してみようか」
「いろんなもの?」
「そうだ。例えば絵を描いてみたり料理を作ってみたり水滴を見つめてみたり小さい子達と遊んでみたり色々だ」
・・・水滴?
「色々やっていく内に分かるよ、自分がどんな事が好きだとかどんなものが向いてるとかね」
「はぁ、そうですかねぇ」
「なーに弱気になってんだお前は。私が言うんだから間違いない」
保田は豪快に笑った。
新垣の心の中から漠然とした不安が消え去って行くのが自分でも分かった。
目標はないけれど目標を見つけるための目標が出来た。光を見出だした気がしていた。
「先生!」
「お、どうしたいきなり」
「あの、ありがとうございました!」
「・・・お礼を言うのはまだ早いよ」
保田はそう言ったがその顔は嬉しそうに綻んでいた。
今日一日のもやもやが吹っ飛んで、新垣はさっぱりした。
最後にまた一礼して新垣は『ケメコ'sルーム〜care of your mind〜』を後にした。
新垣は一人で帰路を辿っていた。そして思い出していた。
担任教師の保田。心の相談員。
思えば保田と話すなんて初めてだったかも知れない。
少しきつめの顔と凛とした口調は少なからず近寄りがたい、怖いといった印象を新垣に植え付けていた。
ところがどうだ、話してみれば怖いなんて事は全くなく、むしろ少しの親しみさえ湧いた程だ。
やっぱ、人は見掛けじゃないよなぁ。もっさん然り保田先生然り。
話してみれば楽しいよ。新垣は自然と口元が緩んでいた。
家に辿り着き母と顔を合わせた瞬間に「気持ち悪い」と言われたが全く気にしなかった。
夜。いつものように藤本がやってくる。
普段は藤本ばかりが話すのだが今日は違っていた。
藤本が部屋にやってくるなり新垣は口を開いた。
「もっさん、保田先生って知ってますか?」
「保田?あぁ、ケメちゃん?」
「ケメ・・・そうです」
「知ってるけど何かあった?」
「いや、別に何もないですけど」
「なんだいつまらんな」
藤本は枕を投げてくるが新垣はそれを軽く躱す。
藤本の眉根に皺が寄った。
そして再び何かを投げてくる。タオルだ。
新垣はそれを顔面で受け止めた。汗の匂いが少しだけした。
綺麗にたたんで満足げな藤本に返す。タオルを受け取りながら彼女は口を開く。
「がきさんトコの担任ってケメちゃんじゃなかった?」
「そうですけど・・・それよりなんですか?ケメって」
「おいおいがきさん、自分トコの担任だろ?名前ぐらい知っててあげようよ」
「いや知ってますよ、保田圭先生でしょう?」
「おおちゃんと分かってるじゃん。そうだよ、だからケメコだよ」
いや意味が分からない。
藤本はベッドの上をごろごろ寝転がりながら楽しそうに笑う。
「そうだがきさん、ケメちゃんの部屋入った事ある?」
「あぁ、今日行きましたよ。それが何か?」
「ドアのとこにプレートあったっしょ?」
あぁ、確かにあった。
ちぐはぐな手書きの文字で書いてあったのが確かにあったけどそれがどうした?
「あれね、美貴達で書いたの」
藤本は顔を上げて懐かしむ様に笑った。
美貴達。達?
新垣は首を傾げるが藤本は気付く事無く一人で喋り始める。
藤本が高等部に上がって、担任についたのが保田だった。
そのクラスには吉澤と後藤もいた。
三人はクラスの中でも外でもいろんな意味で問題児でちょくちょく保田に呼ばれていたらしい。
その頃の保田が在中していた部屋はきちんと『カウンセリングルーム』といったプレートが掲げてあった。
それが堅苦しくてつまらなくて三人で書き替えたそうだ。
それを見た当初保田は「ケメコって何なのよ!」と目をギラつかせて怒鳴ったのだが、
その内に気に入ったのだろうか、プレート部を綺麗に拭いたりたまに眺めてニヤついたりしていたらしい。
「あの部屋のドア、プレートの所だけ凄い綺麗だったでしょ?」
「あぁ、確かに」
元は白かったであろう扉は所々黒ずんでいたが、プレートだけは新品同様に真っ白だった。
保田が毎日のように手入れしていたせいなのだろうか。
磨き終えたプレートを眺めてニヤつく保田を想像して新垣は少しの吐き気を覚えた。
「で、がきさんはなんでケメコルームなんか行ったの?」
寝転んでいたはずの藤本はいつのまにかベッドの上で胡座を掻いていた。
「あー、ちょっと悩み事があって・・・」
「あは、がきさんでも悩んだりするの?」
「む、失礼ですね、私だって悩みぐらいありますよ」
「冗談だって。で、何よ、がきさんの悩みって」
「まぁ・・・色々あるんですよ」
「お前生意気だな、美貴が聞いてるんだぞ?」
「うぅ。あー、えー、そのー、今後についてです。進路相談みたいな」
「・・・昨日の事気にしてたんだ?」
新垣は静かに頷いた。
藤本はつまらなさそうな顔で新垣を見つめるとやがて寝転んだ。
足をバタバタさせて音を出す。その間から声が聞こえてくる。
「つまんない。これマジでつまんない。がきさんバカじゃないの。信じらんない」
藤本は確かにそう言っている。不満そうな声で。
新垣には分からなかった。
なぜそんな事を言われるのか。なぜ彼女は不満そうなのか。
新垣には分からなかった。
やがて藤本はベッドの上で暴れるのをやめると起き上がって再び胡座を掻いた。
「がきさん」
「は、はい?」
「がきさんは美貴の事を好きと言いました」
「はぁ、言いましたねぇ」
「美貴の進路を教えて上げようか?」
「え?」
「知りたいのか知りたくないのかどっちだ」
藤本はいつになく真面目な声で言う。
その顔は苦虫を噛み潰したような、どこか苦しそうな顔だった。
新垣は困ってしまった。
知りたいのか知りたくないのかと聞かれればそれは知りたい。
だけど知ってしまったらどうなるだろう。
もし遠くへ行ってしまう様な道だったら。あまり知りたくない。
だって寂しいじゃないか。離れ離れになってしまうその日までどうやって過ごせと。
だけどそれならばもしかして事前に知っていた方がいいかもしれない。
突然別れてしまうより、心の準備をしておいて、それから離れて行く方がいいのかも知れない。
だけどそれもどうだろう。
新垣は困ってしまった。
考えて考えて、黙り込んでしまった。
藤本はそんな新垣に痺れを切らしたのか、何かを諦めたように息を吐くと自ら口を開いた。
「美貴ね、北海道行くんだ」
低くて少し小さいけれど凛とした藤本の言葉。
その言葉は静かな新垣の部屋にぽんと放り出された。
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