「がきさんおは・・・どーしたのその目」

「あ゛ぁ゛、ぼっざん、おぁ゛どーございばず」

「それにその声。風邪引いた?」

「や゛、元気でず!!」

「いやいや明らかに元気じゃないでしょう」

藤本は困った様に笑う。
だが新垣は本当に元気だった。
目が真っ赤で腫れているのは昨晩泣いていたからで声が枯れているのもそのせいだ。
体調は至って良好だ。
「今日は休みなよ」という藤本の声を無視して新垣は先に立って歩く。
やがて諦めたのか藤本も歩き出す。数歩も行かない内に追いついて手にしていた鞄で新垣を殴る。

「美貴より先に歩くな!」

新垣を後ろに従え満足したのか藤本は笑みを浮かべる。
新垣も笑っていた。
昨日の夜、気付いたのだ。
隣りに藤本が越してきてから十年くらい。
初等部の頃から朝は二人一緒に登校していた。
ところが、藤本が高等部の三年生になった今、朝一緒に通学できるのはもう数える程しかない。
その事実に新垣は昨日やっと気付いたのだ。だから決心した。
後数える程しかないこの貴重な通学時を大切にしようと。
心に刻んでおこうと。
だから新垣は藤本に殴られたのが嬉しかった。嬉しかったけれど、少し寂しくもあった。
だけど顔には出さなかった。笑っていた。

「ぼんじゅぅうう〜る!!さばびよ〜ん!?じゅってぇーむ!!」

「ひょぉっちゅわぁん!!」

「吉澤さん!!」

「やぁやぁボンジュールマドモアゼル達。今日も素敵な師走だね!」

いや意味が分からない。
突然大声を出して現れた吉澤に藤本は目をキラキラさせて飛び跳ねる。
いつもの光景だ。新垣はしっかりと目に焼き付けた。覚えておくんだ。

「ホワーイどうしたがきさん、真っ赤なおめめで見つめちゃって!ついに吉澤さんに惚れちゃったかい?」

「んふ、多分一生無いです」

新垣はニッコリ笑って斬り捨てた。
吉澤は大袈裟に肩を落としてみせた。藤本がその背中をバシバシ叩く。

「大丈夫だよよっちゃん、美貴が惚れてるから」

「・・・」

「沈黙すな!!」

叩かれていた背中に蹴りが入る。吉澤は白目を剥いて倒れた。
あぁ御愁傷様。

「さ、がきさん行こう」

地べたにはいつくばる吉澤を残して藤本は先へ歩き出した。
白目を剥いて倒れている吉澤が心配だったが新垣は藤本の後を追った。
よくよく考えてみれば心配する事などないのだ。吉澤はおっぱい星人だった。
近くを巨乳が通ればすぐにでも復活するはずだ。いつ通るかは分かんないけどその内一人くらいは通るさ。
そうだ、心配なんてしなくていいんだよ。

「おいおい酷いじゃないか二人とも!ひーちゃんは悲しいぞ」

もうかよ!!
数歩も行かない内に吉澤の声が聞こえて新垣は振り向いた。
白い頬にアスファルトの跡をつけた吉澤とその後ろ。

「あれ、ごとーさん?」

「やほーがきさん」

吉澤を復活させた巨乳は後藤だった。
白いマフラーに顔を埋めニコニコ笑いながら手を振っている。
後藤の声に反応したのか藤本もやってきた。

「あらごっちん、今日は早いね。いつもギリギリなのに」

「んぁ、今日はみきちーに渡したいものがあってね」

後藤と藤本が話している間に吉澤に聞くと、後藤はどうも朝が弱いらしくいつも授業ギリギリに登校しているらしかった。
彼女がこんな時間に登校しているのはとても珍しい事らしい。

「はい、コレ」

後藤は鞄をがさごそと漁ると何やら取り出して見せた。
あ、おっぱい薬。
後藤の手の中で茶色い小瓶がキラキラと太陽の光を反射させていた。
藤本はそれ以上に目をキラキラさせて感嘆の声を上げている。
新垣と吉澤は二人して目を見合わせると小さな声で囁いた。

「ミキティも馬鹿だよな」

「いい加減気付いてもよさそうなんですけどね」

「ごっちんも優しいんだか酷いんだか」

「まぁ二人とも楽しそうだからいいんじゃないですか?」

新垣の言葉通り、二人はとても楽しそうだった。
楽しそうだったけれど、だからこそそれを見て新垣は少し切なくなった。
後少しもしたらこんな楽しい風景も見れなくなるんだ。
藤本も後藤も吉澤も皆三年生。
三人ともいなくなってしまう。その事を思って新垣は少し悲しかった。
やがて藤本と後藤が歩きだし、それに続いて吉澤と新垣も後を追う。
藤本は後藤と喋っている。きっとおっぱい薬についてトークしているんだろう。
新垣は隣りを歩く吉澤に話しかけた。

「吉澤さん」

「おぅ、なんだい?」

「ごとーさんはもう大学決まってるんですよね?」

「みたいだねぇ。さすがごっちんだよ。胸もよけりゃあ頭も良い。最高だね!」

「吉澤さんももうすぐ入試ですよね?」

「あぁガッデム!確かにそうだがその話は極力避けてもらいたいな」

「落ちたら恥ずかしいからですか?」

「ピュアな質問をストレートにするもんじゃないよ。・・・まぁ確かにがきさんの言う通りなんだけどな」

「あ、すみません。で、聞きたい事があるんですけど」

「どうしたがきさん、今日は朝からアクティブだな!いいぞ、何でも聞いてこい!」

「もっさんはどうするんですか?」

「は?何を?」

「だからもっさんの進路ですよ」

「えーとそれは・・・」

先程までニヤニヤと笑っていた吉澤は不自然な笑みを顔に貼り付けて言葉を濁す。
何?何なの?何か知っているの?
新垣の背中を嫌な汗が伝った。
吉澤は奇妙な笑顔を貼り付けたまま言った。

「吉澤さんは何も知らないから直接ミキティに聞いたらどうかな?」

嘘だ。
この人は絶対に何か知っている。
吉澤と付き合っていく内に新垣には一つ気付いた事があった。
吉澤は嘘つきだ。そしてその嘘を吐くのがとても下手だ。
前までは分からなかったのだが、吉澤は嘘を吐く時必ずと言っていいほど口元を掻くのだ。
新垣はその事に気付いた。
そして今も吉澤の白く長い綺麗な指は口元にそっと添えられている。
吉澤さんは嘘を言っている。もっさんの進路を知っている。
ミキティに聞けなんて言われても内緒って言われちゃったもん。
そこで疑問がまた生まれた。
何故教えてくれない。
確かに他人の口からは言えない事かも知れないがそれとなくぐらい教えてくれたって良いじゃないか。
何でよ。どうせいつかは知ってしまう事なんだし。
新垣は頬を膨らませたが吉澤は知らないふりをしてさっさと歩いて行ってしまった。
釈然としない思いを抱えながらも新垣は吉澤の後を追う。

「がきさん遅いよ、美貴が凍っちゃうだろ。寒死するぞさむし」

追いついた場所には藤本と後藤が二人並んで立ち、訳の分からない事を吠えている。
先に歩いて行ったのはもっさん達じゃないか。
思いが顔に表れたのか藤本はポケットに突っ込んでいた両手を出すと新垣の顔を挟む様にして叩いた。
只でさえ空気が冷たくてピリピリ痛いのになんて酷い事をするんだ。
新垣の目にうっすらと涙が浮かんだが藤本は一仕事終えて満足したのか大股で歩き出した。
吉澤がその後を追い、自然と後藤が隣りに来る。
後藤はほわほわ笑いながら眠そうな声で「目覚めの良い朝だねぇ」と言った。
後藤が楽しそうに言うので新垣は何とも言えない気持ちになってとりあえず笑っておいた。
やがて先に歩いていた二人と合流し四人で校門をくぐる。
昇降口まで一緒に行って、そこから先は別々だ。
藤本と吉澤と後藤、三人と別れて新垣は一年生の教室が入る四階まで一気に駆け上がる。
乱れた息と服を直すと自分の教室へ入った。

「お、がきさん」

「おハローあいぼん」

片手を上げて挨拶を返したその先には親友の加護亜依ぼんがいた。
寒くなって厚着をしてくるようになったせいかいつも以上にボリューム感がある。
丸々とした加護はその体型よろしくコロコロ笑う。

「あはは、がきさんほっぺまっかっか!お猿さんみたいや」

加護に指摘され新垣は鞄の中から鏡を取り出し顔を写す。
わぁ酷い。
加護の言う通り、頬が赤く染まっている。きっと藤本に叩かれたからだ。
新垣は鏡をしまうとがっくり肩を落とした。
そんな新垣に加護が歩み寄って来て取り繕う様に言った。

「大丈夫、ほっぺ赤いがきさんも可愛いで?」

可愛いって言ってくれるのは嬉しいけどなぁ。頬が赤くなってしまった原因を考えるとこれは問題だよ。
新垣は溜め息を一つ吐くと自分の席に腰を下ろした。
加護は怪訝そうな顔をしながらその前の席に座る。
新垣は昨日の夜から思っていた事を加護に聞いた。

「あいぼん」

「ん、何?」

「あいぼんさぁ、進路って、もう考えたりしてる?」

新垣の質問に加護はびっくりしたような顔をする。
けれど次の瞬間には嬉しそうな顔をして、背筋をピンと伸ばして言った。

「加護さんはなぁ、昔からなりたいものがあんねん」

「なりたいもの?」

「せや。生まれた時からずっとやで」

「ほぅ。で、何になりたいの?」

「・・・漫才師や」

加護は満面の笑みを浮かべて言った。