
新垣は腹を括っていた。
どんなおしおき(という名の嫉妬からくる一方的な暴力行為)にだって耐えるつもりでいた。
ところがそれはいつまで経っても新垣に振るわれる事はなかった。
薄く目を開いた。藤本の足が見える。
彼女は新垣がこの部屋で目覚めた時から一歩もその場を動いていなかった。
完全に目を開き、藤本を見る。天井を睨んでいた彼女は視線を下ろし、新垣と目が合う。
唾を飲んだ。
「それだけ?」
藤本は一言だけ言った。それはとても冷たい響きだった。
MK5だ。
美貴ちゃんキレる5秒前だ。
「そ、それだけって、それだけですよ?」
「嘘。がきさんは嘘を吐いている」
藤本はスッと目を細めた。
その瞳はどんなに尖ったナイフより鋭く新垣の心臓を貫いた。
痛い。苦しい。逃げ出したい。
でも待って。
私嘘は言っていない。
だって本当に吉澤さんと会っていたもの。
寄り道なんかしなかったし買い食いだってしないでまっすぐ帰ってきたもの。
っていうかその前に一つ言いたい。
なぜ何も行動を起さない!
今の藤本の表情は冷たく、とても恐ろしい。
だがそれ以上に、吉澤の名前を出したのに何も動こうとしない彼女の存在自体がそれ以上に恐ろしかった。
どうしてしまったんだもっさん。
殴るなり蹴るなりしてくれないとどうしたらいいのか分からないよ。
「嘘なんか言いません、本当ですよ。吉澤さん、吉澤さんと会って喋っていたんです」
さぁどうだ、今度こそ。
新垣は待った。藤本が動き出すのを。
やや間があって、藤本はやっと行動を起した。
ずっと立っていたその場を離れ自分に向かってくる。
新垣は目をつぶる。攻撃されるのは分かっていても、慣れていても怖いものは怖いのだ。
今回はなんだ。蹴りか?いや、ビンタとかきそうだな。最近くらっていない。
藤本の気配をすぐ近くに感じる。
一層きつく目を瞑り歯をくいしばる。
襟首を掴まれる。そのまま引き上げられ、体が宙に浮く。
投げ飛ばされるか。
腕が離れた瞬間に頭を守ろう。これ以上馬鹿になりたくない。
机の足とかぶつかりたくないな。できるだけ障害物の無い場所に優しく投げてくれないかな。
「亜弥ちゃんの匂いがする」
投げ飛ばされた先はベッドの上だった。
投げ飛ばされたと言うか放られたと言うか元に戻されたと言うか。
てゆーか、何?
さっきもっさんなんて言った?
「なんでお前から亜弥ちゃんの匂いがするんだよぉぉおおお!!」
ぐはぁっ!!
不意打ちだった。完全に油断していた。
藤本に聞き返そうと体を起こして見えたのはもの凄い形相で新垣の通学鞄を振り上げる藤本の姿だった。
彼女の絶叫を聞き、目の前が暗くなり、新垣は意識を失った。
目が覚めたそこは変わらず藤本の部屋だった。頭が痛い。
藤本は壁に凭れるようにして座っていた。新垣が体を起こすと、立上がって向かってくる。
ベッドの側までくると立ち止まり、しゃがむ。
新垣の目を真っ直ぐ見て、低い声で言った。
「お前と亜弥ちゃんの関係を詳しく且つ簡潔に話せ」
藤本の顔は真剣だった。新垣は本能の赴くままに視線を逸らした。
怖い。ヤバい食われる。
そんな新垣の顎をがっつり掴み藤本は笑う。
「美貴、がきさんのお話し聞きたいなぁ」
とっておきの甘い声ととっておきの可愛らしい笑顔を浮かべる藤本。
新垣は自由な両手でベッドを叩いた。
痛い痛い痛い痛い!
目に涙を浮かべ必死で藤本の腕から逃れようとする新垣。
顎が。
掴まれている顎が今にも握り潰されそうだ。骨が砕けちゃうよ。
藤本はようやく新垣の顎を離す。
見るも無残な藤本の指跡がきつく残った顎を擦りながらベッドに沈んだ。
覆い被さるようにして、藤本は指先で新垣の顎をそっと優しく撫でる。
「痛かったでしょう、これはおしおき」
漏らすように耳元で囁いた。
そして起き上がると枕を抱えてベッドの上で胡座をかく。
「さぁ、話せ」
あぁ。
ついさっきまでの仕草はとてもセクシーで色っぽくて大人で心臓のドキドキが早くなったのに。
あぁそれなのに。
枕を傍らに胡座をかくその姿は親父そのものだ。
これがなけりゃあ最高に素敵なのに。
新垣は溜め息を吐いて座り直した。一つ深呼吸して口を開く。
「えーとですね、放課後吉澤さんを捕まえて屋上で話してたんです。そしたら松浦さんがやって来て」
「は?よっちゃん?がきさんよっちゃんと屋上でナニしてんの!?」
今頃かよ!
飛んできた枕を体の正面で受け取り藤本に返す。
「しかもなんでそこに亜弥ちゃんがくるんだよ!」
再び飛んで来る枕。
避けると藤本は露骨に嫌な顔をした。
「で?よっちゃんと亜弥ちゃんと三人で何してたの」
「特に何も」
「チェストォォオオオ!!!」
藤本は吠え、そして飛んだ。
弾みをつけ宙に飛び出したその身体は綺麗な弧を描き、前に伸ばした腕で新垣の肩を掴むとそのまま押し倒した。
馬乗りになり、目をギラつかせる藤本。最近伸ばしているらしい長い髪がバラけて恐ろしさを倍増させる。
「何もない訳が無いだろう、死にたいのか!?ナニしてた!?三人で何したんだ!?」
「トトトトットットットークです!」
「馬鹿言え、たかがトーク如きでこんな遅くならんだろうが!」
「だってあの二人が馬鹿なんですもん!!」
新垣は泣きながら叫んだ。
藤本が怖かったし、屋上での出来事も思い出すだけで泣けてくる。
怖い怖いよ。
「・・・亜弥ちゃんは馬鹿なのか・・・」
体全体で感じていた体重が消えた。
瞑っていた目をそっと開く。覆い被さっていた藤本の姿が無かった。
半身を起し、姿を探す。
いた。
藤本はフラフラと歩き、そして机に向かって座った。
なんだ?どうしたんだ?
椅子に座った藤本は机の引き出しから一冊のノートを取り出しパラパラと捲る。
そして鉛筆を取り出した。
「・・・馬鹿である・・っと」
微かに笑い声が聞こえたような気がするが気のせいにしておこう。
こわい、とてつもなくこわい。
新垣の位置からは彼女の背中しか見えない。だがその背中がもう恐ろしかった。
いつもとは全くタイプの違う禍々しいオーラが渦巻いている。
新垣が見なかったふりをしようとそっとベッドに潜り込もうとしたその時、ぐるんと藤本が振り返った。
「がーきーさん!」
ひぃぃいいいっ!!
藤本の顔を見て新垣の心臓が一瞬止まった。
藤本はこれ以上ないくらいに極上の笑みを浮かべていたのだ。
吉澤と話している時だってこんなニヤけてはいない。
そう、藤本はデレデレといやらしい笑みを浮かべていた。
そして甘い声で新垣を呼ぶ。
「がきさん!」
「な、何ですか?」
「がきさんは亜弥ちゃんとどんなお話ししたのかな?」
うぇーっ。
どうしてしまったんだもっさん。きもちわるいよ。
藤本はニコニコと笑っている。なるべく目を合わせないようにして口を開いた。
「えーと、お話しというかホント、特に何も話してない」
「ど・ん・な・お話ししたのかなぁ?」
「あああああのですね、えーと、吉澤さんは外側が好きで松浦さんも皮が好きでキュウリは外側しか食べなくて・・・もっさん?」
こちらを見て恐ろしい笑みを浮かべていた藤本。
だが今は新垣に背を向け何やらノートに書き込んでいる。
奇妙な声が聞こえてくるのはきっと気のせい。空耳、幻聴だ。
視界に写る背中が楽しげに揺れているのもきっと幻覚。疲れ目霞み目。
そう、きっと自分が疲れているだけ。彼女は普通だ。もっさんはおかしくないよ、ね?
「んふふー、おバカな亜弥ちゃんかぁ〜」
ってやっぱこれおかしいだろ。私は普通、おかしいのはもっさんだ!
「もっさん、一体どうしちゃったんですか!」
「うるさい!美貴は今恋する乙女モードだ!」
いやいやいやどこの世界に鬼みたいな顔して恋する乙女がいるんですか?
あぁ、でも。
立ち上がって新垣に消しゴムを投げ付けた藤本。
彼女の身体越しに見える机の上にあった。
アイドルスマイル。
机の上の写真立ての中で通称あややこと松浦亜弥がニッコリと笑っていた。
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