馬鹿と煙



目が覚めると身体が透けていた。目の前に両手を翳すとその向こう側が見える。
一瞬パニックに陥ったが、これはこれで悪くないと思うとスッと冷静になれた。
母に挨拶しなくては。階下へ降りると母は慌ただしく動いていた。父と弟達のお弁当、それと朝食を作っているようだ。
「おはよう」と私は言ったが母には聞こえていなかったらしく何も返事は無かった。
今朝のメニューはどうやらご飯と納豆とお味噌汁のようだ。朝はベーグルから始めたい私にとってはノーサンキューなメニューだ。
「朝ご飯いらないから」私は母に言った。母はやはり聞こえなかったらしくお弁当を手早く包んでいく。
忙しいのだからしょうがないか。お味噌汁の香りを肺いっぱいに味わって私は自分の部屋へ戻った。

窓から外を見ると、とても天気が良い。窓を全開にしてベッドに腰掛けた。開け放した窓から入って来る風が心地良い。
一際大きな風がやって来てカーテンをばたつかせた。その瞬間、私の体がフワリと浮いた。妙な浮遊感に少しだけ気分が悪くなる。
なんだこれは。私は一体どうしてしまったのか。浮いてしまったと言うのはただの気のせいなのか。私は確かめてみる事にした。
大きな風がやって来るのを待ち、来たと同時にジャンプしてみる。私の体はフワッと浮いて風に乗った。本物のウィンドサーフィンだ。
次から次へとやって来る風に乗った。コツを掴み、小さな風にも乗れるようになった。
そうすると部屋の中であると言う事が大層勿体なく感じられた。風に乗ったまま外に出る事は可能だろうか。
私は風の上を渡り歩き、窓から外へ出た。

部屋の中とは違い何の囲いも無い空はとてつもなく広く、少し感動してしまった。
次から次へと風へ飛び乗り、ふと横を見ると雲があった。私は一体どこまで高く昇って来てしまったのだろう。下を見た。
その瞬間、あまりの高さに目が眩み身体が竦みバランスを崩してしまった。バランスを崩した私の身体。真っ逆様に落ちてしまうのだ。
と思ったけれどそんな事は無かった。バランスを崩した変な格好のまま私は宙に浮いていた。
風に乗らなくても宙にいられる事は分かった。けれどもうあんな恐ろしい思いはごめんだ。私は慎重に高度を下げていった。

小さな点としか認識出来なかった物が建物だと分かる位置まで降りて来た。
昼下がりの道路には人々の往来が見られる。けれど地上の人間は地上にしか興味が無いらしく誰も私には気付かない。
面白いようなつまらないような変な感じだ。風に乗らずに空を歩くコツは掴んだ。私は空中散歩を楽しむ事にした。
暫く歩き回っていると大きな建物を見つけた。どうやら病院のようだ。最上階の窓が一つ開いている。
ただ歩き回るという事に飽き始めていた私はこりゃ幸いとその窓から病院の中へ侵入した。

その病室には沢山の人がいた。皆で一つのベッドを取り囲むその光景はどこか異様だ。
囁き声と啜り泣く声が止む事無くひっきりなしに聞こえている。ベッドに群がっているのは女の子ばかり。中、高生くらいか。
病弱なクラスメイトのお見舞いにでも来たんだろうか。
しかしこんなに沢山来てくれるなんて、きっとクラスでも人気者で可愛い子なのだろう。ちょっと見てみたいな。
私は窓枠から腰を上げると天井近くをフワフワと移動して、皆に囲まれている病弱なクラスメイトを見た。

そこにいたのは私だった。

なぜ私が?私はここにいるのに!
私は私を取り囲んでいる人達をもう一度見る。ミキティ、がきさん、小春、梨華ちゃんに飯田さん。
うわぁ、なんてこった。ハロプロメンバー勢揃いじゃないか。
皆の輪の一番外れた場所にいた田中に話し掛けてみる。けれど田中はグズグズと泣くだけで私には目もくれようとしなかった。
次いでごっちんに話し掛ける。
聞いているのかいないのか、大きな目に涙を浮かべてどこか怒っているようにベッドの上の私を睨んでいる。
何だよ、私はここにいるよ。気付かせようと肩を叩いた。けれど私の右手はごっちんの身体をスッと通り抜けただけだった。
なんだこれ。どうしてしまったんだ。もう一度ごっちんに触れてみる。何の感触もない。
ごっちんの左肩の辺りから私の右腕が生えている。ヒラヒラ振るとごっちんの肩甲骨から鎖骨から私の指が現れる。なんなんだこれは。
私は誰彼構わず触りまくった。けれど何にも触れなかった。小春を思い切り抱き締めてみたけれど自分の体を抱くだけだった。
なんなんだ、どうしてしまったんだ。何か触れる物は無いのか。私は再び宙に浮いて考えた。
壁はどうだろうか。思い付いてやってみたが隣りの病室に入ってしまった。つまり擦り抜けてしまったのだ。私は途方に暮れてしまった。
私はここにいるのに、誰も気付かせる事が出来ない。宙に浮かんで胡座を掻いたままベッドの上の私を見た。
どうやら眠っているようだ。目を閉じている。何故お前がいるのだ。私はここにいるのに。
お前のせいで誰も私に気付いてくれないじゃないか。そこでふと思い出した。
私は私に触っていない。私は私に触れるだろうか。やってみよう。
私は水泳選手よろしくポーズを取るとベッドで横になる私のおヘソ目掛けて飛び込んだ。





目が覚めるとそこは病室だった。
消毒の匂いと白い天井。腕から伸びる幾つもの管。頭がぼんやりする。
霞掛かった頭にやたらエコーの効いた声が聞こえる。薄く開いた視界が白から黒に染まっていく。

「ひとみ!!」

あぁ、母の声だ。一際はっきりとしたその声に目を開く。
黒に染まったそれは沢山の人の顔だった。皆一様に目が赤い。泣いていたのだろうか。
そういえば私の身体はどうなっている?さっきまで透けていたんだけど。
目の前で両手を翳して見る。そこにあったのは私の白い手。向こう側の天井は見えなかった。
血液が逆流して透明の管が赤く染まる。そっと腕を下ろした。回りを見渡して、ごっちんと目が合った。
さっきは触れなかったんだっけ、今はどうだろう。そっと腕を上げると伸びて来るごっちんの手。暖かい。ちゃんと触れてる。
安心して目を閉じた。途端ワーキャー騒がしくなる。五月蠅い。声は聞いてくれるだろうか。

「う・・・うるさい」

掠れた声で皆が黙り込む。
そこへ見慣れない白衣の男性が現れた。きっとお医者さんだろう。仲間達は部屋を出ていく。
父、母、弟達とお医者さん。何を話しているのかは聞こえない。私は首を横にして窓の外を見た。
私はついさっきまであそこにいたのだ。あの空に。やがて話が終わったのかお医者さんが出ていき、父と弟が出ていった。
窓は開いている。そこから大きな風が入って来た。けれど私は浮かなかった。沢山の管で繋がれていたのだ。
「窓閉めようか」と母が立ち上がるのを制して「喉が渇いた」と訴えた。
母は笑って「それじゃあ買って来るわね」と部屋を出ていった。扉が閉まるのを確認して私はベッドから起き上がった。
腕に絡み付く沢山の管を毟り取る。窓は開いている。風も上々。私は行くのだ、もう一度。
風に乗って高い所へ、空を歩くのだ。私は窓枠に手を掛けて風が来るのを待ち、そして踏み出した。

けれど私はもう空を歩けなかった。
白い煙になって風に乗ってどこまでも高く高く、先程とは比べ物にならないくらいに昇り続ける事しか出来なかった。











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