1944(昭和19)年2月2日、産声を上げたその赤子は、秀直と名付けられた。サラリーマンの父、優しい母、6人兄弟の末っ子だった彼は、兄や姉にかわいがられ、温かい家庭の中
で育った。
幼い頃は「いーちゃん(ひーちゃんから進化)」「ケロヨン(蛙キタコレ)」と呼ばれた彼は、当時、蝶の採集が趣味だったようだ。
活発だった彼は中学時代には新聞部を作り、生徒会新聞を発行する。
暖かい環境で育った彼は、「人」が好きだ。人と集まり「ナニカ」面白いことを始める事が大好きだ。彼はまずは人を信じることからはじめる。それで時に失敗することはあっても、過ぎたことにくよくよめそめそしてないでさっさと忘れて次に進む!この勇猛果敢なまでの前向きな彼の精神土壌は、恐らくこの暖かな幼少期に育まれたのであろう。
最初の挫折は高校受験だった。第一志望に落ちた彼は合格発表の帰りに街に流れていた「マンドリンセレナーデ」を聞き、泣きながら誓った。「大学受験は頑張るぞ」と。
それからは家に帰ると部屋に篭り、3時間かけて新聞を読み込んだ。世の中の流れや仕組みをんだ。この新聞読み込みが自分自身の考えを確立するのに役立ったと後述している。当時、パソコンが今のように普及し、インターネットの網が世界を張り巡らせていたら、恐らく彼はそこで情報収集をおこなっていただろう。
では、彼が今で言うヒッキー(引き篭もり)だったのかというと、そうではなく、むしろ物凄い社交的だったようだ。高校に入った彼は、家での新聞読み込みを続ける一方、クラスの全員を連れて、八王子青年の家に行き、フォークダンスやゲームなどレクリエーションを楽しんだ。自らが挫折を味わおうと、彼の「人」好きは変わらない。とにかくみんなで集まってなんかするのが好きなのだ。
慶應義塾大学に進んだ彼は、自治会主催の夏季セミナーで実行委員長を任された。日本青年館を借り、様々な大学から生徒計400人を集め、各界から豪華講師陣を40名も呼び、見事成功を収めた。ただ講師が喋るだけの一方通行的な授業ではなく、10人で1ユニットとした座談会形式の授業で画期的かつ意味のあるセミナーとなったようだ。
大学受験の為に早稲田予備校に通った彼。大学に入学すると見覚えのある顔があった。当時、予備校には男子学生200人に対して女子は3人ほどしかいなかった。彼の記憶には彼女の姿は焼きついていたに違いない。(ちなみに彼女は彼を覚えていなかったとの情報あり)いつも時間ぎりぎりでやってくる彼。彼女はいつも早くに来て、一番前の席に座っていた。その時の彼女が、大学の同じクラスにいた。一ヶ月くらいたってから行われたコンパで彼は彼女に声をかけた。
「早稲田ゼミに通っていませんでしたか?」
そして二人は恋に落ちた……。合コンでGET…。
大学卒業と同時に結婚。日経新聞に入社した彼は新婚当時
「いつか特派員になって、ロンドンだとかワシントンだとか連れて行ってやる!」
と奥様に豪語していたようですが、実際に行ったのは「広島」。奥様は、そのことをなにげに根にもっているとかいないとか…。
記者時代は社会部や政治部に所属、宮内庁担当、野党キャップや官邸担当も勤めた。人を信じる性格が災いし、ライバル記者に特打ちを打たれるなど本人曰く、「記者としてあるまじき失敗」も経験した。
ぶっちゃけ原稿を書くのも好きではなかったそうで、マス目を見ると吐き気を催していたらしい。とはいえ、仕事は仕事。ちゃーんと頑張られていたようで、その名残かNHKの放送終了時、当時は12時に日の丸君が代をみてから徹夜で特集記事を書いていた癖が取れず、今もNHKから君が代が流れると「あ、いけね、仕事しなきゃ、ってもう明け方か(σ´・∀・)σYO!!」とひとりごちることもしばしばあるそうな。
『政治部記者から政治家へ』
政治部記者として政治に接してきた彼は、「小さな政府」への大改革が必要だと痛感していた。それは、高校時代、新聞を読みふけり、世界の政治にも目を向けていたからかもしれない。
岳父(奥様の父)中川俊思氏が亡くなられた後、昭和51年、彼は政治の舞台へと登場する。義父の地盤を引き継いだと言われているが実際は自民党からの公認ももらえず、奥様と行脚する毎日。駅前や街頭で「コーヒー一杯で政治を変えよう」とコーヒー献金なるものを募ったり、赤穂浪士の格好で出馬届出に行ったり、とにかく必死だった。結果、新自由クラブブームの追い風にも乗り、32歳でトップ当選を果たす。
『当落の狭間で』
が、旧広島2区は落選者が次選挙でトップ当選するという不可思議な現象を20年も繰り返す激戦区、彼も2度にわたり、辛酸をなめた。しかしこの2度の落選から彼は多くのことを学んでいた。挫折を味わった人間にしかわからないことを彼は知った。
『初入閣』
昭和58年国土政務次官、 昭和61年通産政務次官、昭和63年衆議院科学技術常任委員長、平成6年内閣総理大臣補佐、平成7年党筆頭副幹事長などを経て、 平成8年科学技術庁長官として初入閣する。自社さ政権でアノ菅直人氏と初入閣は同じ。しかも二人が一番若かったため、閣議では隅の方に並んで座っていた。平成12年、内閣官房長官として再入閣、しかし…運命の時が迫っていた。
『アノ話し』
で、だ。アノ話しになるわけですね。
マスコミ出身の彼が、マスコミに叩かれまくったこの年。
彼はイロイロな場で認めている事が2つある。それは、「自分は聖人君子ではなく、やんちゃだった」事、そして「奥様にも、相手女性にも男として非常に申し訳ないことをした」事。では他の関連した疑惑についてはどうか。コレに関してはキッパリと否定している。
・右翼との会食写真?黒い繋がり→これは後に神主さんの集まりでの写真と言うことが判明した。まぁね、政治家さんともなると色んな人と写真を撮るわけで、たった一枚のツーショ写真を元に、黒い繋がりだ!とか言われてもぶっちゃけ(°Д°)ハァ?なわけですね。
・女性を広島の自宅に招きいれた?→これは不法侵入されて写真を撮られた。そしてこの「疑惑」に関しては裁判で係争中でしたが、2004年12月21日、広島地裁で判決が下りました。求めいてた謝罪広告は認められませんでしたが、裁判長はこの中で「中川氏が写真を撮影したとは考えにくい。真実と証明するに足りる証拠はない」「新潮社側は女性の説明が信用できないと判断することが十分可能だった。検証せずに報道したのは、軽率のそしりを免れない」とし、新潮社側に対し80万円の損害賠償を命じました。
とはいえ、煙の元を作ってしまったことを彼は大いに反省し、それでも支持してくれる方々への感謝の気持ち、そしてなにより家族の絆を再確認したということで。
一度涌いた「疑惑」という黒い煙は、例えば裁判で潔白が証明されたところで、払拭されることはなく、延々と言われ続ける。そして、マスコミの作り上げた「女好き」の「黒幕的」「影でコソーリ」キャラクターは独り歩きをはじめ、今後も彼を苦しめだろう。が、彼は恐らく負けない。何度も挫折を味わい、それでも黙々と仕事をこなし、現実に今もなお、重要なポストで睡眠時間を潰しながら日々仕事を続けている。誰が何を言おうと、信念を持って歩いていれば道は開けると言う彼自身の言葉を信じて。
『小泉改革と今後の課題』
2001年、小泉内閣が誕生し、ようやく大きな改革が現実味を持って始まった。彼が目指す「小さな政府」「官から民へ」というテーマは、小泉内閣が終わっても半永久的に続けていかなければならない。その思いを実現できる若手を育てていきたいと考えているようだ。そして、担い手がいないときは、いつでも自分がたつ覚悟を彼は決めている。
『孫、LOVE』
難しい話が続きましたが、彼も家に帰れば4人のお孫さんのおじいちゃま。でも、孫に「じいちゃん!」なんて呼ばせない。理由は「悔しいから」。ちなみにお孫さんたちは「センセ」と呼んでいるらしい。
限られた休みの時にはゲーセンでUFOキャッチャーをしたり、カラオケしたり、温泉入ったり。とにかく孫LOVE。かわいくて仕方ない。
で、そんな孫たちを見ていると、次世代の為に政治が、今、何が出来るか、をついつい考えてしまう。なんやかんや言うても片時も仕事の事が頭から離れることは無いある意味「仕事バカ一代」(無礼)な、一人の、ちょっぴり不器用だけど真っ直ぐな男の半生を描いたこのお話し。これにて終了でございます。また、ネタ仕入れたら書き足していきます。