karat.gif 億ション時代


 数年前、税務署が家に来た。所得のごまかしの調査である。
 やってきた署員に、いきなり女房が
「あのー、ワイロって効かないんですか?」
 と訊いたときには仰天したが、聞かれた方もニコリともせず、
「ええ、効きません」
 と応えたのはアッパレであった。

 某アニメ会社のような脱税容疑ではない。あくまで所得申告の漏れの調査だ。一般家庭だって、これをやられてスネに傷のない家はない。そのとき、うちがねらわれたのは、夫婦そろって、かなりの所得があったからである。レディースバブルのさなかで、われわれはいわゆるトコロの億ションというやつに入居していた。税務署員は回りを見回して、
「ここが仕事場というのは通りにくいですなあ」
 と言った。高い天井、全室絨毯ばり、オートロック、確かにそこは豪華な住居だったが、僕は実際、そこでエロ不倫ばなしを書きまくっていたのだ。

 ガロの編集者が、打ち合わせに近くまでやってきて
「あのー、いま○○マンションの前なんですけど、唐沢さんの家ってどこですか」
 と電話してきたことがある。
「その○○マンションだよ」
「ええーっ、これ、億ションじゃないですか」
 まさか、自分のところに描いている作家がこんな豪勢なところに住んでいるとは信じられなかったらしい。

 入居のとき、当然、審査があった。
「お仕事はなんですか」
「作家です」
「奥さんは」
「マンガ家です」
「へえ、マンガ。どういうマンガをお描きで」
 このときも、女房はアッケラカンと
「エッチなマンガでーす」
 と言い放った。果たして審査を通るかどうか、心配だったが無事、入居できたところを見ると、この億ション、バブル絶頂期に建て始めて完成が崩壊後。入居者の質を問うていられなかったのだろう。
 実際、引っ越したときには各階にひと部屋ずつしか入居者がなく、ゴーストタウンのようなありさまだったが、それでも次第々々に埋まっていったのは、さすがに日本経済の底力だ。
 マンガ業界人が、僕らの他にもうひと組いた。それから、芸能人が多かった。黒塗りのベンツがいつでも玄関前に横づけになって、運転手が中でじっと手持ち無沙汰にしていた。誰の車かと思ったら、女性歌手のKのものだった。管理人に、あれはなぜ車庫に入れないんだろうと訊いたら、彼女はどこかへ出かける、という気になったとき、すぐ車が用意できていないと我慢できない性格なのだそうだ。
「気まぐれで仕事する気になるの?」
 と不思議に思ったら、仕事ではなく、プライベートの遊びに使う車で、仕事には局の方からお車を差し向けないと駄目なのだそうだ。もちろん、国産車などで迎えにきたら、乗りもしないでキャンセルする。
 その頃すでにヒットもなかったし、そんな価値のある歌手なのかねえ、と思ったが、タレントにとっては、自分がいま、業界でどれくらいの価値があるか、を測るには、自分のわがままをどこまで他人がきいてくれるか、しかない。それも必死の自己主張なのだろう。

 それから、僕と同じ階の角部屋を二部屋続きで借りているのは、元野球選手で、現人気解説者のEの両親だった。もちろん、金はEが出しており、彼もよく泊りに来ていた。エレベーターで時折一緒になったものだ。この両親というのはまるで気取らぬ、いい老人夫婦で、服装もこんな億ションに住む人とはとても思えぬものだった。ただ、飼っている犬が、一目見て血統書つき、価数百万はくだらぬと思えるやつだった。飼い主よりよほど金がかかっているように見えた。この老夫婦は、この犬を廊下で運動させるのが日課で、億ションに住んでいながらわれわれ夫婦は、毎朝、犬のキャンキャンキャンキャンという吠え声で目が覚めた。・・・・・・言っておくが、当然このマンション、飼いものは禁止である。とはいえ、この不景気にそんなことを注意できる貸し主はいなかった。

 ジャニーズ事務所出身のHも、ほんの一カ月ほど、ここにいた。僕らと同じ階の部屋である。何度も廊下でスレ違った。当時、彼は某時代劇俳優に可愛がられているというウワサで、
「その俳優が毎晩、ひそんでくるらしい」
 と、女房のアシスタントたちにもっぱら話のタネを提供していた。一カ月ほどで彼の部屋は空き部屋になった。その時代劇俳優が通ってきたのがバレたのだろうか。空いた部屋に、どこかで見かけた顔の人が出入りするようになったかと思うと、彼が菓子折りを持って挨拶にきた。
「今度ライブをやるので、その練習用に短期間、あの部屋を借りました。楽器演奏なのでうるさいでしょうが、しばらくの間ですのでご辛抱を」
 やがて、クラリネットの音が隣から聞こえてきて、僕は毎晩、その音を聞くのが楽しみだった。彼は、それから一カ月後、ライブを見事成功させ、満足したのか、その直後にガンで亡くなった。クレイジーキャッツの安田紳さんだった。

 われわれは、そんな億ションに住んでいながら、儲けているという意識はまったくなかった。確かにレディースコミックで稼ぎに稼いではいたが、僕は当時、伯父の残した芸能プロダクションの負債を支払うことに全ての稼ぎをつぎこんでいたし(この負債をほぼ支払い終えたと同時に、レディースバブルも崩壊した)、女房は女房で、アシスタント代と仕事場の賃料でキュウキュウしていた。
 それでも、さすがに金は仕事のアカである。
 毎日、食事はフルコースだった。
 仕事が忙しいので、女房と一緒に食事できるのが、お互いの生活サイクルがかちあう昼飯だけである(それを食べて、女房は寝、僕はプロダクションの事務所のある六本木へ出かける)。その一食を豪華にしようと、東京ヒルトンやセンチュリーハイアットのレストランで、フルコースランチを食いつづけた。
 やがて外食に飽き、僕がランチを作ることになったが、素材は必ず青山の紀伊国屋か、六本木の明治屋、新宿の伊勢丹で買った。しかもハイヤーで買い物に出かけるのである。
「使わないと、取られちゃうんだから」
 と女房は僕の尻を叩いた。

 そんな生活が、キッカリ二年、続き、バブルの波はサーッと引いた。冒頭の税務署が来たのも、そのあたりだった。
 金が入ったと思えばすごいぜいたくをするが、見切りも早いのが女房の特質で、彼女はさっさと仕事場をたたみ、この億ションも引き払うことにした。Eの両親にも挨拶もできないあわただしさだった。

 引越は簡単だった。かさばる荷物が、古本くらいしかなかったからである。豪勢なマンションには住んだが、豪勢な家具などにはさすがに手が回らなかったのだ。本棚はスチール製。寝室のベッドは3万だったかの組み立て製で、そのうち下の引出しが壊れ、床にじかにマットレスを引いて寝ていた。女房の化粧室にいたっては、化粧台もなく、だだっぴろい部屋にデスクがひとつ置いてあって、その上に立て鏡がひとつ、あるだけだった。金はどんどん入ってきたが、それが家具や衣服といったものとして残るまで、定着しなかったのだ。食事以外にこのバブルで僕が買った、最も大きな買い物と言えば、戦前の科学雑誌『科学画報』揃い、金24万也。

 未だにあの当時、果たしてオレは金持ちだったのか貧乏だったのか、よくわからん、というのが正直なところなのである。


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