私論&試論 05年1月 松崎 五郎
< 目 次 >
(T) T巻24章7節 資本制的蓄積の歴史的傾向 について
(1) はじめに
(2) T巻24章7節について
(U) U巻21章 蓄積と拡大再生産 について
( U巻21章の復権を )
(1) U巻21章(資本制生産の崩壊=資本主義の終りの証明)の復権を
(2) U巻21章3節・蓄積の表式的叙述 の説明
(3) 21章の本論 三 蓄積に際してのUcの転態
(4) U巻21章の説明の補足
(5) なぜU巻21章を重視するのか
(V) V巻15章 法則の内的諸矛盾の展開(恐慌論)について
(1) 1節 概 論
(2) 2節 生産拡張と価値増殖の衝突
(3) 3節 人口過剰のもとでの資本過剰
(4) 感 想・意 見
(W) U巻21章の補足説明
(1) 補1 拡大再生産表式の展開
(2) 補2 拡大再生産の極論
このパンフは 04年夏から冬にかけて 「わいわい通信」で発表したのを 一冊に合わせたものです。内容は 「資本論」U巻21章・拡大再生産論とV巻15章・恐慌論です。U巻21章の説明は 「資本論と帝国主議論」などでこれまでしてきた説明の誤りを訂正したものです。また 「資本論と帝国主議論」からT巻24章7節の説明を再録しました。前に読まれた方は (V)→(U)→(T)と逆に読まれる方が 論点が鮮明になると思います。
「資本論」は 論理的でかつ非常に膨大なので 意識を集中させないと学習になりません。片手間に学習していたのでは 理解することが非常に困難です。逆に 「資本論」の学習をしていると なかなか他の問題に意識がいきません。だから 活動・実践が問われている時に「資本論」の学習をするのは 日和見主義の口実だとずっと思ってきました。しかし 現在の資本主義=帝国主義の動向をつかむためには やはり「資本論」しかありません。だから いま 「資本論」を その第T巻第1章から順に学習するのは 現在の情勢からいって無理であり やはり情勢からの「逃亡」と思いますが 資本制生産の崩壊論にあたるT巻24章7節・U巻21章・V巻15章の学習は 現在の必須だと思います。特に すべての「資本論」解説書が ここで つまり資本主義の終わりを扱ったマルクス主義の核心部分で 間違った説明をしているので 「資本論」自身に接してマルクスの論理そのものをつかみとることが 革命を実現できるかどうか(階級の総決起・総反乱を権力の樹立として確定する)の決定的ポイントになると思います。
すでに多くの解説書が出版されているので 論争的に意見を述べた方がわかりやすいと思いますが 僕としては マルクス自身の論理として資本制生産の崩壊論=資本主義の終り論を明らかにしたいので 「資本論」からの抜粋を基本にして それに必要な説明をつけるという展開になっています。よって 非常に読みづらいですが がまんして読んで下さい。
なお 僕は河出書房新社の長谷部文雄訳を使っています。岩波書店の向坂逸郎訳は 誤訳が多くて 正しく理解するのが非常に困難な訳本です。
(T) T巻24章7節 資本制的蓄積の歴史的傾向 について
この章は 03年6月「資本論と帝国主議論」で発表したもののうち T巻24章にあたる部分を再録したものです。
(1) はじめに
「資本論」U巻3篇21章 蓄積と拡大再生産 は マルクスが1883年に亡くなる直前の79〜81年に書いたもので 彼の「遺書」にあたるものです。ここでマルクスは 「資本主義(経済)の発展は必ずいきづまり一大破局がくる」ことを 論理的に論証しました。ところが ほとんど全てのマルクス主義者・マルクス経済学者は この章を「未完成だ」と言って無視したり 勝手に発展(?)させて マルクスの主張とは全く別の説明をしたりしています。いま帝国主義世界は大不況(大恐慌)に陥り マルクスが論証したとおりの事態が生起しているにもかかわらず マルクス主義は忘れ去られているに等しい状況です。それは マルクス主義陣営が この章の論証を無視・否定したために 世界の動向を正しく分析・透察できていないからではないかと思います。「91年のソ連崩壊が原因だ」と言う人もいますが ソ連をスターリン主義として批判してきた新左翼も同様なのでそうだと思います。むしろ新左翼は スターリン主義を批判するために 経済学の分野では宇野弘蔵に依拠してきました。宇野はU巻3篇(18〜21章)を資本主義の生産の「均衡条件を発見した」と説明していますが マルクスはその上に「拡大再生産=発展を続けていけば均衡条件がくずれる」と主張し論証しているのです。かってカウツキーが マルクスが「資本は一つに向かおうとするから必ず革命がおこる」と喝破した「資本論」T巻24章を 「革命がなくても一つに向かう」とすりかえて超帝国主義論を唱えたのと同様の誤りだと思います。また 新左翼がその出発時に依拠した黒田寛一は 「哲学として読むのだ」と言って経済学としての「資本論」を否定しました。マルクスがその研究を哲学→政治→経済学と進めた様に 革命を実現しようとすれば 階級総体の決起を課題にせねばならず その決起の根拠である階級存在の物質基盤の動向そのものを分析する経済学が必要です。黒田は 「主体性(哲学)」と言って唯物論であるマルクス主義を観念論にずらしたのです。現在の黒田の主張は 「権力者に身を移し入れてその意図をみぬき」と権力謀略論を展開し カルト(宗教)そのものです。さらに 新左翼を中心に ソ連崩壊以降の帝国主義の様相を説明する見解がだされていますが レーニン「帝国主義論」のテーゼをそのままあてはめるか あるいは超帝国主義論に陥るかのどちらかでしかありません。
いま世界の動向を正しく分析・透察するためには レーニン「帝国主義論」の基本をおさえた上で 「資本論」U巻21章を正しく理解し そこでマルクスが展開した論理でもって現在の帝国主義をみすえることが 絶対必要だと思います。そしてそれが マルクス主義を復活させることになると思います。
(2) T巻24章7節について
マルクスは 「資本論」T巻24章7節において
「…… 資本制的生産様式が自分の脚で立つことになれば ここに労働のいっそうの社会化および土地その他の生産手段の社会的に利用される生産手段つまり共同的生産手段 へのいっそうの転化 したがって私的所有者のいっそうの収奪が 新たな形態をとる。
いまや収奪されるべきものは もはや自営的労働者ではなく 多くの労働者を搾取しつつある資本家である。
こうした収奪は 資本制的生産そのものの内在的諸法則の作用によって 諸資本の集中によってなしとげられる。一人ずつの資本家が 多くの資本家をうちほろぼす。こう した集中 または少数の資本家による多数の資本家の収奪とあい並んで ……世界市場 の網へのすべての国民の編入が したがってまた 資本制的体制の国際的性格が発展す る。この転化過程のあらゆる利益を横奪し独占する大資本家の数のたえざる減少につれ て 貧困・抑圧・隷属・頽廃・搾取の程度が増大するが ……労働者階級の反逆も増大 する。資本独占は それとともに―またそれのもとで―開花した生産様式の桎梏となる。 生産手段の集中と労働の社会化は それらの資本制的外被と調和しえなくなる時点に到 達する。この外被は粉砕される。資本制的私有財産の葬鐘がなる。収奪者達が収奪され る。
……だが 資本制的生産は 自然過程の必然性をもってそれ自身の否定を生み出す。これは否定の否定である。……」
と<革命の必然性>を論証しています。
ところで 宇野は 「経済政策論」の序論で
「マルクスはこの節で この章に説いた資本のいわゆる原始的蓄積に対して資本主義的 蓄積の歴史的傾向として将来社会の出現の必然性を説こうとしたのであろうが それは いわゆる唯物史観をもって推論したものとしか考えられない。しかもここでは唯物史観 の規定をも十分に生かしているとはいえない。唯物史観にいう生産力と生産関係との矛 盾が生産様式なる言葉によって不明瞭にされている。私は むしろそのために「資本論」 が当然に規定すべき恐慌論の展開が妨げられることになっているのではないかとさえ思 うのである。ほとんどあらゆるマルクス主義経済学者ないし哲学者はこのマルクスの与 えた歴史的傾向をマルクスに従っていわゆる弁証法的方法を示すものとしているのであ るが それはむしろ「資本論」の科学性とともに経済学の原理的規定によって展開される 弁証法的論理をも不明瞭ならしめるものであると思う。」
と「唯物史観・弁証法での推論であって証明にはなっていない」と述べています。
しかし マルクスは 弁証法を使って証明しているのではありません。結論=「外被は粉砕される」の前の文章は 「資本家の数は 初めあった多数から 資本の競争に負けて減っていっているではないか。こうして数が減るのであれば最後は1になるではないか」 と収束・極限の概念を使っているのです。そして書かれていませんが 「では世界が一つの資本の状態とは何なんだ」と問い 「それは資本主義ではなく共産主義なのだ」とおさえて だから一つに向かっていく過程で「資本制的外被は粉砕される」と言っているのです。どこにも弁証法は使われていません。そうして導き出された結論と過程を見た時 これは「否定の否定そのものである」と弁証法の正しさを指摘しているのです。
マルクスは T巻23章2節においても
「一方において資本が一人の手で尨大な分量に増大しうるのは 他方において資本が多数個人の手から奪われるからである。ある与えられた事業部門で そこに投下された資 本が一個の資本に融合することでもあれば 集中がその極限に達するであろう。ある与 えられた社会で 社会的総資本が一個の資本家なり唯一の資本家会社なりの手に合併さ れることでもあれば その瞬間に初めてこの限界に達するであろう。」
と展開しています。ここでも全く同じ収束・極限の論理を使っているのです。
マルクスは まだ独占資本が現れていない時代に資本の集中=資本家の収奪をみて極限・限界を論じ 資本の集中の一定の段階(極限・限界に到達する前段階=一つにむかっていく過程)で資本制的外被=資本制的私有制度と衝突する つまり革命が必ず起こると展開しているのです。
また 宇野は「唯物史観では 生産力と生産関係との矛盾と言っているのに ここでは生産様式なる言葉によって不明瞭にされている」と述べていますが マルクスがここで言っているのは 「数が減少した大資本家のもとで開花した生産様式」=つまり独占資本主義の生産様式(方法・あり方)であって 生産関係=資本家対賃労働者の階級関係(生産手段の所有関係)ではないのです。つまり 「資本主義における生産力と生産関係の矛盾の革命にいたる爆発は 独占資本主義の段階で起こる」 と言っている訳です。
レーニンは 「帝国主義論」でカウツキーの超帝国主義論を批判し
「国際的に結合した金融資本による世界の共同搾取の段階は 純経済的見地からすれば 可能であるか それともそれは超ナンセンスであるか」と問題を立て 「結局発展は独 占にむかってすすんでおり したがって1個の世界的独占にむかってすすんでいるとい う命題に帰着する それは実験室内での食料品の生産にむかってすすんでいるというの と同じように無内容である。」
と言っています。レーニンもマルクスと同じ一つにむかう=収束・極限の論理なのです。
ところで ここでの重要な論点は 世界が一つの資本になった時それは資本主義なのか共産主義なのか 言いかえると資本主義では世界が一つの資本になることはありえないと言うことです。資本は一つにむかってすすもうとするが一つになることは資本主義ではないのです。(だから「革命は必然だ」と言えるのです。)
ここを「理論的にはありえるが 現実的にはありえない」と理解するのは間違っています。レーニンがそのあと 帝国主義の経済は不均等発展だから調和的発展ということはありえないと具体的に批判しているので 「理論的にはありえる」と誤解が生じやすいですが 理論的にもありえないのです。なぜなら 資本主義はそれぞれの資本の自由競争による価値増殖(自己増殖)を基底的要因として発展しているのであって 共同搾取として価値増殖の自由競争がなくなれば資本主義ではなくなるのです。<共同搾取>は 労働者が新たに生産したもの(新価値)のうち剰余価値部分を 前もって持っていた資本量に応じてその比率で分けるということであり 資本の生産性の向上競争=搾取率の拡大競争は排除され、拡大再生産はしないということになります。レーニンは そのことを帝国主義にひきつけて不均等発展だからありえないと言ったのです。「自由競争の上にたつ独占」です。(利潤率均等化の法則は 資本間の競争があって成立しています。その上で 資本はさらに超過利潤をもとめて競争するのです。)
一般的に「マルクスは恐慌(→窮乏化)→革命論」と言われていますが 「資本論」T巻でマルクスが提起していることは 「資本主義は 大独占資本同士の潰しあい(一つにむかっていくということ)で革命が起こる。なぜなら その時には 労働者階級は貧困・抑圧・搾取が増大し反逆するから」ということなのです。そして レーニンは 帝国主義間戦争がそれにあたる(主客とも)と喝破したのです。帝国主義間戦争は 労働者にとっては貧困・抑圧・搾取の増大にとどまらず命までもが奪われるということになるからです。
(U) U巻21章 蓄積と拡大再生産 について
(1) U巻21章(資本制生産の崩壊=資本主義の終りの証明)の復権を
「資本論」U巻21章・蓄積と拡大再生産は マルクスが亡くなる直前の1880年頃に書いたもので 彼の遺書にあたります。21章3節でマルクスは 「資本制的蓄積にさいしても 以前の一連の生産期間中に行なわれた蓄積過程の進行の結果として UcがT(v+m)にくらべて 等しいどころかむしろ大きいばあいさえ生じるであろう。これはUにおける過剰生産であって 一大破局――その結果として資本がUからTに移る――によってのみ決裁されうるであろう。」(河出書房の「世界の大思想12」 長谷部文雄訳 396頁)と結論づけています。
資本主義の発展は @必ず過剰生産になり破局(恐慌)を引き起こす Aその結果資本の移動がおこると展開していますが 論理的には Bもし資本が移動できなければ破局が続くこと(一大破局・大不況)も明らかです。つまり 資本主義は何年かに一度の循環恐慌を繰り返しながら発展していきますが 必ず発展はいきづまり 大恐慌・大不況に陥り資本はつぶしあいを始めるのです。
世界はいまバブルがはじけ長期の大不況に突入しています。バブルは資本が新たに投資する場がなくなり投機にむかったことの表れですが それは資本の移動が出来なくなっていることを示しています。まさしくマルクスが論理的に論証したとおりに資本主義(帝国主義)はいま終りをむかえています。
ところが 「資本論」U巻がエンゲルスによって刊行されて以降 ほとんどのマルクス主義者は U巻21章は「未完成だ」と言って無視・抹殺し マルクス主義から資本制生産の崩壊論=資本主義の終りの証明を放逐してしまいました。「資本論」U巻21章(3節)とT巻24章(7節)で展開された資本制生産の崩壊=資本主義の終り論を復権し 日本革命・世界革命をなしとげようではありませんか。
「これまでのあらゆる社会の歴史は 階級闘争の歴史である」(共産党宣言)ではじまるマルクス主義は 現代社会の矛盾はプロレタリア革命で資本家階級を打倒し共産主義社会を実現していく中で解決するを原理としています。ところが U巻21章を無視・抹殺することで 宇野が「原理論は永遠に発展するものとして論じる」と述べた様に 資本主義は「原理的には不滅」とさせられてしまいました。マルクス主義の全体的考えとその基礎である経済学とが まったく逆向き・相反しているのです。これでは首尾一貫した思想とは言えません。これまでの「資本論」理解の根本的誤りを正さねばなりません。
ところで UcがT(v+m)にくらべて大きい場合 矛盾の資本主義での「解決」(恐慌をさけ危機を先送りする)には 追加的貨幣資本が必要です。91年バブル崩壊以降 政府は 経済危機の爆発を銀行への公的資金の投入でしのいできました。100年以上も前にマルクスが論証したことを いま資本主義社会は強いられているのです。
(2) U巻21章3節・蓄積の表式的叙述 の説明
マルクスは 「資本論」U巻の最後の21章・蓄積と拡大再生産で 恐慌および一大破局について原理的説明をしています。1節2節の内容は 3節冒頭で そのポイントを展開しているので省略し 第3節・蓄積の表式的叙述を マルクスの展開にそってみていきます。
一般的には U巻3篇(18〜21章)・社会的総資本の再生産と流通は 「T巻は価値規定(社会的に必要な生産に要する労働時間)を明らかにした」に対して 「資本主義では価値法則が貫徹することを明らかにした」と説明されています。
U巻1篇(1〜6章)・資本の姿態変換とその循環、2篇(7〜17章)・資本の回転は 個別の資本を対象にし 3篇は総資本を対象にしているが故に 論証の仕方が異なっています。1、2篇は 資本が循環(1回転)中にとる転態・変換(交換)を 全ての面からみて問題点を見いだし論じているのに対し 3篇は 生産材(機械原料など)の生産=第T部門と消費材(衣料食料品など)の生産=第U部門にわけ 商品流通が旨くいくモデルをつくってそれがどうなるのかという論じ方をしています。同時に 貨幣が商品流通の単なる媒介物であることを繰り返し展開しています。
商品の価値Wは もとあった資本価値c(施設・機械と原材料と補助材料)と新たにつけ加わった新価値(労働力の価値vと不払分の剰余価値m)からなっており W=c+v+mと表します。資本家の消費や資本の蓄積には 剰余価値が使われます。T部門の総生産をW1=T(c+v+m)、U部門の総生産をW2=U(c+v+m)とあらわすと 単純再生産(剰余価値を資本家がすべて消費し蓄積は行わない)の場合は 20章・単純再生産で詳しく説明していますが Tcに相当するW1は 資本家T同士で交換され次の年のTcになり、U(v+m)に相当するW2は Uの労賃vと資本家Uの消費mとU内部で交換されるので 残ったT(v+m)とUcのイコール(過不足なき交換)がなりたたねばなりません。つまり商品は次の設備・原料(中間材)および生活品として必要な人にわたり、貨幣は最初にもっていた資本家に戻ってきます。イコールがなりたたないと 生産物が売れ残り、貨幣が元に戻ってこないということになります。よってこの等式を均衡条件とか経済原則(いつの時代にも必要な)と呼ぶ人もいます。
3節・蓄積の表式的叙述
論点が変わるところに @AB…とつけました。
@ 「拡大された規模での再生産(より大きい資本投下をもって経営される生産)は … 与えられた生産物のさまざまな要素の組合せの差異または機能規定の差異を前提にする にすぎず したがって 価値量からみればさしあたり単純再生産に他ならぬことを明瞭 にするためである。単純再生産の与えられた諸要素の 量ではなく質的規定が変化する のであって この変化こそは 後につづく拡大された規模での再生産の物質的前提である。」
Tmは 単純再生産ではすべてUcと交換するためにUcの素材であるが 拡大再生産の時は(例えば500Tmを拡大にまわすと) 一部分(400)はTcの素材で、他の部分(100)はUcの素材でなければならない。つまり価値量は同じだが、素材が違うことを明かにしています。
つまり 物と価値量の両面で見るということです。T、Uに分けたのもT、Uの区別は物で 数値は価値量です。さらに Tは c[T用]とv+m[U用]で異なる物だということです。もちろん TとUのどちらにでも使えるものもありますが。
だから 貨幣を媒介にした生産物(商品)交換でなりたっている資本主義では 生産物と貨幣のそれぞれで旨くいっているかどうかが問題になるのです。一般的に貨幣(金額)で考えがちですが それではダメだということです。
この部分が 1節のポイントにあたります。
なお 金は貨幣であってもT部門です。何故なら Tは価値が保存・移転するものであり Uは価値が消滅するものであるので 貨幣金は たとえ退蔵されてもその価値を消滅させることはありませんから。
A 「TでもUでも 剰余価値の半分が … 蓄積される … と想定しよう。
… (1000v+500m)Tだけが収入として支出される。したがって…Ucの正 常的大いさは1500にすぎない。… なお研究すべきものは 500Tmと (376 v+376m)Uとだけ…である。Uでも剰余価値の半分が蓄積される…から 資本に転 形されるのは188であって…。」
ここの展開は 言葉足らずで分かりにくいので 表式で俯瞰して説明します。
Tは 4000c+1000v+1000m=6000
Uは 1500c+ 376v+ 376m=2252 合計8252 を例にとります。
Tm・Umの半分(500と188)をそれぞれ蓄積・拡大にまわすとすると 蓄積の500はcとvの元の比率で400c+100vに、188は150c+38vに分かれ
Tは (4000+400)c+(1000+100)v+500m
Uは (1500+150)c+( 376+ 38)v+188m 合計8252 となります。
よって T(v+m)は1600、Ucは1650となり 両者を交換しようとすると Tで生産するUの素材50が不足することになり 矛盾が生じます。[マルクスは 188を140と48に分けていますが 資本構成は1500と376で4対1なので 150と38の誤りと思います。]
「ここでわれわれは新たな問題に出くわす…。この填補は Uの側での一方的購買によ ってのみ生じうる。… だから Uは140Tm[正しくは150あるいは50]を現 金で買わねばならないが この貨幣は Uの商品が後からTに売られることによってU に還流することはない。しかもこれは 新たな生産年度ごとに … たえず反復される過 程である。そのためのUにおける貨幣源泉はどこにあるか。」
「この転態に必要な貨幣は 流通手段としてのみ機能するのであって 正常な経過にあ っては 関係者たちがそれを流通に投下した程度に応じて彼らの手に還流して たえず 新たに同じ軌道を運行しなければならない。」
マルクスは「新たな問題に出くわす」と 過不足の矛盾は 毎年毎年新たな追加的貨幣資本が資本家Uの手にあるのか、その源泉はどこにあるのかという問題に帰着する と述べています。
この部分が 2節のポイントにあたります。
だから 以後はTの拡大を軸に対応してUも拡大されていくという形で論証してます。
B 一 第一例、 二 第二例
第一例、第二例と2つの例をあげ T部門のmが毎年半分T部門の蓄積・拡大にまわされる、それに伴ってU部門も拡大する とすればどうなるかと 5年間の拡大を計算しています。表式の計算で拡大再生産を理解させるためのもので 演習にあたります。
第一例で2年間の拡大を計算した後 「事態が正常にすすむためには Uにおける蓄積がTにおけるよりも急速に行われなければならない。さもなければ T(v+m)のうち 商品Ucに転態されるべき部分が Ucよりも急速に増大するからである。」と述べています。この説明は 生産の量の問題として述べているのであって 生産の拡大率の問題として言っているのではないので 毎年毎年の絶対的条件ではありません。僕も 最初は毎
年の拡大率と誤って理解していました。
ところで ここの計算は もともとTの拡大を軸にしてT・U間で過不足が生じないようにUの拡大再生産を計算しているのですから 1年目で一旦過不足が解消されると 2年目以降はT・Uとも同じ率(総資本の10%)での拡大が続くことになります。5年間の計算を「演習」と言ったのは そういう訳だからです。
よって 問題は 交換される1年目のT(v+m)とUcとの比較=大小関係にあるのです。
(3) 21章の本論 三 蓄積に際してのUcの転態
@、A、Bの助走の後 本論に入ります。まず全文を抜粋します。
「だから T(v+m)とUcとの交換ではさまざまな場合が生ずる。
単純再生産にさいしては両者があい等しく たがいに填補しあわねばならない。…
蓄積にさいしては 何よりもまず蓄積率が問題になる。以上のもろもろの場合では Tにおける蓄積率はTmの1/2であって つねに 年度が変わっても蓄積率は不変な ものと仮定した。そしてただ この蓄積された資本が可変資本と不変資本とに分割され る比率だけが変動するものとした。(Bの部分の総括です)
C そのさい次の3つの場合が生じた。
(一) T(v+1/2m)がUcに等しく したがってUcはT(v+m)よりも小さい。これ は常にそうでなければならぬのであって さもなければTの蓄積が行われないわけであ る。
(二) T(v+1/2m)がUcよりも大きい。この場合には UcにUmの相当部分が付加 されてその総額がT(v+1/2m)に等しくされることによって 填補が行われる。この場 合の転態は Uにとっては … すでに蓄積であり…。…。
D (三) T(v+1/2m)がUcよりも小さい。このばあいには Uは 転態によっては自分 の不変資本を完全には再生産せず 不足分をTから買って填補せねばならない。だがそ れによって 可変資本Uをさらに蓄積する必要は生じない。…。他方では…資本家Tの うち追加的貨幣資本を積み立てるにすぎぬ部分は すでにこの種の蓄積の一部分を遂行 したのである。
T(v+m)がUcに等しいという単純再生産の前提は 資本制的生産と両立しないば かりではない。……。資本の蓄積 つまり現実の資本制的生産は この場合には不可能 であろう。したがって 資本制的蓄積という事実は UcがT(v+m)に等しいことを 排除する。とはいえ E 資本制的蓄積にさいしても 以前の一連の生産期間中に行われ た蓄積過程の進行の結果として UcがT(v+m)にくらべて等しいどころかむしろ大 きいばあいさえ生じうるであろう。F これはUにおける過剰生産であって 一大破局― ―その結果として資本がUからTに移る――によってのみ決裁されうるであろう。
たとえば 農業において自ら生産した種子が使用されるばあいのように 不変資本の 一部分がU自身によって再生産されても ……関係は変化しない。…。G われわれが社 会的生産の二大部門たる生産手段の生産者と消費手段の生産者とのあいだの交換を純粋 に濁りなく研究しようとすれば この部分はもともと双方から控除されねばならない。
… Tm/xを Tmのうち収入として資本家Tが支出する部分とすれば T(v+m /x)は Ucにくらべて 等しいことも、大きいことも、小さいこともありうる。だが
T(v+m/x) は つねにU(c+m)よりも小でなければならない。しかも Umのう ち資本家階級Uが…自ら消費せざるをえない部分だけ 小でなければならない。
注意すべきは 蓄積に関する以上の叙述では 不変資本の価値……が正確には叙述さ れていないということである。……。」
C〜Gをまとめて説明します。
CとDで交換されるT(v+m)とUcの大小を比較しています。
Cで (一) T(v+1/2m)がUcに等しい場合。どうなるかとは展開しないで すぐ「UcはT(v+m)よりも小さい」と当然のこと(1/2は1より小さい)を述べています。その後 「これは常にそうでなければならぬのであって さもなければTの蓄積が行われないわけである」と 等しい場合のみの条件ではなく 全てにあてはまる条件だと言っています。Tmの一部はTの拡大にまわされるからです。
(二) T(v+1/2m)がUcよりも大きい場合は 「UcにUmの相当部分が付加されてその総額がT(v+1/2m) に等しくされる」と説明しています。Uも自分のmを拡大にまわしています。「正常」な発展期の状態です。
ところで (一)(二)より Ucには最大[T(v+m)]と最小[マルクスの想定で 4/5T(v+1/2m)] の限界があります。資本主義は各資本の自由な活動でなりたっていますが Ucは本来この最大限と最小限の間に存在しています。第一例で Tcを4000で固定し Ucを1200から2000の間で100ずつ増やして順次表式を計算すれば 一目瞭然に判明します(<補>として後述します)。そして 大小の場合分けの中心は (一)つまりUcが拡大のT(v+1/2m)に等しいときです。また T・U間で過不足が生じない点(中心点)は Uが初年度からTと同じ率で拡大をするときです。
D (三) T(v+1/2m)がUcよりも小さい場合。「この場合には Uは転態によっては自分の不変資本[Uc]を完全には再生産せず[補わず] 不足分をTから買って填補せねばならない。…。他方では…資本家Tのうち追加的貨幣資本を積み立てるにすぎぬ部分は すでにこの種の蓄積の一部分を遂行したのである」と展開しています。つまり T・U間の過不足なき交換は成立しなくなっており 資本家Uは (単純)再生産のためにも Ucの不足分を自分の貨幣を追加支出してTmから買わねばならなくなっています。そしてその結果 資本家Tは 拡大分の素材が減少し貨幣で蓄積することになります。だからこの場合 資本Uの自己増殖しようという意志がUの拡大を求めるのです。つまり 資本家Tが10%の拡大をしている時に 資本家Uが拡大率0%で満足することはありえず 資本家Uも最低10%の拡大を追い求めるということです。他方 資本家Tは Tの拡大分から Uの再生産のための不足分をUに売ったので 生産での拡大は10%には達していないのですが 代わりに売って得た貨幣を積み立てるから 金額・価値で計算すれば想定通り10%の蓄積・拡大をしています。つまり 生産された商品は交換されつくしたのにUが追加した貨幣がTに留まる 言いかえれば 正常な発展期には単なる生産物流通の媒介物に過ぎない貨幣が この場合追加的に絶対必要であり それなくしてはUでは生産の素材の不足が生じ生産が部分的にストップする と説明しています。
E は 以上の展開の結論です。つまり(三)の場合の延長として 資本家Uに十分な追加資金があれば 10%の拡大をしようとして UcがT(v+m)をこえてしまうことが起こるのです。この場合 UcはT(v+m)のすべてと交換してもまだ足りないので Tの
次年度Tcになる部分の一部分を買い取ることで Uは再生産を続けようとします。そしてそれは Tにとっては拡大再生産ではなく縮小再生産になります。しかし 金額・価値で計算すればちゃんと増加・拡大しているので Tの資本家にとっては「問題はない」のです。
F は この旨くいかなくなった状態を説明しています。それは「Uにおける過剰生産であって 一大破局――その結果として資本がUからTに移る――によってのみ決裁されうるであろう」 つまり「過剰生産であり 資本主義経済の一大破局だ」と言うことです。
ここは 2つの意味に解すべきだと思います。一つは 恐慌の説明です。もう一つは マルクスがここで「恐慌」ではなく「一大破局」という言葉をつかっていることを考えれば もし資本がUからTに移れなかったら恐慌をこえた「一大破局」そのものだ と言う意味です。
だから2つを併せると 「周期的な(循環)恐慌を繰り返しながら資本蓄積・拡大再生産が行われ その結果一大破局を迎える」と マルクスは言っているのです。破局と恐慌は訳の違いで 一大と強調している点がポイントです。また 恐慌と一大破局は論理は同じですが 発生する状況が違う(資本の移動ができるか否か)ということです。そして一大破局は 恐慌とそれに続く長期の停滞(大不況)として現象することになります。
だから 21章のこの結論は 単に21章だけではなくU巻全体の結論だということです。
Gで「われわれが 社会的生産の2大部門…の間の交換を純粋に濁りなく研究しようとすれば…」と述べています。生産手段生産の部門Tと消費手段生産の部門Uにわけて考えるのだと念おししています。多くの学者が固定資本や奢侈品や貨幣あるいは軍需生産を部門Vとして社会的生産を3部門にわけて考えていますが それはマルクスの主旨から完全にずれているということです。
(4) U巻21章の説明の補足
「資本論」U巻21章の結論は 「資本制的蓄積にさいしても 蓄積過程の進行の結果として UcがT(v+m)に比べて大きい場合さえ生じるであろう。 これはUにおける過剰生産であって 一大破局によってのみ決裁されるであろう。その結果として資本がUからTに移る」ということです。つまり 資本の利潤追求で生産拡大がドンドン続けば いつかUcがT(v+m)より大きくなることが生じ 正常発展期には単なる媒介物に過ぎない貨幣資本が追加的に絶対必要になり 追加の貨幣資本なくしては生産が部分的にストップしなければならないような恐慌・一大破局(つまり貨幣逼迫とUにおける過剰生産だ)が生じうる と論証しています。
マルクスの結論を分解すると 恐慌・一大破局時には @U部門における過剰生産(あるいは生産の部分的ストップ)と A追加的貨幣資本の絶対的必要性ですが 追加的貨幣資本は U部門では貨幣資本の逼迫=利子率の高騰 T部門では過剰貨幣資本(買わねばならない原材料がなくて生産に転化できないで貯めるしかない貨幣)となります。さらにB一大破局の時は 資本移動ができない つまり破局が続くということです。
もちろん これは恐慌・一大破局発生の原理的展開であり 直接の(具体的)原因と言っている訳ではありません。しかしポイントは 長期の拡大再生産の結果、過剰生産と追加的貨幣資本の絶対的必要性、資本の移動ができるか否か と述べていることです。先回
りして言えば 追加的貨幣資本の絶対的必要性は 貨幣資本の逼迫を引き起こし利子率の上昇をもたらします。また 資本の移動は 個別資本にとっては倒産・破産を意味し 資本の移動ができないことは 破局が永続化する状態です。だから 恐慌・一大破局は 具体的には実経済と信用の関係で生じることになります。
マルクスが 「剰余価値学説史」で 「現実の恐慌はただ資本主義的生産の運動 すなわち競争および信用からのみ説明されうる」と述べているそうですが U巻21章はまさしくその基本を展開しているわけです。
宇野は 「マルクスは恐慌論を完成させてない」と言って 「資本論」V巻15章に依拠してそれを発展させ「好況時の労賃の値上がりによって利潤が減り 追加投資しても元の利潤さえ得られないようになるので 恐慌が発生する」「労働力を資本は生産することができないから 好況時には逼迫して労賃が上がるゆえ」と説明しています。マルクスはU巻の結論を原理としておさえた上で V巻を展開しているのです。さらに V巻15章での労賃の値上がりは「極端な場合」として展開されています。
U巻16章の書き込みは 恐慌論の展開でよく引用されるところです。
「商品の販売・商品資本の実現 したがってまた剰余価値の実現は 社会一般の消費欲 によって制限されているのではなく その大多数者が常に貧乏でありまた常に貧乏であ らざるをえない一社会の消費欲によって制限されている。だがこれは次篇になってから の問題である」
この社会一般および一社会の消費欲には 消費的消費だけでなく生産的消費も含まれています。つまり拡大再生産が続けられれば たとえ資本家の奢侈品的消費Mと労働者人民の生活的消費Vが増えなくても 一社会の消費欲はCの拡大に合わせて増え続けることになります。だからマルクスは 「次篇=3篇で 資本主義で拡大再生産を続けていけば 何年か後には続けられなくなる」 ことを論証しようとしたと言えます。
ところでマルクスは U巻20章11節で 過剰生産について
「それ自体としてはこうした過剰は害悪ではなくて利益である。だが資本制的生産にお いては害悪である。
再生産の資本制的形態を別とすれば 固定資本の補填の大いさは年々変動する。その 救済はたえざる相対的過剰生産――必要量以上の固定資本と年次的必要をこえる原料な どの在荷(特に生活手段の)――によってのみ可能である。
この種の過剰生産は 社会がそれ自身の再生産の対象的手段を統御するということに 等しい。だが資本主義社会の内部では それは一つの無政府的要素である」
と 資本主義社会と共産主義社会とを対比させて論じています。
宇野は「経済政策論」の序論で「資本主義社会を支配し規制する経済法則[価値法則]がいかにしてこの法則を否定し 新しい法則に転化するか」と述べています。また「資本論研究」のゼミナールで 「表式はあらゆる社会に共通な価値法則の基礎を明らかにするんだと……均衡条件を明らかにすることに帰着する。第T部門のv+mが第U部門のcに等しいという均衡がなければ単純再生産もできないという。それはあらゆる社会に絶対的な条件になるんで…」 また「再生産の絶対的条件といえばあらゆる社会に共通にある」と言っています。
しかし いま抜粋したようにマルクスは 「共産主義では過剰生産が再生産の統御」と言っています。つまり 「資本主義は発展すれば過剰生産そのものだから未来社会も当然そ
うであり 労働時間に合わせて消費材を分配していれば 生産の方は過剰生産なのだから不足が生じることもなくなり、統御できるのだ。法則的強制は必要ない」 ということであり 「しかし 資本主義では 需給のバランスが壊れると物価が変動するし、過剰生産は恐慌を発生させる。人間の意志を超えて法則が貫徹するのだ」 ということです。だから宇野の様に「共産主義社会の新しい法則」を云々することは間違っています。
ところでレーニンは 「いわゆる市場問題について」で21章にふれ 資本主義の発展は事実としては「第U部門にたいする第T部門の優越」であるが 「マルクスの表式からは第U部門にたいする第T部門の優越という結論はいささかもくだすことはできない」と マルクスの論理的正しさを確認した上で 現実のそれとの違いを述べ 「技術的進歩(資本構成の高度化)を考慮に入れ」たら旨くいくとしています。つまり マルクスは21章では 資本構成は変わらない、さらに単位時間あたりの労賃も変わらない を前提にして論じているのです。レーニンが ロシアにおける資本主義の発達を証明するために 技術的進歩を伴う更新(資本構成の高度化)が漸次可能な資本主義の発展期を論じているのに対して マルクスは 資本構成の高度化が不可能になった時 つまり資本主義の限界を論じているのです。
マルクスとレーニンは 適用する場・状況が異なる故に 同じ論理を方法を変えて適用しているのです。多くの解説本がこの章を無視しているのは マルクスとレーニンの主張が違うのだと誤解して あるいはなぜ違うのかを説明できなくて 触れなかったのではないかと思います。しかし それではU巻の結論を否定することになってしまいます。
「資本論」の解説本の多くが U巻20章単純再生産は説明していますが 21章を詳しくは検討していません。「草稿だ」「未完成だ」と説明している本さえあります。21章は1879年〜81年の第8稿(最後の原稿)であり 1870年頃の第2稿以降10年近く考えて書いたもので レジメ風で言葉足らずとは言え完成稿そのものです。むしろ死を間近にひかえたマルクスが これだけは絶対言っておきたいと最後の力をふりしぼって書いたものであり「遺言」としてマルクスの言いたいことが凝縮して述べられているとみて それを読み取るべきだと思います。
(5) なぜU巻21章を重視するのか
エンゲルスは 弟子が「資本論」の学習の仕方を聞いた時に 「僕だったら これはいちばん最後まで V巻をまず通読し終えるまで 読まずにとっておくだろう。これはまだ不要不急のものだ」と言って U巻21章の学習を勧めませんでした。マルクスの下書きにある多くの計算式の中から必要最小限を選び出して 「資本論」の原稿を仕上げていることから考えると エンゲルスは マルクスの21章の論理が理解できなかったのではなく 賛成できなかった(これでは不十分だと思った)のではないかと思います。それは 貨幣の必要量は回転数によって変わるのに マルクスはここでは回転数を一切考慮していないということではないかと思います。もちろんマルクスの方が正しいと思います。
ところが U巻21章を無視することで マルクス主義から資本主義の終わりの証明が消滅・蒸発してしまったのです。
「資本論」で展開されている資本主義の終り論は イ)T巻24章7節での歴史的傾向としての終り論 ロ)U巻21章の資本制生産の崩壊の証明 ハ)V巻最後の階級対立=プロレタ
リア革命 からなっていますが 資本制生産の崩壊の証明が消滅することで 「終りは必ずある(未来は共産主義社会だ)」という願望と「階級に依拠して革命をするのだ」という点は残ったが 「革命は何時どの様な状態になれば実現できるか」という点はなくなってしまいました。
エンゲルスの弟子たちが 第二インターをつくり強大なドイツ社民党を作り上げながら帝国主義間戦争=第一次大戦に向かう過程で崩壊したことは その現れと思います。革命が何時起こるかわからないので 現実は 資本主義の危機からくる敵の凶暴化しか見えなくなり 危機に対応して資本へのしがみつきと凶暴化に対応した敵への屈服=日和見主義に陥ったのだと思います。
ところで レーニンは 1893年に書いた「いわゆる市場問題について」で 「論理的にはマルクスの論理は正しい」と明言し 「資本論」U巻21章の論理を使って論を展開していますが 有機的構成(CとVの比率)を変化させることで マルクスの終りの証明とはまったく逆の 資本主義は発展するという結論を導き出しています。
つまり エンゲルスの名声と弟子たちによって 公認のマルクス主義は 何時革命ができるか(自分が革命をするのだ)を放棄した (未来社会願望と階級に依拠するだけの)カウツキー主義になっていたのです。
だから 1913、14年以降革命を自分でやらねばと考えたレーニンは マルクス主義の再生=公認マルクス主義を根本で曖昧さなく批判しきる必要があったのです。その拠点は 「資本論」T巻24章と暴力革命論でした。前者を「帝国主議論」 後者を「国家と革命」を書き上げることでなしとげたのです。レーニンが 「国家と革命」を書くにあたって マルクスの本を何冊も再読し抜粋したのは そのためだと思います(自分のかっての曖昧さを訂正し 本当のマルクスの理論として確信をもつために)。
ところが 残念ながら レーニンは「市場問題について」に補足説明を加えないまま死んでしまいました。「市場問題について」が公開されたのは レーニン死後の1930年代です。それ故 レーニン支持派は 「市場問題について」に引きつけて21章を理解しようとし マルクス主義者の全てが U巻21章を「未完成」としてしまい 現代のマルクス主義は 再びカウツキー主義(日和見主義・客観主義)およびスターリン主義(暴力革命主義・主観主義)として マルクス主義をその根幹・核心で否定するものとなってしまったのです。
だから現在 革命を実現するためには レーニンがしたのと同じように 再度のマルクス主義の再生が必要なのです。そしてその拠点は レーニンが仕残した「資本論」U巻21章の復権なのです。
つまり 「何時どの様な状態になれば革命ができるのか」を明らかにすることであり レーニンの「破局」的に言えば 「革命を宣伝」する時代から「革命を実行」する時代への転換を論理的に捉えることであり 革命が間近にせまっていることに 理論的に確信をもつということだと思います。それは U巻21章の復権=再生 つまり「未完成」と言って無視・抹殺するのではなく、その論理と結論を復活させることです。言いかえれば 当時の公認マルクス主義をマルクス自身の論理で否定・訂正したレーニンだけが 唯一革命を実現できたのです。いま同じことが問われていると思います。
(V) V巻15章 法則の内的矛盾の展開(恐慌論) について
マルクスは V巻15章・法則の内的諸矛盾の展開で 「資本制的生産様式の制限性とその歴史的・一時的な性格」を示す恐慌の必然性を論証しています。確かに 恐慌はさらなる発展の準備もするので 即資本主義の崩壊を示すものではありませんが U巻21章の説明で「恐慌と一大破局は 資本移動ができるかできないかの違いがあるが 論理は同じです」と述べたように 一大破局にそのまま適用できます。だから 現在の大不況・大恐慌を分析し考える視点が展開されていると言えます。V巻15章は T巻24章・U巻21章とともに いま再学習が最も望まれる章だと思います(V巻30〜32章も)。
(1) 1節 概 論
冒頭で マルクスは「利潤率の低落と蓄積の促進とは 両者が生産力の発展を表現するかぎりでは 同じ過程の表現の相違にすぎない。蓄積は…高位な資本構成が生ずるかぎりでは 利潤率の低落を促進する。他面 利潤率の低落はさらに 資本の集積を促進し また小資本家たちの収奪により…資本の集中を促進する」と 資本主義の生産力の発展が蓄積と利潤率におよぼす影響とその反作用(さらなる発展を求める)を述べた後 「反面 総資本の増殖率たる利潤率が資本制的生産の刺戟であるかぎりでは 利潤率の低落は あらたな自立的資本の形成を緩慢にし … 過剰生産、投機、恐慌、過剰資本ならびに過剰人口を助長する。」「かくして 資本制的生産の発展をおびやかすかに見える」とその否定面を明らかにして 資本制的生産様式は「富の生産にとって絶対的なものではなく むしろ 富の発展と特定段階で衝突することを立証する」と この章のテーマ=恐慌の必然性の証明を明らかにしています。
そして 剰余価値の量は 剰余価値率すなわち労働の搾取度と労働者数をかけたものであり 資本制的生産の本質(目的・動機)は 剰余価値の生産とその資本への再転形=蓄積であることを確認して 論証に入っていきます。
「剰余価値の獲得は直接的生産過程」で行われるが 「直接的生産過程にとっては 右[上]にあげたもの以外には何らの制限もない」が 生産された商品が販売されなければ 「労働者は搾取されたが 資本家にとっては搾取としては実現されていない」と 問題の所在を明らかにし 「直接的搾取の条件[生産]と その実現の条件[販売]とは同一ではない。それらは 時間的および場所的にばかりでなく 概念的にも別のものである。前者は社会の生産力によってのみ制限され 後者は 相異なる生産部門間の比率性により また社会の消費力によって制限されている。だが 社会の消費力は 絶対的生産力によっても絶対的消費力によっても規定されないで 敵対的な分配諸関係……の基礎の上での消費力によって規定されている。それはさらに 蓄積衝動 すなわち 資本を増大し剰余価値生産の規模を拡大しようとする衝動によって制限されている」と 説明しています。
この後者の説明は U巻21章の結論・論証における「交換」を「消費」と言いかえたもので 全く同じ内容です。つまり 相異なる生産部門とは 一般的に種々の生産部門という意味ではなく 生産手段の生産と消費手段の生産に分けた部門Tと部門Uのことであり 21章で見たように 部門Tと部門Uの交換(部門Uにとっては生産的消費)は T(v+m)とUcとの大小関係によって成立か否かが定まるので 「部門間の比率性により制限されている」訳です。また 労働者の消費力(労賃v)は 21章で変わらないと想定した
ように 資本家と賃労働者との階級対立のもとでは労働者が生きていける最低限に抑えられており また資本が儲る限りでのみ労働者は雇用されるので 社会の消費力は「敵対的な分配諸関係の基礎の上での消費力によって規定されている」訳です。さらに 資本家の消費力(収入)は 21章では剰余価値の半分が収入に入り残り半分が蓄積にまわされると想定したように 剰余価値のうち蓄積にまわす分をのぞいた残りですから 当然「蓄積衝動によって制限されて」います。(もちろん U巻21章は V巻15章よりずっと後で書かれていますが。)
ところで 宇野弘蔵は 「恐慌論」の付録の「資本論における恐慌理論の難点」で 「資本論」V巻30章にあるこの文章とほぼ同じ文章を抜粋して 「相異なる生産諸部門間の不均衡は 勿論 恐慌によってでも調整されなければならぬものともなり得るであろうが しかしこの不均衡は常に価格の運動を通して調整されつつあるものとして これが必然的に恐慌によって解決されなければならぬものとはいえない」と 恐慌の必然性の根拠にはなりえないと批判しています。しかし 「不均衡は価格の運動で調整される」は 一般的にはそうですが この場合には当てはまりません。U巻21章の解説で述べたように 過剰生産(気味)に陥ったときの部門Tと部門Uとの交換は 部門Uが新たな追加資金をもって部門T自身の拡大分を買い取るという 一方的な買いの毎年の繰り返しです。だから「価格の運動で調整」されることはありえません。部門T・Uをそれぞれ一人の資本家に例えればわかりますが 一方の側だけがしかも相手も必要としている物を買いとらねばならないので 価格はどこまでも上がります。だからこの批判は 宇野自身がU巻21章を理解していなかったことの自己表明でしかありません。
V巻15章に戻ります。先の文章と同じ段落で 続けて「この[蓄積]衝動は 資本制的生産にとっての法則であって」 生産方法の絶えざる革命・現存資本の価値減少・規模拡大の必要・一般的競争戦によって与えられたものであるから 「市場がたえず拡張されねばならない」 つまり「内部的矛盾は 外部的生産場面の拡張によって均衡をえようとする」と分析しています。消費力を問題にしながら「生産場面」と言って 生産的消費が軸であることをおさえた上で 拡大が拡大を呼ぶことを明らかにして 「だが生産力は 発展すればするほど 消費諸関係がよって立つ狭隘な基礎とますます矛盾するようになる。… 資本の過多が人口の累進的過多と結びついているのは全く何らの矛盾でもない。というのは 両者を結合すれば生産される剰余価値の分量が増大するであろうとはいえ それと同時に この剰余価値の生産の条件と実現の条件との矛盾が増大するからである」と 先の説明を繰り返しています。
その後 「蓄積は 利潤マイナス資本家の収入に等しいから この利潤量の価値に依存するばかりでなく それで資本家が買いうる諸商品の低廉さにも依存する」、「資本蓄積は利潤率の高さに比例してではなく 資本がすでに占めている重量に比例して進行する」、「利潤率が低落するのは 労働者の搾取が減少するからではなく 充用資本一般との比率において充用労働が減少するからである」、「利潤率が低落しても投下資本量が増加すれば 利潤量が増加する。だが同時に資本の集積を条件づける。… それはまた 資本の集中 すなわち大資本家による小資本家の併呑 および小資本家の資本喪失を条件づける」、「最後に 既存諸資本の少数者の手への集中および多数者の資本喪失となって現れる。求心力のほかに抵抗的諸傾向が…作用しなければ 右の過程はやがて資本制的生産を崩壊させるであろう」と率だけでは見えない量に現れる問題点など重要な点を列挙しています。
なお 最後の点は 「求心力が…資本制的生産を崩壊させる」と述べていて T巻24章7節で展開した「資本は一つに向かおうとするから 必ず崩壊する」と同じ内容です。つまり 1節は T巻・U巻のそれぞれの結論=資本制的生産の崩壊論あるいは終り論の内容を 恐慌論に即して展開していると言えます。
(2) 2節 生産拡張と価値増殖の衝突
最初に 「労働の社会的生産力の発展は 二重にあらわれる。第一にはすでに生産された生産諸力の大いさにおいて…。第二には 総資本にくらべての労賃に投下される資本部分の相対的僅少において…。これは同時に資本の集積を前提する。充用される労働力にかんしても 生産力の発展はやはり二重にあらわれる。第一には剰余労働の増加 すなわち…必要労働時間の短縮において。第二には 与えられた一資本を運動させるために充用される労働力の分量(労働者数)の減少において。」「この両運動は…同一法則がみずからを表現する両現象である。」と 労働の社会的生産力の発展が 資本にとっても労働力にとっても それぞれ二重の傾向をもっていることを確認しています。
資本は 生産力の発展としてみずからの価値を増殖させるのですが 増殖の追加資本に転化される剰余価値は 「総額としては」剰余価値率と充用される労働の分量のかけ算です。ところが生産力の発展は 「一面では 一方の因子たる剰余価値率が増加し 他面では 他方の因子たる労働者数が(相対的または絶対的に)減少する」と 剰余価値を形成する2つの因子のうち 労働者数は 生産力の発展にともなって相対的に減少すると確認し 剰余価値の量は 1日12時間労働する2人の労働者をすべて搾取しても 2時間しか搾取されない24人の労働者が提供するよりも少ないから 労働者数の減少を搾取度増大で補おうとしても限界があるので 利潤率の低落はさけられないことを明らかにしています。さらに 利潤率が低落しても充用資本が増えれば利潤量は増大しますが 資本の増加率は低落した利潤率をこえることはありえないし また 労働の生産力でみると 「相対的剰余価値が増加するか 不変資本価値が減少するかぎりでのみ」利潤率は増大できるが 「両者は 現存資本の価値減少を含み[相対的に]可変資本の減少をともなう」と 念押ししています。
そして「だが蓄積過程に含まれるこの両契機は リカードがやっているように静止的並行関係でのみ考察してはならない。それらは 矛盾する諸傾向および諸現象となってあらわれるところの 一つの矛盾をふくむ。抗争する諸要因が同時に互いに作用しあう」と矛盾をもった運動として見るべきだと述べ だから「これらの相異なる諸勢力は ときにはむしろ空間的に並行して作用し ときにはむしろ時間的に継起して作用する。[だから]周期的には 相抗争する諸要因の衝突が恐慌になってあらわれる。恐慌は つねに 現存する諸矛盾の一時的な暴力的解決に過ぎず 撹乱された均衡を瞬間的に建設する暴力的爆発に過ぎない」と 資本制的生産は 周期的に恐慌をともなう あるいは周期的に恐慌をおこしながら発展していくと 結論を導きだしています。
次に まとめ的に @ 資本制的生産様式は 実存する資本価値の維持および増殖が目的であるのに 目的達成の方法(生産力の発展)は 利潤率の減少・現存資本の価値減少・すでに生産された生産諸力を犠牲にするという矛盾をもっている。 A 「現存資本の周期的な価値減少は 生産過程の突然な停滞および恐慌をともなう。」 B 可変資本の相対的減少によって たえず過剰人口(失業者)を創造する。 C 「資本制的生産は これらの
内在的制限を克服しようとするが その克服は こうした制限を新たにより強大な規模でおしつける手段によってのみ行われる」と確認しています。
最後に 「資本制的生産の真の制限は資本そのものである。というのは 生産は資本のための生産にすぎず 生産手段は社会のために生活過程を絶えず拡大してゆくための単なる手段ではない。だから 手段=社会的生産諸力の無条件的発展が 現存資本の増殖という制限された目的と絶えず衝突する。」と 総括しています。
ところで 生産力の発展は 資本の有機的構成の高度化(労働者数の相対的減少)と構成不変のままの拡大(労働者数の比例的拡大)の2通りありますが 宇野弘蔵は 「好況期には後者が基本で 労働者数が増え労賃があがり利潤が減少し恐慌に突入する。そして恐慌後の不況期に有機的構成の高度化[前者]がおこる」としています。確かに この宇野の説明は 単純に区別性が時期に直対応していてわかりやすいですが しかし 資本主義の人口法則は T巻23章で「資本[自身]が蓄積の進行にともなって相対的過剰人口(失業者)を作りだす」としているのですから 恐慌の原因を労賃の高騰つまり労働者の数の問題(限界・制限)にすると 論理矛盾に陥ります。もし 宇野の恐慌論が正しいとすれば 資本主義の人口法則は 「資本は相対的過剰人口を作りだすが 資本にとって必要な労働者(数)は完全には作れないので 最後的には人間の自然増が制限になる」と 正反対のものになります。だから あくまでも 資本自身の問題として恐慌の必然性を論じるべきだと思います。また 新たに登場する資本は 好況期不況期の時期の区別なくその時の高度化した有機的構成での生産を開始するので 既存資本は単なる量的拡大だとしても 総体としてみれば有機的構成の高度化をともなって発展していると見るべきだと思います。
よって 資本の剰余価値の増大(追求)が 有機的構成の高度化にともない相対的に労働者数を減少させるので利潤率の低落をもたらし また 有機的構成の高度化が現存資本の価値減少を引きおこすので 恐慌が生じるのです。つまり 先にみたまとめ的に恐慌の必然性を展開するのが 正しいのだと思います。
ところで 1節は U巻21章と同じ内容なので 価値の運動として分析されており また2節は 資本の価値増殖つまり剰余価値の生産の問題として展開されています。だから 1節・2節は 恐慌を価値のレベルで(本質的に)分析し論証したということだと思います。恐慌論の具体的叙述は つまりいわゆる資本のレベルでの立証は 次の3節で展開されています。
さらに 1節が 横の関係=部門Tと部門Uの生産物の交換関係(生産的消費及び消費的消費)であるのに対して 2節は 縦の関係=生産力の増大と資本の増殖の関係として論じられていると言えます。また 1節(本質・価値の運動)を2節(剰余価値の生産)を媒介にして3節(現実・資本の運動)へと展開しているとも言えます。
(3) 3節 人口過剰のもとでの資本過剰
3節は 1節2節の価値のレベルでの分析にふまえて 資本のレベルでの恐慌論を 過剰資本・過剰生産(過剰商品)として展開しています。3節のポイントは2つ 過剰資本によって利潤率の極端な低下がひきおこされることと 恐慌過程の論理的描写です。
最初に 過剰資本を資本過多の状態として明らかにしています。
「利潤率の低落につれて 生産的充用のために必要な資本の最小限が増大する。それと
同時に集積が増大する」。そして「小さい分散した諸資本の大量は冒険の途をよぎなく される──投機、信用眩惑、株式眩惑、恐慌。資本過多は 本質的には 利潤率の低落 を自己の分量によって償えないような資本の過多 または 資本を信用の形態において 大事業部門の指導者にゆだねるような過多に連関する。この資本過多は 相対的過剰人 口を生ずるのと同じ事情から生じ したがって 相対的過剰人口を補足する一現象であ る。」
つまり 既存の資本は 拡大しなければ 昨年度生産できたので今年度も同じ規模の生産はできます。だから 剰余価値=利潤の資本への転化である新たな追加資本が 発展とともに必要な新資本の最小限が大きくなっていくので それ故生産に充用できなくなった時 資本の過多(過剰資本)が生じているのだ という訳です。そして 生産に充用できない「小さい分散した諸資本」は それとして儲けを出そうとすれば 「信用の形態において大事業部門の指導者にゆだね」ねばならなくなり より大きな儲けをもとめ「投機、信用眩惑、株式眩惑」が生じ 最後的に「恐慌」が引き起こされることになる と展開しています。そして ここでも同時に相対的過剰人口が生じるとおさえています。
次に その理解と位置をめぐっていろいろ意見のある「資本の絶対的過剰生産」が展開されていますが 後にまわし その次に マルクスは 「現実には 事態はつぎのように現れるであろう」と述べて 恐慌過程を論理的に描写していきます。
「資本の一部分は…遊休し 他の部分は 失業資本の圧迫によって 以前よりも低い利潤率で自己を増殖する。…。一方には旧資本額があり 他方には追加資本額がある。利潤率の低落は こんどは利潤量の絶対的減少をともなう。…。そこで 減少した利潤量が増大した総資本にもとづいて計算されねばならぬ」と展開しています。
はじめの資本過多の説明とこの恐慌過程の論理的描写の冒頭で 過剰資本が利潤率の極端な低下を引き起こすことを論証しています。つまり 新追加資本額に相当する新旧資本の一部は 生産には充用されないが信用をとおして総資本に入るので 利潤量は増えてはいないのに総資本は増えることになり 利潤率の極端な低下がひきおこされるという訳です。簡略して言えば 最初10であった資本が 2年目は 1年目生産の剰余価値から2を新資本として追加して12の資本となって生産したが 3年目は さらに2年目の剰余価値から3を追加しようとしたところ 充用する生産場所がみつからなかった。この時 3年目の剰余価値は2年目と同じなのに 資本は12から15に増えたので 当然利潤率は下がったと言っているのです。
U巻21章の説明では UcがT(v+1/2m)より大きくなった場合 「新たな追加資金があれば(単純=同一規模)再生産を続けることができる」と展開しました。新たな追加資金も当然資本なのですから総資本に計算されます。しかし 現実の生産は単純再生産ですから剰余価値=利潤の量は増えていません。だから利潤率は低下します。
さらに 遊休する資本は 新追加資本相当額であって 新追加資本とは限りません。競争の下では生産性の低い(有機的構成の低い)資本が遊休せざるをえないので 生産物=商品の価値は減少します。そして生産は拡大していないので 「利潤量は絶対的に減少する」ことになります。
ところで 一般的な利潤率の低落は 生産拡大のときの話です。有機的構成の高度化で利潤率は低落するが 生産拡大など反対に作用する要因が働くので それは傾向的な低落であると展開しています。しかし 恐慌の場合には 総資本は増大するが 生産規模は拡
大しないので利潤は増えず 利潤率は絶対的に低下するのです。よって 資本が年々拡大・蓄積を続けていると ある段階で 新追加資本(相当額)が生産に充用できなくなり 利潤率の急激な低下がひきおこされるのです。
宇野は 利潤率の急激な低下がなぜひきおこされるのか説明が不十分だとして 「資本の絶対的過剰生産」の説明をヒントに 労賃の高騰による利潤率の急激な低下を展開していますが マルクスは以上見たようにきちっと説明しています。
ここでとばしたところに戻ります。
「資本の過剰生産は 資本の過剰蓄積のこと」であり 「過剰蓄積が何であるかを理解するためには これを絶対的なものとして仮定しさえすればよい」と述べて 「資本制的生産の目的のための追加資本がゼロとなれば 資本の絶対的過剰生産が現存する。労働者人口にくらべて資本が増大しすぎて 絶対的労働時間も拡張されえず 相対的剰余労働時間も拡大されなくなれば つまり 増大した資本が 増大以前と同量 またはむしろより少量の剰余価値しか生産しないばあいには 資本の絶対的過剰生産が生ずるであろう。どちらのばあいにも一般的利潤率の強い突然の低落が生ずる。こんどの低落をもたらす資本構成の変動は 生産力の発展の結果ではなく 可変資本の貨幣価値の増大(賃金昂騰による)の…結果であろう」と展開しています。ここは 「増大した資本が 増大以前と同量かより少量の剰余価値しか生産しない場合」と 資本の過剰生産(の概念)を明確化させたところです。
ここは 「賃金高騰で恐慌が生じる」と読めますが 過剰資本を概念的に説明するために「絶対的なものとして仮定」したのであって 宇野弘蔵のように これで論立てすると間違ってしまいます。もちろん現実には 労賃も需要供給で変動するので 好況期とくにその末期=過熱期になると失業者が減って労賃の上昇傾向は生じます。しかし たとえ労賃が上がらなくても 新たな追加資本(相当額)が生産に充用できなくなった時 過剰資本状態に陥り 利潤率の極端な低下がひきおこされるのです。そして労賃が上がれば より極端になるということです。
例えば 現在 資本攻勢によって労働者の賃金はドンドン下げられています。その結果大資本は 売上が増えてもいないのに膨大な利益を上げています。労賃は不況突入時に比べて大幅に低下したのに 景気は停滞したままで 資本家はさらなる労賃の切り下げをねらっています。労賃の高騰が原因なら すでに不況から脱出しているはずです。また その膨大な利益は 米国債の購入にあてられたりドルのままアメリカで預金されています。まさしく 追加資本として生産に充用されていません。労賃は切り下げられたのに 依然として過剰資本状態が続いているということです。
恐慌過程の論理的描写は4段階で展開しています。第1は これまでみてきた利潤率の極端な低下です。第2は資本間の戦闘 第3は資本の破壊とその破壊の内容 第4は生産の再開です。
第1で重要な点は 利潤率の低落とともに 生産に充用されない新追加資本(相当額)は 信用を介して総資本に参加し 投機経済に走るということです。だから恐慌・一大破局は 好況末期の過熱期あるいはバブルへの突入でもって始まったと言えます。
第2に 利潤率の極端な低下が生じだすと 自らの生き残りを賭けた資本間の戦闘が生じます。
「だが 旧資本のこうした事実上の価値減少は戦闘なしには生じえず 追加資本は戦闘 なしには資本として機能しえない。…。利潤率の低落と資本の過剰生産とが同一事情か ら生ずるゆえに いまや競争戦が始まる。…。どの部分が遊休させられるかは競争戦に
よって定まる。…。問題が利潤の分配ではなく損失の分配となれば 各人は 自分の損 失分を少なくして他人に転嫁しようとする。…。敵対する兄弟間の戦闘に転化する。こ の場合には各個の資本家の利益と資本家階級の利益との対立が自己を主張する。」
第3に 戦闘の結果 資本の破壊が生じます。
「さて いかにしてこの衝突がふたたび調停され 資本制的生産の「健全な」運動…が再 建されるであろうか。その調停は 追加資本の…価値額だけの 資本の遊休およびむし ろ部分的絶滅を含む。…。均衡の回復は 大なり小なりの資本の遊休およびむしろ絶滅 によっておこなわれる。この遊休・絶滅は…物質的な資本実体にも及ぶ。生産手段・固 定および流動資本の一部分が資本として作用しない。生産経営の一部分が停止される。 [さらに]機能停滞の結果として 生産手段のはるかに甚大な現実的破壊が生ずる。」 そして その資本の破壊を描写しています。
「主要な破壊は 価値属性をもつかぎりでの資本・資本価値に生ずる。資本価値のうち 将来の利潤の分け前に対する手形の形態…債権証書は 計算の基礎をなす収入が減少す ればすぐにその価値が減少する。現金の一部分は遊休し 資本としては機能しない。商 品の一部分は 価格の尨大な縮小によってのみ…流通=および再生産過程を遂行する。 固定資本の諸要素の価値も減少する。したがって再生産過程は一般的な価格下落によっ て停滞と混乱におちいる。支払手段としての貨幣の機能を麻痺させ 諸支払義務の連鎖 を中断させ信用制度の崩壊によってさらに激化され かくして激烈で急激な恐慌、突然 の強大な価値減少および再生産過程の停滞および撹乱を生ぜしめ 再生産の現実的減少 を生ぜしめる。」
この資本の破壊とその内容の論理的描写は 現在の大不況の分析視点と思います。現在の経済は 政府による恐慌回避策=資本救済策によって 一大破局・大恐慌が間延びさせられている(全面的崩壊をくい止めている)状態と言えます。だから膨大な公的資金を投入しても 3〜4年後にはふたたびみたび不良債権が膨れ上がり金融危機が生じているのです。また ヘッジファンドなどの投機資金が 経済の混乱をひきおこしています。
第4に 恐慌後の生産の再開が 次に展開されます。
「だが同時に 生産停滞は労働者階級の一部を遊休させ 労賃は下落する。これは 資 本にとっては 剰余価値が増大したばあいとまったく同じ作用をする。他面 価格下落 と競争戦とは 各資本家にたいし あらたな機械・改良された作業方法…の充用によっ て…生産力を高め…労働者を遊離させる刺激を与える。さらに 不変資本の…価値減少 は 利潤率の増大をふくむ一要素であろう。…。生じた生産停滞は その後の生産拡大 を準備した。こうして…同じ欠陥だらけの循環がふたたび行われる。」
もちろん 一大破局・大恐慌の場合には (循環)恐慌のように生産再開とはいきません(第4にいけないのです)。どんな恐慌回避策をとっても 回避策ゆえに(過剰資本は解決されず むしろ増大し)不況が続き 資本間の戦闘が 市場・資源争奪戦として後進国・植民地への侵略戦争をひきおこし 帝国主義間戦争にまで行きつきます。
恐慌の論理的描写のあと 過剰生産は資本(の利潤追求)にとっての過剰であって 社会全体にとっては過剰ではなくむしろ足りないのだと説明しています。
「だが こうした極端な前提のもとでさえも 資本の絶対的過剰生産は 絶対的過剰生 産一般ではなく 生産手段の絶対的過剰生産ではない。生産手段が資本として機能すべ
き・追加価値を生み出すべきかぎりにおいてにすぎない。」「資本の過剰生産なるもの は 資本として機能しうる生産手段の過剰生産 すなわち 一定の搾取度での労働の搾 取のために充用されうる生産手段の過剰生産いがいの何ものも意味しない。」「利潤率 の低落が資本家間の競争戦をひきおこすのであって その逆ではない。この競争戦はた しかに 労賃の一時的高騰をともない またその結果さらに一時的な利潤率低落をとも なう。同じことは商品の過剰生産にも現れる。」
「極端な前提」とは 先にみた「絶対的なものとして仮定」した極論をさしています。つまり 労働者全員が就業し労賃が高騰している状態であったとしても 「現存人口との比率において過多な生活手段が生産されるのではなく…大量の人口に相当な人間らしい満足を与えるためには過少に生産される」と 社会一般あるいは全体にとっての過剰ではなく 資本が一定の率以上の利潤があげられないという意味で過剰なのだということです。
最後に
「資本制的生産様式の制限はつぎの点にあらわれる。
(1) 労働の生産力の発展は 利潤率の低落において この生産力じしんの発展にたいし 特定の点でもっとも敵対的に対立するところの 絶えず恐慌によって克服されねばなら ぬところの 一法則を生みだす。
(2) 社会的欲望─社会的に発展した人間の欲望─にたいする生産の比率ではなく… 利 潤と 充用資本にたいするこの利潤の比率が つまり特定の高さの利潤率が 生産の拡 張または制限を決定する。だから 資本制的生産は…欲望充足が命ずるところではなく 利潤の生産および実現が停止を命ずるところで停止する。」
とまとめています。
(4) 感 想・意 見
今回 V巻15章を学習して 思ったこと・感じたことを述べます。
第一に 今回の学習で初めて V巻15章(マルクスの恐慌論)が理解できたと思います。その鍵になったのはU巻21章の理解です。15章第1節の論点「直接的搾取の条件[生産]とその実現の条件[販売]は同一ではない」は 今までは「一般的にはそうだけど しかし 販売は購買でありそれは消費なのだから生産と消費の矛盾になってしまい マルクスが誤りとしている過少消費説に通じるのでは」と疑問に思い 解説書を読んでより混乱を深くしていました。今回2年近くの中断の後読んだのですが すぐU巻21章と同じことが言われていると気づきました。学習を再開してすぐ U巻21章の説明の誤りを考えさせられたことが V巻15章の理解を助けたと思います。つまり マルクスの問題設定は生産の連続性であって(Umについてはほとんど無視している) それは 生産された生産材が生産の必要におうじて過不足なく配分されるか否かという問題としてあり 部門Tの生産物が部門Tと部門Uにどう配分されるかということ つまりT(v+m)とUcの交換の問題として問題をたてきるということになります。
第二に 宇野恐慌論は マルクスが「資本論」で展開した恐慌論とはまったく異なっているだけでなく 資本の増殖(利潤追求)の問題性を労働者数の問題にずらすという点で
根本においてマルクス主義を破壊していると思います。宇野説だと 資本の利潤追求が根本原因ではなくなり 資本の拡大に合わせて労働者数が増えない「自然」が悪いことになります。それでは 「資本=会社がピンチなのだから労働者も我慢しろ」という賃下げ攻撃
に対決できず 諦めるしかありません。批判は 説明の途中でそれぞれ展開したので省略しますが 特に今の現実(首切りが横行し労賃が切り下げられ 資本は そのことで売上が増えていないにもかかわらず膨大な黒字をだしながら その儲けを生産に投下しないで投機にまわしている)を的確に説明できないものにしています。マルクス主義が忘れ去られるのもむべなるかなと思います。「資本論」の正しい理解が問われています。
第三に マルクスは T巻24章・U巻21章・V巻15章で 資本制生産の崩壊論を展開していますが その論理構造は「論理的極論」だと思います。T巻24章では「資本制生産の発展とともに大資本家の数は減少し 資本は一つにむかおうとするが 資本が一つの状態は共産主義なのだから 一つに向かう過程で必ず崩壊する」と展開し U巻21章では UcがT(v+m)をこえる場合を想定して 部門T・U間の交換不能(生産の部分的停止あるいは縮少再生産)を展開しています。V巻15章では資本の「絶対的過剰」を 新たに雇用する労働者(失業者)がいなくなった状態で説明しています。
マルクスが生きていた時代は まだ資本主義の発展期であり その時代に資本制生産の崩壊論=資本主義の終り論を展開しようとすれば 論理的につきつめる以外にできなかったのだと思います。だから 論理的極論での展開は 極論に達した時に崩壊すると述べているのではなく 極論にむかう過程(途中)で一大破局に突入し崩壊すると述べているのだと思います。
第四に ところで 資本主義が最後の段階である帝国主義になり ロシア革命で共産主義社会の現実性が明らかになりながら いまだ人類はそれを実現できていません。それどころか 経済的にみると一国社会主義論ゆえに帝国主義の生産性の発展についていけずにソ連は崩壊してしまいました(スターリン主義という問題は捨象して)。あらためて T巻24章(大資本家の数の減少)で歴史を見たとき 帝国主義への突入─第一次大戦─ロシア革命の時は 先進資本主義国が10数個から7〜8個になるときで 現在は7〜8個が3〜4個になるときにあたると見れます。第三で「論理的極論」だと言いましたが あまりにも資本主義=帝国主義の打倒が間延びさせられてしまったが故に その論理的極論に近似の状態が 現在引き起こされていると思います。例えば 基軸通貨(ドル)の金兌換停止や経済のグローバル化など 世界が一国的に見える様に 一つに向かう傾向がいたるところに現れています。だから 基本はレーニンの帝国主議論つまり帝国主義の分裂と帝国主義間争闘戦でおさえながら 分析はマルクスが「資本論」で展開した資本制生産の崩壊論=資本主義の終り論で見るのが正しいのだと思います。つまり レーニンは 10数個から7〜8個になるときにそくして展開しているので レーニンの分析・説明をそのまま現在にあてはめると 少しずれが生じると思います。
第3節の説明で 現在は「政府による恐慌回避策(資本救済策)によって 一大破局・大恐慌が間延びさせられている状態」と述べましたが 恐慌論に即して言えば 大恐慌回避策で第3の資本の全面的な破壊を押しとどめようとしているので 第4・生産の再開にいけない状態 つまり 第1・第2・第3が 同時並行的に起こっている状態と言えます(第1は過剰資本=利潤率の低下とバブル的投機 第2は資本間の戦闘=資源・市場の独占化や企業合併など 第3の資本の破壊は部分的破壊=不良債権や倒産、株価の下落など
としてです)。またレーニンの時代は バブル発生以前の投資の段階であったのに対し 現在は バブル発生後の投機の段階 つまり生産(労働)ではなくバクチが基軸になった実に腐敗しきった時代・社会だということです。
第五に 宇野は「原理論は資本主義が永遠に続くものとして論じる」「革命の実現は革命党の問題」と言って 客体分析=経済学と主体(党とプロレタリア階級)とを切り離してしまいました。たしかに 第二次大戦前後に スターリン主義の権威に抗して 学問を学問として挺立するためには必要な口実だったと思われるし また新左翼に反スターリン主義を唱える根拠を与えたという点では意義があったと思われますが 崩壊期=一大破局に突入し革命が現実の問題となってきた現在にあっては 反動的な見解に転化しかねないものです。革命の主体はプロレタリア階級であって プロレタリア階級は 敵の攻撃で個別的には決起しますが 全体としての総決起は 敵階級=社会が崩壊に突入するから起こるのだと思います。党は基本情勢と無関係に階級の総決起を創り出すことはできないと思います。レーニンが革命的情勢論として 支配階級の状態と労働者人民の状態を並列して論じているとおりだと思います。客体と主体を切り離しかつ主体を党の問題に切り縮めてしまうと 階級の総決起つまり客体の危機によって生じる階級の自主的総決起が忘れさられ 党は何処までも基本的情勢とは無関係に独善的になってしまいます。例えば 日本共産党の最大の誤りは レーニンが戦後革命として革命を実現していたにもかかわらず 第二次大戦後の戦後革命期に革命を実現できなかった(革命ができる情勢と見れなかった)ことではないでしょうか。そして現在 スターリン主義をのりこえたという全ての新左翼にとって 同じことが問われているのだと思います。
現在米帝は イラクでアフガニスタンで 古典的ともいえる残虐非道な植民地侵略戦争を展開しています。そして 日帝は 米帝の世界戦争政策に遅れてはならじと 戦後的あり方(平和主義・民主主義・労使関係・福祉政策・教育政策など)を全否定して 戦争に突入していっています。この敵の凶暴化の原因が 全世界的に資本主義の一大破局への突入、そのもとでの帝国主義間争闘戦の激化・戦争化にあるのだと捉えきれたら 近い将来必ず崩壊=打倒するチャンスがくると確信でき たとえ現下の運動が小さくとも 敵を巨大視して屈服することなく闘い続けることができるのだと思います。
(W) U巻21章の補足説明
(1) 補1 拡大再生産表式の展開
Tcを4000に固定して Ucを1200から2000の間で100ずつ増やしながら順次表式の計算をします。Tは
T 4000c+1000v+1000m=6000
剰余価値の半分が拡大されるとすると 拡大分の500mは400cと100vに分けられるので 拡大のために組み合せを変えた式は
T’4400c+1100v+ 500m=6000 です。
(イ) Ucが1200の場合
T 4000c+1000v+1000m=6000
U 1200c+ 600v+ 600m=2400
この組み合せをT’にあわせて変えると
T’4400c+1100v+ 500m=6000
U’1600c+ 800v+ 0m です。(600−400−200で0)
Uの資本家の収入は0になります。だから本来的にはありえない場合になります。また Ucは 1200から1600に拡大したので 33%の増加となります。
なお 以降TとT’は同じなので省略します。
(ロ) Ucが1300、1400の場合
Ucが1400とすると
U 1400c+ 700v+ 700m=2800 をT’に合わせて変えると
U’1600c+ 800v+ 400m です。(700−200−100)
Uの資本家の収入は400あり Ucは1400から1600に拡大します。よって1 4%の増加です。拡大率はUの方が大きいです。
ところで UがTと同じ拡大率10%で拡大する場合の組み合せは
U”1540c+ 770v+ 490m=2800。(700−140−70)
T(v+m)の1600が過不足なく交換できるためには Ucの不足分60をUmから 補充します。
(ハ) Ucが1455とすると
U 1455c+ 727v+ 728m=2910 をT’に合わせて変えると
U’1600c+ 800v+ 510m です。(728−145−73)
この場合は UがTと同じ拡大率10%で拡大しています。
(ニ) Ucが1500のときは 第一例そのものです。
(ホ) Ucが1600、1700、1800、1900の場合
Ucが1700とすると
U 1700c+ 850v+ 850m=3400
T(v+m)は1600なので 生産後の式とみると Ucは1700−1600で10 0が余ります。さらに 再生産の開始からみると Ucが100足らないことになりま す。だからUは 追加資金を100だしてTの拡大分から生産材を買い 生産を続けま す。他方Tは 生産での拡大は100減少し 貨幣で100蓄積します。
今やTの拡大は400に減少したので 400は320と80に分かれ T(v+m)は (24)
1080+500で1580です。よってUcは1700−1580で120が交換で きず(Uvの余りは省略) そして再生産のためには生産材が120足りません。だか ら追加資金は120必要です。
よって表式は
T’4320c+1080v+500m+120m(貨幣)=約6000(6020) U’(1580+120)c+850v+850m−120(貨幣) となります。
さらに UがTと同じ10%で拡大しようとすると
T’4400c+1100v+ 500m=6000
U”1870c+ 935v+ 595m=3400 の組み合せになります。
UcがT(v+m)と交換するためには270たりません。だからUは追加資金をだして Tの拡大分から270を買って 10%の拡大再生産を続けます。Tは500−270 で230しか拡大にまわせません(184cと46v)。しかし270の貨幣が入った ので 金額・価値で計算すれば想定した10%の蓄積・拡大率になります。
(ヘ) Ucが2000の場合
T 4000c+1000v+1000m=6000
U 2000c+1000v+1000m=4000
Ucは500足りないので追加資金500を出してTmの拡大分500を全て買うと T’4000c +1000v+ 500m+500m(貨幣)=6000
U’(1500+500)c+1000v+1000m−500(貨幣)となります。 この場合 資本家Tは貨幣で500蓄積して 生産では全く拡大していません。同時に Uも 追加資金500を投入し500mが過剰になっているのに 拡大再生産にはなっていません。
以上の(イ)から(ヘ)をみて まず言えることは (イ)ではUの資本家の収入が0になり(ヘ)ではTの拡大ができなくなったこと を示しています。つまり Ucは1200から2000の間に存在しないとダメなのです。
次に (ロ)の場合が (二) UcがTv+1/2mより小さい場合にあたり (ホ)の場合が(三) UcがTv+1/2mより大きい場合にあたることは明らかです。そして その中心点は(ハ)の場合で Uも毎年10%の拡大をはじめから続けることになります。
さらに 第一例は(ニ)の場合で 第二例は(ロ)の場合です。もちろん TとUがその剰余価値の半分ずつを拡大すると仮定した例は (ホ)の類似形です。
以上より言えることは マルクスが3節であげた例題は それぞれ(ロ)〜(ホ)のどれかと同じであり (一)(二)(三)に対応しているのです。
いままで21章を理解しようとして 数年間の計算を繰り返してきました。しかし今回2年目以降を計算しても意味がないのだとわかり 1年目の表式そのものを(イ)から(ヘ)に動かしてみました。つまり 蓄積・拡大再生産は 表式であらわすと(ロ)→(ハ)→(ホ)と進むのだと思います。
なお (ロ)(ホ)で UがTと同じ拡大率10%の拡大再生産の組み合せを併記しましたが Uの資本家もTと同じ10%の拡大をするというのが資本主義の「正常」なあり方だと思い どういう関係が成りたつのかなと考えるためです。
(2) 補2 拡大再生産の極論
21章の論点「資本制的蓄積にさいしても 以前の一連の生産期間中に行われた蓄積過程の進行の結果として UcがT(v+m)にくらべて等しいどころかむしろ大きい場合さえ生じうるであろう」を 明らかにします。
出発式を補1で検討した(ホ)のUc=1900にします。
T 4000c+1000v+1000m=6000
U 1900c+ 950v+ 950m=3800
いま資本家Uが 10%の拡大つまりUcを190拡大しようとすると
U’2090c+1045v+…… と組みかえねばなりません。
Uvの増加分1045−950の95はUm’から出すので Um’は475−95で380になります。ところで T(v+m/2)の1500はUcと交換されますが Uが2090cの生産を行おうとすれば追加は590必要で Tの拡大にまわす分500m’を全て買い取るだけではたりず Tc分からさらに90を買い取らねばなりません。つまりUの資本家は590の追加資金がいります。だから Uの資本家が 追加資金590をだすことができ Tの資本家が再生産の不変資本を90減らせたら Uは2090c+1045vの拡大再生産が出来ることになります。
他方 Tの資本家は 拡大分の500m’はUの資本家に売って貨幣500と交換したので 今や拡大分は0であり かつ90c分も売ったので Tの生産はc+vで5000から4910に減少したが(Tvの減少は無視しています) 貨幣590が入ったので 金額・価値で計算した総資本の合計は5500ともとの5000から10%増加しています。そして Uの資本家がTの資本家と同じ生産を10%拡大しようとすれば Uの資本家は 380の商品が売れ残っているのに590の追加資金がいるのです。
論理的に言えば もともと正常なときはUcはT(v+m)とだけ交換されます。そしてTmの一部はTの拡大にまわされるのだから 「UcがT(v+m)より大きい」は論理矛盾そのものなのです。論理的極限はUc=T(v+m)の時 つまりTが拡大できない時です。だから その限界・極限をこえるときは Tの生産物で次年度Tcになる部分の一部分がUに売られることになります。つまり Tは拡大再生産ではなく縮小再生産になっているのです。しかし金額・価値で計算すれば ちゃんと拡大・増加しているのです。
つまり 各資本の拡大は 各資本家の自由裁量とはいえ 各資本家は 平均拡大率・蓄積率をこえる拡大を実現しようとするのであり(Tの資本家が10%の拡大をしている時に Uの資本家が拡大0で満足することはありえず Uの資本家も最低10%の拡大を追い求めます) Uの資本家に追加資金が十分にあれば Uc≧T(v+m)という「ありえない事態」が生じるのです。
ところで いくら拡大率はそれぞれの資本家の自由裁量だといっても 補1でみた(イ)Uc1200から一跳びでUc1900に拡大することは不可能です。(イ)の場合 Umは600なのでUcに最大600しか加えることは出来ないから Ucは1800になれても1900にはなれません。さらに拡大させるUv分もUmから追加せねばならないので 1800にさえ出来ません。つまり Uが(ホ)へと拡大を続けてきたときに その先に 限界・極限の(ヘ)つまりUc=2000やUcが2000をこえるありえない事態が起こるのです。
それは Tの資本にとっては 金額・価値で計算すれば拡大・蓄積していることになりますが 現実の生産は縮小再生産でしかありません。つまり Tが生産を拡大しようとすればUは拡大できなくなり Uが拡大しようとすればTは縮小再生産になるという事態になるのです。