仕事での疲れ目がひどくて、しばらくパソコンを開くことはおろか、読書もできませんでしたが、ようやく両方できるようになりました。
深見先生の小説第二段、「バッタに抱かれて」が日本図書館協会選定図書になったと聞き、さっそく本屋さんに注文しました。(深見先生は、小説を書くときには戸都阿見というペンネームを使っています)
「すごいなあ、図書館協会の選定図書かあ……」と思い、深見先生の初めての小説、「蜥蜴」(トカゲ)を久しぶりに読み返してみたのです。
私は占いの店、「アタール」の占い師さんに指摘された通り、「芸術が足りていない」ので、正直言って、「蜥蜴」の良さはさっぱりわかりませんでした。
「ダジャレ??? ダジャレの本……」
帯には経済人類学者、栗本慎一郎さんの言葉が載っていましたが、そんなものかなあ??? と思っただけでした。
『神は駄洒落のなかに身を潜める。また、歴史の真実は駄洒落の中に姿をあらわす。駄洒落を馬鹿にしてはいけない。それは意味の転換と交換の相であり、言葉を用いた最高の行為にして真実の行為なのだ。』(以後、省略)
ところが、今回読み返してみたら、以前の印象とは違いました。短編小説集なのですが、その中で、すごく心に響く話がいくつかあったのです。
前と全く同じ、ダジャレの話なのに……。
「盛り場」という話の中では、この言葉がとても印象的でした。
『別な客「そう、天国では年齢、性別、職業など、社会的地位や名誉のようなものは、一切関係ないんだ。ただ、優しい心が共鳴する者同士が集うのさ」』
「盛り場」と「サカリがつく」という「さかり」や、「独身」と「読心」などの言葉をひっかけていて、その盛り場へ訪れた客がおかまに襲われるという話なのです。
最初に読んだ時は「・・・????。なんじゃこりゃ???」と思いました。
でも、今回は、上記抜粋の言葉を読んだ時、胸がジーンと熱くなり、自分でもなんでそんなことを思ったのかわからないのですが、「神様はこんなにも深い愛をもっていらっしゃるんだ。ありがたい、ありがたいなぁぁぁぁぁぁーーーー! 」という気持ちでいっぱいになりました。
もしかするとこれこそが、「小説を感じる」ということなのかもなあと思いました。頭で考えるのではなく感じる。理屈っぽい私には、今までとても難しいことだったのですが。
また、「エビスさんと大黒さん」という話も、とても心がスッキリしました。
『お月さま「女性は内臓を冷やし、血流を悪くし、月神を克すのじゃよ。また、家の整理整頓、炊事、洗濯、掃除、洗い物を、積極的にやり、絶えず体を動かしていたら、内臓に血がよくめぐり、月神は生き生きしている。また、不平、不満を言わず、何でも前向きで、何でも喜び、何でも積極的に生きる人は、自分の日の神が輝くのじゃ。だから、日の神が、月神に反射し、内臓もホルモンも、みんな元気になるのじゃ』
ああ、そうか! そうなんだ! 私が今、一生懸命家事に励み、前向きに生きる努力をしているのは、健康になるためだったのか!
仕事をして家事もして、その上、自分のやりたいことや夢を叶えるためには体力が必要だもの。今のような生活を続けていたら、いずれ、家族に迷惑をかけずにやりたいことができるような体になれるんだ!
義母と同居していたときも、毎日必死に家事をしていました。しかし、それはあくまでも「やらされていた」という感じで、それが自分のためなんだとわかってはいても、これだけ明確な答えはみつかりませんでした。
でも、今回この話を読んだことで、本当に心が納得した気がします。それにより、今よりももっ家事が楽しくなるような気がします。
これも下記のようなダジャレだらけの話なのですが。
『大黒点「全世界の、生理痛、生理不順で悩む女性に成り代わり、お月さまに文句言ってやるのだ。おーい、お月様! 正常にしてくれ! 田園調布より、成城にしてくれ! その方が、スーパーが近い……! 』
ダジャレの中に潜む深いメッセージに以前は全く気付かず、なんで深見先生がこんな話を書いたのかさっぱりわかりませんでした。
でも、今は多少感じることができるようになったらしいです。
「バッタに抱かれて」を読むのがとても楽しみになりました。