【講演】「メディア・ビオトープを育む:地域社会とメディアリテラシー」 ◆愛知淑徳大学現代社会学部専任講師・小川氏 ○ 三重県のメディア そこで、「地域とメディア」の関係に、どんな可能性が眠っているのか。私たちの感覚の中にどんな要望があるのか。今回は、いくつか事例をお示ししながらお話してみたいと思います。 ○ 東京パッチワーク 私たちは、どこに住んでいても、たぶん三重でも、東京には憧れみたいなものが根強くあるだろうと思うのですが、それが具体的に何なのか、なんだかよくわかっていません。そこで、一つ目に、写真というメディアをツールとして使いながらその憧れの中身を体験的に分析してみる「東京パッチワーク」というワークショップについてお話しします。 これは私がゼミ旅行でふと思いついて始めた課題です。ただ東京に行くだけだと、普通の観光旅行になってしまうなと思ったものですから、せっかくの機会なので身体化された私たちの東京ってどんなものなのかということに気づいて欲しくて始めました。私たち日本人は、歴史的に都(みやこ)指向というのが非常に高いです。それに、メディアは、特にまた最近加速しているんですが、東京一極集中を強めていて、ほとんどの情報が東京から、あるいは東京で編集されて届きます。関西大学の黒田先生というかたがおっしゃっていますが、そんな中で私たちはテレビの舞台、これがドラマであってもニュースであっても、「テレビの世界というのは東京だ」ということが当然のように染み付いているわけです。 また、同様に、私たちは都市空間としての東京にものすごい憧れのイメージがあったりします。特に男の子に多いんですけど、東京に行くと代官山あたりで芸能人に会えるんではないかと、いまだに頑なに信じていたりするんですが、そんなわけではないですよね。東京といっても現実はそんな華やかな世界ばかりでは当然ありません。 そこでイメージどおりの東京、自分が「あっ、これがイメージの東京だった」という東京と、それから「意外だった」あるいは「これが現実の東京なのか」というふうに感じた東京とを、その場で写真に記録してもらう。その中から、名古屋に帰ってきて10枚を選んで、「私の見た理想の東京、そして現実の東京」というタイトルでプレゼンテーションしてもらうということをしました。 ○ 写真というメディアの面白さ ところで、写真というメディアというのは非常に面白いメディアだと最近、私はしみじみ感じています。どういう意味かというと、自分の持っている漠然としたイメージみたいなものを、ある意味表現しやすいわけですね。「こういうイメージ」といったときに、やっぱり文字で書いたり言葉で言ったりということもできるんですけど、そのイメージを体現する風景に出会ったときには、「ああこれ、これ」と写真で切り取って表現しやすいんです。それからフレームで切り取って眺めるということは、自分の無意識を意識化します。何を中心にすえて何を画面の外に出すのか、普段の写真撮影は無意識のうちにやってしまうのですが、「フレームの中に入れるものを意識的に考えてね」と事前に言っておくと、何を撮りたいのか、自分が何を排除してこの一枚を表現したのかを熟考することができるのです。 それから、「10枚」という制限をつけることも大事です。新聞でも雑誌でも、放送でも、やはり紙面だとか、時間という制限がある中で送り手たちというのは表現しているわけです。その制限に気づくこと。与えられたスペースや時間で「伝えられる」ことというのは、実は非常に限られている。それを送り手の人たちがなぜ、このイメージで、このフレームで伝えているのかというのを、考えてもらうきっかけになります。 それから、写真というメディアそのものに関しては、1つの被写体を例えばサイズとかアングルだとか、照明だとか、もうちょっと技術が使えるようになると、絞りだとかシャッタースピードとかによって、無限に表現できる魔法のようなメディアだということです。 例えば、「りんごを写真で取って」と言ったときに多くの人は横から見た写真を撮ると思うんですけど、もしかしたらおしりのほうから撮るかもしれないし、上から取るかもしれない。この普通に見えるりんごだって裏を返せば、かじられているかもしれないわけです。どんなサイズで、どんな照明のもとで、どんな背景で撮るのか? 一枚の写真には、その人の「りんご」に関する意図や思いがつまっていると考えることもできるのです。逆に言えば、りんごというモノを、その人が、なぜ、このように撮ったのかということを、考えてもらいやすいメディアです。 もちろん、りんごだけじゃなくて、実はこれは物事全般に言えることだと思います。メディアで表現するとは、どういう視点から見て、何を中心において何を伝えるかということなんですから。 ○ 「東京」のイメージ=「現実」から「切り取って」「構成」されたもの ちなみに、「東京パッチワーク」で出てきた都市的な東京のイメージのなかで一番多いのは、高層ビル群、高層ビルのイメージというものです。汐留辺りとか東京都庁のビルが何枚も出てきます。それから、意外と多いのが、新しい交通機関や乗り物です。例えば、ゆりかもめの駅なんていうのもありますし、それから、ちょっと変った形のエスカレーターとか、その手すりとか、乗り物が都市的なイメージとして意外と出てくるんです。 それから、非常におしゃれなディスプレイとか、かっこいい広告、神秘的な広告みたいなものも都市的なイメージとして、彼女たちは「これ!これが東京!」と思って撮ってきます。他には、大勢の人がいるという視点で、渋谷のスクランブル交差点を撮る学生もいますし、それから面白いなあと思っているのが、「東京には格好いい人がいる」ということで、格好いい人を延々と撮ってくる学生がいて、なるほどなと思いました。そういうイメージって根強く、私自身にももしかしたらあるのかもしれないなと思います。 次は現実の東京のほうです。多いのが、本郷あたりの生活臭のある町並みであり、最近では田舎でも見ることのなくなった古い薬局だとか、それから、どこかアジアの喧騒や混沌を感じさせる上野の周辺だとか、名古屋だと大須のあたりの商店街と変らないような商店街だとかが続きます。面白いのは、なぜかぞうりとパンツで歩いている人が写っている本郷あたりの写真がありまして、その写真を撮ったのは、さっきの格好いい人を撮っていた学生なんですが、この人のことを許せなかったらしいです。「東京にああいう人がいちゃいけない」と激怒していました。 それから、「東京の人もごみ出すんだ!」とびっくりして、学生は写真を撮ってきました。当たり前でしょと思うんですけど、でも私たちの身体感覚の中では、東京というとこういう部分がどうしても削除されていて、頭の中には先ほど言いましたような都市的なイメージというのが、すごく、本当に染み付いているんだろうなと感じました。テレビや雑誌の中に、あんまりそういうシーンって出てきませんよね。ですから、学生の、時には突拍子もない写真を見ながら、それでも、「それはないでしょ」というものはなくて、「なるほど」、「ああ分かるな」というものが揃って出たんです。 ところで、どうして、このワークショップを私がパッチワークというふうに名付けたかと言いますと、東京というのは、ものすごく大きくて多様性のある空間なわけですが、わたしたちになんとなく伝わってくるものは、その膨大な「現実」から「切り取って」「構成された」イメージである。そういうことからこのように名付けました。 ○ 「ローカルの不思議」プロジェクト 次に、「ローカルの不思議」プロジェクトについて、お話をしたいと思います。 元々、このプロジェクトは、「アジアの不思議」プロジェクトという名前でした。これは先ほど「東京パッチワーク」でもお話ししたのと同様に、私たちがアジアに対して抱いているイメージというのは非常に偏りがあります。たとえば、タイだと「微笑みの国」だとか「象に乗ってる」とかというイメージがありますが、バンコクにいけば当たり前ですが「象」はいないわけだし、不機嫌で怒ってばかりいるタイ人だっているはずなんですけど、私たちはどうしてもそういうイメージで見てしまう。私の通っていた東京大学大学院はアジアからの留学生が多いところでしたので、会話のはしばしでそれはおかしいでしょうという話になりました。だからといって、私たちはタイだとかスリランカだとかにいちいち行って確かめるなんていうことは不可能なわけです。 先ほどのお話でも出てきた「バカの壁」じゃないですけども、私たちが分かったと思っているアジアのイメージというのは、実はもうメディアのイメージ、メディアが表象しているものと不可分に結びついているということ。このことを若い中学生、高校生、あるいは大学生に分かってもらえるような、楽しいカリキュラムができないだろうかということから始められたのが、この「アジアの不思議」プロジェクトでした。 ところがプロジェクトを進めてゆくうちに、これは日本の地方でも事情は同じなのではないかということに気が付き始めました。私は先ほどお話のあった水越先生が住んでいらっしゃる千葉の事をほとんど知りませんし、今回交流をした4地域の大学(平成3年度には名古屋、新潟、それから4年度には名古屋、新潟、北海道、群馬)のある場所、特に群馬のイメージは私でも本当に申し訳ないんですけれども、出てきませんでした。逆に言えば、群馬の人にしてみれば名古屋のイメージなんて考えたこともないかもしれません。日本の「地域」だって、「アジア」と同じくらい未知な場所なのです。 そのようなわけで、このプロジェクトは、まずそれぞれが大きな紙に相手のイメージマップみたいなものを書いて交換します。これは、相手先の「時事・ニュース」「自然地理」「歴史文化」「生活」について知っていることをみんなで書き込んでいったものです。このとき、その情報をどこから得たのか、たとえばテレビなどのマスメディアなら赤、教科書ならピンク、情報誌やインターネットは緑、自分の経験や口コミは青というふうに色を変えて書き込みます。誰かが書き込んだものを「あ、私もそのイメージだ」と思えば、その書き込まれたものごとをくるりと○で囲みます。こうすると、多くの人が感じているイメージは何重もの○で囲まれてゆくことになります。そして、それを相手先と交換するのです。相手から来たマップを開く瞬間は非常にドキドキします。 ○ イメージマップの作成・交換からの気づき それではこのマップを具体的に見てみましょう。ご覧の画面は、名古屋の学生が群馬を見たときのイメージマップで、草津温泉、赤城山などが出ています。その際、そのイメージがどこから来ているのかということが後でわかるように決められた色で書き出します。たとえば草津温泉なんていうのは旅行誌関係からで緑色。それから、マスメディアで見たもの、たとえば甲子園によく出る桐生第一高校、これは赤。それからこの辺に、「近郊農業」があります。それは教科書からですのでピンクという色分けです。そして、たとえば「桐生第一高校」。「ああ私も」と思うとそれを○で囲んでいきます。そうするとみんなが共通に持っているイメージは、丸が何重にもなって大きくなっていくわけです。 すごく失礼な話ですが、もう何も書き込むことがなくなったときに、「群馬ってどこ」とある学生が書きました。するとみんなでぐるぐる何重にも丸で囲んでしまいました。それから「何もないイメージ」というのもぐるぐる丸がつきまして、「桐生第一高校」にはちょっと赤で丸がついています。言っちゃ悪いんですけど、このあたりに住む私たちには、群馬に関してこのくらいの貧弱なイメージマップしか描くことができません。 ちなみに、こちらは群馬の学生が群馬に対して書いたイメージです。貧弱な知識を謝りたくなるぐらい、当然向こうにも、自分たちの誇りに思っているもの、感じているものがあるわけです。私たちから見ると、実は「車保有台数1人当たり1」とか「交通事故2」とか、へえー、あれ、名古屋と似てるじゃん、というふうに思うわけです。ニュースが東京で編集されるかぎり、私たちにはそういう話題はほとんど伝わってきません。 みなさんはどうですか? 群馬についてここで書かれていることのどれぐらいが分かりますか。非常に少ないんじゃないでしょうか。これそうだよね、と言える人はすごく少なくて、私も何度見てもよく知らないうどんの名前とか、グリーンドームとか、伊勢崎ネットとか、伊勢崎オートとか、なんで群馬というと「ギャンブル」なんだろうとか、そういうできごとにあふれています。東京から来るマスメディアの娯楽情報に比べると、私たちは、不均衡な情報交流のもとにおかれているということが目に見えてわかります。 ちなみにこれは群馬の学生が名古屋について書いたイメージです。面白いことに、名古屋についてのイメージは、群馬からも新潟からも北海道からも大体同じようなものが出てきます。それから学年が違っても、実施年が違ってもほぼ同じものが何度も出ますので、なんとなく私たち日本人が共通して持っている地域イメージというのは共通しているんだな、ということがわかります。大体において「ドラゴンズ」、「トヨタ」、「結婚式が派手」というのがあって、「愛知万博」が時事問題あたりのところにあって、それから「名古屋城」、「金のしゃちほこ」というのは必ず出てきます。「クワガタっぽい」って何のことかなと思ったんですけど、どうやら知多・渥美半島が2つクワガタのはさみに見えるんですね。あと、私も知らない小野浦海水浴場というのがなぜか、教科書を示すピンク色で書いてあったりするのがよく分からないんですけども、こういうふうに書かれるとまあ確かに「これ名古屋だけど、でも名古屋なの?」というふうに、学生たちは感じるわけです。 このイメージマップの作成、あるいは交換をしていくうちに、自分たちの地域って他の人にはこう見られているんだ、ということに気づいていきます。そして、マスメディアと教科書というのがものすごくイメージ形成に役立っていることが分かります。と同時に、彼らはよく言うんです。「教科書でもっと習ったはずだ」「だけど教科書のイメージがない、なんでだろう」「やっぱり文字だからかなあ」「映像でガーンとくるテレビのイメージは私たちに大きな影響を与えているよね」なんていう会話が生まれます。あるいは、北海道と札幌、だとかいうところはいいけれど、群馬なんていうと、「ええ県庁所在地はどこだっけ、高崎? 栃木?」とか言っている訳で、都市がないところというのはなかなかイメージが作られにくいということにも気づきます。 また、面白いのは、この自分たちのイメージマップと相手地域のイメージマップとの落差が非常に大きいと、次のビデオ制作の段階で燃えるんです。やっぱり、私たちが作った群馬のイメージマップみたいなまっさらなのがくると、「いや、違う。こんなこともある、あんなこともある」というふうに、「もっと言いたい」という気持ちになるんですね。人間、元々住んでいるところって、いやだいやだと思っていてもやっぱりどこかで好きだったり、どこかでこんなことを自慢したいとか、もっとよくしていきたいと思っているところがあるんじゃないかと私は思っていますけれど、そういうものが吹き出すように出てくるんです。 ○ ビデオ制作の面白さ・醍醐味 イメージマップの作成・交換の次の段階として、各地域でビデオ・クイズの制作に取り組みます。「世界ふしぎ発見」という番組がありますが、あれに近いような感じで、自分の地域で見せたいものをクイズ形式の映像にするわけです。このプロジェクトでビデオ制作が面白いのは、相手を想定できる、つまり、見てくれる人が確実にいるということです。たとえば今流行のブログにしても、インターネットではどういう人がどういうことを考えて自分のものを見ているかというところまでは、なかなか想像がつきません。だけど、具体的に相手がいる、例えば新潟の人に見せるとなると、「新潟の人にはここまでは分かるけど、これは分からないかな」などと考えます。常に「自分たちってなんだろう。自分たちのアイデンティティって何なんだろう。地方の、地域のアイデンティティって何だろう」ということを考えながら製作せざるを得ないわけです。 同時に、そうは言っても外からどう見えているかということを考えるためには、たとえば「派手な結婚式」というステレオタイプなど、やっぱりマスメディアから得るイメージというものが大きな意味を持ってしまい、そこにジレンマを感じます。同時にビデオで映像を作っていくことで、つまりフレームで自分の見慣れた風景を撮っていくことで、よりきれいなもの、よりインパクトのある地元の話題を探したり、あるいはより説明的にストーリーをつくりあげていくということで、隠れた、私たちも普段意識しないようなストーリーが発見されていくという醍醐味もあります。 これらビデオクイズの交換やその後の交流に関してはまだまだ課題が多いところです。と同時に、やはり、こうした交流をこの先どう続けていくのか、あるいは広げてゆくのかということは、今後、広い視野から考えていくべき問題であると思っています。 ○ 民放連プロジェクト 次はその課題に近い部分なんですけども、ある課題を先取りしてやっているものの中に、地域の学校とテレビ局を結ぶことを目的にした「民放連メディアリテラシー・プロジェクト(民放連プロジェクト)」があります。(社)日本民間放送連盟や東京大学大学院情報学環メルプロジェクトなどがシステマティックに関わっているプロジェクトで、1年目には名古屋と長野で、2年目には福岡と仙台も参加して、各地域でそれぞれ実践をおこないました。「民放連プロジェクト」のキーコンセプトは、放送の送り手と受け手が「学びあう」点にあります。学校も放送局も、良くも悪くも組織の壁がものすごくしっかりしているところですが、その壁のなかでかたく閉じてしまって、自分たちの立場でしかものが考えられないといった送り手、受け手の状態から一歩進み出て、よりよい放送、より私たちが理解できる放送というものについて模索していこうというのが目標です。 モニター制度などで視聴者がテレビの感想を言い合ったりすることもありますが、実はこれはなかなかうまくいきません。専門用語がわからない、業界の仕組みや目標が異なっているなど、立場が違う人間が対等に話をするというのは難しいことなのです。そこで、「民放連プロジェクト」では大胆にも番組制作を一緒にやってしまって、お互いの疑問をぶつけあうことで理解しあおうと展開させました。 名古屋では東海テレビと私立の春日丘高校が組んだのですけれども、送り手と受け手が一緒に番組制作をしてみることで、送り手側は、普段自分たちが当たり前にやっている仕事について「このやりかたで本当にいいのだろうか」と考えたり、あるいは同じ仕事をしているときでも、たとえばカメラマンと記者は自分の仕事だけをしていて、お互いについては何をしているのか意外と無意識で、「記者のやつらはいつもああだ」とか、「カメラマンはいつもああいう撮り方をする」という愚痴をひそかに思っていたりするわけです。それが今回、こういう学校という場で説明責任を求められると、送り手の人たちも自分たちの仕事をもっと客観的かつ冷静に眺めて、「ああカメラさんがこういうふうにやっていたのは、実はこうだったからなんだ」というふうに、生徒を通じてまた自分たちに帰ってくるみたいなことに気がついたりします。生徒のほうは、テレビというのが非常に複雑なシステムを持って作られてくるものだということと同時に、やっぱり送り手の側にそれなりの「意図」があり、それに基づいて「編集」という手段があるんだなということを、ある意味情報公開されるわけです。 名古屋のプロジェクトに参加した編集担当の方なんかは、学生とすっかりお友達になってしまって、自分がこれぞと思った番組を編集したときには必ずメールをして、「見てね」というふうに言ってくるんだそうです。私のところにも、のちに大賞をとった「とうちゃんはエジソン」という番組をぜひ見てほしいとメールが届きました。それだけでも、送り手の人は視聴者を具体的に意識したり、ものすごく学んだり変わったりできるんだということが言えるんではないかと思っています。こういうささいだけれど、大切なことが、テレビと視聴者の関係を変えていくのではないかとも思います。 ○ 住民が表現する「場」の形成に向けて こういう試みに関して、日本の中で三重県はトップレベルにある地域だと思います。三重テレビ、それから各ケーブルテレビ局は、もっと市民の人たちに何か放送番組を作って欲しいと、あるいは学生さんにもっと自分たちのメディアを利用して欲しいと思ってくださっていて、彼らはどんどん使ってもいい、ということをよく聞きます。ケーブルテレビ局、地上波テレビ局の理解も高まっていますし、とくにここ三重県の場合はe−デモとかいろいろあるわけで、場のほうが先行して整ってきているんだと思います。 日本全国で見ても、たとえば民放連の調査では、「子どもとメディア関連の番組、メディアリテラシーみたいな番組について積極的に進めていきたい」とか、「条件が合えば実施していきたい」というところは90%以上あります。それから私が行った東海3県のケーブルテレビ調査でも、たとえば「住民が制作した映像を番組の中で使用することについて」は、74%が考えていきたいと述べていますし、「今後、地域住民と番組を共に企画、制作していきたい」ということに関しては、積極的に推進したいというのが52%、条件があえば推進していきたいというのが15%に上っています。特に、三重県の各局はこういうことに関して理解が深いという印象があります。 ところが、どこでも聞く話が、せっかくの機会なのに使ってくれる人や表現してくれる人がごく限られている、ということです。先ほどの水越先生のお話と絡めて、どこに問題があるのか考えていくと、メディア・ビオトープに棲むスキル??つまりはメディアを使っていくテクニックだとか、あるいはこのビオトープをつくっていかなきゃいけないんだという使命感とか、そういうものが足りないんだろうと思うんです。言い換えれば、メディアについて考える視線や、メディアリテラシーの必要性みたいなものに関する理解というのがまだまだ足りないのではないかなと思います。東京から集中的に流される雑多な消費情報の波のなかに漂っている状況が、私たちにはあまりにも普通なんでしょうね。 メディア・ビオトープ作りは、個人が自分の力だけでやるのはとっても大変です。だから学校で始まっている「総合的な学習の時間」であるとか、大学教育、社会教育だとか、あるいはカメラサークルなどの趣味サークルや地元企業、マスメディアなどと連携していく必要があると思います。また、ストレス過多な世の中ですから難しいことばかり考えて生きていくというのも本当に疲れる話です。「遊び心」や「コミュニケーション」みたいなものを初めは大事にしていくことがとても大切なんじゃないかと思っています。 最後に、「住民のみなさんが地域からの発信をする」というのは、表現する住民にとってどういう効果があるかというということについて、少しだけお話ししておこうと思います。それは、カメラの視点を持てるということです。カメラの視点とは何かというと、それは「人に伝える」視点です。自分が何気なく意識せずに毎日を暮らしているのではなくて、カメラを持つことで、人にどう伝え、人とどうコミュニケーションしていこうかと考える視点が新たに加わる。そして同時に、その地域コミュニティへの関心というのがとても高まると思います。なぜなら、住民自身がもう当たり前のように暮らしているその地域の特徴を改めて模索したり、改めて発信していくということは、「その地域やコミュニティが、どういう未来へ進もうとしているのか考えること」とすごく密接に関わってくる話なんじゃないかと思うからです。さらに、都市や東京、海外ばかりに興味や憧れを抱くのでなく、足元の地域について考えたり、地域住民としてのアイデンティティを持ったりすることは、地域で活動するメディアや行政や企業にとっても、利益に結びついてゆく話なのではないかなというふうに様々な例からも感じています。 ○ メディア・ビオトープづくりに向けて いろいろ言いましたけども、実践って本当に大変です。でも、場所を開放してメディア・ビオトープみたいなものを作ってくださいと、大きな広い場所が開放されただけでは何も始まらない。これは自信を持って言えます。参加をしたくなってくる、そこに住みたくなる、そこを使いたくなるような「仕掛け」というものがどうしても必要だろうと思います。 それと最後にもうひとつ、地域の中だけで物事を考えていてもうまくいきません。地域の「外」に住む人に何か発信するという気持ちを持つこと、あるいは地域の外の人に発信する回路ができると、さきほどお話しした「カメラの視点」で地域を見ることで、コミュニティが非常に変わっていくことも感じます。 そして、いわゆる送り手といわれるメディアのプロだけではなくて、より多くの人がその関わりに参加することで、新たなアイディアが生まれ、そして継続性が生まれていく、より生き延びていくというふうに思います。限られた送り手の人の中だけで考えているとネタは枯渇していきますので、たくさんの人が、それこそ、トンボやチョウチョがふと池に遊びに来るような、いろんな人が入ってくるようなそういう場にしていくということがやっぱり大切なんじゃないかなというふうに、私は思っています。 時間を少しオーバーしてしまいましたが、どうもありがとうございました。私の発表は以上とさせていただきます。 戻る |