(2006年10月)
2006年に入り、再びいじめ問題が大きな社会問題となっている。
2006年10月1日、前年に発生した北海道滝川市立江部乙小学校での小6女児いじめ自殺事件で、学校や滝川市教委が遺書の存在を知りながら隠す対応をしたことが判明し、大きな社会問題となった。
その直後の2006年10月11日、福岡県筑前町立三輪中学校で、中2男子生徒がいじめを苦に自殺した。三輪中学校事件では、教師がいじめに加担していたことや、学校や地域ぐるみでいじめを隠蔽しようとする工作がおこなわれていることなどが、社会的にも大きな批判を浴びた。
2006年10月23日には、岐阜県瑞浪市立中学校で、2年生女子生徒がいじめを苦にして自殺。学校は遺族との話し合いではいじめを認めていたが、10月29日に問題がマスコミ報道されると、学校側は「いじめは確認できていない」とトーンダウンする対応をとった。
このほかにも、愛媛県今治市での中学生いじめ自殺事件(2006年8月)、奈良県橿原市で中学生がいじめを受けた末に抑うつ症状を発症した事件(2006年10月発覚)など、いじめ事件の根は深いといわざるを得ない。
学校でのいじめ問題について、文部科学省や各都道府県教育委員会の統計では、1999年以来「いじめ自殺0」という数字になっている。
しかし、教育問題に関する新聞記事を追いかけてみただけでも、「いじめ自殺0」とされている期間でもいじめ自殺事件は多く発生している。統計上は「いじめ自殺0」となっている1999年〜2005年の6年間でのいじめ自殺事件は、当方の調査でも、少なくとも以下の9件が確認できた。
※下関市立川中中学校事件は、現場の状況から、いじめ加害者生徒による他殺・自殺偽装・現場で加害者が自殺を強要したなどの可能性もありえるという説も一部にあるが、公式にはいじめ自殺事件とされている。
もちろん、以上の9件の他にも、当方の調査漏れの事件がある可能性は十分に考えられる。
このようなおかしな統計となる背景として、教育行政の「数値主義」「成果主義」とでもいうべきものがあげられる。
いじめをなくしていくことは当然で、何の異論を差し挟む余地もない。しかし教育現場では「いじめをなくす」というのが数値化された目標として追求されるあまり、数字達成だけを追い求め、結果的に目の前のいじめに目を向けずに隠蔽して目標を実現したかのように見せかけるという傾向が全国的に出ているということである。
しかし本来ならば、現に目の前にあるいじめを発見し、早期の解決を図る取り組みをすすめる中で、結果的にいじめの減少・撲滅の目標が達成されるべきものである。数値を減らすことが先になるのではなく、目の前の問題を解決することを通じて結果的に数値目標も達成すべきである。数字に縛られるあまり、書類上の数字を減少させることばかりに目がいくことは、目の前で苦しんでいる子どもを放置している、もっといえば「いじめを知りながら放置することで学校ぐるみでいじめに加担している」ことだと言ってよく、本末転倒である。
前述の数値目標の背景もいじめ隠蔽の原因となり得るが、学校自身の人権感覚も問われなければならない。
福岡のいじめ自殺事件では、亡くなった生徒の1年生の時の担任で学年主任の教諭・田村伸一がいじめを煽るような暴言を繰り返していたことが明らかになっている。
「教師のいじめ」という衝撃的な内容に世論の批判は高まったが、実際問題としては「教師による児童・生徒いじめ」はこの事件特有のものではなく、過去にも多く発生している。
教師自身がいじめの加害者になるなど論外であり、その点からも教師自身がいじめに敏感になれるようなあらゆる手だてをとらなければならない。
いじめ加害者の開き直りの手法、加害者側のいじめもみ消しの手法についても、研究しておかなければならないだろう。
いじめ開き直りや、周囲のもみ消しの方法としては(「体罰」や、学校側の人為的ミスの疑いの強い学校事故などでも同様の傾向がみられるが)、おおよそ以下のパターンが共通してみられる。
いわば、いじめ問題での加害者の自己正当化やもみ消しの論理は「『被害者』はそれぐらいされても当然。自分たちの行為を問題視するのはけしからん。批判する奴はけしからん」という、とんでもない論理である。こういったいじめ自己正当化行為は、無反省で、しかも人間性に欠けると酷評しなければならないだろう。当然厳しく処断しなければならない。
学校側も自分の責任逃れのためにもみ消しをおこなうことは、結果的に加害者を利することになる。
こういういじめ事件が起こると 「被害にあった子が反撃するなりしていたら」という主張も聞くが、できるならとっくの昔にしているはずだし、反撃にしても「違法行為や社会的に問題のある行為」と見なされかねないから躊躇することを考えると、見当違いである。
また「大人の世界にもいじめがある」などと主張し出す人もいる。しかし問題は目の前のいじめで、「大人のいじめ」とは全く関係がない。持ち出すべきではないところで「大人のいじめ」を持ち出しても、目の前のいじめから目をそらすことにしかならない。
「大人のいじめ」について述べておくと、確かに職場や地域などでいじめや嫌がらせ・パワハラなどをしても平気という成人も一定数いることも事実である。しかしそういう「馬鹿な大人」を社会から減らすひとつの手段として、子ども時代に適切な教育をおこなってそういう成人にしない・させないためのあらゆる手段が求められる。