White 〜文彩の支配から論理の支配へ〜

2008-11-19

日本というのは徹底的な結果論でできており、様々な人工的技巧的操作を重ねた上で、これだけの社会を維持している。この辺りは請負制になっており、学術研究機関が知恵を振り絞ってバランスを考え、それをマニュアル化して国民に実行させている。そのようなバランスの上にこの社会が成り立っており、個々人が自然に生きることを犠牲にして、その重苦しい価値に隷従せねばならぬという意味での奴隷社会である。これが日本の内容であって、一般に流布されている言説は図式に過ぎない。現代の世界をみると奴隷制という国家はほとんどみられないのであるが、実は日本が奴隷社会だったのである。この国の見た目のよさはほとんど子供だましであり、これだけの産出を得るために醜悪の限りを尽くしたシステムが存在する。ここでは、最も素晴らしい作品の背後には最も醜悪なものがあると思ってよい。人々は、その作品や見た目に反比例して性格が醜悪であり、今にも爆発せんがごときものである。なんとなれば性格の醜悪性をエネルギーにして作品を作っているので、もし善良な性格をした人があれば何も作れずに落ちぶれるしかないであろう。およそ競争というものの勝者はもっとも悪い性格の結果なのである。であるからしてここでは性格の醜悪性はむしろ美点であり、およそ批判しうるものではない。

しかし日本にも一定割合で累々と死体が積み上げられる。敗者である。生きているのが辛いので、図式に乗っかって死ぬのである。しかし、死んでも許してもらえない。死者には死者の役割がある。それは生きている者を制御することだ。そのためのマニュアルが存在する。死という要素は生を生かすものであるからしてこのようになる。このようにして、生と死が連動して社会の活力を生む。このように、生も死も賢さも愚かさもあらゆる要素がともかく生産性という名の下に活用されている。そこでの正義は大きな意味での生産性であるからして、個々の物はその点から評価される。

いずれにしても異常なまでのストレス社会である。そもそも安定性や論理性というものは一切省みられない。それを捨て、極力濃縮して生産するように仕向けられる。無知な人々はこのシステムを礼賛するが、それは何も知らないからそういえるのであり、実は官僚による気まぐれな奴隷制で、特に大義は無かった。そもそもこの国は何もポリシーがなく、規範すらなく、ほとんど成り行き任せの国であり、現代はアメリカ頼みの事大主義で、一部のエリートがたんに生き残りのために選択した苦肉の策に過ぎない。完璧なのは常に図式のみであり、内容は醜悪の限りを尽くし、その日暮しで、明日どうなるかも分からず、戦争が起こればパニックになるしかないような、向こう見ずな社会だった。

このような社会であるから、裁判などはほとんど大岡裁きにならざるをえず、法律構成などはまさに図式でしかなかった。裁判官と呼ばれるものは、そういう明確な地位があるというより、お上の仲間の一部であり、気まぐれにどこでにも異動させられた。判決は感情的なもので、文書はただの権威付けであり、固有の意味はなかった。ここではともかく空気を読んでそれに適合するように仕事をすることがすべてであり、すべては味噌糞であり、筋道はなく、ご都合で、子供は希望をなくさないよう、巧妙に騙されていた。とにかく、もうただただ必死なだけで、何が善で何が悪かも、およそ分からなくなっていた。ましてや、個々人の自然性や個性などは、とうの昔に吹き飛んでいた。すさまじいまでの奴隷社会だった。

日本は何も成長しなかった。誰もがそれを嘆いている。何かしていたつもりだったが何も身についていなかった。ただ糞みたいな常識だけが、ぐちゃぐちゃになって残った。当たり前だろう。時間をかけて思考したり経験したりしていないのだから。日本の到達点は、結局、大岡裁きをかっこつけるだけの、最高裁判例のごときものに終わった。結局、何も成長しなかったのだ。やっていたことは、ただ必死に産出をしていただけのことだった。何がやりたかったか。文化の創出でも文明立国でもなかった。うまいものを食って楽しいことがしたいというだけだった。

文系ドグマは、日本ではそうはならない、そうはできない、と勝手に絶対化するが、そもそも人間の活動にできないということはないのであって、要は決断と実行の問題である。できない、とかいうやつの本音は、そのドグマの下で既得権益を保守しようと言うことでしかない。日本人論をうだうだ論じる以前に、やればいいではないか。要は経験の問題である。東京のような街を作っておいて、できないということもあるまい。

voidvoid 2008/11/29 21:17 そういるルールだからです。
「ぬーやる」バーガーはしっていますか?