2008-11-18
人は自分のことしか考えない、というのは普遍的事実か。
そうではない。西洋では、人は自分のことしか考えない、という傾向への反省から、国民自身が色々な制度を考え、維持してきた。そこでは、人は自分のことしか考えない、ということは普遍的事実といいうるほどの確実性はなく、私利私欲以上の活動に取り組む人はたくさんいて、それが西洋文化を作り上げてきた。その苦労の成果が、西洋言語にきちんと現れている。フランス語やドイツ語をみれば分かるように、本質的かつ論理的で、いい加減な表現を許さないようになっている。西洋の裁判や法も、実在のものであり、かつ、練磨されていて、安易に人の支配にならないように工夫されている。ところが、日本の場合、人は自分のことしか考えない、ということがほとんど普遍事実化している。憲法や法律や最高裁の判例に見るように、日本語は何の型もなく、その個人が都合のいい結論を出してそれを修飾するという形態になっているため、要はその判断を出せる人の仲間に入るかどうかが全てと成っている。すなわち、ここでは、人は自分のことしか考えていないという命題が普遍化している上に、その結論を西洋風の言葉で飾って権威付けするという最悪な慣習さえある。学校で習うような知は何も身体化されておらず、ハリボテで、大人になってからは、それを使って脚色した文章を書くことに明け暮れる。悲惨な国である。この国にはその悲惨さを補うために、協和や愛があるというが、どこにそんなものがあるのかを疑う。そこで実際に繰り広げられているのは、ひたすら自分のための活動であり、あるのは愛や協和ではなく、見た目だけでの愛想や世間体である。要するにここは、一種の奴隷制国家であって、経済的生産性を最大化するために、ほとんど最悪にも等しい劇が展開されている。この国を素晴らしいと思うとしたら、それは空目をしているのであり、事実を分析すると醜悪以外のなにものでもないことが分かる。この国の老人が本質的に陰険であるのもうなづけるというものである。