2008-11-05
戯言
民法には事務管理といって、他人の世話をしてやることに関する条文があるが、これは相互扶助の理想から出ているという。しかし、個人主義をとりつつなぜ相互扶助なのか。根底において完全に撞着している。基本的に個人主義で、相互扶助の理想も入れるというのは、ただの無原則である。何か一貫性があると思っているのだろうか。何も言っていないのと同じではないか。効用最大化がしたいのかもしれないが、まったく理論になっておらず、実際は政治的妥協である。
戯言
著作権というのもよく分からない権利だ。著作物には著作者の権利があるといいつつ、出展を明記してあれば引用をしてよいなどと書いてある。これは撞着だろう。つまり著作権などというものはないのであって、実態は、著作物について著作者の一定の経済的利益を保護しつつ、一定限度で当該著作物を社会的な用に供させるという政策的な配慮に出たものである。著作権と呼べないものを著作権と呼んでいるので違憲だ。
戯言
内発的な発展が全くできないこの情けなさ。
戯言
のようにみえる。
戯言
と見たい。
社会の窓
民法676条1項は、組合員の組合財産の第三者への処分を組合及びその債権者に対抗できないとするが、組合員の第三者への処分自体は、契約として有効にも関わらず、組合等との関係でその有効性を貫徹できないというのは、論理破綻であり、この破綻を塗りつぶすため、対抗という手続法の概念で誤魔化している。民法676条1項は組合財産の維持が趣旨なのだが、なぜ組合財産維持の前に有効な契約が論理的に無効とされるのか。そこには結局組合員の契約よりも組合財産維持を優先するという価値観があり、判例はそれを「公平」で誤魔化してるのだが、全く強弁としか思われない。公平の使われ方も色々あり、たとえば、最判平成5年3月30日がいう「国税滞納処分の差し押さえの通知と債権譲渡通知の前後が不明のときは、公平の原則に照らし、債権額に応じて案分比例した額を分割取得する」における「公平」の論理は普遍的なのだが、取引の安全や組合財産維持を優先するときの「公平」は全くの詭弁であり、矛盾をまとめあげるための嘘に過ぎない。
ひとつは、議員の質を変えること。二世三世だらけの議員ではダメだ。
民主党になったって、社会は変わらない。議員を代えなければダメだ。
そのためには若い議員、自分の意見で議員になりたく名なろうとしている奴を選ぼう。
そして、公務員制度。こっちも二世や三世ばかりだ。これをどうにかする必要があるよな。
後のことは、ゆっくり相談しよう。
だから、まずは選挙に行こうな。