White 〜文彩の支配から論理の支配へ〜

2008-11-23

日本の現実の世界(部屋)とは、いわば政府の下に構成された人間の体系であり、決定論に支配されていて、自分の持ち場で働くしかないようになっている。上に反抗できるといっても、せいぜいマスコミレトリックを使った記事で喧嘩を売る程度のことで、政治力による実質的価値判断が先行しているので、秩序が乱れるということはほとんど起こらない。また、日本の現実の世界は、この世でもっとも醜悪なもののるつぼであり、悪意、嫉妬、欲望、自殺、殺人、金銭といったものがぐちゃぐちゃになって糞のように存在している。子どもは別の部屋でこの現実とはまったく違った嘘を教わっているわけで、社会全体としてはまったく別の計画的な論理に支配されているのだが、とても公正とは言えない。なぜなら、それらの部屋の間には何も論理的な整合性がないからであり、整合性がないものが公正であるわけがないからである。この日本の仕組みを公正だと思っているとしたら、それは自分を欺いているのである。

クワイエットルームというのは、私にとっては天国みたいなものである。ここは真っ白で、ここだけは教科書の論理が実現されている。多くの日本人は、最高裁判例が示すように、醜悪な性格なので、ここに閉じ込められているのが苦痛なのだろうが、私にはとても心地よい。しかし、私はこれでは満足しない。なぜなら、この白さが実現しているのはせいぜいこの部屋だけだからである。学校の部屋、大学の部屋、会社の部屋、政治の部屋、司法の部屋でもそれが実現されていなければならない。こんな子供だましでは満足しない。

私は、5年ほど前からブログを継続しており、知っている人は知っていると思うが、当時はまだピュアな精神を維持していた。これが狂ってきたのは法学部に進学してからであり、おそらく意図的にそうなっているのだろうが、専門学部というのは、現実を見せるという意味合いも有していると思われ、とりわけ法学部というところは現実のるつぼであるので、ここで勉強しているうちにずいぶん汚れてしまった。その後も現実を観察していると、いかにウンコであるかを思い知らされ、段々と正しい精神が狂ってきた。現実がウンコであるという認識は主観ではなく、現実を集約している最高裁判例をみればそれが分かるはずである。要するに、法学部最高裁判例を食わされることで、汚れてしまったわけであり、そのせいでずいぶん狂おしいことも書いてきたようだが、私の核心部分は15歳から20歳くらいの濃密な時期における純粋な学術活動により形成されたピュアなものであり、法学部以降の汚れた精神は、おまけみたいなものである。最近は、ピュアな精神を取り戻しつつあるようで、無駄をしたようにも思われるが、現実社会の成り立ちを把握できたという意味では、結果的には仕方がなかったと思うのだが、いずれにせよ、最近書いていることが私の精神の核であり、これは死ぬまで変わらないだろう。

297 :氏名黙秘:2008/11/22(土) 23:35:36 ID:???

また一方で真相が書かれてるからこそ自然に風化させたい気持ちっつーのがお前に解るかい?

だからこそ静かにひっそりと幕を閉じてえって気持ちがあんだよ

小中学校の社会科の教科書や高校の政治経済の教科書には、日本は法治国家であるとか民主主義であると書いてある。また、大学の教養科目などでも、そのように習う。しかし実際には、独裁者がいて、彼らが法治国家の膜を張って支配している。こちらの方がいわば真実の法であって、教育で教わっているのは、虚構である。この点に、文部科学省の深い罪がある。何年もかけて、子どもに嘘を教えてきたわけで、国民は、正しい事実や真理を探求するという権利を侵害されてきたのである。これで怒らない方が、知的にどうかしているであろう。そもそも、社会だけでなく、歴史教材や数学教育も悲惨なものである。歴史教科書は、修正主義に立ち、一定の視点から叙述したものであり、子どもたちが暗記をしているいわゆる太字の語句は、現代世界の実態を知る上でほとんどどうでもよいことであり、たいへん無駄な作業を何年も強いられている。また、数学なども、事務処理的な問題演習に追いたて、数学の原理や成り立ちは意図的に教えないようにしている。要するに人生の貴重な時間を、自然に真実を探求することではなく、荒唐無稽な事務作業に費やさせてきたわけである。これらのカリキュラムは、図式的形式的には詐欺ではないと言い訳ができるようになっているが、実質的には子どもを騙す詐欺の論理で構築されており、それは一つ一つ論理破綻を検証すれば明らかになることである。いずれにしろ、文部科学省は、東大や世間の大人と共謀し、最終的な奴隷社会へと誘導するために、詐欺の結論先にありきで、表面的に嘘で粉飾した、自然で素直ではない教育カリキュラムを組み、子どもの無知、無思慮、窮迫に乗じて、極めて巧妙な積極的術策で子どもを錯誤に陥らせ、その上で大人の都合のいいようにコントロールしてきたわけであり、全体的に醜悪で悪質な巨大詐欺プログラムである。このような行為の首謀者である文部科学省局長や東大教授は殺害されるべきである。

私も受験においてきちんとまじめに教材を勉強し、大変素晴らしい知識体系を頭に入れてきたのだが、大学入学後、いわば部屋が変わると、現実はまったく教科書どおりにはなっておらず、別の糞みたいな醜悪な論理で動いていた。特にネットの2ちゃんねるなどは悪質なもので、学校で習うあらゆるものを破壊するような性質のものである。いったいこの国はなんだろうか。教育で一応素晴らしい知識を教えておきながら、社会にはその論理がなく、学校のリアリティを一気に叩き壊すのであれば、別の論理があるということであり、何も正義はないではないか。実態をいうならば、要するに学校にいる間は、学者が書いた教科書で虚構を見せておき、子どもが社会に理想を持つように仕向け、大学でも同様にしておいて学生が実態を知って暴動を起こさないように呪縛しておき、社会に出してから現実を知らせていくというペテンの論理なのである。これほど子どもや若者の人権を侵害する醜悪な詐術もなかろう。日本の大人は総出でこのような悪質な詐欺行為を行っているのである。彼らは、その虚構をまじめに信じた者にどう言い訳するつもりだろうか。ロマンチックな嘘をみせておいて、大人が安心して働けるような社会さえ実現しえれば、それでいいのだろうか。id:kouteikaなどは、「一体どんな社会だと思ったんですか(笑)」などと嘲笑する醜悪で老獪な人間であるし、ネットを見ても、最近ではほとんど腐り果てたような日本人しか見当たらない。また、最近では公務員さえも腐敗していると聞く。まったくこの国は、やっていることに何も責任を取るつもりがない。どこまで腐り果てているのだろうか。

思想の一貫性

ちなみに、ある人間の思想の一貫性みたいなものを、何度も何度も叩き潰し、最終的には糞みたいなものにしてしまうことは、重大犯罪である。この点、日本政府は、自然にそうなるようにプログラミングしている。既述のように、学校の教科書の論理は社会にはないし、高校以前と大学でもまったく連続性がない。そして最終の社会は、それまでのピュアな世界とは打って変わった暗黒の糞みたいな世界であり、多くの人は人生を通じて思想の一貫性を維持することができない。何度も何度も思想改変を迫られ、最後は自分が誰であるか分からないほどぐちゃぐちゃにされてしまい、自殺する人も多い。そもそも、政治経済の教科書で、自由だとか人権だとか素晴らしいことを教えておき、社会にそれがないというのは、すでにどうしようもない詐欺であろう。今考えてみると、教科書の論理は、学者が研究室で書き上げた真空の論理であり、学校の集団生活の論理は、文部科学省の狡猾な官僚が知恵を振り絞って考えた政策である。そこには、客観的な論理としては、やはり子どもを騙すという目的しかなく、その表面的図式的なことは、飾りに過ぎない。

朝日社説

http://www.asahi.com/paper/editorial.html

次官らがかかわっていた厚生労働省の仕事に何らかのうらみがあったのか。それとも、まったく別の動機なのだろうか。

男はいったい何を考え、元次官らとどこでかかわりがあったのか。知りたいこと、そして知らなければならないことはいくらでもある。

いずれにせよ裁判が終わるまで無罪が推定される。そのことを踏まえたうえで、改めてこの事件の犯人に言わねばならない。

ここに嘘がある。厚生事務次官がなぜ襲われるか、朝日の記者なら明らかに分かるだろう。なのにこうやってここだけすっとぼけるというのが、すでにレトリックであり、みていられない。

 何に不満を持っていたのか、怒っていたのか。動機がどうあれ、人を殺傷したことは間違っている。民主主義の社会の中で許されることではない。その罪は負わねばならない。

ここにも明白な嘘がある。民主主義ではない。民主主義風味の官僚支配である。また、年金流用を暗に許しつつ、人を殺傷してはいけない、などと、論理が破綻している。また、民主主義という理由付けも嘘である。民主主義ということと、殺人罪は何もつながらないではないか。ここもレトリック

 9年前に退任した山口剛彦さん(66)が妻とともに命を奪われ、次いで社会保険庁長官も歴任した吉原健二さん(76)方で、宅配便を装った男に妻が胸などを刺された。無抵抗な人たちにいきなり刃物を向けるとは残忍きわまりない。

事務次官といえば、北朝鮮で言えば将軍様の格なのに、「さん」付けとか、「無抵抗な人たち」などというのに、反吐が出る。レトリックもいい加減にしろといいたい。

多くの大人は、たとえ詐欺教育だったとしても、結果論的な産出があったからよしとしよう、と思っているのかも知れないが、途中経過でさんざん人権を奪われておいて、終わりよければすべてよし、というのでは、結局、終わりよければ、という日本独特の実利主義を人権に優先させただけの話であり、あまりにもだらしがない。それで納得してしまうのでは、詐欺にひっかかったのと同じではないか。