ねこねこブログ

ねこねこと申します。ねこ大好き(*^^*)アニメ、マンガ、ゲーム、本とかも大好きです。楽しいことたくさん書いていきたいと思います。今、うつ病で無職で生活が非常に貧困困窮しておりまして、買い物してくださるととても感謝します。メールについてはこちらをご覧下さい。リンクフリーです。

官僚殺人事件、不可解すぎて単独犯とはどうしても思えず、警察の真相解明を心から望みます。

日本の黒い霧〈上〉 (文春文庫)
日本の黒い霧〈下〉 (文春文庫)

ZAKZAK「こちらは目利き? 隣人に贈った裏AVの衝撃の内容」
http://www.zakzak.co.jp/top/200811/t2008112510_all.html
小泉毅容疑者が警視庁に出頭する直前、ほとんど面識のないアパート階下の住人に、突然手渡していたアダルトDVD5枚のうち、少なくとも3枚は無修正裏DVDの可能性が高いことが分かった。(中略)小泉容疑者が手渡した3枚は「麻美ゆま 出会って4秒で合体」(アリスJAPAN、120分)、「桜月舞 ふしだらの虜」(レッドホットアイドル、120分)、「瀬名あゆむ 郵便局に大乱入」(無限Entertainment、90分)。いずれもネット上に多数存在する「裏DVD販売サイト」に逆輸入版として流通。2000円前後で販売されている。

容疑者の姓名が小泉で小泉純一郎内閣で任命した事務次官を殺害し、犯人のメッセージ(警察に出頭する直前、ほとんど面識のない人に渡す品物ですから、報道されることを前提の何らかのメッセージと通常考えられます)が「郵便局に大乱入」とか分かりやすいメッセージの可能性が高く(後の二枚は余り意味が感じられませんが、あえて推測すれば「四秒で」というのがすぐに殺すの意味、「ふしだら〜」というのはスキャンダルを握っているという意味のメッセージと考えることもできると思います)、どう考えても、単独犯ではなく黒幕がいて、メッセージがアダルトDVDのタイトルというのが国民を馬鹿にしておちょくっているのと、犯行の本筋としては白色テロルであり政財官の暗部に対する政財官の暗部からの口封じとしての何らかのメッセージである可能性が高いとしか僕には思えません。

今回の事件、重大な殺人事件であるにも関わらず犯人側(おそらくは実行犯ではなく黒幕側)が非常にふざけていると考えられる事件です。腹痛と咳が酷く非常に心身の調子が悪いのですが、殺人行為をおちょくっている犯人側と、ここまで不可解なことが沢山なのに、不可解さ(容疑者が犯行現場下見時に別の車で下見しており、共犯と思われる別の人物が目撃されている点、無職の容疑者の十年に渡る生活費用等の捻出先の謎など多くの不可解さ)を無視して、狂気の単独犯の犯行に仕立て上げようとするマスメディアや先に書きましたネットの保守勢力(日本で最も政治力を持つブログの一つである保守ブログの「極東ブログ」などが狂気の単独犯説を唱え、既に極東ブログに影響されたブログが保守系にいくつか出てきています)に心身の苦痛を超える酷い絶望感を覚えます。このままマスメディアや極東ブログの思惑通り今回の事件を闇へと葬り去るのではなく、事件の真相の全貌を解明する警察の今後の徹底的な捜査を望みます。

一つ参考になることとして、保守論壇と関係を持つ極東ブログの運営者finalvent氏は、自らのブログにおいて自分は政治的勢力とは関係のない庶民であると名乗っていますが、とてもそうとは思えません。なぜなら、この運営者finalvent氏は、2008年9月21日に42インチのハイビジョンプラズマテレビをポンと買って堪能しているとブログで書いているからです。Panasonic VIERA 42V型地上・BS・110度CSデジタルフルハイビジョンプラズマテレビ TH-42PZ800を買ったと書いています。以下の商品です。(amazonリンクです)
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僕はこのことを知ったとき、極東ブログの運営者finalvent氏が自分のことを庶民というのはかなり不可解だなと考えました。なぜなら、この極東ブログの運営finalvent氏は以前は沖縄に住んでいたが、その後は東京に住んでいるとやはりかなり以前ブログで述べているからです。東京都23区の住宅事情から考えて、東京都23区では居住スペースを広く持つ富裕層しかこのような巨大TVは買おうと思わない可能性が極めて高いからです。このような巨大TV(プラズマ42インチ)を置くには、それが置けて、なおかつそこから距離を取ってみられる大きな部屋が必要です。以前、オタク関係や哲学関係の本などを執筆されている東京住まいのライターの本田透さんが「プラズマTVデカイの買ったよ、やったー!!」みたいな率直な嬉しさが伝わる好エントリをサイトで書いておられましたが、その後、「TVが重くて大きすぎてアパートの部屋の床が沈む上にTVが大きすぎて距離が近すぎて眼がおかしくなるので売りましたしょぼん」みたいなエントリを書いていて、本田透さんの誠実な率直さを心から感じて更なる好感を覚えました。

僕も東京住まいで僕の部屋は五畳半ですが、本棚(本売ってしまったのでガラガラです)と布団と猫の寝床とえさ置き場水置き場と19インチのブラウン管TVと17インチのPCモニタとDELLのコンパクトPCと日用品(服など)や猫の玩具が少し置いてあるだけでもう目一杯です。とても、42インチなんて巨大TVはとても置けません。そんなことしたらTVから距離が取れないので目がおかしくなってしまいます。本田透さんのお部屋がどのくらいの大きさかは分かりませんが、大きなプラズマTVを居住スペースの問題でおけないというのは、東京の住宅事情からして、とても理解できることでしたので、僕は本田透さんの率直さにとても好感を覚えました。解像度が高いから小さい部屋でも大丈夫とTVの販売員はいいますが、それでも限度があります。僕は以前、銀行のロビーで42インチの大型プラズマTVを実際に見たことがあり、巨大なTVはある程度距離をとる必要がどうしてもあり(視野角の問題)とても自分の部屋には置けないと思いました。

42インチのプラズマTVを買うこと自体(20万円を払うこと)はfinalvent氏のいわゆるところの『普通の庶民』でも必死で貯蓄して頑張れば可能かも知れませんが、それを置いてゆっくり鑑賞するには、10畳〜15畳ぐらいのスペースが最低限必要なのではないでしょうか。それだけのスペースを持って東京でTVを見るということで東京の住宅事情においてかなりの居住スペースを確保している人物(finalvent氏)が、普通の庶民を名乗るのは無理があると僕は思いました。勿論、この推測は絶対ではありません。finalvent氏が東京都23区外の地価の安い土地に住んでいる可能性もあります。けれど、先の推測から、finalvent氏はかなりの富裕層(東京で広い居住スペースが持てる環境で暮らせる富裕層)の可能性があり、また保守論壇紙などに登場し、そして今回の事件においてすぐ、保守マスメディアと歩調を合わせる形で火消しのように狂気の単独犯説をすぐに唱えたことで、ネットでその影響を確実に与えていることから、僕は、少なくとも極東ブログのfinalvent氏が『政治的勢力とは関係のない庶民である』というのはかなりの確率で違うのではないかと思います。

僕の尊敬する佐藤優氏(ノンキャリアの優秀な親露派外交官。キャリアの罠に嵌められて投獄されました)は、インテリジェンスとインフォメーションは違う。インテリジェンスとは、目の前に広がる情報の数々を、それらがいかに単体一つ一つが権威や権力を持とうが、そういった権威権力のドグマによって情報を受け入れるのではなく、情報をフラットに自らの中で解体・再構築しながら論理的に検討し全体像を形成することであると述べていましたが、僕は、それを、うつ病で頭が鈍っているので、どれだけやれるかわかりませんが、頑張って考えて、今回の事件で単独犯(今回出頭した実行犯一人の犯罪)の可能性は犯人出頭でますます薄まったと思います。

なぜなら、それまでは年金テロと勝手に決め付けていたマスメディアが、犯人出頭と同時にまたすぐに手のひらを返し、マスメディア及びネットの最も強力な保守論壇(極東ブログ)などで「狂気の単独犯行説」を強く主張し始めたからです。しかし、今回の事件には余りにも不可解な沢山の点が多すぎます。それをおろそかにしたまま、マスメディアやネット保守論壇が火消しを行っている様相は極めて疑わしいです。寧ろ、これこそが、僕に、この事件には裏があると強く感じさせるものです。

このまま、狂気の単独犯説であらゆる不可解な点が不明のまま葬られたら、それは官僚機構の腐敗を暴こうとして暗殺され、事件の真相が闇に葬られた石井紘基国会議員殺人事件(石井紘基議員は僕が心から尊敬する政治家です。親露派であるところ、僕と同じで共感を覚えます。僕自身も、凶刃に倒れてでも、誠実でありたいと思っています)や、政財界の暗部に関わり殺害された可能性が高いライブドア最高幹部野口英昭氏変死事件(この人も口封じで消された可能性が高く他殺の疑いが高いにも関わらずなぜか自殺で処理され、ライブドアと政財界の暗部が明かされなかったこと非常に残念に思います)と同じ轍はどうか繰り返さないで欲しいです。

下山事件(僕はキャノン機関の犯行と考えています。下山総裁はGHQの命じたリストラチャネリングに反対していたと見られ、キャノン機関の犯行と考えるのが動機的に整合性がつきます。手塚治虫の傑作漫画「奇子」が、僕と同じ考えで下山総裁殺人事件を推理した漫画で、松本清張著「黒い霧」と併せて一読お勧め致します)から連綿と続く「疑惑→関係者暗殺→真相は闇の中」の繰り返し、日本にはあまりにも政財官の暗部、黒い霧が大きすぎて、関係者がすぐに暗殺され疑惑は決して開かされることのない国、非常に情けなくも恐ろしい国だと思います。政財官の何らかの暗部が明らかになりそうになるたびに、関係者が暗殺されたり謎の変死を遂げて、今回のように、単独犯とは極めて疑わしい実行犯の出頭や他殺の可能性が高いのにも関わらずなぜか自殺や事故で処理され、結果、政財官の暗部が明らかにならない、その繰り返しで、日本は完全に腐り果てています。政財官の腐敗度ということでは、G8の中では日本がダントツにTOP、イタリアを遥かに凌ぐ腐敗度に達してもはや法治国家としてまともに機能していない状態と思います。

どうか、今回の事件の警察捜査当局のお方々は、司法の独立の誇りにかけて、何らかの政財官からの圧力があってもそれに屈せず、国民の期待を背負った司法捜査機関である誇り高き組織警察としての名誉にかけて、日本を覆う黒い霧を晴らし、今回の事件の真相の全貌解明を行うことを、僕は心から警察のお方々にお願い申し上げます。

参考作品(amazon)
日本の黒い霧〈上〉 (文春文庫)
日本の黒い霧〈上〉 (文春文庫)
日本の黒い霧〈下〉 (文春文庫)
日本の黒い霧〈下〉 (文春文庫)
奇子(あやこ) (1) (手塚治虫漫画全集 (197))
奇子(あやこ) (1) (手塚治虫漫画全集 (197))
奇子(あやこ) (2) (手塚治虫漫画全集 (198))
奇子(あやこ) (2) (手塚治虫漫画全集 (198))
奇子(あやこ) (3) (手塚治虫漫画全集 (199))
奇子(あやこ) (3) (手塚治虫漫画全集 (199))
政治家 石井紘基 その遺志を継ぐ
政治家 石井紘基 その遺志を継ぐ
国家の罠―外務省のラスプーチンと呼ばれて (新潮文庫)
国家の罠―外務省のラスプーチンと呼ばれて (新潮文庫)
インテリジェンス人間論
インテリジェンス人間論

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官僚殺人事件で極東ブログのような保守論壇が異様な動きを見せていることに留意すべきと思います。

預金封鎖―国はタンス預金を狙っている (祥伝社黄金文庫)

産経新聞『【元厚生次官ら連続殺傷】「今の40代は幼稚な人多い」識者コメント』
http://sankei.jp.msn.com/affairs/crime/081123/crm0811230023000-n1.htm
評論家の大宅映子さんの話「40代といっても、昔と比べ、今は幼稚な20代に見える人が多い。子供のころからぬくぬくと育ち、見た目だけでなく、中身も20代の人がいる。」

この人は20代と40代が幼稚だと結果論でいっていますが、30代が犯人だったら30代が幼稚だというでしょうし、50代が犯人だったら50代は幼稚だというでしょうし60代が犯人だったら60代が幼稚だというでしょう。今回の事件においてはマスコミの動きがとても不可解です。マスコミがこの事件が起きてからぴったりと、官僚批判、消えた年金問題、グリーンピア問題、社会福祉削減問題などについて触れることをやめ、官僚を手のひら返して礼讃し、まだ何も詳細が分かっていない事態で御用学者達(犯罪心理学者作田明氏など)を使って一個人の狂気の単独犯説を強行に主張しています。ネットにおいてもそのような風潮が見受けられます。以前、インテリジェント・デザインなどを広めようとした日本で最も大きな影響力を持つブロガーの一人、保守論壇誌「諸君!」10月号にて登場したりしている、保守論壇と関わりを持っている極東ブログの運営者finalvent氏が、まだ何も分かっていない状態で、保守系マスメディアと論調を合わせてこの事件は一個人の狂気の単独犯行であると主張したりしていることは、どう考えても、逆に危険な背景を感じさせます。まだ何もわかっていない状態で、なぜ、こんなにも事態を「一個人の狂気の単独犯説」ということで収束させようと保守マスメディアやその関係者達(finalvent氏等)は試みているのでしょうか。事件の推移の動きが極めて不可解です。

体制側の白色テロルである可能性というものが、完全に否定されている、僅かでもマスメディアにおいてそれが全く触れられない状況は不可解です。厚生労働省内部の犯行の可能性があると初期にいっていた警察側の識者はマスメディアからその後、登用を外され、「一個人の狂気の単独犯説」が強硬に主張されている状況は全く不可解であり、今、権力的なマスメディアが一辺倒に「一個人の狂気の単独犯説」などと唱えること、マスメディアに登用される識者・ネットメディアの有力者(御用学者達・保守論壇と関わりを持つ著名ブロガーfinalvent氏等)において行われているという事態について、どうか、皆様方におかれましては、今一度、考えてみて欲しいです。あらゆる証拠を持って数日後に出頭というのは典型的な裏社会による白色テロルの防波堤殺人のケースであることを、なぜ、マスメディアや保守論壇と関係を持つ保守ブロガー達は誰も指摘しないのか、そのことをどうか、考えて頂きたく、どうかお願いします。

警察が、もしなんらかの圧力があるとしてもそれに負けず、司法の独立という誇り高さを持って、徹底的な捜査を行って、事件の真相を明らかにしてくれることを心から望みます。石井紘基国会議員殺人事件のような、典型的な白色テロルの可能性が極めて高い事件であったにも関わらず、真相が闇に葬られてしまった事件のようにならないことを望みます。

僕の尊敬する学者、副添隆彦さんが(僕はこのお方は日本で唯一、真実に最も近いことを述べていらっしゃる日本における希少なる真のアカデミシャンであると思います。本は全て買わせて頂いております。ただ、お金がなくて、会員としてお金が払えないことは、本当に申し訳なく思っています。お金のある方は、会員になる価値がある、非常に優れた洞察力、特に日本を支配する圧力に負けない洞察力を持っていらっしゃるお方です)、ケネディ大統領が殺されて、真相が体制側の手によって闇に葬られたとき(大統領に対する白色テロルが起こったとき)、アメリカの民主主義は死んだと仰っていますが、僕も同感に思います。今回の事件が、石井紘基国会議員殺人事件にように、闇に葬られることを僕は恐れます。それは、民主主義の死です。そして、それ(闇に葬ろうとして、まだ何も分かっていない時点で石井紘基国会議員殺人事件のように、一個人の狂気の犯罪として終結させようと推し進めていること)に、保守マスメディア・保守論壇、そしてネットにおいてもfinalvent氏等の保守論壇ブロガー達や霞ヶ関官僚日記の官僚ブロガーなどが動いていることの意味を、どうか皆様方に、真摯に考えて欲しいです。

副添隆彦の学問道場HP
http://soejima.to/

後、僕のこれまで書いてきた文章は、僕個人の文章で、副添隆彦さんについては、著作を読んで、HPを読んで、それだけが僕の知っている形で、僕が以前より取り上げているポストモダンの東大閥の学者とは違い、お会いしたことなどは全くありません。僕が一方的に著作を読んだり、HPを読んだりして知っているだけの関係です。

最後に、副添隆彦さんの「預金封鎖」から引用させていただきます。現実は、副添隆彦さんが国を救う為に唱える方向と、全く逆の方向に進んでいるように思います。これは、この国の破滅だと思います。貧しい人々はお互いに助け合いますが、その上の資産家の人々がますます富み栄え、莫大な富のある少数の人が貧しい大勢の人々から搾取を行うシステムがどんどん酷くなっています。

今の日本の若者たちには、実質的な失業者がたくさんいる。(中略)簡単に描けば、深夜のデイリー・コンビニエンスストアで働いている若者たち、時給700円から時給800円で働いている人々である。
彼らは今、月10万円で働いている。5万円の家賃と、一日あたり1000円のお金で生きていける人々である。月に10万円で暮らせる人々が多く出てきている。一日1000円で暮らせと言われたら、普通の人にとっては大変な苦しみである。(中略)
だから資産家や金持ちの老人たちよ、あなたたちに本当の投資や資産防衛とは何かを教えよう。それは、お金を若者に投資するということである。お金を黙って若い人々にただであげるということである。それは寄付であり、気前よくあげるということである。本当にそうなのである。
何も私は、まったくの他人にお金を慈善行為として、ただであげてしまえとは言わない。あなたの遠縁の若者で、お金に困っている貧しい若者がいたら、その者に200万円、300万のお金を何も言わず渡しなさい。そのお金が、本当に将来生きるであろう。インフレに対してもデフレに対しても、一番強いのは人間そのものなのである。とりわけ貧しくて若い人間たちである。
あなたの身近にいる若者で、技術を身に付けたいとか上の学校に行きたいとか、そういう意欲を持っている人に黙ってお金を与えることが、最も素晴らしい投資なのである。だから遠縁の貧しい若者に、お金を与えよ。それが本当の投資ではないだろうか。
(絶対的な富裕層の下部にいる相対的な富裕層が)自分の隠し預金やタンス預金を何とか守り抜こうとして、ぶるぶる震えるばかりで、つまらない金融知識や耳学問に惑わされている汲々としている人々よ。もっと気持ちを大きく持つべきである。日本国の将来のために自ら貢献すべき時代ではないか。
だから、資産防衛だけに血眼になって、取るに足らない金融情報にしがみつくべきではない。どうせ損をする。それよりも若者たちにお金を与えよ。これが実体経済への資金の還流として最も有効な使い方になるであろう。
(副島隆彦「預金封鎖」)

僕の生活費用は正確に割り出していませんが、うつ病と失業してから、一日当たりで出すと現在だいたい平均500円くらいと思います。僕は、保守東大閥の学者、特に、人間は動物化していくゆえ、エリート(官僚)のシステム設計による環境管理(ファシズム管理)をせよと唱える東大閥の超保守派権力者ポストモダン学者東浩紀氏に完全に敵にされ(この学者本人もロフトプラスワンなどを使い集団と権威による個人攻撃を仕掛けてきております)、この学者はファシズムやナチズムを賛美し、国家報道機関(NHK)や巨大出版資本(講談社)と手を組み、貧困層を抹殺するような形で動いているとしか思えない動きをしており、僕はこの東大閥の学者やその学者が手駒として持つその学者の完全なる従僕達、完全に権力欲に囚われ思考停止した従僕達の嫌がらせを受けているので、僕にもはや未来はなく、将来もなく、可能性もなく、全てがありません。今も腹痛が激しく、今にも明日にも知れぬわが身と思います。話を戻しますとこの超保守派のポストモダン学者は皇室及び皇国史観を賛美する東大閥の右派プロパガンダ学者宮台真司氏の友人(コネクション所有者)でもあります。宮台真司氏の一族は東大一族であり、古くから皇室とも関係を持つ日本を支配してきたエスタブリッシュメントの超エリートの一族です。皇国史観と東京大学と官僚機構の密接な関係については松本清張著「小説東京帝国大学」に詳しいです。

ここ十年ぐらい流行の「ゆとり」だの「まったり」だのと(下流社会の人々は)呼応している。
ところが、「まったり」を唱え(仕掛け)「不良女子高生の援助交際をあれだけ煽った」某大学助教授は、「東大名誉教授の娘にして日本女子大卒の、いまどき珍しい純潔な二十歳も年下の女性」と結婚した。この大学助教授は「一族みな東大、祖父も東大教授で昭和天皇に御進講をした生物学者」である。本人も、東京港区の私立中間一貫校から東大に進んでいる。「階層性の壁」は、黒澤明の『天国と地獄』の四十年前とはちがって、このような形で社会を分割隔離している。
(呉智英「マンガ狂につける薬 下学上達篇」)

皇国史観と東京大学とキャリア官僚機構は互いに相互関係にあり、その不合理な権威権力を保持しています。僕はかの学者の手によって収入や将来を一切断たれるという形においていずれ間接的に消されると思います。僕の生命は既に東大閥のかの学者を敵に回した時点で完全に詰んでいるのだと思います。けれど、そうではない若者達、僕と同じく貧しいけれど、まだ詰んではいない若者達もいます。そういう若者達をどうか助けて挙げて欲しいと、命を賭して、お願い申し上げます。

そしていつか、リチャード・クー(リーマンを救済した野村證券最高幹部、麻生首相の財政ブレイン、富裕層の税優遇・株式投資の税緩和等を主張し、麻生首相も同調して投資に対する税金緩和等を主張)のような人物ではなく、副添隆彦さんのような真のアカデミシャンのお方が、日本国の財政ブレインにつく日がくることを、僕はいずれ死んだ後も、遺志としてそうなって、東大閥の呪縛から日本が解かれ、日本が少しでも国民にとって良い方向に進むことを、心から望んでいます。

心痛と肉体的な腹痛が酷く、薬(精神病院から頓服用の抗不安薬と腹痛の痛み止めの胃腸薬を頂いています)を飲んで身体を休めたく思い、これ以上、文章が書けず、申し訳ありません。

追記:今(10:55)トイレに行きましたら、真っ赤な血便がでました。精神だけでなく、肉体も壊れてしまっているの確実なようです。今週、精神病院で診察して頂ける日があるので、そのとき、先生に相談して、どうか助けて頂こうと思います。

参考作品(amazon)
預金封鎖―国はタンス預金を狙っている (祥伝社黄金文庫)
預金封鎖―国はタンス預金を狙っている (祥伝社黄金文庫)
小説東京帝国大学 上 (1) (ちくま文庫 ま 35-1)
小説東京帝国大学 上 (1) (ちくま文庫 ま 35-1)
小説東京帝国大学 下 (3) (ちくま文庫 ま 35-2)
小説東京帝国大学 下 (3) (ちくま文庫 ま 35-2)
マンガ狂につける薬 下学上達編 (ダ・ヴィンチブックス)
マンガ狂につける薬 下学上達編 (ダ・ヴィンチブックス)
政治家 石井紘基 その遺志を継ぐ
政治家 石井紘基 その遺志を継ぐ
暴かれた[闇の支配者]の正体
暴かれた[闇の支配者]の正体
ヤクザ・リセッション さらに失われる10年 (光文社ペーパーバックス)
ヤクザ・リセッション さらに失われる10年 (光文社ペーパーバックス)

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咳が止まらなくて眠れなくて辛いです。何もかも絶望的です。悲しくて痛いです。

不安の書

寒気喉痛腹痛の他に、右前頭部を中心に酷い頭痛がして、咳が止まらない状態で眠れなく、胸郭が肉体的に痛くて、辛いです。何もかも絶望的です。先にも書きましたように、今、日本の貧しい人々を苦しめている一因として、神聖権威をバックとした東大閥の権力を持つ学者、ファシズムやナチズムを評価し人間は動物化したゆえに環境管理せよと唱えている超保守派のポストモダン学者などが挙げられます。彼ら東大閥のポストモダン学者達は国家機関や巨大資本と手を結び、大手出版資本の一部供与によって若手アカデミシャンの人々を闘争状態(資本に組み込んだ支配状態)に置き、公平性や平等性を否定し、代表的なポストモダン学者自らなどは公平性からは何も生まれぬとのたまい、己は選ばれた学者であるゆえアカデミズムの現場の戦い(実際は巨大出版資本が資本力で用意した単なる舞台)における軍人であり下位の者達を選ぶ全権としての生殺与奪の権があるなどと称しています。そのあまりの絶対権力者ぶり、そしてそれを賛美する取り巻きのアカデミシャン達に、僕はとても怖くなります。力を持つ彼らがそれだけではなく、ただひたすら大きな力、権力のみを求めている貪欲さが見えるのが怖いです。その貪欲さで人を傷つけることをいくらでも肯定し、それに東大閥の学問という権威をつける彼らがとても怖いです。

僕は、このような東大閥の残忍かつ専制的な権威権力により、日本は、貧困層がどんどん、これからも僕みたいに抹殺されていく望みのない世界が今後続いてゆくと予想します。絶望的です。僕は、日本が少しでも生存権があり、公正や平等が大切にされる国になるには、東京大学という神聖権威をバックにした大学を少しずつでも解体してゆき、同じく神聖権威をバックに日本を支配する東大閥・霞ヶ関キャリア官僚制度を少しずつでも解体することがとても大切だと思います。今の霞ヶ関のキャリア官僚たちは国民のサーヴァントではなく、神聖権威と自分自身の為の権力に仕える権力者であり、国民にとっては、暴虐な統治者でしかないからです。でも、非常に長期的にいずれ社会が良い方向に進む可能性があるとしても、僕が生きている間には無理だと考えています。今後も社会は更に格差が拡大し貧困層が見殺しにされ、先の超保守派ポストモダン学者やキャリア官僚のような権威を持つ権力者、ごく少数のエスタブリッシュメントだけが富を独占して栄え、ほとんどの人は貧しく辛くなってゆく悪い方向へどんどん転がると思います。僕は持って数ヶ月〜数年くらいだと思うので、それぐらいの短期間的には、どんどん社会が悪い方向に転がってゆくのをただ、無力に眺めながら、死ぬんだろうなあという思いが、一杯です。

心身の状態が酷く、痛みと絶望が酷いです。もう絶望的で、正気も翳っている形で、ただ、僕は、誰にも僕の出来うる限り、誰にもなるべく迷惑を掛けないようにして、残すものは弱い立場の人々に寄付して、いずれは、最期の時を迎えるつもりです。僕の考えを、懸命に述べておきます。僕は、国家報道機関(NHK)や巨大出版資本(講談社)と手を組んでいる東大閥の超保守派ポストモダン学者が賛美しているナチズム・ファシズムは、生命を圧倒的に軽んじているという点だけを考えても最悪最低な体制だと思います。この学者が行おうとしている人間をパターン化された動物として権力により環境管理しようという発想からして、先に書いたように、自然科学としての生物学を全く知らないのではないかと思わせる、極めて稚拙な発想だと思います。この学者は、人間と人間は共感しえないものと何の証拠もなしに勝手に決め付けてはっきりいっておりますが、僕は、生命は共感し尊びあえる可能性を秘めたものだと思います。この学者は自分のことを冷淡であると自ら仰られていますが、実に正確な自己認識であると思います。そういった人間がアカデミズムで強力な権威を持ち日本の国家機関・巨大資本と手を組んで権力を持っているということを、どうか、心ある人々におきましては、このことの恐ろしさを、どうか、考えて欲しいと願います。

もう、疲れて、あまり文章が書けないのでこれくらいに致します。皆様方にどうか、僕にはもう生きていてもあまり訪れもないであろう生の幸せ喜びが、今後もできうるかぎり、僕以外の皆様方に沢山あることを、心から、願っています。

雨音から発する静寂が単調な灰色のクレッシェンドとなって、私の見つめる狭い通りに広がっている。私は、ほかには何もないかのように窓ガラスに寄りかかって立ち、目覚めたまま眠っている。(中略)陰気に輝く雨がこのように糸を引いて落ちるのを目にして、自分がいかなる気分に浸っているのか自分の中を探っている。そして、自分が何を感じているのか分からず、何を感じたいのか分からず、何を考えているのか、自分が何であるのかも分からない。後からじわっと効いてくる私の生活の苦しみは、毎日繰り返される成り行き任せで身にまとう自然な悦びの衣を剥ぎ取るように私の目には見える。私は自分が幸せなときも満足なときも、いつも悲しいのを確認する。(中略)ぼんやりと眺める前は、何を考えていたのか?分からない。意志?努力?生活?明るさが大きく拡がってきたので、空はもうほとんどすっかり青くなったと感じられる。しかし、平穏はない――ああ、永遠にないだろう!――
(フェルナンド・ペソア「不安の書」)

いつも悲しくて、不安が一杯です。そして苦痛が酷いです。疲労がとても強いです。離人症的症状が起こる(何も感じられなくて辛い症状が起こる)のが、非常にきつくて苦しいです。薬物(SSRIや抗不安剤などの各種の精神薬、睡眠薬飲んでますがこれだけは僕の体質的なものなのかあまり効きません、不眠です)という自然科学の助け、本当に助けられています。それがなかったら、もう、終わっていると思います。日本は、SSRIのジェイゾロフトというお薬、一日100mgまでしか処方できないとのことなので、病院でもっと処方して頂けたらと思うのですが、厚生労働省の決まりで無理みたいです。アメリカ等諸外国だと、もっと一日あたりの処方量が多いのに、なんで、日本だと100mgしかだめなのか、これも厚生労働省の無数にある過ちの一つなのではないのかと思います。辛いです。感覚がなくなるのが凄く苦しいです。

生きることは胃の吐き気のように感じられるかもしれず、自分自身の心の存在は筋肉の不快のように感じられるかもしれない。精神の荒廃は、鋭く感じるとき、遠くから身体に潮汐を起こし、これは精神に代わって痛みをあたえる。
(フェルナンド・ペソア「不安の書」)

参考作品(amazon)
不安の書
不安の書
小説東京帝国大学 上 (1) (ちくま文庫 ま 35-1)
小説東京帝国大学 上 (1) (ちくま文庫 ま 35-1)
小説東京帝国大学 下 (3) (ちくま文庫 ま 35-2)
小説東京帝国大学 下 (3) (ちくま文庫 ま 35-2)

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自然科学について。生命について。人間について。僕のすごく怖いことについて。

人間はどこまで動物か―新しい人間像のために (岩波新書 青版 433)
生命とは何か―物理的にみた生細胞 (岩波文庫 青 946-1)

寒気と喉痛が酷く熱も38度出ていて風邪に掛かったみたいです。先日よりずっと不眠状態で、精神病院で頂いた風邪薬飲んでも眠れず横になって猫を抱っこしながらNHKの番組「爆笑問題京大SP」という番組を見ていて、京大の気風の広さみたいのが伝わってきて、良かったです。色んな側面から物事を観る環境の場を創るという学問の気風が伝わってきました。

京都大学の天文物理学の教授を、爆笑問題の大田氏が「なぜ金星が生命で意志を持って太陽の周りを回ってるかも知れないのに、あなたはその可能性を認めないのか」みたいに散々突っ込んでいたときは、京大の天文物理学の教授を気の毒に思いました。天文物理学と生物学を混同した突拍子のない質問をいきなりされたら、困るのは当たり前だと思います。「学問はどんなに高度であっても楽しくて分かりやすくなければダメ」みたいな大田氏の意見が全くそのまま通るような形で番組が終わりそうになったとき、その先生(大田氏にさんざん突っ込まれまくっていた天文物理の先生)が番組の最後に、「科学は少し少しの積み重ねで、そんな楽しい・面白いものじゃないけれど(大田氏が『俺は楽しいことしか学問でも認めない。自分にとって楽しくないものなんて認めない』と発言したのに対する意趣返し)、それでも、黄昏てゆく日が落ちた町の景色に、小さな人家の明かりをみつけたような、喜びがある」って発言していて、『楽しくなければ科学ではない』のような論理的に問題のある疑似科学認識よりも、僕はこの先生のような科学認識を大切に抱いていたいと思いました。

太田氏は「自分にとって楽しいことだけに自分にとって価値がある」と延べ、唯我論的なことを述べていましたが、自然科学の考え方とは全く相容れないなと思いました。自然科学の在り方は、理想論ですが、例えば、科学者がずっとAという仮説を研究し理論化し検証し発表して栄誉を得た。しかしその科学者はAという理論は緻密な検証の結果、実は誤りで、Aではなく、別の人物の発表した別の理論Bの方が緻密な検証的(経験的)に正しい可能性が高いとなったとき、その科学者はBを認められるか、徹底的に論理的に考えた後、どうしてもBの方に客観的な理があるとなった場合、その科学者もそれ(A→Bへのシフト)を認めて、Bに移って、更にCD…と科学研究を積み重ねてゆく、個人の上にある客観性を認めるのが自然科学です。『個人が楽しけりゃそれが一番正しい』というような、主観的考え方(金星が生きていて意志を持っていたほうが楽しいから正しい)ではなく、自然には体系があるということを前提として基本的に考えて客観性を重視します。個人的な欲求のみで自然科学は成り立っている訳ではありません。非個人的・反主観的であるからこそ、自然科学は進歩してゆくのです。例えば、日本の野口英世の研究には沢山の誤り(当時はウイルスの発見が出来なかったため、野口の研究はその後誤りが次々と明らかになった)がありますが、それでも野口英世が評価され敬愛されているのは、その自然科学に対する真摯な科学的姿勢のひたむきさゆえです。先日紹介させて頂きました懐疑論者の辞典の「科学」の項目から科学の項目の最後の文章を引用します。

ロバート・T・キャロル日本語訳版「懐疑論者の辞典」
科学(science)
(中略)科学とは、カール・セーガンも述べるように、闇のなかのともしびである。身のまわりの世界に光を照らし、迷信と恐怖からでは知りえないことや、無知と妄想からでは知りえないことや、神秘的な力や超自然的な力を恐れながらもそれを身につけようとがんばったわれわれの祖先の魔術的思考では知りえないことを教えてくれるものなのである。

ジェイコブ・ブロノフスキーはテレビ版『人間の進歩』の一場面で、それらのことを正しく述べている。「知識と確実性」という回でアウシュヴィッツへ行き、骨灰のまかれた池に入り、しゃがみこんで一握りの泥をすくいあげると、こう言ったのである。

『科学は、人間を非人間化し、人間を番号に変えてしまうだろうといわれています。これは、間違いも間違い、悲しむべき間違いです。自分のことを考えてみてください。アウシュヴィッツの強制収容所と火葬場では、人間が番号に変えられました。アウシュヴィッツにある池には四百万もの人間の骨灰が投げ捨てられました。それは毒ガスがやったのではありません。人間のおごりのしわざだったのです。現実を知ることのないまま、自分は絶対的な知識を持ったと信じこむとき、人間はこういうことをしでかします。これは、人間が神々の知識を己れのものとしようとするとき、しでかすことなのです』

生命ということについては、『ネゲントロピーを摂取し、エントロピーを排出する存在』というシュレーディンガーの生命の定義の立場に僕は拠っています。金星が生命体で意識を持っているとかいう事に対しては、『あなたは金星が生きているというが、では金星は何を食って何を排出しているんですか?』と切り返したら面白かっただろうなあと思います。ただ、金星が生命体なんてのは天文物理学の先生にいきなり投げかける質問ではないと思います。それを聞くなら生物学の先生でしょう。

後、この番組で興味深かったのは、数々の著作で著名な保守思想の人文学の学者、佐伯啓思氏が、「京大は自由な気風で開かれている。東大は閉塞的で閉ざされている。本郷なんて酷い(閉塞性が酷い)ものだ」みたいに突如として東大批判を始めて、これって結局佐伯啓思氏が東大卒の東大閥の学者ゆえに東大批判という形で東大の権力を誇示しているのだと思います。突然、それまで東大の話なんて全くあがってなかった場で突如東大批判を始めた佐伯氏に対して、京大生え抜きの京大教授陣はみんな腫れ物に触るような形で固まっていました。その後、観客席からやはり東大の学者か何かが、駄目押しのように東大批判していて、京大の教授陣の方々が固まっていて、京大教授陣の方々をとても気の毒に思いました。京大の地位ある教授の人々(東大閥に属さない教授の人々)が東大をTV番組で公然と批判できないことを知っていて、突然こういう話を振る手法、佐伯氏の手法は凄く良くないと僕は思いました。

純粋に学術的に総合的にみれば、東大よりも京大の方が学術的に多様で優れた人材がおり、真の意味で多彩な研究が行われている優れた大学と僕は思います。でも、国家権力(官僚機構)と神聖権威(国の定める国の頂点としての教育機関)をバックにした東大の方がアカデミズムの世界において圧倒的な権力権威を持っているんです。それは、残念ながら、科学的ではない、権威権力の前に科学が屈服している事態です。京大教授陣と爆笑問題と京大生で無茶苦茶流ですがゆえに自由な開けた討論をやっているところにいきなり東大を出してきて冷や水をぶっかける佐伯氏ら東大閥のやり方は、とても良くないと思いました。

東大閥のアカデミズム権力者(しかもその権力は非科学的権力から発生したもの)の言説を他の私大の立場ある人々は誰も批判できない(完全に出来ないわけではないが、どうしても恐れが発生する)、これは凄い怖いことだと思います。例えば、人間は動物であるから環境管理すべきという説を東大閥の人文系のポストモダン学者が唱えておりますが、学会からのこの学者の説に対する批判を見かけることは僕の知る限りありません。しかし僕はこれは酷く危険な考え方、ナチズム優生学・ファシズム優生学そのものだと思います。こういった言説の最終目的はキャリア官僚などの社会システム設計者の優位性を東京大学からの言説によって高め、ナチズム優生学的エリート主義階級社会を日本に創ろうとする試みであると僕は考えます。戦前のファシズム体制創造の方法と極めて似た手法です(松本清張著「小説東京帝国大学」)。そして、それ(ナチズム的エリート主義階級社会の形成)の訪れは、東大閥でもキャリア官僚でもない、日本の大多数の人々の平穏と生命にとって、とても脅威であること、防がねばならないことと思います。

人間は刺激に反応する動物であるゆえ管理すべしと決め付けるナチズム的生物学、優生学的管理は人間性を押し潰す危険があり、そもそも前提(人間は刺激に反応するパターン化された動物という括り方)からして自然科学的に間違っている括り方であると生物学者アドルフ・ボルトマンなどが強く指摘しております(アドルフ・ボルトマン「人間はどこまで動物か」)。この本、シュレーディンガー著「生命とは何か」に並んで、生命、そして生命としての動物と人間ということを自然科学的に考える上でとても参考になる良書と思います。どちらも一読お勧め致します。

岩波新書の「人間とはどこまで動物か」に、高木正孝さんが、とても良質な訳者後書きをつけておりますので、抜粋してご紹介致します。ぜひ、本書自体と訳者後書きを読んで、生命や人間について、どうか考えてみて欲しいです。

人間論、あるいは人間学、つまり人間観の(学問分野からの)問題は、日本には歴史的伝統はないが、ヨーロッパ文化では歴史を通じて、大きな思想の背景をなし、また個人の生活もそれによって根本的に規定されていたし、いまでもされている。

中世では人間は神のしもべであった。つまり、神が人間を作ったものであり、人間は原罪を負う罪人とされた。

ところが近世自然科学の発達、市民社会の革命は、神を地上にひきおろし、人間の中に理性としての神をみて、地上に天国をきずく可能性をみる。これが啓蒙思想にほかならない。

そうして進化論は人間もサルから進化したことをとなえ、人間の動物性を強調することこそ中世の教会政治に対する戦いであり、本当に進歩的でさえあった。

しかし資本主義が帝国主義的段階にはいるとともに、その人間が動物であることが(人間の残虐性や弱肉強食の政治的肯定として)強調されてゆき、人間観は動物化され、生物主義が極端に反動的なファシズムの支柱になった。このナチス的生物主義に対する戦いが、すでに戦前、戦時中にはじまっていたのである。本書もその一つとみなされる。

一方においては、社会科学、マルキシズムの人間像として、人間は動物でありながら、動物とは質的に違う社会的労働によって、まさに飛躍的に社会的存在になったことがとかれていた。

このボルトマンの業績は、人間は動物であって、動物でない質的にちがったものだ、ということが、当の動物学(自然科学)――その形態学と行動研究――からときあかされた最初のものとして高く評価されていいと思う。

彼は(自然科学的・生物学的に人間を分析・研究し)人間の精神的な存在(パターン化の不可能さ)を強調し、そして個性をもった個人こそが人間だ、ととく。
(高木正孝。アドルフ・ボルトマン「人間はどこまで動物か」訳者あとがきより)

東大閥のポストモダン哲学者が唱える「人間は動物であるからシステム設計による環境管理すべし」というナチス的生物主義は、恐るべきものと僕は思います。この学者はNHKや大手出版社などの国家機関・強大な資本と組んでいるので、非常に恐ろしい強大な影響力を持った存在、このカリスマ的ポストモダン学者がこれから、日本のファッショ化傾向を強めさせようとする一人として強力な役割を果たしていく可能性を思うと、心底恐ろしくて絶望的です。まずそのとき真っ先に犠牲にされる人々は社会的に一番弱い立場の人々、僕のような精神疾患障害患者、身体障害者、貧困者、失業者などの社会的に弱い立場の人々からこの学者は優生学的に管理して始末しようと考えているのだと思うからです。それを思うと酷い真っ暗な心痛を覚えます。なぜなら僕はこの学者の無慈悲さを知っているからです。僕が精神疾患・生活貧窮で困り果て、必要であれば生活困窮の証明と精神疾患障害者であることの証明も致しますから、非常に生活が困っていて今後どうやって生きてゆけばいいかわからず、一言だけでもどうかアドバイスの一言だけでも一言、ただ一言のお言葉でも、どうか頂けませんでしょうか、と懇願する連絡を何度か取ったところ(連絡は向こう側にきちんと伝わっています)、僕は完全に「言葉一つすら、完全なる拒否」という形でこの学者から縁を切られたからです。僕はこの学者が脳裏に描く、この学者が建設しようとする未来の日本社会がとても恐ろしくて、心身が非常に苦痛です。この学者は、東大閥の権力とマスメディアの影響力と若手アカデミシャン達へのカリスマ性を使って、日本の保守権力と組み、日本のアルフレート・ローゼンベルク、しかも、敗北しないローゼンベルクのようになることを望んでいるのだと僕は思います。それは、弱い立場の人々をはじめ、大勢の人々にとって、多大な惨禍をもたらす、恐るべきことと思います。僕はすごく怖いです。

後、最後にこのようなことを書くのはまことに申し訳ないのですが、僕自身の心身症状の悪化苦痛及び生活の貧窮甚だしく、お買い物の御用があるときは、どうか本ブログから買って下さると、心から感謝致します。

参考作品(amazon)
人間はどこまで動物か―新しい人間像のために (岩波新書 青版 433)
生命とは何か―物理的にみた生細胞 (岩波文庫 青 946-1)
生命とは何か―物理的にみた生細胞 (岩波文庫 青 946-1)
懐疑論者の事典 上 (1)
懐疑論者の事典 上 (1)
懐疑論者の事典 下 (2)
懐疑論者の事典 下 (2)
小説東京帝国大学 上 (1) (ちくま文庫 ま 35-1)
小説東京帝国大学 上 (1) (ちくま文庫 ま 35-1)
小説東京帝国大学 下 (3) (ちくま文庫 ま 35-2)
小説東京帝国大学 下 (3) (ちくま文庫 ま 35-2)

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科学・疑似科学・宗教について考えるために。ロバート・T・キャロル「懐疑論者の辞典」

懐疑論者の事典 上 (1)
懐疑論者の事典 下 (2)

科学・疑似科学・宗教について、僕の考え方を述べておきます。僕は無神論者・唯物論者ですが、決して信仰を一概に否定するものではありません。例えば、輪廻転生については、僕は唯物論者なので、このように解釈することもあります。僕が死んで土葬されます(日本は通常は火葬ですが、仮定として土葬の方が分かりやすいので土葬にします)。土葬後、身体が腐敗して腐り土の一部分となって、腐敗した有機的な死骸の部分が腐敗の化学変化で有機的栄養素となって、そこからその養分を摂取する草が生えたら、僕の物質としての部分(肉体)が死後、他の生命の生育に役立ったと考えることができます。このような解釈(生命活動停止後の物質としての変化移動、例えば死骸についた腐敗菌の増殖は、その腐敗菌に死骸としての肉体の物質が養分として一部が移動したと考えられます)としての輪廻転生はありえると僕は考えています。ただ、霊魂等の経験不可能な存在可能性には否定的です。こういった考え方(科学的解釈の様々)につきましては以前、ご紹介いたしました哲学ファンタジーが詳しいです。

ただ、基本的に、僕は科学(science)に、第一義に信頼を置く、科学を第一原則としての世界観を抱いております。僕が信頼を置く原則としての述べる科学の定義はロバート・T・キャロルの「科学」(science)の定義と基本的に同じ指針です。ロバート・T・キャロル「懐疑論者の辞典」の科学の項目は翻訳して公開して下さっている方がいます。こちらのリンク先さんです。

科学(science)
http://www.genpaku.org/skepticj/science.html

日本語訳版ロバート・T・キャロル「懐疑論者の辞典」とは訳が僅かですが違います(リンク先さんの頁の翻訳は原書の直訳に近く、日本語訳版懐疑論者の辞典は直訳を日本語文法的にして分かりやすくしてあります)ので、その点を一応補足しておきます。以下、日本語訳版懐疑論者の辞典の項目の「科学(science)」を引用します。以下の引用内の中略以外の()は僕が付ける括弧ではなく、日本語訳版懐疑論者の辞典に掲載されております括弧です。心身の痛みと疲労が酷く、全文引用する体力がないので、中略を何度かはさむ形での引用のご紹介になり申しわけありません。

ロバート・T・キャロル日本語訳版「懐疑論者の辞典」
科学(science)
(少なくとも、本稿の焦点である自然科学とは)何よりもまず経験的現象を理解するための体系的な観察を可能にしてくれる一連の論理的・経験的手法のことである。(中略)科学的説明は、超自然現象についてなされるというよりは、自然現象について自然に即した用語でなされるものである。ただし科学は超自然のことを容認も否認もしていない。
また科学は論理的・経験的手法を用いることによって得られる経験的世界に関する知識をまとめたものである。(中略)

科学的方法は非個人的なものである。ある科学者にできることは必ず他の科学者にも再現できなければならない。ある人が他人には再現できない完全に主観的な方法で、何かを測定・観測すると主張した場合、その人がやっているのは科学ではない。科学者が別の科学者の仕事を再現できないという場合は、まさにそのことこそが、計画、方法論、観察、計算、較正[測定器の狂いを直すこと]のいずれかが誤っていることを明白に示すしるしとなる。

科学では、経験的世界に関する真実は先験的[経験することなし]にわかる、とは想定されていない。科学では、経験的世界に関する真実は発見していかなくてはならない、と想定されている。(創造論やインテリジェント・デザインの論者たちは)経験論的真理は先験的にわかる、などと主張するが、彼らは科学的知識について話しているはずがないのである。また科学では、自然に一定の秩序がある、というのが前提であり、自然現象のはたらきに基本原則がある、と仮定されている。そしてこうした原理や法則は、比較的安定したものである、と考えられている。しかし、”これらの原則がなんであるか”や”経験的現象に関する実際の秩序がなんなのか”について先駆的にわかる、とは科学では想定されていない。(中略)

経験的なテストに合格したというだけではまだ理論が証明されたということにはならない。数々のきびしいテスト(日本訳では検証にテストの振り仮名があり、検証の意味)に理論が合格すればするほど、確証度は高まり、理にかなった理論だということにはなる。けれども検証するというのは論理学や数学での証明するということと同じではない。絶対事実だと証明されうる科学理論などないのである。(中略)

科学的知識もしょせんは人間の知識だし、科学者も人の子であって神ではない。だから、科学もまちがいと無縁ではない。だが依然として世間一般では、科学的主張が絶対確実な真理のように考えられる場合も多い。確実でないものは科学的なものではなく、科学的ではないとする非科学的見解と同じである、とみなされてしまっているのである。こうした誤解が、科学理論についての本質についての理解の一般的な欠如の(少なくともいくぶんかの)原因となっているように思われる。

ちょっと小休止しますと、このあとの文章が科学的に考えるということにおいて非常に重要だと僕は思います。以下、引用を再開します。

ロバート・T・キャロル日本語訳版「懐疑論者の辞典」
科学(science)
もうひとつ、よくある誤解がある。それは”科学理論も人間の知覚に基づくものである以上、どうしても相対的なものにならずをえず、したがって科学理論は現実の世界について、何も教えてくれない”という誤解である。一部のポストモダン主義者によれば、経験的世界がじつはどういうものなのかについて真相を教えてあげよう、と科学が主張することはできないのであって、科学が明らかにできるのは経験的世界が科学者の目にどううつるかということだけである、という。科学的真理などというものはないし、科学理論もたんなるつくり話にすぎないというわけだ。

けれども、現実に対する唯一・絶対・究極の、神によるような見方がないからというだけで、どのような見方も似たり寄ったりということにはならない。科学が人間による見方しか提案できないからといって、科学的真理などというものはない、ということにはならない。原子爆弾が一部の科学者の予想どおりはじめてさく裂したときにも、経験的世界に関するひとかけらの真理がまた新たに明かされたではないか。わたしたちは科学理論を経験によってテストすることで、何が真で何が偽なのかわかりかけているところなのである。外なる宇宙空間と内なる原子を探るのを可能にするこうした科学理論を「ただの相対的な」もので、現実について「たんなるひとつの見方しか表さない」と言うのは、けっきょくのところ科学や科学的知識の本質をひどく誤解することになる。

あと、宗教と科学が争わないで手を取り合っているケースは国際的には色々とあります。例えばバイオテクノロジー分野、胚研究などの生命科学分野でとても研究が優れて進んでいる国は中東の大国イランです。イランでは、宗教指導者がバイオテクノロジーの研究に対して極めて柔軟で良い意味でバランスの取れた科学的な考え方の許容をしております。アメリカ等の『バイオテクノロジーは宗教的にダメ、絶対』みたいなガチガチのキリスト教プロテスタント右派諸国やその諸国の縛り(プロテスタント右派アメリカの縛りで研究が制約される属国日本等)でなかなか研究が進められない国々などと違って、バイオテクノロジーの研究分野の先端を走っている優れた科学立国の一つです。いずれ、バイオテクノロジー分野の一部、人間に関するバイオテクノロジーの分野はイランが最も高度な生命科学技術を制することになると僕は予想しています。イランと組んでいるロシアはそういったこと(イランの科学技術の先進性による将来性)も見ていて手を結んでいる訳で、先見の明があるなと思います。顧みて日本はプロテスタントアメリカの宗教縛りが掛かっている完全属国なので、こういった科学分野ではかなり絶望的です。

アメリカの完全属国であるということはメリットの数々とともにこういったデメリット(科学研究がアメリカの宗教的意向で制限される等)の数々もある訳で、対米従属一本槍の方には、アメリカの属国であるデメリットの数々ということも、どうか、科学的に検討してみて欲しいです。

後、僕は「水は意識ある生命体である」とか、多くの人々は単なる冗談だと思うような擬似科学の問題よりスケールの大きい疑似科学の問題が今後世界に拡大していくことを恐れています。インテリジェント・デザインの問題です。この問題は今後、世界的に非常に危険な問題になってくると思います。これは、アメリカの政治的パワーを持つ宗教勢力(一部の科学者達も含みます)が強力に「形而上学ではなく『自然科学』である」として推し進めている危険な問題なので、アメリカ圏域の自然科学が宗教(キリスト教神学)に支配されてしまう可能性を持っております。先に挙げたロバート・T・キャロルの定義的に『科学』を考えている自然科学者達も非常に警戒心を募らせています。インテリジェント・デザインの問題は今後拡大し、非常に危険な事態に入っていくと思います。既に日本でも著名ブロガーのお方などもこのID論に賛成の説を、僕のブログとは比較にならない巨大ブログで公開しておりますし、日本でインテリジェント・デザインが「科学」としていずれ流行りだすかもしれぬ可能性に強い危機感を覚えます。ID論が自然科学を名乗り支配力を増すことに、僕はキリスト教神学が自然科学を支配する西欧中世へのゆり戻し、重大な自然科学の危機を感じます。以下、ロバート・T・キャロル日本語訳版「懐疑論者の辞典」より引用致します。インテリジェント・デザインは以下の文中で略してIDと呼ばれます。

ロバート・T・キャロル日本語訳版「懐疑論者の辞典」
インテリジェント・デザイン(ID)
自然や生命系を調べればそこにデザインの存在を経験的に察知できる以上、宇宙の各部分は知的原因の結果としなければ説明がつかない、という理論。インテリジェント・デザイン(ID)の提唱者たちは、IDを学校の科学の授業で教えるべきだ、IDは自然淘汰説の科学的代案なのだから、と主張する。けれどもじつは、IDの主な目的は形而上学的なもの――神の存在を証明すること――なのだ。(中略)

宇宙は神が設計してもしなくても見かけはかわらない。経験的な理論があつかうのは、わたしたちの目に世界がどのようにうつるか、ということである。形而上学的理論ならば、世界がなぜこのように見えるのか、ということに思いをめぐらせられるのだが。

宇宙が(またその働きの一部が)設計によるものだと信じたところで、そのはたらき方を理解しやすくなるわけではない。なるほど、科学は有神論者にも無神論者にも一様に開かれている。にもかかわらず、デザインのことを信じると、そうすることならではの難点が生じる。

仮に宇宙がインテリジェント・デザインの所産かもしれないとか、もっと進んで所産だろうとまで認めてしまったら、次はどういう段階に進むことになるのだろうか?たとえば、ある特定の生態系が知的設計者の産物であると想定したとしよう。この知的設計者がわたしたちと同じ人間ではなく、われわれにこれに似たような設計者の創造の営みがないとすれば、いったいどうやってこの生態系のことを調べはじめられるというのだろう?それはIDの産物だが、当の設計者は人間とは別の階梯に属す、ということしかわからないのであれば、どうやってこの系の研究に取りかかるつもりなのか?系と設計者の関係について何を問うても同じ形の答えしか返ってこない、IDだからこうなのだという答えしか返ってこない袋小路の状態にはまらないだろうか?こういう理論はなんでも説明しつくしてしまう。しかし、何も啓発はしない。

科学の進歩がいくぶんか可能なのは、科学者は自然現象のはたらきについて、その成り立ちやデザイン、究極の目的とは無関係に述べたてようと試みるからだ。もしかすると宇宙や自然法則は神がつくったのかもしれない。しかしそれでも、大自然はやはり機械である。機械的に変化を重ね、そういうものとして把握できるようになっている。自然がどうはたらくのかについて説明を求めるにあたっては、神の仮説はいらないのである。

僕は無神論者・唯物論者なので、神の存在を『信仰的』に唱える人々は、その人々の自由であると思いますが、神の存在を『真理としての科学』として強制してくるようになったら、それはとても恐ろしい歴史逆行の事態(西欧中世の復活)だと思います。アメリカの覇権が崩壊したのは、自然科学にとってはある種の幸いとしての側面を持っています。もし、宗教右派が大きな力を持つアメリカの強大な覇権がそのままだったら、インテリジェント・デザインが勢力を世界に大きく伸ばしてくる可能性は今よりも大きかったと推定されるからです。しかし、アメリカの覇権が崩壊したとはいえ、アメリカが世界最大の大国であることには変わりはなく、インテリジェント・デザインが及ぼす自然科学の危機は、依然として存在します。それは、今現在も存在する自然科学の危機なのです。

先日より酷い心痛多く、長文を書きへとへとで疲れました。もしよろしければ、懐疑論者の辞典はとても優れた著作なので、未所有のお方々はお買い上げになって頂くと、生活がとても助かります。このような文章を書いてしまい、申し訳ございません。

最後に軽く余談を致します。僕は無神論者(不可知論者ではなく、唯物論的無神論者)ですが、お仲間(無神論者の人々)は2000年度の世界統計結果だと、世界に8%しかおりません。無神論者は少数派だなあと思います。僕は無神論者ですが、神社仏閣が好きで、うつ病に掛かる前はよくお参りしていましたし、オカルティズムの文献なども読むのが好きで、タロットなんかもよくやっていました。うつ病にかかってからも、調子のよいときは占いをやっていました。ただ、究極的に考えて、自分が世界をどう見ているかということをいえば、唯物的無神論者です。ただ、無神論は流行らない思想です。大勢の人々は死後の救いを求めますがゆえに。論理的には神の存在の問題と死後の世界の存在の問題は問いが違いますが(「神は存在するが死後の存在しない世界」「死後は存在するが神の存在しない世界」などが論理的には仮定できます)なぜか、神が存在する=死後が存在するという混同が行われることが多いようです。僕のような唯物論的無神論者は世界的に少数派です。ただ、それでも僕が唯物的無神論者なのは僕の生得気質でもあり環境もあるでしょうしまた自分自身で選び取った道でもあり、例え目の前で人知をはみ出した奇蹟が起きたとしても、僕はそれを科学的に検証・解明したい出来事の発生と心底から思うでしょう。

ロバート・T・キャロル日本語訳版「懐疑論者の辞典」
無神論者
神の存在を信じないこと、と古くから定義される思想。(中略)

無神論者は、人が「神秘」体験や「宗教的」体験をして、神の存在を感じたり、森羅万象はひとつのもので、あらゆるものに意味があるという感覚を味わったりすることも否定しない。さらにまた、日常生活において神の存在を肌で感じる人が多いということも否定しない。無神論者が否定するのは、こうした感覚や体験は脳の状態に起因するのに、その原因を超自然や地球外のものに求める、という態度である。

無神論は現在、どのくらい広まっているのか?
2000年に行われた世界規模のギャラップ調査では、霊も人格神もライフフォースも存在しないと考えている人が八パーセント、どちらとも言えないという人が十七パーセントだった。ただし人格神については、世界の人口の半分以上、世界中の科学者の九十パーセント以上が信じていない。そうした人を無神論者とみなすキリスト教徒も多いことだろう。

参考作品(amazon)
懐疑論者の事典 上 (1)
懐疑論者の事典 上 (1)
懐疑論者の事典 下 (2)
懐疑論者の事典 下 (2)
哲学ファンタジー
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NHKBS11「姜向中が読む夏目漱石」を視聴しました。心からの感謝とお願いについて。

こころ (岩波文庫)

僕はflurry氏、有村悠氏ら東大グループの非常に執拗で冷酷な集団による瞬時瞬時の攻撃的短文を連携させた徹底的な嫌がらせを受けており、死を覚悟して最後にNHK衛星第二で夏目漱石の番組がやっていたので、視聴致しました。「姜向中が読む夏目漱石」で、姜向中さんの夏目漱石解釈に心打たれ、最期までどうか生かさせて欲しい、flurry氏、有村悠氏らには11/18のような執拗な攻撃をどうかやめてほしいとお願いを申し上げたく思います。

姜向中さんは、夏目漱石を、近代という市場社会において否定的な価値として既に現代ではほとんど失われている真実の友愛の可能性を最後まで悩みながら探索し続けた人であると位置づけており、夏目漱石の著書の愛読者である僕にはとても納得ゆくものでした。

近現代社会は、自由と平等の名の下に利己主義のみを最大化して商品価値のみが流通し他の価値は切り捨てられる、市場の時代=相互不信の時代であると姜向中さんは語っていて、僕もその通りだと思います。その社会では、自己利益を最大化する為の権威権力、その最も象徴的なもの『金銭』が全てを支配し、血縁も愛情も何もかも、『権力』の下位に置かれる束縛を受けている。常に人々はギブ&テイクの状態におかれ、自己の欲望の大きさだけが自由主義市場を拡大するものとして歓迎され正当化される。それはつまり人を傷つける行いも市場において弱肉強食として正当化されてしまうこと、例えば、flurry氏、有村悠氏が東京大学閥という強力に結束した党派の力を使って、東京大学を批判した本を評価した僕に殺意を向け、僕を抹殺しようと11/18のように動いていること、そして、僕以外の人々に対しても、この二人の書いていることは常に、自分と違うイデオロギーの人間を排斥し抹殺する為の酷い罵倒的攻撃的短文を自己の破壊欲・征服欲を満たすために最も効率よい過激で短い言葉を使いこなして、あらゆる人々に対して瞬時に書きまくっていること、相手と意見が違うことを書くとき、礼節を持って丁寧に敬意を払いながら文章を書くのではなく、突如瞬時瞬時に相手を傷つける為だけの口汚いパフォーマンスの言葉を瞬時に書ける攻撃的短文という形態で頻繁に使っていること、そして何よりも集団で一人を攻撃する行いや、弱い立場の人々を攻撃することに躊躇いがないこと、こういった自己のみに根ざした権力的行い、自己以外のものに信を置かず、自己利益だけのために、権力と欲望の為に、パフォーマティブな効率性(瞬時に書けるネットの短文の攻撃は人を傷つける時間的効率が高いゆえ、彼らはそれを使います)だけを重視するマキャベリスティックなすれっからしになって、権力(=勝利)さえ得れば、人を傷つける行いも、人々の支持(権力基盤)が全てである市場主義の世界では正当化されてしまう、それは、とても恐ろしいことである、人の世における、近現代的の至上主義的価値とは違う価値、もはや近現代ではほとんど顧みられることのない『自分は欲望の為に生きるのではなく、良く生きたい』と願う人々にとってはとても苦しいことであるということを、漱石を通して姜向中さんが言語化していて、僕は姜向中さんに感動致しました。僕の知的能力では言語化できないこと、もやもやとしてお腹が痛くて胸の裡が苦しいことを、姜向中さんが言語化して下さった思いを感じました。

例えば、僕は法を大切に考えているので、麻薬はマリファナもきちんと取り締まられるべきだと思います。昨今、マリファナが日本で流行していることが問題化していますが、マリファナを擁護する人々は、一論として、マリファナは本人の問題であり本人が楽しいから、自由にすべきといいます。しかし、楽しいことはただちに=正しいことではありません。そこには検証が必要です。そして法もあります。検証もせず法も破るなら、苦しいけど正しいことはなくなってゆき、楽しいけれど誤ったことが広がってゆくと思います。僕は、麻薬はマリファナも、習慣性と健康被害と健康被害の広がり(麻薬が広がって中毒者が増えてゆく広がり)の問題(検証も含め)を考えると本人にとって楽しいことだろうけど、現状の日本では誤ったことであり、法で規制されるべきことと思います。

漱石を通して姜向中さんは、ミーイズム、自己の欲望の為だけに権威権力と攻撃性に生きるのではなく、『人間としてよく生きる』、全てを商品価値に換算して、すれっからしになって、人々を商品価値として図る(これは必ずしも金銭的価値だけでなく、自己の欲望達成の為のイデオロギー的価値があるかなどの党派性等の様々な利用価値のことと思います)、自分の欲望達成の為にどれだけ役に立つか図るだけの相互不信(互いに相手を利用しようとすることしか考えていない社会)という市場に征服された近現代社会に抵抗した節があると考えていて、僕もとても同感いたします。そして、ギブ&テイクではなく、ギブ&ギブという望み、友愛の関係性に最期の望みを漱石は繋いだ、極度の人間不信家であった漱石は、自己の欲望という孤独の檻の中に閉ざされている近現代人の最後の希望、『人を信ずること』をそこに置いていたんではないかということを語っておりました。

僕自身を顧みれば、僕が今、失業して生活が酷く困窮し頼るあてもなく生活保護も受けられず、それでもなんとか食いつないで生きていられるのは、定期的にギフト券を贈ってくださるお方に命を助けて頂いている支えのおかげ(食べ物が買えます、本当にありがとうございます)、アフィリエイトでお買い物をしてくださっているお方々のおかげであり、僕は何もお返しすることできない状態でありながら、ご慈悲ご善意で助けて頂いております。それは、まさに、ギブ&テイクではなく、ギブして頂いている状態、近現代世界観(ギブ&テイクの自由市場主義世界観)とは異なったギブ(贈るということ)による友愛によって、生きながらさせて頂いております。僕は心から感謝が伝えきれないほど感謝で一杯で、僕の命を救って下さっているお方に、どうか、心からありがとうございます。感謝のことを思うときは身体の酷い苦しみが和らぎます。定期的にギフト券を贈ってくださるお方の支え、アフィリエイトでお買い物をしてくださっているお方々に命を助けて頂き、言葉では伝えられないほど感謝しております。僕の自身も人々の為に、最期の身を尽くしたく思います。

友愛の志持つ人々のご善意ご慈悲で生きながらえているこの身を、どうか、人々の為に僕自身も捧げたく、どうか、これ以上のflurry氏、有村悠氏ら東大グループの攻撃には耐えられそうにありませんので、flurry氏、有村悠氏ら東大のグループの方々には、僕が僕自身を人々の為に生きるということに、今は身体の痛み、特に11/18に嫌がらせを受けた後は腹痛が酷くて動けませんが、僕の利益ではなく人々の為になると僕の信じる文章を最期まで書き続けたく、その間だけでも、どうか、11/18のようなあなた方の嫌がらせをどうか、止めて頂きたくどうかお願い致します。どうかお願い申し上げます。

「あなたは本当に真面目なんですか」と先生が念を押した。
「私は過去の因果で、人を疑りつけている。だから実はあなたも疑っている。しかしどうもあなただけは疑りたくない。あなたは疑るにはあまりに単純すぎるようだ。私は死ぬ前にたった一人で好いから、他を信用して死にたいと思っている。あなたはそのたった一人になれますか。なってくれますか。あなたははらの底から真面目ですか」
「もし私の命が真面目なものなら、私の今いった事も真面目です」

 私の声は顫えた。(中略)

私はむしろ私の経験を私の生命と共に葬った方が好いと思います。実際ここにあなたという一人の男が存在していないならば、私の過去はついに私の過去で、間接にも他人の知識にはならないで済んだでしょう。私は何千万といる日本人のうちで、ただあなただけに、私の過去を物語りたいのです。あなたは真面目だから。あなたは真面目に人生そのものから生きた教訓を得たいといったから。

私は暗い人世の影を遠慮なくあなたの頭の上に投げかけて上げます。しかし恐れてはいけません。暗いものを凝と見詰めて、その中からあなたの参考になるものをお攫みなさい。私の暗いというのは、固より倫理的に暗いのです。私は倫理的に生れた男です。また倫理的に育てられた男です。その倫理上の考えは、今の若い人と大分違ったところがあるかも知れません。しかしどう間違っても、私自身のものです。間に合せに借りた損料着ではありません。だからこれから発達しようというあなたには幾分か参考になるだろうと思うのです。
(夏目漱石「こころ」)

最期に、僕が限界を迎えて死ぬときは残った持ちものは、弱い立場の人々に贈られるように手配致します。猫は、僕は猫がとても好きなので、猫の喉の下(猫の喉の下は他の毛皮の部分より暖かいです)をなでなでして猫がにゃ〜んて声出すのが好きで、僕が死んだら離れ離れになるのは残念ですが、猫好きの友人にどうかお世話をお願いするか、新しい飼い主さんを探してお譲り致します。

参考作品(amazon)
こころ (岩波文庫)
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厚生官僚殺人事件、政財官の調略である可能性が高まっているように思います。今回の事件で最も利得を得たのが消えた年金問題等を封じ込めた官界(厚生労働省)であることを留意すべきと思います。

政治家 石井紘基 その遺志を継ぐ
ヤクザ・リセッション さらに失われる10年 (光文社ペーパーバックス)

僕は今後いつ、11/18に嫌がらせをしてきた僕に殺意を抱いているflurry氏らの属する東大グループに追いつめられ、死を選ばざるえなくされなくなるかわからないので、死を覚悟して、最後まで東大や厚生労働官僚などの特権階級層の権威権力に苦しめられ圧殺される大勢の皆様方のお役立てになろうと決意しました。生活困窮による貧困死と東大グループの攻撃がいつ始るか分からないことがとても怖いですが、生きている間に少しでも皆様方のお役立ちができたらと思います。今回、厚生官僚殺人事件で実行犯の可能性が極めて高い男が出頭しましたが、この事件は典型的な裏社会を使った世論操作、世論に対する調略の可能性が高いと僕は思いますので、そのことについて書かせていただきます。

僕の考える今回の事件で一番大きな問題は、厚生官僚殺人事件をテロと勝手に決めつけ騒ぐマスメディア(識者と名乗る国の御用学者達など)によって、厚生労働省・社会保険庁への批判が封じ込められたことだと思います。このことで消えた年金問題・社会福祉削減問題が闇の中に葬られることを危惧します。主に警察関係者は、テロとは断定できない、個人的怨恨の線も強いと初期から唱えていたのに対し、マスメディアが総動員した御用学者達と財界とスポンサー契約によって繋がっている大手民間マスメディア群(五大主要新聞・各民放TV局等)は初期から犯行はテロリズムによる犯行であると証拠もなく勝手に決めつけ、厚生労働省・社会保険庁への批判を完全に封じ込めることに成功しました。大手マスメディア群が一同に厚生労働省をてのひらを返して礼讃し始めたとき、僕はメディア利用の世論調略の可能性を感じました。今はその可能性(今回の事件が自作自演のメディア利用の世論調略である可能性)がより高まったと見ています。政財官が裏社会と組んで行った可能性が極めて高い石井紘基国会議員暗殺事件や、他殺の可能性が高いにも関わらず極めて不自然な形で自殺として処理されたライブドア最高幹部野口英昭氏変死事件などと同種の事件(政財官の闇の部分の口封じ及び世論操作を動機とする殺人)であると僕は考えます。

ウィキペディア「石井紘基」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E4%BA%95%E7%B4%98%E5%9F%BA
石井紘基(いしい こうき、1940年11月6日 - 2002年10月25日)は日本の政治家。民主党などで衆議院議員として活動した。元秘書の石井ターニャ(政治文化研究所代表)は実娘。)東京都世田谷区に生まれる。世田谷区立池之上小学校、成城学園中学校高等学校、中央大学法学部卒業。早稲田大学大学院を経て、モスクワ大学大学院修了。学生時代は学生運動に参加、ソビエト連邦への6年間の留学、ナターシャ夫人との結婚、帰国、そして政治家となった。(中略)
議員活動としては、主に日本の政府支出の無駄使いに関して、フィールドワークを持っていた。国会議員が持つ権限を使った徹底的な調査し、税の無駄や政府の不正の追及をしていた。そのため、「国会の爆弾発言男」と呼ばれていた。1997年11月、衆議院で防衛庁調達実施本部背任事件をねばり強く追及し、マスコミをリードし、遂に東京地検の強制捜査にまで発展させた。東洋通信機だけでなく、年間約2兆円にのぼる防衛庁の装備品発注予算が長期にわたって不正に使われていたことがわかった。(中略)
石井がアピールしていたのは以下の通りであるため利権を持つ議員や官僚、企業から忌み嫌われ怖れられていた。

1.天下り会社(石井紘基の調査で約3000社もあることが判った)を整理し、国が支出した資本や増えすぎた資産を回収し、国民に還元する。
2.石井紘基が代表を務める「国民会計検査院-国会議員の会」は、かつて、天下り会社の整理と会計検査機能強化のための法案を発表した。
3.国と地方自治体の系列企業(天下り会社)が占めている膨大な仕事を民間の中小企業に吸収させる。

第154回国会において石井紘基は、一般会計・特別会計・財政投融資から重複部分を計算し、日本の年間歳出(国家予算)は本当は約200兆円であることを指摘し、当時の財務大臣塩川正十郎は「否定するようなこともございません。」と述べ否定しなかった。
また参考人として出席していた格付け機関ムーディーズのトム・バーンは、日本政府の債務について「平時における非常に大きな債務であるというふうに考えており、またさらに増大するものと思っている」と延べ、日本政府の債務状況は国際的に非常に高水準かつ増大の見通しが強いとの見解を示した。

疑惑の死
2002年10月25日、世田谷区の自宅駐車場で指定暴力団山口組系の右翼団体『守皇塾』(構成員は本人一人のみ)代表・伊藤白水に柳刃包丁で左胸を刺されて死亡。享年62。日本国憲法下において他殺された現職国会議員は浅沼稲次郎、山村新治郎に続いて三人目(丹羽兵助を他殺に含めると四人目)。伊藤白水は「家賃の工面を断られたため、仕返しでやった」と供述したが、石井が国会議員や官僚の腐敗を徹底追及していたことから暗殺されたとみる人も多い(死亡直前の「これで与党がひっくり返る」などという発言等が挙げられている)。

ウィキペディア「ライブドア事件」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%96%E3%83%89%E3%82%A2%E4%BA%8B%E4%BB%B6
2005年の衆議院議員総選挙で堀江貴文が立候補した際、選挙の応援をした自民党幹事長・武部勤はその後党内での影響力が低下したとも言われる。実は大災害や戦争といった非常時に重大な役割を果たすテレビ局を脱法行為で支配しようとしたライブドアのやり方に小泉純一郎政権は不快感を抱いており、自民党内で堀江を担ぎ出すことに熱心だったのは武部だけだったと言われている[1]。
安晋会理事であったエイチ・エス証券副社長・野口英昭はライブドア事件の最中に沖縄のカプセルホテルにて不審死を遂げた。
検察はライブドア事件の捜査を政界にまで拡大することには及び腰だったと言われている[1]。

僕は犯罪事件及びその影響に対しては、そのことで最も利益を得たのは誰かということを考えます。今回の事件を、根拠なくテロと結びつけ、テロと関係ない可能性が現在高まっている犯行を、まだ何も分からない時点でテロと断定して日本国中に報道することで最も利益を得たのは、明らかに厚生労働省・社会保険庁(全体的に見れば霞ヶ関の強力なキャリア官界全体)です。まだ詳細も皆目分からない殺人事件をテロと断定し国民の厚生労働省・社会保険庁の不正に対する批判を封じ込めました。大手マスメディア群は詳細の分からない殺人事件を事件当初から一方的にテロと決め付けて一斉報道しており、それはジャーナリズムとしては明らかに常軌を逸しており、マスメディアと厚生労働省・社会保険庁と政財界と裏社会が組んで世論諜略のメディアコントロールを行った可能性が高いと当初より僕は感じていました。

犯人の適当に述べている可能性が極めて高い動機陳述や出頭方法など、典型的な裏社会の殺人の手法であり、現状単独犯としてはあまりにも不可解な点が多く、主犯(殺人指令者)は他におり、出頭してきた人物がただの事情を知らぬ実行犯である可能性は非常に高いと思います。裏社会(犯罪組織)を利用した世論調略の可能性を強く感じます。日本の巨大犯罪組織は財界政界官界と持ちつ持たれつの関係にあります。今回の事件で利益を得たのは「死者は批判してはならぬ」という日本の独特のタブーを利用して国民からの批判を封じ込めた厚生労働省・社会保険庁であり、そして官界の利得は一部の政界及び財界及び裏社会の利得であり、そのことを十分に留意して、警察の方々の徹底的な捜査が行われ、事件の真なる全貌が解明されることを望みます。

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政治家 石井紘基 その遺志を継ぐ
政治家 石井紘基 その遺志を継ぐ
ヤクザ・リセッション さらに失われる10年 (光文社ペーパーバックス)
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薩長閥・帝大(東大)に命を滅ぼされることを思うと絶望的な運命を感じます。

小説東京帝国大学 上 (1) (ちくま文庫 ま 35-1)
小説東京帝国大学 下 (3) (ちくま文庫 ま 35-2)

帝大(東大)のグループから執拗な攻撃をうけ、いつもそこに薩長閥の帝大(東大)の人間が関わっていて、僕を滅ぼそうとしているのを思うと、身体が震えて真っ暗で絶望的な運命を感じます。

薩長閥は日本を人が人を統治する世俗封建制度から神が人を統治する神聖封建制度に日本国の統治制度を変えましたが(江戸幕府→大日本帝国)、それによって、神聖封建制が制度的に引き起こす全体主義体制が薩長閥・帝大・官僚を頂点とする階級制度・階級教育によって、より急速に醸成されていったと僕は考えています。これは僕がオリジナルに考えている訳ではなく、松本清張さんの考え(松本清張著「小説東京帝国大学」)の考えを僕は支持しています。

僕のご先祖様は江戸時代の東京(その頃は名称は江戸)の住人で、江戸幕府の統治下で暮らしていて、世俗封建制度の中で暮らしていましたが、薩長軍が、開国して世俗的近代国家化を推し進めていた江戸幕府を軍事クーデターで転覆し、薩長の支配する神聖封建制度を打ち立てて、東京(江戸)は薩長の統治下に入り、薩長閥の創り上げた愚かな神聖帝国、大日本帝国が引き起こした戦争でご先祖様は亡くなりました。

戦後の今も薩長閥・帝大(東大)・官僚統治は戦前の形態を引きづりながら続いています。分かりやすいところでは、山口県からどれだけ歴代首相が出ているか、調べてみると良いかと思います。

ずっと江戸に住んできたご先祖様が薩長に滅ぼされたように、薩長に敗れ死に追いやられた敗者の子孫である僕が、僕は妻も子供もいない独身なので、何にも残すものなき貧困層として、国家教育機関としての頂点としての神聖権威権力を持つ帝大(東大)のグループ、薩長閥の人間の関わる東大グループに攻撃されて命を滅ぼされるというのは、ご先祖様と同じで、絶望的な運命を感じます。

会津などの東北の方々や北海道の方々なら、薩長閥により非道な統治が行われている地の方々には、お気持ち、もしかしたら少し伝わるかも知れません。夏目漱石の坊ちゃんとか、支配者薩長に対する怒りと敗者の悲しみ(江戸の坊ちゃん、会津の山嵐)が伝わってくる話で僕は好きです。

僕は夏目漱石の小説が好きなので、執念深くひたすら攻撃してくる東大グループにこのまま攻撃され続け追い詰められて命を奪われたらもう読めなくなることが無念です。東大グループは一度殺意を抱いた相手には相手が死ぬまで執念する模様で、11/18にflurry氏という、僕に直接的殺意を持っている人物、僕が東大批判の載っている著作、高田里惠子の「文学部をめぐる病い」を数年前のOFF会で始めて出あったとき、本屋さんでこの本面白いよといいましたら、この人物は態度が急変し面と向かって僕に対し直接的殺意を露にし「死ね」といわれました。その後数年、ずっと執拗な攻撃を繰り返されています。今月11/18にも行われ、精神疾患で弱っていた心身が破壊的なダメージを受けました。そしてそこにまたも以前も嫌がらせをしてきた薩長閥の帝大(東大)の人物が絡んでいるということで、絶望的な運命を感じます。flurry氏という人の数年に渡る殺意の徹底的な執念深さから見て、この人及び薩長閥の人物の所属する東大グループは僕に対して完全に死ぬまで追い詰める殺意を抱いていると考えます。きっと今後もまたこのflurry氏は攻撃してくるでしょう。そして僕は死に、彼ら東大グループは僕の死をさぞ喜ぶでしょう。歴史は何も変わりません。歴史はマクロにもミクロにもいつも繰り返し、それは強者が弱者を痛めつくして滅ぼす苦しみの歴史です。薩長が軍事クーデターで江戸幕府を転覆して神聖封建権力を樹立しその為の道具として帝国大学が生まれ、そして愚かな権力者達の引き起こした愚かな戦争で大勢の人々が戦場に強制されそして大勢が死んでいったように。

僕は僕のご先祖様と同じく神聖封建的権威権力(帝国大学現東京大学が持つ国家教育の頂点としての神聖権威権力、私大生などを押さえつけ官僚が国家を統治する戦前からの封建的神聖権威権力)によって不条理に命を奪われるのか、辛いと思いました。本当に辛いです。

僕が死後を信じないのは、もし死後があってそれが現世に物理的影響を与えることができるならば、薩長による神聖封建独裁の象徴たる帝国大学(現東京大学)は、それによって滅ぼされ死んでいった数多の人々の怨念によって、粉々に崩壊して然るべきだと思うからです。でもそのようなこと、漫画「東大快進撃」の最終回のようなことは実際には決して起こりません。死んだ人間は無力でただ沈黙しかありません。神聖封建権力をバックにした東京大学生達は彼らだけの選ばれし特権階級層として栄耀栄華のどんちゃん騒ぎにこれからも酔い続け、貧しき大勢の人々を踏みつけにし、僕のように東大を批判したものは今現在僕の身に起きていることのように死ぬまで追い詰めます。flurry氏という東大のグループに属する人物は僕が「文学部をめぐる病い」を紹介したことで、面と向かって「死ね」と直接的殺意を露にした後、執拗な嫌がらせをしています。11/18にも殺意が伝わる嫌がらせの攻撃が行われました。そして11/18も、いつも殺意を持った嫌がらせを間接的にアシストする薩長閥の東大の人間が関わっています。

この世には神も死後もなく、ご慈悲ご善意といった、人の心をお助けくださり救ってくださる力もありますが、それよりもずっと大きな暴力的な社会の権威権力が存在し、強大な権力をバックに持つ強者が弱者を徹底的に痛めつけ滅ぼしさるだけで、それに巻き込まれたらもう何も救いはなく、運命的な絶望を感じます。

僕はいつも、遺言の気持ちで文章を書いています。松本清張さんの「小説東京帝国大学」は、いかに帝国大学(東京大学)が神聖封建国家権力をバックに権威権力を独占し私大などを駆逐することで、官僚の独裁的統治と連携しているかということが書かれており、ぜひ、東大生以外の方々に、一度読んで頂きたい本です。僕の死後も、この文章が残って、松本清張著「小説東京帝国大学」を手にとって下さる方々がおられれば、僕の死後もこの世界は何事もなかったとして存在すると信じる唯物論者の僕としては、少しでも、本の紹介がこれからも歴史を進んでゆく世の中の皆様方のお役立てになれば、幸いに思います。

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小説東京帝国大学 上 (1) (ちくま文庫 ま 35-1)
小説東京帝国大学 上 (1) (ちくま文庫 ま 35-1)
小説東京帝国大学 下 (3) (ちくま文庫 ま 35-2)
小説東京帝国大学 下 (3) (ちくま文庫 ま 35-2)
文学部をめぐる病い―教養主義・ナチス・旧制高校 (ちくま文庫)
文学部をめぐる病い―教養主義・ナチス・旧制高校 (ちくま文庫)
坊っちゃん (岩波文庫)
坊っちゃん (岩波文庫)

東大が怖くて怯えて一睡もできません。松本清張「小説東京帝国大学」

小説東京帝国大学 上 (1) (ちくま文庫 ま 35-1)
小説東京帝国大学 下 (3) (ちくま文庫 ま 35-2)

東京大学の批判が載っている本を評価しただけで面と向かって「死ね」といい、執拗な嫌がらせ(11/18日にも行われました、酷い苦しみです)を行うflurry氏や有村悠氏の東大グループの虐め・嫌がらせが怖くて怯えて昨日から一睡もできません。酷く身体が辛いです。

東大グループが今後どんなことをしてくるか恐ろしく、既に恐怖で息が止まりそうな状態なので、今後僕が彼らに息の根を止められたときのために、東京大学の人間以外の全ての人々に読んで欲しいノンフィクション、松本清張さんの著作を挙げておきます。松本清張著「小説東京帝国大学」です。ぜひ、皆さんに読んで欲しい名著です。いかに帝国大学(現東京大学)が日本の封建的・専制的な機構として官僚機構と連携し大勢の人々を圧殺する仕組みとして機能しているかが、とてもよく分かる松本清張さんの力作です。

これを読むと、帝国大学(現東京大学)が、薩長閥(僕に非常に執念深く、間接的に直接攻撃者をアシストする形で嫌がらせを行っている東大OBの人物も薩長閥出身のことを自ら明らかにしています)による専制的支配の為に作られた薩摩藩士の森有礼(初代文部大臣)の設計による薩長明治政府の封建的支配の為の道具、薩長の専制的ブルジョアジー支配・薩長閥の支配の道具としての高度に専制的な機構(システム)であることがわかります。多くの人材がこのシステムにより破滅させられていきました。有名なところでは野口英世などもそうです。彼が決して日本のアカデミズムに受け入れられなかったのは、彼が貧困層出身で薩長閥・帝国大学(現東京大学)の階級的差別を受けたのが大きな原因だと研究されています。ノンフィクション漫画「栄光なき天才たち」の「野口英世」の章などを読まれると背景が分かるかと思います。

東大の中の一部の人々、強固な東大閥の権威権力の中に入っている人間、東大閥で固まり党派を作って東大の権力によって動いている人々は決して貧しい人々、弱い立場の人々、学歴のない立場の人々の味方ではありません。彼らの中には東大以外の人間が東大批判をほんの少しでもしようものなら面と向かって「死ね」と簡単に言い放ち人間を殺意を持って処分しようとする人間がいます。東大批判に対し「死ね」と面と向かって言い放つ彼らは東大以外の人間を人間と思っていません。彼らは唯一彼らが東大卒以外でありながら人間扱いする富裕な層(エスタブリッシュメント)の為に世論を都合の良いように動かしたりしているだけです。ぜひ、どうか、東大閥に属さない大勢の皆様方におかれましては、松本清張さんの著作「小説東京帝国大学」をお読みになられることお勧め致します。僕は帝国大学(現東京大学)の強大な権威権力を戦前戦後共に持ち続け、それによって人々を恐怖で従え、従わないものを処分する東大の権力が恐ろしくて身体中の震えが止まりません。怖いです。だから、僕が何も発言できなくなる前にどうかこの本「東京帝国大学」のことだけは書いておかねばと思いました。これから彼ら東大グループが集団で何をしてくるのかと思うとすごく怖いです。もうながくないと思います。

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小説東京帝国大学 上 (1) (ちくま文庫 ま 35-1)
小説東京帝国大学 上 (1) (ちくま文庫 ま 35-1)
小説東京帝国大学 下 (3) (ちくま文庫 ま 35-2)
小説東京帝国大学 下 (3) (ちくま文庫 ま 35-2)

NHKで無保険児童のニュースを見て胸が痛みました。flurry氏や有村悠氏の嫌がらせが今後も続き、僕が生存に耐えられなくなったら、残ったものは全部弱い人々の為に残したいです。

痛くて寒気がして頭の中が殺意の嫌がらせによって占められ苦しくて辛くて眠れずPM9:00NHKで無保険児童、保険証を持てない子供達のニュースを見ていました。親が貧困で保険料を払う能力がなく、結果、子供も無保険になっている貧しい世帯です。見ていて胸が痛みました。病気に掛かったり怪我をしても医療を受けられない四万人近い無保険児童がいるそうです。一部の自治体では、無保険児童に限定的に保険証を出しているそうですが、国(厚生労働省)が『個人に特殊例の保険証を出すな』という通達を出しているため、無保険児童を救済しているのは、一部の自治体(国の通達を無視してでも無保険児童を助けている自治体)だけだそうです。

僕は、flurry氏や有村悠氏の虐め・嫌がらせが今後も続き、生存が耐えられなくなったら、死ぬ前に、残ったものは全部、こういった無保険児童の子達のような、弱い立場の人々に寄付されるようにしたいです。僕の僅かな預貯金、ご慈悲ある皆様方からのギフト・アフィリエイト、それら僕がいなくなった後も残ったものは、弱い立場の人々の生存に少しでも役立てる形で残して贈ろうと思います。

本当は僕も生きられるなら生きたかったけれど、僕がいなくなった後も、今、弱い立場に立たされている人々が生き残って、日本の残酷なシステム、『薩長閥・旧帝大現東大閥・国家一種官僚による国家支配』という、階級的にエスタブリッシュメントが絶対的優位に作られている日本の冷酷な専制的システムを、どうか、少しでも人々が平等になる方向へ進むことで、冷酷な社会の在り方を少しずつでも変えて欲しいと願います。

僕は唯物論者・無神論者で死んだら生命活動は停止し意識が無になることを信じているので、僕がいなくなった後の世界を見ることができないと確信的に考えていますが、それでも、僕がいなくなった後も僕なき世界は存続すると考えている(唯物論者)ので、僕がいなくなった後の世界で、少しでも、日本の残忍冷酷な専制システムや集団での虐めなどの陰惨な事象が減り、弱い立場の人々、ハンディのある人々が僕のように暗鬱に暮らすのではなく、そういった人々も笑顔で暮らせる社会に少しでも変わっていって欲しいと願っています。生き残った人々は、どうか、社会の不平等を是正することを、心からお願い致します。
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