終わってなかった宮本浩次

アルバムレヴュー:エレファントカシマシ‘俺の道’

 

 エレカシ13枚目のオリジナル・フルアルバムは、‘エレファントカシマシ’(1988)、‘東京の空’(1994)、‘ココロに花を’(1996)に次ぐ4枚目の「正統派ロック・アルバム」である。そして、最近の宮本浩次の作品に不満をもち、「エレカシにはもう見るべきものがない」、もしくは「宮本はもう終わった」と思っていたファンに強烈なカウンタ ーを喰らわせるだけの魅力に満ちた、会心の一作である。

 宮本の作品には硬軟さまざまなタイプの作品があり、ファンの好みも分かれるところだが、私はロック色の強い作品を好むタイプである。その立場からのアルバム批評になるため、異論・反論もあるだろうが、ファン歴12年の私である、ひとつ耳を傾けていただければ幸いである。

 さて、エレカシ宮本の表現衝動…つまり何にこだわり、何をきっかけに表現するのか…それはニュアンスこそ変化しているが、一貫して変わっていない。今作で久々に炸裂したその感情とはズバリ、これである。

 

「美しき祖国、日本。黒船という外圧により開国し近代国家に生まれ変わったこの国は、開国150年を経てどこへ向かうのか。近代化の際、想像を絶する葛藤のなかで、新しい国家と精神の確立を目指した明治の人々、とりわけ文豪たちと張り合うためには、自分(宮本)は何をすべきか。どうすれば尊敬する文豪たちと肩を並べることができるのか

 

 現代社会において、私たちが必ず突き当たる「自分とは何か」という問題に対し、宮本は「俺は日本人だ」と胸を張って答える。そして現代日本と(明治の文豪に憧れる)自分を重ね合わせた時、今度は深い葛藤にさいなまれる。それは明治の文豪たちが、近代国家に見合う国民の精神の在りようを模索し続けたという「男としてスケールの大きな仕事を成し遂げた」ことへの憧れと、豊かにはなったが明らかに何かを失い、行き詰まった日本に対し、「新しい価値観をロックで提示したいが、評価されない」自分の現状とのギャップとの間の苦悩である。

 94年、‘東京の空’で、過去5枚のアルバムで見せた停滞感(あくまで一般的な評価という意味での「停滞」である。私はこの間の作品、‘浮世の夢’‘生活’‘エレカシ 5’をこよなく愛す)をぶち破り、やっと周囲に認められるポップなサウンドを確立して以降、宮本は自己と社会、つまり「世間」との大きな隔たりを埋めるべく、努力を重ねてきた。それは‘ココロに花を’以降のブレイクという形で身を結ぶことになる。

 それまで自分の精神世界しか表現できなかったのが、周囲の求めによりラヴソングを書き、ヒット曲を生み、テレビ出演を重ねていった宮本。キャラクターを活かし、タモリという共通の趣味(古地図収集)を持つ理解者に出会う一方で、ドラマでキスシーンまで演じてしまうという驚天動地の大チャレンジまで行った宮本。公開番組で満足いくパフォーマンスを終えたのち、GLAYによる比較にならないほど観客を魅了するプレイを目の当たりにし、圧倒的な敗北感を味わった宮本…96〜00年ごろまでは、さまざまな意味で目立った動きを見ることができた。そこには「自分の主張を届けたい」⇒「ミリオンを生みたい」⇒「(明治の文豪がそうだったように)新しい価値を創造し、スケールの大きな仕事をしたい」という強い願望があった。

 しかし現代のポップミュージックの世界において、これらの願いをかなえるためには相当の覚悟と精神力が必要なのである。つまり理解者と人脈が必要で、頭を下げ続けなければならないことと、マスコミの好奇の目に晒されても自分を見失わないだけの哲学を持ちつづけることである。

 宮本は独特の哲学は持っている。しかし芸能界で絶対必要な、自分の心とは別の感情表現をすること…つまり(頭を下げることはともかく)作り笑いを続けることには明らかに限界があった。そのため次第にテレビ出演の回数は減っていき、アルバムセールスも下降していった。この点において、宮本は確実に敗者であった。「世間で生き抜く」ということは他人との軋轢を避け、妥協を重ねることに他ならず、宮本はそれが出来なかったのだ。

 ‘ココロに花を’に次ぐ‘明日に向かって走れ−月夜の歌−’(1997)は快作で、セールスも絶頂に至ったが、そこから明らかな試行錯誤が繰り返されていったのである。明らかに迷いが見られる‘愛と夢’(1998)を経たのち、虚飾にまみれたテレビタレントとしての日々のストレスと怒り(それはウソ臭いテレビ業界と、そこに身を置く自分への怒りでもある)は、宮本の心に再び火をつけることとなる。

 それが、宮本の怒りが実を結んだ作品として最大級の評価を得たシングル‘ガストロンジャー’(1999)だ。私は過去にこの曲に関する批評を書いているのでhttp://www.ab.cyberhome.ne.jp/~m-ogihara/kanda.html)、詳しくはそちらを参照願いたいが、特に際立つ、話し口調(朗読長)によるヴォーカルは、前年(98年)のNHKの音楽番組でビースティ・ボーイズを知り、その歌唱スタイルに影響を受けたものだと思われる。つまり、普通に歌ったり叫んだりするのではなく、かといってラップをするわけでもない。類稀なる作詞のセンスを活かすために、あの(江戸っ子口調の)朗読スタイルによるヴォーカルを採用し、結果としてその方法論は最適だったのだ。私を含め、狂喜したファンの何と多かったことか…。

 しかし、この曲が収録されたアルバム‘GOOD MORNING’(2000)と次の‘ライフ’(2002)は、曲の出来にばらつきがありすぎ、統一感に欠けるものだった。それまでは、「怒り」が宮本の表現における大きなファクターだったのに対し、これらのアルバムでは、全体を覆うだけの怒りのエネルギーはもはや(30歳を過ぎた宮本には)失われてしまっていたからである。前者は急にのめりこんだ打込みの機械的な音作りがかえって素人っぽさを露呈してしまい、明らかに中途半端なものだったし、後者は宮本の日々の生活の独白が多くの歌詞の中心を占めているが、内容的に冴えたものはなかった。繰り返される日々のなかで悶々とする自分の姿を歌ったり(‘部屋’)、‘真夏の革命’では自身のプロフィール紹介をしていたが、こちらは倉沢淳美の方がマシだろうと思える位(この例え、分かるかなー)のクオリティの低さであった。期待された小林武史とのコラボレーションも、宮本を小ぢんまりさせてしまう結果に終わってしまっていた(‘普通の日々’)。

 結局両作品とも、少なくとも私には満足のいく作品ではなく、一部では‘武蔵野’に代表される「青春ソング」が女性ファンなどから支持を集めた(‘はじまりは今’‘四月の風’にはいつも感動する)ものの、私はあくまで本来のロック路線を期待し続けていた。 

 

 宮本は何もないところから自動的に詞が浮かんでくるタイプではない。「怒り」をテーマに、自分と社会に矛先を向け続けることによりやっと詞がうかんでくるタイプなのだ。それが年とともに少しずつ「丸く」なり、しかも何だかんだいっても平和な日本では、シリアスな宮本の世界観や社会意識が幅広く受け入れられるはずもない。あまりに平和な日本では、聴く側の(「自分達はこれからどうすべきなのか」という宮本の問いへの)共感を得られる土壌はまるでないのである。(かつて、「何かおかしいんじゃねーの?この世の中って」と思う人だけがエレカシファンになると言った人がいた。同感だ。)

 そんなギャップに、宮本本人も悩んでいたようだが、そんな彼が落ち着いたのは、夏に行われるいくつかのロック・フェスティバルで確実に観客を熱くさせることができるというライヴバンドとしての貴重な存在感と、それに対する安定した高い評価であった。

 それはファンにとっては嬉しいものではあったが、盛り上がるのがいつまでも‘ファイティング・マン’や‘デーデ’では困るのである。常々ロックへの強いこだわりを公言している宮本だ。そろそろ新曲でファン(もはや「ロックにこだわるファン」など少数派だが…)を唸らせねばならない時期だったのである。

 そこに届けられた新作アルバム‘俺の道’。先行シングル3枚で予感させた「ロック回帰」の流れがアルバム全体を見事に覆い、トータル性を磐石なものとしている。歌詞は重く、ヴォーカルもシャウトしまくり。歌詞は‘奴隷天国’以来10年ぶりの縦書き、ジャケットは凶暴そうな犬の写真で、ともにエレカシの持つ本来の棘を表している。

     @生命賛歌 

      A俺の道 

      Bハロー人生!! 

      Cどこへ?

      D季節はずれの男 

      E勉強オレ 

      Fラスト・ゲーム 

      G覚醒(オマエに言った)

     Hろくでなし 

      Iオレの中の宇宙

      Jロック屋(五月雨東京)

      K心の生贄(いけにえ)

    ※ Kはシークレット・トラック。パソコンでの再生時にタイトルがクレジットされる。

 

 宮本は自分を歌う。決して他人をテーマに詞を書くタイプではない(だからほとんどの歌詞の主語、すなわち主人公は自分である)。問題はその「自分」の姿だ。かつては部屋の中にいる自分しか歌えなかった(‘生活’‘5’のころ)が、ブレイクしたのは、ある程度の対人関係の中に身を置く、一般的な社会性を持ったときであった。

 皆さんも想像してほしいが、普通ひとは、周囲に仲の良い友人や恩人、家族が20〜30人位はいると思う。日々の生活でこれらの人たちとの関係が上手くいっているとき、そのひとの精神状態はとても安定し、良好な状態にあると思う。宮本もやはりそうで、96〜98年ごろ、様々な苦労の末にほとんどはじめて、恐る恐る社会に出てみた(=社会性を持った)とき、周囲は思いのほか自分を受け入れてくれ、しかも優しかったのである。そう、部屋から飛び出して身近な世界に飛び出し、それを歌ったとき、そこにはブレイクが待っていたのである。

 但し、それには限界があった。部屋にいる自分をテーマにしていた頃、宮本は「半径2メートルの出来事」しか歌にすることができなかった(例:‘遁世’‘晩秋の一夜’)。それゆえ極めて限定された少数のファンしかいなかったのだが、その後、いわば「半径100メートルの出来事」を歌った時(例:‘Baby自転車’‘今宵の月のように’)、多くのファンを獲得できた(=多くの共感を得ることができた)のである。

 しかし、成功は麻薬でもある。宮本は次第に自分を見失っていく。歌詞の世界の半径(歌詞のテーマとなる世界)はいつの間にかどんどん広がり、ついに「半径10キロ以上」になったとき、その歌詞は個性を失い、魅力に乏しくなっていったのだ。それがアルバム‘愛と夢’以降の、他の誰かにも書けるような、特徴のないいくつかの曲(例:‘ヒトコイシクテ アイヲモトメテ’、‘精神暗黒街’)だったと私は思っている。

 半径10キロ以上の世界…それは言い換えれば、自分の知らない世界を、想像力を働かせて歌詞にし、かつリアリティを持たせることができるということである。これができる人はそうはいないが、もしできればそこにはビッグセールスが待っている。ロック界で分かりやすい例を挙げれば、それは桜井和寿であり、草野マサムネであり、奥田民生である。もちろんGLAYもその中に入れてよい存在であり、その点において宮本は、完全なる敗北者なのである。ちなみに世の中には「半径100キロ以上」という、途方もなく広大なスケールの世界観を持ち、様々なテーマで20年以上、曲を書き続けることができる人いる。桑田桂祐である(‘アミダババアの唄’を見よ)。

 そこで今回のアルバム‘俺の道’はどうかというと、それは「半径100メートル」の身近な世界である。これをリアルに、強い口調で歌っている。ヴォーカルの力強さは過去最高であり、全体の印象でいえばアルバム‘東京の空’に近い。Aのメロディは‘東京の空’(アルバムのタイトル曲)を連想させるし、Bは‘極楽大将生活賛歌’そのままだ。またCのゴツゴツとしたギター・リフは‘ドビッシャー男’のようで、はっきりと「ロック」している。

 歌詞を見てみよう。注目すべきはFで、「一日の そう どこかにリアルなオレが存在してるだけでいい リアルな日々に でもどこかしら カッコイイオレを探せ」という部分がある。これは注目すべき変化で、本来、ひとが自分を見失わずに社会の中でたくましく生きていくために、とても重要なことである。以前のような、四六時中ピーンと張った糸のような緊張状態では周囲は疲れてしまうし、何より本人の精神的なバランスが取れないため、良い作品を残すことが出来なくなってしまう。伝統工芸の職人世界ならともかく、「聴いてもらってナンボ」のポップミュージックの世界にいる以上、このような思いで日常性、社会性を保つことは非常に意味のあることだと私は思う(何だ宮本、そんなことに今さら気づいたのかといわれればそれまでだが、まぁいいではないか)。

 その結果、Eのように自分を客観的に見つめ、かつ自虐的にパロってみせる余裕の心境に達した(つまりボケができるようになった)のは、今後に大きな期待を抱かせるものとなるだろう。私がほかに気に入っている部分は、例えば以下に抜粋した歌詞などである。

 

       B ハロー人生!!この「のれんに腕押し。」

        ギラつくまなじりで睥睨(へいけい)して歩め

21世紀今日現在この東京じゃあ、

さほどオレの出番望んじゃいないようだが、

かまわねぇ オレはまだ生きている 

そうさオレはまだ生きている

赤く染まったあの夕陽をあびて

オレは育ったこの渋き精神の国で

「オレは何なんだ、一体何者なんだ?」

 

F そう 俺は芸術家 

 昔の永井荷風のように日々を歌え 何はなくとも

 大袈裟でなく豊かな風土よ日本 俺の祖国よ

 でも戦わずして骨抜きじゃない俺は 勝負しなよ

 そう俺はロック歌手 歌えよ 声がまだ出るうちに

 

J 布張りの椅子にもたれつつ うかれ気分で考えた

  「人生において何をやったって構わないが

  オレの心と相談して嫌だなと思ったら立ち向かえ」

  この明快な結論を頭で得たから…

  オノレの道を行け 

  オレはロック屋(川の中の岩となれ)

 

 思えば昨年末にひっそりリリースされた‘DEAD OR ALIVE’は、今作と違い魅力に欠ける作品だった。言葉が軽いのだ。「奈落の底まで堕ちてく生命」(‘DEAD OR ALIVE’)や、「見渡す人の情けは 悪魔のように優しく まるで死への誘い」(‘漂う人の性’)なんて詞は10年前にX−JAPANが使ったような安っぽいフレーズで、どうしても好きになれなかった。いま歌詞カードをみると実はけっこう良かったりするのだが(‘何度でも立ち上がれ’など)、結局ヴォーカルに迫力がなければダメなのだ。だから気に入らなかったのだと思う。

 やはり宮本には今作のようなシャウトが似合うのだろう。バックとの相性も、叫びまくるヴォーカルと歩調を合わせるようにバツグンである。それゆえ、特にエピック時代からのファンで最近の宮本に違和感を持っていたような人にはぜひおすすめの作品といえるだろう。

 

 エレカシ13枚目のオリジナル・フルアルバムは、彼らにとって4枚目の正統派ロック・アルバムだ。宮本はじめ4人のメンバーの、40歳近くなっても衰えないパワーをもらうとしよう。勇気が出るはずだ。

 最後に、公式発表にはない、12曲目に収められているシークレット・トラックの歌詞をここに記そう。解釈によっては、華やかなテレビの世界に飛び出し、そこで感じた違和感を歌っているように受け取れる。

 (ある程度は仕方ないが)ヒットを生むために魂を売り、踊らされてピエロにならざるを得ない世界への決別と、非力ではあるがやはり自分の力で、できるだけのことをやっていきたいと歌う(ように聴こえる)この曲は、アコースティックを用いたことと、心情を穏やかに吐露するような素直な歌い方(このアルバム唯一のスタイルである)から、‘四月の風’を彷彿させる、とてもさわやかな印象の名曲である。

 

  心の生贄

春の風は俺を 舞台上に立たせる

力をみなぎらせる奴等に 一蔑をくれて

俺は強く求める 俺は今以上の俺を

俺は青空浴びて 俺は街の空気吸い込む

あるべきでない場所へ 俺潜り込んで

追いかけられたカラス よろしくな ていたらく

さらば 俺に帰ろう 

 

落胆の後にくる感動じゃなくて 俺は 

俺はこの眼で見つめる 俺のこの足で立つ

俺は優しさと軽蔑 取り違えていたんだろう

結局 一人芝居の 心の生贄だった

 

愛すればこそ 俺は強く求めよう 今以上の俺を

ただ あるべき場所へ帰る 

さらば 俺に帰ろう

 

春の風は俺を舞台上に立たせた

力をみなぎらせる奴等に 一蔑くれて

 

信じればこそ 俺は強く求めよう

今以上の俺の中 まだあるべきその場所へ

さらば 俺に帰ろう

 

愛すればこそ 全てをぶつけなよ

今以上の俺の中 まだあるべきその場所へ 

さらば 俺に帰ろう 

 

 

             H15.8.14   H・KANDA