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東京の地名の由来 東京23区辞典
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平成17年2月11日発信 リンクフリー 地名の由来東京23区辞典 引用自由 |
| 目黒区の地名の由来 形の調査なれば、逐次、誤謬訂正・新規追加あり。御用心御用心。 ご意見とご教示→メール |
| 今、墨田区が大騒ぎだ。2010年大変なことになるぞ! 新東京タワーのデザイン決定! チャンスを生かせよ。 |
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目黒区の地形 目黒区は、武蔵野台地の東地域(荏原台・淀橋台)に位置しており、区のほぼ全域が台地上 にある。これら台地面には目黒川・呑川・立会川とその他の小河川、水路などによって刻み込 まれて形成された谷地が樹枝状に分布している。高さは海抜30〜45mと安定している。 |
| ■地形・地質と住宅地盤 |
| ●台地面 比較的海抜高度が高く起伏の少ない平坦面で、関東ローム層と呼ばれる火山灰土で覆われて いる。関東ローム層は、上部のローム土(赤土)と下部の凝灰質粘土に大別されるが、自然堆 積したローム土は、安定しており比較的大きな強度が期待できるため、表土部分に注意すれば 住宅地盤として良好な場合が多い。区の大部分に相当し緑ヶ丘など南部に高級住宅地がある。 全体に住宅地として穏やかな環境にある。 |
| ●台地と低地の境 台地の側面が低地側へと下っている斜面で、台地面と同様に安定した地盤となっている場所 もあるにはあるが、後背地から浸透してくる雨水や地下水の影響で地盤が軟弱化したり、雨洗 によって台地側から運ばれて再堆積した軟弱土が分布している。また人為的に造成されている ため、場所によって盛土の厚さが異なるように地盤のバランスが悪くなっていることがある。 従って不同沈下を防止するような基礎補強策が必要となることも多い。 |
| ●谷底低地 台地部が小さい河川などによって削られて形成された低地で、台地部の間に樹枝状に分布し ている。台地を形成していた土砂が再堆積した土や有機質土(腐植土)などが分布しており、 非常に軟弱な地盤となっている。だから長期的な沈下(圧密沈下)を防止するような基礎補強 策が必要となることが多い。目黒川・蛇崩川・呑川・呑川柿の木坂支川・立会川・九品仏川の 各流域にある低地だ。目黒川を除いて総て暗渠としたので、現在では川の氾濫はないが大量の 雨が降った場合にこの低地に多量の水が集中する可能性は失われていない。また目黒川は氾濫 川としてしばしば水害をもたらしたが、ために上流部(烏山川・北沢川)を暗渠とし、昭和5 0年代後半に浚渫して川底を下げたが、だからといって100%その危険性が薄れた訳ではな く、現在もしばしばキャパシティを超えると溢水し道路冠水することがある。徹底した安心が 欲しい人は、目黒川の沿線低地には居を求めぬことだ。 |
目黒区の変遷 ●東京府 現在の目黒区の区域に入る江戸時代の三田村・上目黒村・中目黒村・下目黒村・碑文谷村・ 衾村は、慶応四年(明治元年)六月二十九日勘定奉行代官を改称した武蔵知県事に属し、明治 2年2月9日品川県(三田村は東京府)編入、同4年7月14日の廃藩置県により11月2日 品川県が廃されて東京府に編入。同7年3月8日大区小区制により荏原郡が廃され第七大区に 編入され自治権を喪失した。この大久保利通の専制政治に全国的に不平武士が抵抗したが、大 久保が正義の刃の下に天誅にあって死亡すると、新政府は大慌てに大区小区制を撤回、同11 年7月22日「郡区町村編制法」を施行して荏原郡を復し、同22年4月1日「市制町村制」 により三田村と上目黒村・中目黒村・下目黒村が合併して「目黒村」、碑文谷村・衾村が合併 して「碑衾村」が成立。大正11年12月1日目黒村が、昭和2年4月1日碑衾村が町制に移 行した。昭和7年10月1日東京市の膨張により市周辺の5郡を市域に組み込んで20区を増 設することになり目黒町と碑衾町が合併して一区44町となった。目黒町の方が都心に近く繁 栄していたので目黒を区名とした。同18年7月1日内務省の支配権拡大の企図から府県制を 改正、東京府と東京市を廃して新たに東京都を発足させ直轄力を強化した。 ●東京都 同20年敗戦。同 21年9月27日占領米軍の民主化政策により「都制・府県制・市制・町村制」が改正され、 各首長は全て公選制となった。これには大久保式専制中央集権政治による国民完全支配を目指 す内務官僚等は、己れの権力が抉られることに危機感を感じて猛烈に反対した。しかし情けな いことにアメリカ人に人倫の道を説かれ私利私欲に走る専制政治の非を悟らされ漸くすごすご と引き下がった。同22年3月15日戦禍で体力の落ちた都心区を廃置分合して22区制が発 足、4月17日市制町村制を廃し地方自治法が施行され内務官僚は卒倒した。8月1日練馬区 が独立して23区制確立。同37年5月10日住居表示に関する法律が施行され、万人に判り 易い新住居表示が実施された。 平成16年町数は27。区役所は上目黒にある。特産品は大田区小山に始まった孟宗竹、そ れに菜種油だったが、今や農家は数えるほどしかない。国立教育研究所・防衛研究所・日本近 代文学館・東京近代文学館・川の資料館・日本民芸館・目黒寄生虫館・目黒郷土資料館・香取 正彦記念館・目黒不動・祐天寺・円融寺などの文化施設がある。姉妹・友好都市は北京崇文区 と長野県東御市(とうみし)。 ●小学校24(区立22・私立2) 八雲・菅刈・下目黒・碑・中目黒・油面・大岡山・烏森・向原・五本木・鷹番・田道・月光 原・駒場・緑ヶ丘・原町・不動・上目黒・東根・中根・宮前・東山 目黒星美学園 トキワ松学園 ●中学校18(区立6) 第一〜第十一 東山 日出・日本工業大学駒場・トキワ松学園・多摩大学目黒・目黒学院・八雲学園 ●中等教育学校(都立1) 桜修館(旧都立大附属高校) ●高等学校12(都立4 私立8) 駒場・芸術・目黒・国際 日本工業大学駒場・東京学園・トキワ松学園・自由ヶ丘学園・日出・目黒学園・八雲学園・ 多摩大学目黒 ●大学(国立2) 東京大学教養学部(旧制第一高等学校) 東京工業大学 都立大は多摩に移転して、今は首都大学東京になっている。 |
■目黒区興津健康学園 千葉県勝浦市興津143番地にある。区立小学校の3年生から6年生で、太りぎみ、軽いぜ ん息がある、食べ物の好き嫌いがある、体が弱いといった健康に課題を持つ子どもたちを対象 にした全寮制の区立小学校だ。学習は目黒区立の小学校と同じように進められ、その上恵まれ た自然環境と少人数を生かして、一人一人の個性を生かした肌理細かな教育が行われている。 ■八ヶ岳林間学校 山梨県北杜市清里字念場原3545番地にある小学生対象の区の宿泊施設。一般区民の利用 可。 ■北軽井沢林間学校 群馬県吾妻郡長野原町大字北軽井沢宇南木山熊の内2032−2208にある中学生対象の 宿泊施設。一般区民の利用可。 |
目黒の由来 「めくろ」とも読み、@、牧場の畦道(免畦・馬畦)説。A、慈覚大師の目の黒い不動尊像 説。B、馬の目や毛の色(馬黒)、馬の名前説。C、地味説などがあるが、どれとも決めがた い状況にあり、正確なところは判らない。 文字についても種々の説がある。上目黒で江戸時代に栄えていた加藤家の家譜によると、天 正年中の事実を記したところに「荏原郡菅刈庄免畔」と、つまり「免畔」という文字が記され ている。従って当時は免畔と書いたのだろういう説もあるが、天正よりも10余年も前の永禄 二年(1559)に改正された『北条家人分限帳』に「目黒」と書いてあることから、天正以 前から目黒を用いていたことは疑いない。免畔は洒落書きではあるまいか。 また不動尊縁起にに「慈覚大師大同三年(808)上洛の途次妻驪の里に宿り・・・」とあ り、この字は松沢家が所蔵する慈海僧正の経巻にも認められている。また「天正年中青山伯耆 守の所領となる及び妻驪を改めて目黒と言ふ。蓋し和訓相通ずればなり・・・」ともある。 ●牧場の畦道(免畦・馬畦)説。 馬畦(めくろ)の畦は、田んぼの畦道(あぜみち)ではなくて馬が逃げ出さないように盛り 土した牧場囲いの土手のことで。どんなものか実見したい人は世田谷区の九品仏浄真寺に行く がいい。寺は奥沢城址だ。中世の乗馬飛越防止の館囲いの土手が残っている。高さにして2m ばかり、それほど高くはない。サラブレッドなら簡単に飛越するが、和馬はロバを大きくした 程度の大きさだからこれで十分だった。飛越のためには助走路が必要だから外周を壕または軟 弱地盤にしておけば強襲は防御できた。 ●慈覚大師の目の黒い不動尊像説。 滝泉寺の不動尊像は、大同年間(806〜9)に慈覚大師が比叡山に向かう途中、霊夢に突 き動かされて彫刻し安置したものだといわれている。村名になってもおかしくないほど古い訳 だ。不動尊像の目を黒く塗っていたことから「目黒不動」と呼ばれ、江戸五色不動の一つに数 えられる。しかし五色不動は目黄・目青が新設された明治に入ってからのことで、それまでは 三不動だったらしいので、不動尊明王の目の黒いのは当たり前だから、それほど意識したろう か。他の色なら判らぬでもないが・・・・『小田原衆所領役帳』に「目黒本町」があり、それ が何処だかは詳らかではないが、現在の目黒本町は目黒村とは無縁なのだ。目黒不動の近辺が 最も早く開けたので、その辺りじゃないかといわれている。正保〜元禄のころに上・中・下3 つの目黒村に分かれた。 ●馬の目や毛の色(馬黒)、馬の名前説。 武蔵国は牧場が多かったので馬に因んで名づけられた地名が少なくない。馬込・駒込・駒岡 ・駒林・馬引沢・駒沢・練馬・有馬・駒場・駒井など、その例はいくらもある。また昔は眼色 ・毛色を以て馬の名とし、それが地名となったものもあるから、目黒・馬黒となったというの も、強ちなくはない。日本武尊が東征の時、1頭の青毛(黒色の毛)の駿馬を手に入れ、これ を乗馬(じょうめ)として愛でたという。これを漢字に宛て「驪」と書き、これを愛馬とし、 「愛でる驪」つまり「愛驪(めぐろ)」転じて「目黒」となったと説く。 ●地味説 芽久呂から来たもので、農産物が地味に恵まれ、良く生育する意。そのことから芽久呂と呼 び、それが不動尊の目黒と韻が通じて居る結果、現在の地を冠するに至ったという。 |
■区の花 ハギ(萩) 豆科。学名は Lespedeza thunbergii(宮城の萩) Lespedeza bicolor var. japonica (山 萩) Lespedeza : ハギ属 thunbergii はスウェーデンの植物学者「ツンベルク」の名前、 bicolorは「二色の」、japonica は「日本の」、 Lespedeza(レスペデーザ)は、18世紀後 半の、アメリカのフロリダ州知事のスペイン人「Cespedes」の名前にちなむのだが、誤植のた め Cespedes が Lespedez になった。開花時期は、6・5月頃〜10月末頃。秋の七草のひと つ。ハギ、ススキ、キキョウ、ナデシコ、オミナエシ、クズ、フジバカマ、秋の七草 日本各地の山野でごく普通に見られ、萩といえば山萩(やまはぎ)を指す。東京近辺で見ら れるものは 「宮城の萩」と 「山萩」がほとんど。 ■区の木 シイ(椎) ブナ科シイ属(Castanopsis)に属する樹木の総称。他にマテバシイ属マテバシイ(Pasani a edulis)もこの名で呼ばれる。果実のドングリ(椎の実)は食べられるので、古くから親し まれている。照葉樹林の代表的構成種でもある。暖帯の平地における普通種で、琉球列島・九 州から本州にかけての照葉樹林において多く見られる。いずれも生でも食べることができる実 をつけるため、縄文時代には重要な食料であったといわれ、現在まで親しまれている。日本の シイ属には、ツブラジイ(コジイ、C. cuspidata)とスダジイ(ナガジイ、イタジイ、C. sie boldii)の2種が分布してる。両者は共通点が多く、区別が困難な場合や、中間と思われるも のもある。 大きいものは25mにも達する大木となる。大木では樹冠が丸く傘状になる。葉はカシ類と しては小さめで、艶のある深緑、やや卵形で先端が伸びた鋭尖頭、葉裏は灰褐色になる。花は 雌雄別花序で、カシ類の多くが風媒花で花びら等を持たないのと同じ構造だが、シイの雄花は 枝先に密生し、全体が黄色に明るく色づく。また香りが強く、栗に近い生臭い香りで、昆虫が よく集まる。雌花も穂状につき、果実は翌年に熟し一つの枝に数個が並ぶ。普通のドングリは 帽子を被っているように一部が包につつまれている。ところが、シイは実が完全に包につつま れて熟し、それが裂けて外に出る。果実はいわゆるドングリ(堅果)だが、やや小型で色が黒 く、お尻の白い部分との境の段差が、はっきりしない。殻を割ると中の種子は白く、生で食べ るとやや甘みがある。また葉の裏は金色がかって見え、葉にはギザギザがない。 ■区の鳥 シジュウカラ(四十雀) 学名は Parus major。いわゆるカラ類の中の代表的な鳥である。英名 Great Tit は大きな カラ類の意。現在シジュウカラは70円切手のデザインのモデルになっている。その名前の由 来は、木々の間を「落ち着きなく始終動き回る」ことから。漢字表記は「四十雀」で、一羽で 雀40羽分の価値があることからといわれる。全長15cmほどで、ほぼスズメと同じだが、 体重は約3分の2。首から腹にかけてのネクタイのような黒い模様が特徴的である。この模様 は、巣立ち後の最初の換羽で現れ、オスの方がメスより太く、野外で性を識別する最大のポイ ントとなる。なお、生息地域によって腹部の羽色には大きな変異があり、日本などに生息する ものは最初の換羽で概ね白色(南西諸島では灰色味が増す)に変化するが、ヨーロッパ〜ロシ ア中央部などに生息する個体は、黄色のままで変化が少ない。 |
■目黒ショック 平成18年12月頃、区の大多数の区会議員が政務調査費を不正に使用もしくは私的流用を しているとオンブズマンが主張したことにはじまった政治的混乱騒動。オンブズマンの発表情 報を逸早く掴んだ公明党目黒区議団全員が政務調査費を返還し辞任したことから公になった。 本件をきっかけに、マスコミの調査や報道が始まり、他の地方自治体でも同様のことが行われ ていることが明らかになり、騒ぎが全国に広がった。一方で騒動の発端となった目黒区では、 私的流用を指摘された側からは「平成18年5月頃より、私的流用を批判された独歩の会の議 員がオンブズマン(元自民党区議)と組んで、自分と対立する議員に疑義をかけて騒ぎ立てた 政争である」との説明も行われている。しかし公金を横領(ネコババ)するのは政治家・官僚 役人と決まっており、これは常識だ。税金を誤魔化して何とか払うまいとするのは国民で、政 治の解らない国民が、政治の解らない立候補者から選んで議会に送り込むんだから天下の政治 がうまくいく訳がない。税金の無駄遣いは、「世に盗人の種」が尽きないのと同様、未来永劫 無くなることはない。税金の半分は、政治家と官僚役人が名目は国民のためと法螺吹いて、私 利私欲のために使うものなのだ。これからも区議会議員が、区の職員が何だかんだと、金を悪 徳に使わないことはありえないよ。もしそうなったら区議になる者は皆無となる。お零れ頂戴 ・お役得があるからこそ、区議・区職員はやってられるんじゃないか。区民のために命を張る 人間がこの世の中に一人でもいるか? 口では何とでもいえるんだよ。人殺しだって「人は殺 しちゃいけない」っていうだろ! |
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おっとっとう、お待たせ、お待たせ、目黒の本題に入りませう! だがよ、目黒駅は品川区上大崎なんだよ。 |
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■西郷橋 1丁目1番にある、西郷山と鉢山の谷間に渡された陸橋。旧山手通りを通す。西郷山に架か るのでその名がある。西郷山は西郷隆盛の弟従道の屋敷があったことによる。橋の殆どは渋谷 区側にある。 |
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■産業能率大学(代官山キャンパス) 1丁目4番にある。産能マネージメントスクールと大学院の一部がある。本部は等々力の自 由ヶ丘キャンパス、他に伊勢原市に湘南キャンパスがある。 |
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■北野神社 1丁目16番にある。祭神は、菅原道真公で、元中川修理太夫の抱屋敷内(西郷山公園)に あったものを、明治13年に現在地に移したという。伝説によれば上目黒村の農民秋元市郎兵 衛が土中から菅公像を発掘し、これを崇祀したことに始まるという。近くの人々により毎年9 月第3土・日曜に例大祭が行われている。管理は氷川神社が兼ねる。 |
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■駒場練兵場跡 1丁目24番、2丁目・3丁目の全部と、世田谷区池尻1丁目の全部に、2丁目の1番、3 ・4番に亘る範囲だった。アメリカ軍が占領してた頃は「アーティラリー・パレードグラウン ド」といい、何だか賑やかにやってたよ。今は住宅団地と昭和女子大と世田谷公園だ。 |
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■西郷山公園・菅刈公園 2丁目10番・11番、旧山手通り沿いの高台から山の斜面になっているところにあり、特 徴は丘と緑と20mの落差をもつ人口の滝。眺望も素晴らしく目黒の街並みや、冬の晴れた日 に富士山も眺められ、区民の憩いの場として親しまれている。公園は西郷隆盛の弟従道の屋敷 跡で来客用洋館が有名で、犬山の明治村に移築保存されている。西郷屋敷の敷地は広大で西郷 山下にも菅刈公園が展開している。この辺りは江戸時代は柳町と呼ばれ、荒城の月で知られる 豊後岡(竹田)の城主中川家の抱屋敷で、老樹が鬱蒼と茂り、中央には三田用水から引いた池 があり、そのころからすでに林泉の美しさでは近郊随一といわれていた。明治10年従道が兄 隆盛のために購入したが、西南戦争で隆盛が大久保利通に攻め殺されたため、自己の別邸とし た。同20年フランス人技師デスカスと鈴木孝太郎の二人の設計で、木造2階建ての洋館が建 てられ、同22年には旧薩摩藩棟梁の設計で書院造りの建屋も完成し、庭園とともに東京一の 名邸と謳われた。名士の訪れることも多く、なかでも海軍大臣であった時には、明治天皇・皇 后陛下のご来臨もあったほどで、その時には薩摩踊りや相撲が披露されたという。この華やか な一時期を過ぎ、同35年に従道が永眠すると、ここが西郷家の本宅となった。昭和16年西 郷家が渋谷に移転移転して、箱根土地の堤康次郎(西武グループの創始者)が所有すると、堤 は池を埋め立て、名木を伐採し、大半を分譲地として売り飛ばしてしまったため、流石の名邸 もその面影をすっかり失ってしまった。僅かに戦災を免れて残った西洋館が華やかな時代を忍 ばせていたが、それも同35年愛知県犬山市の明治村に移され、旧西郷邸は壊滅した。しかし 同56年区が池を昔のままに復活させ、一生懸命保全に努めている。ただ周辺の環境もあり、 昔日には及ぶべくもない。 ●菅刈の謂れ 「菅刈荘」という荘園があったことによるが、世田谷区経堂に「菅刈橋」の跡があり、相当 な広さがあったものと思われる。「菅刈り」とは水田として開発するためにスゲを刈ったこと を表し、それを地名とし、荘園として寄進した時に冠称としたのだろう。 「菅」は、「カヤツリグサ科」の1つの属だ。つまり「植物界・被子植物門・単子葉植物綱 ・カヤツリグサ目・カヤツリグサ科・スゲ属」に分類される植物で、身近なものも多いが非常 に種類が多く、固定が困難なことでも有名。大部分が多年生の草木で、多くは花時を除いて茎 は短くて立ち上がらず、大抵は細長い根出葉を多数つける。地下茎を横に這わせるものは、広 がったまばらな集団になり、そうでないものは、まとまった株立ちになるものが多い。草原・ 森林・海岸その他、さまざまな環境に生息する種がある。湿った所に生育するものが多く、湿 地や渓流沿いに集中する傾向がり、湿原では、スゲ類が優占する草原になることがある。北海 道などの湿原では、スゲ類の大株が、湿地のあちこちに固まりを作り盛り上がって見えるのを 「谷地坊主(やちぼうず)」と呼ぶ。水中に根を張って葉を水面に突き出す抽水性の種もある が、真に水草的なものはない。 |
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■菅刈小学校 3丁目3番にある。明治8年上目黒村215番地(上目黒3‐44、烏森小学校の西辺り) に「第二中学区第十七番公立小学菅刈学校」として設立。同23年「目黒村立菅刈小学校」と 改称。同26年小学校令公布により修業年限4年の「東京府荏原郡菅刈尋常小学校」と改称。 同31年寿福寺付近に移転。同41年上目黒字柳町519番地(現在地)に移転。旧校地を分 校とするも数年で廃止。 昭和3年烏森尋常小学校の開設に伴い一部学区を移管。同7年周辺郡部の東京市併呑により 目黒区成立。「東京府東京市菅刈尋常小学校」と改称。1515名28学級。同8年駒場分教 場6学級開設。同9年駒場分教場を分離し駒場尋常小学校を分校。同16年国民学校令により 「東京府東京市菅刈国民学校」と改称。児童数1581名。12月日米開戦。同18年都制施 行により「東京都菅刈国民学校」と改称。同19年3年生以上福鳥県南会津郡田島町へ集団疎 開。同20年5月愚かなアメリカ軍の非人道的無差別空爆により学校全焼。8月日本はならず 者国家アメリカの軍門に降り敗戦。以後属国となり、唯々諾々といいなりになる保守傀儡政権 を保持せざるを得ない今日的不幸を背負い込む。もう200兆円がとこ持っていかれたし、こ れからの若者は愚かなアメリカ軍の尖兵(手先)として危険な戦線で扱き使われるだろうよ。 9月中目黒国民学校で授業再開。 同21年仮校舎落成。同22年アメリカの強制による学制改革により「東京都目黒区立管刈 小学校」と改称。同24年木造2階建て校舎落成。同30年児童数1906名37学級。創立 80周年記念式典・図書室開設。同31年東山分教場開設・3年生8学級が通学。同33年東 山分教場を分離し東山小学校を分校。同34年特殊学級2学級開設。同37年第一期改築鉄筋 コンクリート造り校舎校舎落成・体育館完成。同40年創立90周年記念式典 プレイマウン ト完成。同44年プール完成。同48年鉄筋コンクリート造り校舎化完了。同50年創立10 0周年記念式典。同60周年記念式典。平成2年第一・第二校舎大改修完了。創立115周年 記念式典。同7年創立120周年記念式典。同14年コンピュータルーム開設。同17年創立 130周年記念式典。 校歌「名にし負いたる」 作詞作曲不詳(2番以下なし) 名にし負いたる菅刈の 学びの庭に育つなる 大和撫子 女郎花(おみなえし) 恵みの露に潤いて 教え違えず咲き出でよ 進み行く世に麗しく |
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■目黒市場跡 4丁目1番・渋谷区神泉町22番で作る三角地帯に青物市場があった。 |
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■真如山大教寺 4丁目7番にある日蓮宗の寺。山手通りに面し立派な塀に階段がついている。これを上がる と山門、境内は静寂な環境。正面に本堂、鉄筋コンクリート造り銅版葺きの屋根ながら、形は 藁葺きの農家風。その右に庫裏。これも鉄筋コンクリート造り。綺麗ですっきりした境内だ。 玉川通り側にも入口はあるが、かつてはこちらが表で、山手通り側は崖だった。 江戸時代にはなかった寺で、正保二年(1645)に身延山末として大僧都大乗院日達上人 が高井戸村(杉並区内)に建立した寺だ。第10世正保院日住上人の時盛んになり、正徳三年 (1713)馬引沢村(世田谷区内)に移転、その後寺運は傾き廃寺同様の状態に陥った。明 治28年檀家総代池上光蔵・加藤信吉・加藤兵太夫が発起人となり、当時寺の寺務取扱で妙善 寺住職だった井日解に謀り上目黒村(現在地)に移転、興隆した。昭和9年には本堂を新築し 面目を一新した。10月21日の御会式は、中目黒正覚寺の御会式と並び称される。 |
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■大坂・大坂橋 4丁目7番と8番の間、大教寺の南の、西に下る急坂(大山道)だ。この大山道(旧道)は 明治40年の玉川電車新道と昭和40年敷設の新山手通りに断ち切られてしまった。坂の名は 大山道にある48ある坂の中で最も急な坂道だったのでその名がついた。 玉川通り(246号線)を大橋の方に下る陸橋を「大坂橋」というのは、この坂道に因む。 陸橋の架橋は明治40年に新道の開発により、大坂上の桜の木も切り取られ、急な坂も多少は 改善されたが、玉電にとっては、最難所となっていた。旧山手通りも、昭和の初めに三田用水 に沿って作られた新道だ。その昔は現在の山手通りのところは、目黒川の支流が数本流れてい た湿地帯、水田に利用していた。 鮎はナーエ・・・・・・ 大坂くげんだ団子屋起きたか この歌は、江戸時代厚木街道(矢倉沢往還 大山道 玉川通り)一番の難所だった大坂のこ とを歌ったものだ。その頃相模川でとれた鮎は、厚木から江戸の魚市場へ、夜通し若者たちの 足によって運ばれていた。鮎を担いだ若者たちは、急な坂に息を切らせ、「大坂くげんだ」と 苦しさを歌ったという。この歌に出てくる「団子屋」は、大坂を上りきったところの大きな榎 の木の下にあったという茶屋のこと。「団子屋起きたか」と歌われているのは、きっと早くこ の茶屋で一服して、苦しかった上り坂の疲れを少しでも癒したいと思ったに違いない。今でも 自転車で上るには苦しい急な長い坂道だ。反対側は道玄坂。 |
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■東京工業大学 明治14年蔵前に「東京職工学校」として開校。同23年「東京工業学校」と改称、同34 年「東京高等工業学校」と改称、関東大震災で被災して翌年現在地に移転、昭和4年大学に昇 格、染料化学科・紡織学科・窯業学科・応用化学科・電気化学科・機械工学科・電気工学科・ 建築学科の8学科と数学教室・物理学教室・物理化学教室・分析化学教室の4教室を設置。同 5年無機化学教室・有機化学教室を設置。同7年附属予備部設置。同9年建築材料研究所を併 設。同10年工業経済教室を設置。同14年資源化学研究所・航空機工学科を設置。同15年 化学工学教室を廃止し化学工学科を新設。同16年金属工学科・燃料工学科を新設。12月日 米開戦。同17年附属高等工業教員養成所を設置。同18年窯業研究所を併設。特別研究生制 度発足。幹部技術者講習所・附属予備部特別予科を設置。同19年電子工学研究所を併設。附 属工業専門部(機械科・電気科・電気通信科・航空機科・金属工学科・化学工学科)を設置。 燃料科学研究所を併置。同20年附属工業専門部に窯業科を設置。8月日本は、ならず者国家 アメリカの軍門に降り敗戦。以後属国となり、唯々諾々といいなりになる保守傀儡政権を保持 せざるをえない今日的不幸を背負い込む。もう200兆円以上持っていかれた。これからの若 者はアメリカ軍の尖兵として最前線の激戦地に持っていかれるぞ。 同21年電子工学研究所を「電気科学研究所」と改称。同23年附属工業専門部廃止。同2 4年国立学校設置法公布により「国立東京工業大学」新設。工学部設置。旧制東京工業大学、 同附属予備部、同附属高等工業教員養成所は新制に包括し、建築材料研究所・資源化学研究所 ・精密機械研究所・窯業研究所・電気科学研究所・燃料科学研究所を併置。同26年千葉大学 東京工業専門学校附属電波工芸高等学校及び同附属工芸高等学校を本学工学部附属工業高等学 校(港区)を移管。同27年附属予備部・附属高等工業教員養成所廃止。同28年大学院工学 研究科(応用物理学・化学と化学工学・機械工学・電気工学・金属工学・繊維工学・建築学の 7専攻)新設。同29年建築材料研究所・資源化学研究所・精密機械研究所・窯業研究所・電 気科学研究所・燃料科学研究所を、建築材料研究所・資源化学研究所・精密工学研究所・窯業 研究所に整備し、学部に印刷技術研究施設を設置。講座制を新設。同30年工学部を「理工学 部(数学・物理学・化学・化学工学・機械工学・電気工学・金属工学・繊維工学・建築学・経 営工学の10学科)に改称。同31年理工学部に原子炉研究施設を設置。大学院工学研究科を 大学院理工学研究科に改称。同32年大学院理工学研究科に原子核工学専攻を設置。同33年 建築材料研究所と窯業研究所を統合し、工業材料研究所を併置。同35年理工学部に数学科・ 物理学科・化学科・金属工学科・繊維工学科・無機材料工学科・化学工学科・工業化学科・機 械工学科・制御工学科・経営工学科・電気工学科・電子工分子工学科,応用電気化学科・生産 機械工学科設置学科・建築学科の14学科設置。同36年応用物理学科・工業教員養成所を設 置。同37年高分子工学科・応用電気化学科・生産機械工学科を設置。同38年大学院の名称 ・課程を理工学研究科―5年課程と規定。理工学部に酵素化学研究施設を設置。工業化学科を 合成化学科と改称。同39年原子炉研究施設を廃止し、原子炉工学研究所を併置。土木工学科 設置。印刷技術研究施設を印写工学研究施設と改称。同40年電子物理工学科を設置。酵素化 学研究施設を天然物化学研究施設と改称。同41年社会工学科設置。同42年機械物理工学科 設置。理工学部を「理学部」と「工学部」に分離し、天然物化学研究施設は理学部に、印写工 学研究施設・附属工業高等学校は工学部にそれぞれ附属と決める。同44年工業教員養成所を 廃止。同45年理学部に情報科学科を設置。工学部応用電気化学科を電気化学科と改称。同4 6年工学部繊維工学科を有機材料工学科と改称。保健管理センター設置。同48年教育工学開 発センター設置。工学部の化学工学科・合成化学科・電気化学科を改組し化学工学科に変更。 同49年工学部の電気工学科・電子工学科・電子物理工学科を改組し、新たに電気・電子工学 科、電子物理工学科、情報工学科を設置。工学部附属印写工学研究施設を同附属像情報工学研 究施設と改称。資源化学研究所に附属資源循環研究施設を設置。同50年大学院総合理工学研 究科(物理情報工学・電子化学・社会開発工学・精密機械システム・材料科学・電子システム ・化学環境工学・生命化学・エネルギー科学・システム科学の10専攻)を新設。総合情報処 理センター設置。同51年工業材料研究所に附属水熱合成材料実験施設を設置。同53年長津 田地区に附属図書館長津田分館を設置。同54年長津田地区に総合理工学研究科等事務部を設 置し、長津田地区の事務を一元化。理工学国際交流センター設置。同56年極低温エネルギー 実験センター設置。同57年研究・情報交流センター設置。同58年文教施設総合研究センタ ーを設置。同59年工業材料研究所附属水熱合成材料実験施設を廃止。工業材料研究所附属新 素材セラミック実験施設を設置。同61年理学部附属天然物化学研究施設を廃止。理学部に生 命理学科、工学部に生物工学科を設置。同62年工学部電気・電子工学科及び電子物理工学科 を改組し、電気・電子工学科と電子物理工学科を新設。同63年理学部に生体機構学科、工学 部に生体分子工学科を設置。留学生教育センター・草津白根火山観測所を設置。工業材料研究 所附属新素材セラミックス実験施設を廃止し、同附属セラミックス研究センター設置。 平成元年遺伝子実験施設を設置。同2年生命理工学部を新設し理学部の生命理学科・生体機 構学科工学部の生物工学科・生体分子工学科を移管。同3年極低温エネルギー実験センターを 廃止。大学院総合理工学研究科の生命科学専攻を知能科学専攻に改称。極低温システム研究セ ンターを設置。大学院生命理工学研究科(バイオサイエンス・バイオテクノロジーの2専攻) を設置。炭素循環素材研究センターを設置。理学部に地球・惑星科学科を設置。同5年大学院 総合理工学研究科に環境物理工学専攻を新設。工学部の機械工学科。生産機械工学科・機械物 理工学科・制御工学科・経営工学科を改組し、機械科学科・機械知能システム学科・機械宇宙 学科・制御システム工学科・経営システム工学科を設置。文教施設総合研究センターを廃し、 文教施設研究開発センターを設置。同6年大学院情報理工学研究科(数理・計算科学、計算工 学・情報環境学の3専攻)を新設。留学生教育センターを廃止し、留学生センターを設置。量 子効果エレクトロニクス研究センター・生物実験センターを設置。同7年大学院総合理工学研 究科の社会開発工学・エネルギー科学専攻を改組し、人間環境システム・創造エネルギー専攻 に転換。工学部化学工学科・機械科学科・電子物理工学科・土木工学科を改組し、化学工学科 ・機械科学科・電子物理工学科・土木工学科・開発システム工学科を設置。同8年大学院社会 理工学研究科(人間行動システム・価値システム・経営工学・社会工学の4専攻)を設置。大 学院理工学研究科に地球惑星科学専攻を設置。大学院総合理工学研究科の知能科学・システム 科学専攻を改組し、知能システム科学専攻を設置。理学部地球・惑星科学科を地球惑星科学科 に改称。外国語研究教育センターを設置。工業材料研究所を改組し、応用セラミックス研究所 を併置。工業材料研究所附属セラミックス研究センターを改組し、応用セラミック研究所附属 構造デザイン研究センターを設置。同9年アイソトープ総合センターを設置。大学院総合理工 学研究科の電子化学・材料科学専攻を改組し、物質電子化学・材料物理科学・物質科学創造専 攻を設置。同10年大学院理工学研究科の数学・物理学・化学・応用物理学・地球惑星科学・ 金属工学(一部)・有機材料工学(一部)・無機材料工学(一部)・化学工学(一部)・高分子 工学専攻(一部)を改組し、数学・基礎物理学・物性物理学・化学・地球惑星科学・物質科学 専攻を設置。大学院総合理工学研究科の化学環境工学・環境物理工学専攻を改組し、化学環境 学・環境理工学創造専攻を設置。理学部数学科・物理学科・化学科・応用物理学科・情報科学 科・地球惑星科学科を改組し、数学科・物理学科・化学科・情報科学科・地球惑星科学科を設 置。研究・情報交流センターを廃止し、フロンティア創造共同研究センターを設置。同11年 理財工学研究センターを設置。大学院理工学研究科に国際開発工学専攻を設置。金属工学・有 機材料工学・無機材料工学・化学工学・高分子工学専攻を改組し、材料工学、有機・高分子物 質・応用化学・化学工学専攻を設置。大学院生命理工学研究科のバイオサイエンス(一部)と バイオテクノロジー専攻(一部)を改組し、分子生命科学・生命情報・生体分子機能工学専攻 を設置。大学院総合理工学研究科の物理情報工学・電子システム専攻を改組し、物理情報シス テム創造・電子機能システム専攻を設置。生命理工学部生命理学科・生体機構学科・生物工学 科・生体分子工学科を改組し、生命科学科・生命工学科を設置。 同12年草津白根火山観測所を廃止し、火山流体研究センターを設置。大学院理工学研究科 機械工学・生産機械工学・機械物理工学・制御工学・電気電子工学・電子物理工学・土木工学 ・建築学専攻を改組し、機械物理工学・機械制御システム・機械宇宙システム・電気電子工学 ・電子物理工学・集積システム・土木工学・建築学専攻を設置。像情報工学研究施設を工学部 附属施設から大学院理工学研究科附属施設へ移行。大学院生命理工学研究科バイオサイエンス ・バイオテクノロジー専攻を改組し、生体システム・生物プロセス専攻を設置。工学部電気・ 電子工学科・電子物理工学科・情報工学科を改組し、電気電子工学科・情報工学科を設置。精 密工学研究所に附属マイクロシステム研究センターを設置。副学長制度を導入し、副学長(教 育担当)・副学長(研究担当)を設置。同13年総合情報処理センター・理工学国際交流セン ターを廃止し、学術国際情報センターを設置。極低温システム研究センターを廃止し、極低温 物性研究センターを設置。長津田キャンパスを「すずかけ台キャンパス」と改称。附属図書館 長津田分館をすずかけ台分館と改称。同14年炭素循環素材研究センターを廃止し、炭素循環 エネルギー研究センターを設置。総合理工学研究科等事務部をすずかけ台地区事務部と改称。 「評価室」「国際室」「総合安全管理センター」「広報・社会連携センター」を設置(学内措 置)。同15年文教施設研究開発センターを廃止し、教育環境創造研究センターを設置。遺伝 子実験施設・生物実験センター・アイソトープ総合センターを廃止し、バイオ研究基盤支援総 合センターを設置。大学院総合理工学研究科精密機械システム専攻をメカノマイクロ工学専攻 と改称。同15年「教育推進室」「都市地震工学センター」「産学連携推進本部」を設置(学 内措置)。同16年国立大学法人東京工業大学設立。量子効果エレクトロニクス研究センター を廃止し、量子ナノエレクトロニクス研究センターを設置。「企画室」及び「財務管理室」を 設置。同17年大学院イノベーションマネジメント研究科(技術経営・イノベーションの2専 攻)設置。工学部附属工業高等学校を改組し、附属科学技術高等学校を設置。理財工学研究セ ンターを廃止、設置。大規模知識資源センター・インスティテューショナル技術経営学研究セ ンター・量子ナノ物理学研究センター・バイオフロンティアセンター・エージェントベース社 会システム科学研究センター・分子理工学センター・地球史研究センター・ものつくり教育研 究支援センターを設置。大学院総合理工学研究科物理情報システム創造専攻・電子機能システ ム専攻を改組し、物理電子システム創造専攻・物理情報システム専攻を設置。先進ナノマテリ アル研究センターを設置。統合研究院を設置。同18年革新的原子力研究センターを設置。応 用セラミックス研究所附属構造デザイン研究センターを廃止し、応用セラミックス研究所附属 セキュアマテリアル研究センターを設置。スーパーメカノシステム創造開発センター・学生支 援センター・世界文明センターを設置。グローバルエッジ研究院を設置。集積光電子工学研究 センターを設置。同19年「入試室」「技術部」を設置。土木工学科を土木・環境工学科と改 称。「情報基盤統括室」「経営戦略室」を設置(学内措置)。広報・社会連携センターを廃止 し、広報センター、社会連携センターを設置(学内措置)。フロンティア創造共同研究センタ ー、ベンチャー・ビジネス・ラボラトリー、統合研究館、インキュベーションセンターを統合 し、フロンティア研究センターを設置。 こうも目まぐるしく変わっちゃあ、学生も先生もてえへんだろ! 校歌「逝く者は」 作詞・三好達治 作曲・諸井三郎 逝く者は斯くのごときか 長江は昼と夜となし はるけき日 ゆかしきいさを 指す方の はた窮みなき 嘆じてん 聖さびはや ●略称 平成14年それまで全学的に統一されていなかった略称に関する申し合わせをし略称を制定 した。日本語の略称は「東工大」、英文表記の略称は「Tokyo tech」だ。「学内外 で本学を略称表記する際には、上記の表記を使用していただきますようお願いします」とのこ と。守ってやれよ。 |
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| ●ダルマインコ 大学の周辺は朝夕けたたましい鳥の奇声に悩まされる。全体にウグイス色で黄色いくちばし に赤い胸のけばけばしいこの鳥は、日本在来種ではなく南方の鳥だ。飼主の手から、あるいは 業者のところから逃げてこの寒い日本に適応したのだ、地元の人が気づいたのが昭和60年と いうから相当古い。巣食う木は大学の南2号館前の2、3本のイチョウの木に限定される。何 故そうなのかは判っていない。日中は駒込公園に行くらしいのだが何故そこに留まらないのか? |
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■首都高中央環状新宿線 大橋ジャンクション(仮称) 1丁目4・5番、9〜12番は住宅を立ち退かせて、玉川通り(国道246号)上を通過し ている高速3号渋谷線と中央環状新宿線及び計画中の中央環状品川線を接続するもので、ルー プ状のジャンクション内には大橋換気所(仮称)が設置され。首都高道路の出入口となる施設 と2棟の再開発ビルが建設される予定で、平成21年完成見込み。規模は霞ヶ丘国立競技場が スッポリ入る大きさ。 |
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■遠江橋 2丁目1番、松見坂下の今は暗渠となった空川に架かっていた橋。滝坂道を通した。この橋 は伊達遠江守が創設したためその名がある。明治に入って、明治天皇行幸に伴い西欧技術を取 り入れたドーム型の橋に改築され「新遠江橋」となった。 大正2年道路を改修し、現在の松見坂と新遠江橋となった。 という記事があったが、昭和40年代に松見坂の道路拡張工事が行われ、また新山手通りの 敷設、渋目陸橋の構築で、松見坂一帯はガラリと変貌した。松見坂地蔵が僅かに名残を留む。 ●空川(そらがわ) 東大Uキャンパスを水源とし駒場野を流れ、松見坂下を通って大山道を越え、目黒川に注い だ。目黒川自体現在の流路ではなく蛇行しており、空川も下流では蛇行しているので、現在の 暗渠は昔の流路ではない。 |
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■松見坂地蔵尊 2丁目1番、松見坂下の旧滝坂道沿いにある。交差点のすぐ側だ。坂下で事故でもあったも のか、道中の無事を祈るためか、供養のために建てられたのだろう。悪疫を防ぐ利益があると 地元の人に大切に祀られている。 |
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■松見坂 2丁目1番の松見坂下(遠江橋)から駒場高校正門前に登る坂道で、現在の坂は盛土してな だらかに改良してある。松見の「松」は道玄坂上に立っていた、「道玄物見の松」という、一 本だけひょろ高い松ノ木が見えたことからそう呼ばれたという。結構きつい勾配で、自転車で は辛い。道玄坂の由来となった大和田道玄は、和田義盛の一族とかで、道玄坂で山賊というか ら、追剥というか恐喝というか、とにかく旅人に悪事を働いて荒稼ぎしてたということだ。 |
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■第一中学校 2丁目11番にある区立校。昭和22年東京都民生局世話課(旧陸軍輜重兵学校)において 「東京都目黒区立第一中学校」として開校。25、6年ごろ校旗・校歌制定。 校歌「都の西方」 作詞・草野心平 作曲・伊藤翁介 1.都の西方目黒が丘に 集う我等の希望は遥か ばら色に映ゆ夕の空よ 鳴呼一つ星金に輝く 目黒 目黒 おお目黒 我等が母校目黒一中 2.腕を組みて堅くぞ誓う 永遠の友情烈しきちぎり 恩師の教え胸にたたみて 学ぶ我等の血潮溢るる 目黒 目黒 おお目黒 我等が母校目黒一中 3.翠藍の空隈なく晴れて 鳴呼翻える栄ある校旗 歌え諸共歌声強く 高鳴りひびけ若き世代に 目黒 目黒 おお目黒 我等が母校目黒一中 同29年現在地に木造校舎が落成、移転。同31年分教場開設。同33年分教場を廃し、東 山中学校を分校。同36年プール完成。同37年鉄筋コンクリート造り第一校舎落成。同43 年体育館完成。同52年鉄筋コンクリート造り第二校舎落成。同54年制服ブレザーとともに ネクタイの着用を開始。同55年玄関を改修し、区長揮毫による校名額を掲額。同59年第一 校舎・正門・調理室など改修。同63年職員室・校長室の改装。同63年体育館前にラバーコ ートが完成。平成2年コンピュータ室・多目的室完成。同3年スプリンクラー装置。同7年校 庭放送設備改修。同9年創立50周年記念式典。同14年体育館耐震改修工事完成。同16年 コンピュータ室パソコン機種変更。 |
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■輜重兵第一大隊跡 2丁目11〜18番を締めていた。第一師団麾下の食糧・補給・輸送任務部隊隊。 ■近衛輜重兵第一大隊跡 2丁目19〜21番を締め、半分は世田谷区にかかっていた。近衛師団麾下の食糧・補給・ 輸送任務部隊。 ■輜重兵と輜重輸卒 戦闘行動の上で兵站業務は極めて重要であり、輜重(しちょう)とはこの兵站業務を専門と する兵科だ。水食料・武器弾薬・各種資材など様々な物資を第一線部隊に輸送して、同部隊の 戦闘力を維持増進することが主任務であり、貨物トラックなどの大型車両を保有するが、武装 は自衛に限定されるため比較的軽装備だ。但し敵は後方連絡線を断とうとすることから、ゲリ ラの遊撃や航空阻止の対象となりやすく、一端攻撃を受けると戦闘力に乏しい輜重兵は大きな 損害を受ける場合もある。航空阻止は輜重兵つまりは補給部隊やその主要交通路(橋・隋道・ 鉄道・港湾など)を主な攻撃目標とする。 日本軍では国内的な事情で自動車運転免許の取得者自体が非常に少なく、軍隊に入って生ま れて初めて自動車に触れる者までいた時代だった。また軍隊内では、最前線で直接敵と交戦し ないので、交戦部隊の兵士たちから「輜重輸卒が兵隊ならば、蝶々蜻蛉も鳥の内」と蔑まれた が、しかしながら輜重兵と輜重輸卒とは全く別個の存在で、輜重輸卒は元来軍夫が担っていた 単純機械的労働に従事するに過ぎない雑卒だが、輜重兵は兵卒・下士官クラスであっても多数 の輜重輸卒を監督する立場にあり、個々の兵卒の能力が重視された。反面将校では身体の故障 から第一線に服することが困難になった者が転科したり、士官学校での成績が低かったり、素 行に問題のあった者が振り分けられることが多く、冷遇されがちだった。また輜重兵科は明治 40年まで陸軍大学校への入校を認められず、以降も第二次世界大戦中まで毎年一人入れるか どうかだった。そのため陸軍幼年学校が陸軍予科士官学校に改組され、卒業前に輜重兵科と発 表された者の落胆は大変なものだったよ。これは日本陸軍のみならず、どこの世界でもいえる ことであり、一般企業で言えば、倉庫番でもやらされるような感覚だ。裏方の仕事などやりた くないという気質によるものである。 |
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■氷川神社 2丁目16番、玉川通りに面してある。上目黒村の鎮守で、天正年間(1573〜92)に 村の旧家加藤氏が甲州上野原の産土神をこの地に迎えたのだといわれている。祭神、は素佐之 男命を主神に、天照大神・蒼稲魂命・菅原道真が合祀されている。例大祭は毎年8月の第4土 ・日曜日。崖の上に祀られたので、鳥居から急な石段となる。この小松石造り52段の階段は 文化十三年(1816)に建設され、明治40年に(1908)改修された。この石段下の左 には、石段の修築記念碑・石坂再建供養塔と天保十三年(1842)に建てた「大山道」の石 造道標がある。境内には、花崗岩造りの4基の鳥居、小松石造りの1対の狛犬、目黒元富士か ら移した仙元講の碑など数多くの石造文化財が、大切に保存されている。 |
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■東邦大学医学部附属大橋病院 → 東邦大学医療センター大橋病院 2丁目17番にある総合病院。昭和39年に開設され、総合病院として地域の中核病院の役 割を果たしてき。今、医療行政は大きく変革し、医療行為そのものも、良質で効率的な医療の 提供が求められ、患者を顧客として、提供する側の医療から、受け手の患者への医療へと変化 している。そして安全で、信頼のおける医療行為が求められることは無論、情報の開示、医療 の標準化、患者への充分なインフォームド・コンセント(理解しやすい説明)など、示された 病院からの情報を基に、患者が病院を選別している時代だ。これらのニーズに対し、充分満足 されるために、病院内のスタッフの意識改革と構造改革を積極的に進めている。また全ての教 員が患者への病院という意識を持ち、患者と接する全てのスタッフが優しい心・親切な心 を持つように教育している。今までにない外来として、平成15年9月から女性医師による女 性患者様のための外来(精神的悩み、婦人科疾患、泌尿器疾患、乳腺、肛門など)肛門外来の 新設、また生活習慣病ケア外来と人間ドック・検診を兼ねた総合健康相談センターを、さらに 形成外科・皮膚科が美容医学センター、内科と整形外科によるリュウマチ関節外科センターを 立ち上げるなど、患者に判り易く、ニーズに応じた診療体制の再構築を心がけている。 |
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■駒場高等学校 2丁目18番にある都立校。俗に「都立駒場」の名で通る。明治35年麻布日ヶ窪(現港区 立六本木中学校)に「東京府立第三高等女学校」として開校。戦前から女子高等教育の名門と してその名を馳せ、「浅草の一女(白鴎高校)・小石川の二女(竹早高校)・麻布の三女」と して並び称されていた。戦後の学制改革により男女共学に移行した後も、各界に多彩な人材を 送り出してきた。特に都立高校全盛期において、女子では最難関校の一つに数えられた。 昭和18年都制施行により「東京都立第三高等女学校」と改称。同21年戦禍により現在地 に移転。同23年学制改革により「東京都立第三女子新制高等学校」と改称。同25年男女共 学化、普通科に芸術科・保健体育科を併設して全国初の綜合高校となり「東京都立駒場高等学 校」と改称。同26年創立50周年記念式典。同窓会である「松桜会」の尽力で麻布の旧校地 から現在地に「仰光寮」(香淳皇后の東宮妃教育時代の御学問所=お花御殿)を移設。同27 年学区合同選抜制度。同37年鉄筋コンクリート造り4階建て校舎落成。同42年学校群制度 で新宿高校と21群を組む。同47年芸術科は東京都立芸術高等学校として分校。保健体育科 は今日まで引き続き、普通科との併設という特徴を活かし、相互に良好な影響を及ぼし合う良 き校風を維持・醸成し、生徒一人ひとりが「豊かな個性」を伸ばし、「学習と「部活動」に真 摯に取り組み、活力溢れる学校を創っている。バスケットボール部をはじめバレーボール部や サッカー部、陸上部、水泳部などは全国的にも強豪として知られるなど、実力派の運動部が多 く揃っている。同57年グループ合同選抜制度導入、戸山・青山・新宿・都立大附属・広尾・ 目黒・赤城台の各校と共に21グループを組む。 平成5年校舎新築。正面玄関の階段塔が聳え立ち、両翼に特別教室を配置、アプローチ広場 を包み込むように立っている。地下1階地上5階の本館には、普通教室の外、保健室・図書館 ・LL教室・コンピュータ教室・理科実験室・家庭科実習室・視聴覚室など、凡る設備完備。 また体育施設には特に力を入れている。体育館は2棟、第一体育館には広いフロアーと高い 天井の大きな第一アリーナ、182畳の柔道場、大きなピットのある専用の体操場、剣道場、 それにトレーニングルームがある。第二体育館は屋根が開閉式になったドーム付きプールと球 技フロアのある第二アリーナで、生徒ホール兼食堂もできたよ。平成6年やや遅きに失した感 があるが都立潰しの悪制度から漸く脱却し入試単独選抜に戻る。同8年校舎大改修。同9年定 時制課程廃止。同13年保健体育科50周年記念式典。同14年創立100周年記念式典。同 18年進学型教育課程の実施。長期休業日等の弾力的運用試行校指定。土曜授業開始。文科省 「学力向上拠点形成事業」指定都教育庁「部活動推進指定校」「IT教育普及支援校」指定。 同19年都教育庁「重点支援校」指定(〜21年度)、難関大学を中心とした進学実績の向上 を目指す「進学重点特別推進指定校」指定(〜24年度)。 校歌「大空高く」 大空高く富士ヶ嶺白く 若草燃ゆる駒場の丘に 松の緑の栄ゆる園生 真金白珠装える文の舎 慕いて集える我らの友よ 朝日に匂える桜の類 輝く緑の松にも競え 松よ桜よ誠の栞 かたみに鍛えて業をも励み 珠とも磨きて世をしも照らせ 珠よ真金よ 我らが願い 光よ誠よ 我らが望みを 「ハイレベルな文武両道の進学校」を目指しており、土曜授業の導入や進学指導体制の整備 が進む中、部活動加入率は10割近くと極めて高い数値を維持している。近代的な校舎や複数 のアリーナ、開閉式のドーム型温水プールなど都内有数の設備を持つ一方で、歴史的建造物で ある仰光寮が保存されているなど、伝統校としての一面も窺うことができる。 ●卒業生にはこんな人が 小森和子(映画評論家)・山谷えり子(政治家)・岸朝子(料理評論家)・張富士夫(トヨ タ自動車社長)・大宅映子(政治評論家 大宅壮一の娘)・森山真弓(政治家)・加賀美幸子 (NHKアナウンサー)・桐山洋子(作家)・加藤登紀子(歌手)・吉永小百合(女優 昭和 35年入学、翌年転校)阿木燿子(作詞家 昭和36年入学 翌年転校)・鮫島有美子(オペ ラ歌手 芸術科)・高畑百合子(TBSアナウンサー)・長谷直美(女優)・岡田伊登子(日 本画家)・渡辺やよい(漫画家)・小川阿佐美(女優)・加藤到(映画監督)・四家文子(声 楽家)・根岸吉太郎(映画監督)・影山仁美(女優)・菅家ゆかり(日テレ・アナウンサー) |
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■芸術高等学校 2丁目18番にある都立校。昭和25年都立駒場高校に芸術科(音楽科・美術科各20名) 設置。同46年芸術科新校舎(A・B棟)落成。新入生より音楽科・美術科それぞれ1学級を 40名づつとなる。同47年都立駒場高等学校より独立、「東京都立芸術高校」として発足。 同50年C棟落成。同56年創立10周年記念式典。同59年D棟落成。 平成3年創立20周年記念式典。同9年A棟耐震化。同10年B棟耐震化。同13年創立3 0周年記念式典。 音楽科は、鍵盤楽器(ピアノ)・弦楽器・管弦楽器・打楽器・声楽・楽理・作曲の7コース 美術科は 日本画・油絵・彫刻・デザイン・芸術学の5コース 男女共学だが、85%以上は女子。大半は1時間30分以上かけて通学している。 ●卒業生にはこんな人が 木下牧子(合唱曲作曲家)・海老名泰葉(春風亭小朝の元妻) ●美術館 校内にある。詳細不明 03-3467-9494 |
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■目黒川 おおむね烏山川と北沢川を合わせて目黒・品川両区を流れて江戸湾に出た川。川口部では品 川といった。川は人間の作ったもので、現在の流路は大正12年〜昭和12年代に拵えたもの だ。昔の流路は一定ではなく数流があった。また昔は固有名詞をこだわらないので、この流れ が目黒川、この流れが青葉川という概念を持たなかった。だから同じ川に2つも3つも名前が あった。日本の山や川が固定の1つの名前で呼ばれるようになるのは明治22年からのこと。 隅田川が正式名称になるのは実に昭和40年である。目黒川は今のように深く掘り下げた人工 溝渠ではなく浅い流れだった。子供たちが泳ぎ、川遊びをし、フナやドジョウを獲り、土手で すみれ、たんぽぽを摘んだりした長閑な牧歌的風情は全くない。 農村時代の目黒川流域は区で最大の米作地帯で、川岸には豊かな水を受けて回る水車小屋が 点在し、コットンコツトンとのんびりとした音を立てながら精米や製粉、雑穀加工が行われて いた。しかし都市化の波により大正末にはなくなってしまった。 ●友禅流し 川沿いに染物屋があり昭和30年頃まではそんな風物詩も見られた。友禅は優美な織物で、 染物を清流に晒すと糊が洗い流され、一層染めの美しさを増す。そのために染物屋の前には、 川へ降りる石段がつけられ、近年まで残っていたが、昭和50年代の改修工事で撤去されてし まった。 |
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■こまばエミナース 2丁目19番にあるホテル。昭和54年10月渋谷からほど近い駒場の丘にオープンし、名 前の「エミナース」は、フランス語の「Eminencs」で、「丘」を表し、まあ日本流に いうなら「駒場の丘ホテル」ってとこか。しかし運営母体が、あの悪名高い、国民年金を食い 潰して平然と生き続けている社保庁だ。東京だから儲かるんだろうね。「国民年金中央会館」 というのが本名で、レストラン、会議室、結婚式場、宴会場、大ホール、チャペル、文化学園 とてんこ盛りだ。 |
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■北野神社 1丁目32番にある。祭神は日本武尊で、国常立命・弟橘媛命を合祀している。神社の前が 天神坂と呼ばれるように、地元で天神様と親しまれてきた北野神社は、もとは農業神として田 んぼの脇にあった。社の内陣には衣冠束帯姿で、身の丈が25cmほどの像があり、毎年3月 25日の例大祭に公開されている。また俳句の記された絵馬や、正月の破魔矢なども奉納され ている。鳥居の右手には「衾第一耕地整理完成記念碑」がある。耕地整理というのは、入り組 んだ畦道や細かい敷地を整え、碁盤の目状に整然とした町にするために行われるもので、衾村 では昭和初期に施行された。碑には「総面積57町5反4畝、工事着手昭和7年3月10日、 完成昭和11年11月30日・・・」などの記録が記されている。神社もこの時の耕地整理に よって現在地に移された。 |
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■目切坂 1丁目と青葉台1丁目の境をなす坂道で、この道はかつての鎌倉道だ。目切の名の起こりは @.石臼の目を切る職人が住んでいたことによるという説と、 A.往時は鬱蒼たる森林地帯の暗闇坂であり、坂道が曲がりくねったギザギザ坂だった ので、廻り坂と呼ばれたのが訛ったという説、 B.ギザギザが鋸の目切りを連想させたという説 C.丸旦山の斜面に対して斜めに切り通したので、石臼の目切のようだといったという説 などがあるが、これと断定できるものはない。樹木の鬱蒼と生い茂った坂道で、大正頃まで 追剥(おいはぎ)も出るようなところだった。今でもひったくりをする不良がいるように、い つの時代も悪ガキはいるもんだ。それで「暗闇坂」「閉切坂」の別称があった。いまでもしっ とりとした坂道であることに変わりはない。 |
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■元富士跡 1丁目8番ところにあった。以前は根津嘉一郎の屋敷があったところで、今はマンションの 敷地になっている。文化九年(1812)目黒・馬引沢・深沢・芝金杉・麻布仙台坂・麻布新 町・麻布六本木・麻布坂下町・麻布善福寺門前などの講員によって富士塚が築造され、高さ1 2mで九十九折れの登山道も造り、山頂に浅間神社が祀ってあった。文化二年(1819)に 近藤重蔵が邸内に築いた中目黒の富士塚は、上目黒の富士塚に対して新富士と呼ばれたため、 相対的にこちらの富士塚は「元富士」と呼ばれた。この二つの富士塚は好一対をなして眺めも 美しく、広重の錦絵にも描かれ、東都名所の1つだった。毎年六月一日に山開きといってお祭 が催されたが、江戸中の富士講中が全部参詣し、その他の参拝者も多数あり、香具師が仮店を 張り、山頂から餅を撒いて参詣人に振舞うなど、大変に賑わったという。その後次第に富士信 仰が衰えていき、終に明治11年浅間神社の石祠・鳥居を撤去し、富士講の碑石も大橋氷川神 社に移されてしまい、その敷地は岩倉家の所有から根津家のものとなり、美しかった山容も取 り崩されて山形を失い、今は殺風景なマンションが建つのみ。 |
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■現耀寺 1丁目18番、鈴木ビルの2階にある日蓮宗の寺。1階の上がり口に目黒川地蔵尊が安置さ れている。前は目黒川で、詳細不明。明治34年江東区太平に開創し、昭和11年に移転して きた。 |
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■流浪の第六天社 2丁目1番、東横線・東京メトロの中目黒駅前にそびえ立つ「中目黒GTプラザ」の南の側 面、目黒銀座通りに面してこぢんまりしたお宮が鎮座している。巨大な高層ビルの下の小さな 白木造りの社殿は、ちょっと場違いな建物という感じがしないでもない。狭いが綺麗に整備さ れた境内では、「第六天社」の文字がくっきりと刻まれている巾の広い刀身のような形をした 古びた石碑がすぐ目に付く。祭神は天神さまから六代目の神様、面足尊(おもだるのみこと) ・惶根尊(かしこねのみこと)だそうで、これが神社名になった。創建はいつごろか分からな い。元はもっと山手通り寄りの高架際(2丁目1番6号)にあり、さらにその前は石川橋、今 の山手通りのところに架かっていた橋際に祀られており、現在の3丁目地域にあった「石川田 圃」、同6丁目にあった「小川田圃」を水害や旱魃から守る神様として信仰されていた。農業 の守護神だった訳だが、明治45年の社閣併合令、つまり明治政府の神社合併策によって現在 も大橋2丁目に鎮座している氷川神社に合祀され、その後社地跡も環状6号線(山手通り)の 敷設のため失われてしまった。しかし地元では単独の神社として復活させようとの要望が強く 昭和10年その願いを叶えた。復興の地は、現在の目黒銀座と蛇崩川の間の路地裏だった。後 に周囲が飲食店に囲まれたような状態になったが、地元の信仰の厚さは変わらなかった。 平成になって中目黒駅前の再開発で第六天社の土地がまた失われた。同11年ご神体は近く の中目黒の八幡神社に遷され、再び仮住まいとなったが、地元の人たちはこの神さまを見捨て るような不義理はしなかった。現在地に新しい社殿を造営して同14年3月祭神を戻して安置 した。流転の農業神は、高層ビルの陰に漸く安住の地を得たのだ。 |
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| ■目黒銀座 2丁目の中目黒駅の東南側を東横線とほぼ平行に祐天寺の方に延びる商店街。伊勢脇道とか 伊勢脇通りと呼ぶ。平成14年3月に中目黒の新たなシンボルとして中目黒GTが完成し、夜 9時45分まで開館している中目黒駅前図書館、150人まで利用できる中目黒GTプラザホ ールなどが新たに設られた。翌年の15年1月には区役所が移転してきた。昭和54年に誕生 した目黒銀座音頭が、夏のお祭りで阿波踊りとともに踊られていたが、平成16年からはよさ こいも加わり、いっそう賑やかになった。 |
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■目黒銀座観世音・馬頭観世音 2丁目14番にある小堂。馬頭観音は当時の主たる労働力・運搬力だった馬に感謝するため に建てられる供養塔だ。死馬を埋めた場所や坂道、川端などに建てた。 ●観音橋 かつて蛇崩川に架かっていた。川が暗渠とされたため撤去された。今は暗渠上に設けられた 駐輪場の名前として残っている。橋跡は中目黒駅西のガード(諏訪山第一架道橋)の直ぐ南。 |
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■けこぼ坂 2丁目と中目黒3丁目の境、山手通り中目黒交差点から駒沢通りを西に上る坂道。坂道は旧 祐天寺道の一部で、古くは下渋谷から別所坂を下り、p樹(さいかち)橋で目黒川を渡り、こ の坂道を通って祐天寺前から碑文谷に至る交通の要衝だった。そのため古くから何回となく急 な箇所を切り取る工事を繰り返し、同坂の距離はかなり長くなり、頂上部の勾配も緩やかなも のになった。でもママチャリじゃあきついがよ。道路面の変化は、両側の土手の法面にも変化 を与え、高い法面は崩れやすく、赤土の塊がざらざらこぼれ、道幅を狭めていたことさえあっ たという。この状態を古い目黒の方言で「けこぼ」と称し、名前の由来になったという。現在 坂は駒沢通りの一部となり、現在も主要な交通路である。区役所前の坂道。 |
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■旧千代田生命本社ビル(目黒区役所) 2丁目18番、平成15年区役所は、昭和41年に村野藤吾設計が設計した旧千代田生命本 社ビル跡へ区役所を移して目黒総合庁舎とした。改修に当たっては、文化財的な価値が尊重さ れ、村野の意匠の重要な部分は当時の姿を留めている。日本の近現代建築を語る上で重要な位 置にある村野の旧千代田生命本社ビルだ。村野の建築は、細部に至るまで肌理細かな心遣いと 仕上げがなされており、それが特色の一つにもなっている。今も残る茶室や和室、そしてエン トランスホールのディテールには、その丁寧な設計と施工の仕上げの技が確認でき、現代の視 点からみても、全体から部分に亘るこだわり方には独特の哲学が感じとれる。 |
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■小川坂 3丁目と東山1丁目の境、中目黒駅から山手通りを大橋方面へ向かって歩くと、上目黒交差 点から西へ斜めに入る道がある。烏森小学校の方へ上る道。弓のような弧を描く緩やかな坂で 周辺に旧家小川家所有の土地が多かったのこの名前となったらしい。 |
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■中目黒駅 3丁目4番にある東急東横線と地下鉄日比谷線の停車場。昭和2年8月28東京横浜電鉄が 渋谷〜丸子多摩川(多摩川)間を開業させたのと同時にできた駅。地下鉄日比谷線は昭和39 年7月22日に乗り入れ、日比谷線が全通した同年8月29日から東横線との直通運転を開始 した。ホームは高架島式2面4線構造。外側のホームを東横線、内側のホームを日比谷線が使 用する。エレベーター完備。改札口は1階にある1ヶ所のみ(東急・東京地下鉄共通)で、出 口は山手通りに面する正面の大きな出口と、南側の路地に出る小さな出口の2ヶ所。さて中目 黒とは豪く離れており、何で上目黒じゃないの? この駅ができた時、230m南、大鳥神社交差点のところに路面電車の玉川電鉄の中目黒停 留所があった。これに連絡することを明示するために、上目黒1816番地なのに、中目黒と 名乗った理由らしい。目黒川p樹橋(さいかちばし)南に設置された中目黒停留所は、山手線 の外側に突出した東京市電網のいわば終点・起点となっていた。当時橋南は道路の西端が上目 黒と中目黒の境界になっており、路面内に設置された停留所は中目黒に属し、停留所名はそれ に従ったものだ。後に境界は東縁に変更された。この停留所は路線が昭和42年に廃止された ため同時に撤去された。最初から上目黒にしとけばよかったのに・・・ |
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○日比谷線中目黒事故 平成12年3月8日、中目黒駅の東側で日比谷線下り電車の最後尾車両が複合脱線し、対向 して来た上り電車の側面にぶつかるという事故が発生した。この事故は死者5名・負傷者64 名を出す事態となり、営団地下鉄にとっては初の死亡事故(人身事故を除く)となった。 日比谷線の脱線衝突事故から8年になる同20年3月8日朝、東京都目黒区の中目黒駅近く の現場で慰霊祭があった。事故発生と同じ午前9時1分から、遺族や東京メトロの役員らが線 路脇の慰霊碑に献花して犠牲者の冥福を祈った。 |
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■護法山西照寺 上目黒3丁目44番にある真宗大谷派の小寺。大理石の門柱の内は狭い境内、直ぐに本堂、 真宗らしい落ち着いた寺だ。庫裏は左手に。明治16年港区内に建てられ、大正14年に現在 地に移転してきた。本尊は阿弥陀如来。 |
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■烏森小学校 3丁目37番にある。昭和3年菅刈小学校・中目黒尋常高等小学校から分離独立して「東京 府荏原郡烏森尋常小学校」として開校。校旗制定。同5年校歌制定。 校歌「窓より望む富士の峯」 作詞・尾上八郎 作曲・松島ツネ 1.窓より望む富士の峯 朝夕渡る目黒川 高き自然の化を受けて 誠の心一筋に 学ぶぞ我らの務めなる 2.学びの道の行く手には 永久の光ぞ輝ける 古葉は止めぬ烏森 日に新しき力持て いざや励まん我が友よ 同10(7?)年「東京府東京市烏森尋常小学校」と改称。同15年不動小学校を分校。同 16年国民学校令により「東京府東京市烏森国民学校」と改称。上目黒国民学校の開校に伴い 一部生徒を移籍。12月日米開戦。同18年都制施行により「東京都烏森国民学校」と改称。 同19年福島県江川村に学童集団疎開。同20年愚かなアメリカ軍の非人道的無差別空爆によ り校舎全焼。8月日本は、ならず者国家アメリカの軍門に降り惨めな敗戦。以後属国とされ、 唯々諾々といいなりになる保守的傀儡政権を保持せざるを得ない今日的不幸を背負い込む。も う200兆円以上持っていかれたし、米兵に少女が犯されても、告訴を取り下げさせて泣き寝 入りだ。これからの若者は米軍の尖兵として最前線の激戦地に送り込まれるぞ。 同22年2月仮校舎落成。4月アメリカの強制による学制改革により「東京都目黒区立烏森 小学校」と改称。同25年木造2階建て校舎落成。同33年東山小学校を分校。同36年体育 館兼講堂完成。同38年〜55年改築鉄筋コンクリート造り校舎落成。同42年創立40周年 記念式典。同43年プール完成。同52年創立50周年記念式典。同62年創立60周年記念 式典。 平成3年新体育館・新プール完成。同14年75周年を迎えた。同17年給食民間委託。同 18年2学期制導入。 ●烏森の由来 烏森稲荷神社があったことから、明治22年に町村制が敷かれ上目黒村が目黒村大字上目黒 に成った時、字名として誕生した。それまでは、周辺を含めたこの辺り一帯を「宿山」と呼ん でいた。小字というのは地租改正の時、明治政府の役人が土地を勝手に調査して区分図を作り それに適当に名前を記入したのが基となっており、地元の人が付けた訳ではない。地名として 誕生してからの烏森地域は、大正11年の町制を経て、区が誕生した昭和7年に上目黒三丁目 1646〜1785番地となり、さらに43年1月の新住居表示制では上目黒3丁目14〜2 7番、36〜44番となった。 |
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■烏森稲荷神社 3丁目39番、蛇崩川の諏訪山橋北の台地に鎮座している。上目黒村宿山組の鎮守だ。祭神 は蒼稲魂命。寿福寺の境内に祀ってあったのを、今の場所に移したといわれている。その昔宿 山の稲荷講の人達が江戸新橋の烏森稲荷へ参拝に行った時に、狐が白い馬になってついてきた のでそれを祀ったのが始まりと言う伝説もある。例大祭は、9月の第3土・日曜日。味のある 雰囲気がいい。 |
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■新清山観明院寿福寺 5丁目16番にある天台宗の寺。滝泉寺の6末の1。宿山集落とは深い関係で結ばれた由緒 ある寺だ。元和元年(1615)大阿闍梨鳳算の開基。享保の頃中興の祖といわれる孝順の時 護国院の末となって栄えた。護国院が廃寺となった後、目黒不動滝泉寺の末寺となった。本堂 は天明八年(1788)5世知皎和尚の時再建したが、これが明治8年に焼失したため、同1 3年廃寺となった行人坂明王院の本堂(念仏堂)を移して再々建したものだったが、昭和49 年鉄筋コンクリートに改めた。八百屋お七と吉三郎に因んだ念仏堂の額はこの寺に移され現存 している。また本堂には、江戸初期の作といわれる木彫彩色の青面金剛立像が祀られている。 ●種蒔き権兵衛$井権兵衛の墓 墓地に、駒場野で種蒔き権兵衛≠フ名で知られる綱差初代川井権兵衛の墓がある。初代は 農民の出で、戒名は華屋暁雲信士、寛延二年(1749)に没した。しかし各地に種蒔き権兵 衛の話はある。 権兵衛が種蒔きゃカラスがほじくる 三度に一度は追わずばなるまい |
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■芦毛塚 野沢通り蛇崩(じゃくずれ)交差点に近い五本木1丁目と世田谷区下馬5丁目の境にある。 『江戸名所図会』には 宿山という小地を称ふる地の里正(名主)金子氏構(かまえ)の内にあり、頼朝卿乗 る所の芦毛の馬斃れたるを埋蔵せし旧跡云ふ と書かれ、『新編武蔵風土記稿』には 下馬引沢の内上目黒の堺にありて凡そ二間四方の塚なり。昔頼朝御葦毛の馬に乗り て此塚を過ぎ給ふ時馬驚き沢中に陥り、忽死したるを埋めし処と云ふ と載せてある。塚は昭和5年の区画整理の際、塚を公有地として道幅を広くロータリーに造 り替え、33uの舟形にし、路面より1mぐらい高くしたようだが、今は高くはしてない。敷 地の内にはサイカチやシラカシの樹木が茂り、「芦毛塚之碑」が建っている。 |
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■銃暴発幼児死亡事故 1丁目の医師立松秀樹(39)宅で起きた。平成19年12月9日12時20分頃、「銃が 暴発し、家族がけがをした」と119番通報があった。救急車が出向くと、1階の居間に立松 の次男で保育園児の直樹(2)が銃で右胸を撃たれており、直ちに病院に運ばれたが、同14 時前死亡が確認された。失血死とみられている。警視庁は、一緒にいた幼稚園児の長男(5) が、立松が隣の部屋に手入れ用の道具を取りに行き、その場を離れたその間に、子ども2人が 入室。好奇心のままにライフル銃に触っている内、引鉄に触れ暴発したとみて、銃の管理に問 題がなかったかどうかを調べている。 まぁ、とろいお父っつぁんだ。子供のいるところで銃の手入れをすること自体、大間違いだ し、装弾している状態で銃を手放すなよ。苦し紛れに「弾が入っているとは思わなかった」だ と。それじゃあ馬鹿じゃん。鉄砲の所持を許された者が、弾の有無が判らねえんじゃあ、銃持 つ資格なんてねえよ。バカヤロウ こんなのが医者なんだから、危ねえ、危ねえ! |
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■上目黒小学校 1丁目12番にある。同16年4月烏森国民学校・五本木国民学校内に「東京府東京市上目 黒国民学校」として開校。5月現在地に校舎落成し、烏森国民学校・五本木国民学校で授業中 の本校児童を移す。入校式・開校式・落成式を行う。12月日米開戦。同18年都制施行によ り「東京都上目黒国民学校」と改称。同19年福島県矢吹町に学童集団疎開。同20年8月日 本は、ならず者国家アメリカの軍門に降り惨めな敗戦。以後属国とされ、唯々諾々といいなり になる保守的傀儡政権を保持せざるを得ない今日的不幸を背負い込む。もう200兆円以上を 持っていかれたし、米兵に少女が犯されても、告訴を取り下げさせて泣き寝入りだ。これから の若者は米軍の尖兵として最前線の激戦地に送り込まれるぞ。 同22年2月仮校舎落成。4月アメリカの強制による学制改革により「東京都目黒区立上目 黒小学校」と改称。同24年教育不足により第五中学校に間借り。同35年目黒区教育相談所 を併設。同40〜49年改築鉄筋コンクリート造り校舎化。平成3年創立50周年記念式典。 校歌「豊かな光が」 1.豊かな光が降り注ぎ 輝く校舎の朝の窓 小鳥の囀り空に満ち 明るい希望が湧き上がる 2.流れも清らな多摩川に 踊るよ元気な鮎の子ら 楽しい歌声風に乗せ 行こうよ岸辺を足軽(かろ)く 3.憧れ遥かに飛ぶ彼方 清(さや)かな富士の嶺望む丘 桜の葉陰に慕い寄る 心を育む我が母校 ああ仰げ上目黒小学校。 |
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■本覚院 1丁目44番にある法華真宗の寺。お寺とはいいがたい和風建築の住宅。 |
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■守屋教育会館 2丁目20番にある。学校教育の充実振興と社会教育の発展とを目的として、昭和46年に 開設された。以来、区の「教育センター」としての機能を担い、各事業を展開している。主な 事業としては、教育に関する調査・研究、教職員の研修、めぐろエミール、教育相談、視聴覚 ライブラリー、児童・生徒科学教室、児童合唱教室などがある。 ●郷土資料室 会館の中、1階にある。昭和38年守屋図書館の増設の際に、同館内に設置されたのが始ま りで、ついで同46年教育会館の設立により、同館内に移された。 ●目黒護国神社・五本木庚申塔群 敷地内にある。 |
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■五本木小学校 2丁目24番にある。昭和2年東横鉄道が開通し、五本木の辺りの農地にも住宅が建ち始め たが、この辺りの子供は中目黒尋常高等小学校か油面尋常小学校に通っていた。同6年地元の 輿望を以て学校が作られることになり、2月から始めて8月に校舎が完成した。9月中日黒尋 常高等小学校から235名、油面尋常小学校から322名の児童を迎え、「東京府荏原郡五本 木尋常小学校」として開校。同9年雨天体操場兼講堂完成。同16年国民学校令により「東京 府東京市五本木国民学校」と名称が変わり、この頃には児童の増加で教室が足らず二部授業が 重なったため、上目黒国民学校を分校した。開校10周年記念式典・校歌制定。 校歌「都の西南」 作詞・高野辰之 作詞不詳 1.都の西南目黒の里に 御嶽神社の鎮まる処 五本木国民学校ありて 我ら千百学びに通う 2.彼の富士の嶺は彼等の鑑 御空に高く正しく清く 四時聳えて雲霧去れば 千古変わらぬ神代の姿 3.健き體に朗の望 一つ心に養い育て 末頼もしき御国の民よ 興亜の民よと世に歌われん 12月日米開戦。同18年都制施行により「東京都五本木国民学校」と改称。同19年福島 県白河町に学童集団疎開。同20年ならず者国家アメリカの軍門に降り惨めな敗戦。以後属国 とされ、唯々諾々といいなりになる保守的傀儡政権を保持せざるを得ない今日的不幸を背負い 込む。もう200兆円以上を持っていかれたし、米兵に少女が犯されても、告訴を取り下げさ せて泣き寝入りだ。これからの若者は米軍の尖兵として最前線の激戦地に送り込まれるぞ。 同22年4月アメリカの強制による学制改革により「東京都目黒区立五本木小学校」と改称 し、戦後教育がスタートしたが、校舎がアメリカ軍に燃やされた不動小学校・鷹番小学校が校 舎が建てられるまで合同授業となったため、教室が足らず大混雑で大混乱した。ララ物資によ るミルク給食が開始された。これが傷んでいて臭いんだ。よく飲んだものだよ。同25年鷹番 ・不動の児童はそれぞれの母校へ帰校。同26年創立20周年記念式典・図書室完成・新校歌 制定。 校歌「初めて潜る校門に」 作詞・鹿島鳴秋 作曲・渡辺浦人 1・初めて潜る校門に 希望の胸は膨らんで 桜の花も咲いていた 年月経ってい今此処に ああ我ら楽しい五本木小学生 2.緑の風の爽やかに 心も弾む校庭よ 飛んだり跳ねてまた明日 元気でやろうお勉強 ああ我ら伸び行く五本木小学生 3.夕べの空に見る富士は 平和の国の宝物 ヒマラヤ杉に星が出て みんなの夢を歌ってる ああ我ら栄えある五本木小学生 同28年中庭が舗装され、この夏から久里浜海岸で臨海学校が始まった。同29年ピアノ購 入。同30年奥多摩御岳で林間学校始まる。同31年視聴覚教室開設。同34年プール完成。 同36年創立30年記念式典。同36〜54年鉄筋コンクリート校舎完成。平成13年に創立 70周年を迎え、耐震化も完了した。学校の周りは閑静な住宅地だが、その中央を東横線と駒 沢通りが通っている。学区域には、旧区役所、守屋教育会館、郷土資料室、守屋図書館があり 目黒区の中心として栄え、教育環境に恵まれている。 |
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■妙見寺 2丁目28番にある日蓮宗の寺。大正8年の創建。本堂は鉄筋コンクリート2階建て、その 左に墓地。 |
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■駒場野一揆 慶応三年(1867)幕府は将軍の鷹狩り場だった駒場野を軍事訓練所とするための建設工 事に取りかかった。しかし近隣の農民に何の補償も示さなかったため、彼らは激しく抵抗。岩 波書店の『近代日本総合年表』の、慶応三年の「社会」の項には「幕府、武蔵国荏原郡駒場野 一帯を上地して散兵伝習調練場としたため、農民騒擾おこる」とある。駒場野の農民は、将軍 の鷹狩りのためにいつも迷惑していた。奉仕ばかりでなく、畑や田圃が荒らされても我慢させ られてきた。その怒りが爆発、駒場野の番人小屋などを打ち壊すなどして建設そのものを中止 に追い込んだ。更に幕府はその東の渋谷の中豊沢村などにその矛先を差し替えたが、そこでも 猛烈な反対に合い、結局断念せざるを得なかった。幕府は高島平に転じたが、そこでも猛烈な 反対のため計画倒れ、幕府の権威は地に堕ちた。 駒場野の袖吹き返す朝風に鶉鳴くなり深草の中(狂歌) しかし維新後は、明治政府は強権を発動、農民の反対などものかわ、この街道を挟んで一円 は軍事施設が甍を競った。騎兵聯隊が駐箚すると駒場野は調練馬場となった。戦後軍用地は住 宅団地・学校用地・駒場野公園・入試センター・病院・警察用地などなどに変っている。 |
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★ミラヴェル 1丁目16番の片桐ビル地下1階にある、『ミシュランガイド東京2008』で星1つを獲 得したフレンチレストラン。松見坂交差点の近くで、フランス料理という枠の中で、オリナリ ティーをいかに表現するかを追求している。「自分の店なんだから、自分にしかできないこと をやっている。平凡なことはやりたくない」というオーナーシェフの都志見セイジ。平成元年 から6年間フランスの修業経験で、最初の日本人として働いたレストランの料理に影響を受け 同12年にその店と同じ名で開業した。 店内に入ると、壁に飾られている絵が目に入る。シェフ自身が趣味で描いているも。絵を描 く時は水彩、油絵、えんぴつ、何で描くかというのはこだわらない。とにかく感じたままに、 そして感じる絵を描きたいと思って描くだけとか。この感覚は料理にも通じ、料理も絵も音楽 も、自分だけの作品を創るということでは、感性と想像力が大切だと思う。その上でフランス 料理をやっているわけだから、美味しい料理、そして自分にしか創れないフランス料理にこだ わって創っている。絵も描き、昔はミュージシャンを目指していたこともあったというシェフ ならではの経験に基づいたクリエイティブな発想が、料理にも窺える。スペシャリティはフォ アグラと牛タンのサンマルク、瀬戸内海の天然鯛と豚のソーセージ、牛の尾肉と豚足のパイ包 み、ジャムを詰めたクレームダンジュ。4〜5月はシェフの故郷である広島から直送の桜鯛を 使った「桜鯛尽くし限定コース」を用意している。価格は手頃、応対も親切。 同名のキャバクラがあるので混同して道を過たないように。下半身の食物屋じゃないよ。 12時〜15時・18時〜23時 03‐5738‐0418 |
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■偕行社目黒住宅 1丁目16〜18番の辺りにあった陸軍の将校用住宅地。二・二六事件の首謀者の一人栗原 安秀中尉が住んでいた。坂下にはシンガポール陥落の名将でフィリピン戦の敗将山下奉文(と もゆき)大将の邸宅があり、栗原らはしばしば訪れて意気軒昂だったという。 |
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■蔵田山聖徳寺 1丁目34番にある浄土真宗本願寺派の寺。山門を入ると、正面が鉄筋コンク リート造り 高床式の本堂、右は庫裏、あとは一面の墓地。寛文三年(1663)山梨県都留に開かれた寺 で昭和2年に現在地に越してきた。本尊は阿弥陀如来。 |
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■東工学学園中学校・東京工業高等学校(平成20年校名変更) 1丁目35番にある私立校。明治40年「東京工科学校」として開校。昭和6年財団法人東 工学園設立。「東京工業学校」を併設。同23年東京工科学校・東京工業学校を廃し、新学制 による「東工学園中学校・東京工業高等学校」を開校。目黒区駒場町751番地(現在地)の 新校舎に移転。同32年創立50周年。記念式典は翌年。同33年創立50周年を記念して第 一期鉄筋コンクリート造り校舎落成。同36年第二期鉄筋コンクリート造り校舎落成。同39 年第三期鉄筋コンクリート造り校舎落成。同42年日本工業大学開学。同43年東工学園創立 60周年記念式典。同52年東工学園創立70周年記念式典。同62年大学院設置。東工学園 創立80周年記念式典。 平成2年学校法人日本工業大学に名称変更したことにより、「日本工業大学附属中学校・東 京工業高等学校」と改称。同9年創立90周年記念校舎大改修・記念式典。同13年新校舎落 成。同19年創立100周年記念式典。同20年組織校名変更。 |
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■日本工業大学駒場中学校・駒場高等学校 1丁目35番にある私立校。平成20年日本工業大学附属中学校・東京工業高等学校を改組 して新発足した。男女共学の普通科を新設し進学校に変身。少子化を見越しての改変だ。 |
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■第一師団輜重兵第一大隊跡 2丁目11〜18番を占めていた日本陸軍の輸送部隊の一つ。 |
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■近衛師団近衛輜重兵大隊跡 2丁目19〜21番・世田谷区池尻4丁目4〜6番を占めていた日本陸軍輸送部隊の一つ。 移転してきたのは明治25年である。昭和11年聯隊に昇格。太平洋戦争では近衛師団が3つ になったため近衛第二師団に属した。敗戦により軍隊が解散されて60年以上経っているため 当時のものは残っていないが、この近衛輜重兵大隊跡にはちょっと変わったものが現存してい る。駒場東邦中高の南端に妙に凸凹したコンクリートの建物だ。これはかつて屋内射撃場とし て使われていたもの。射撃に対する耐久性と防音性を兼ね備えるべく壁の厚さが30cmもあ る。また屋根や側面が複雑な凹凸になっているのも防音効果を狙った形状だとか。 長く日通の倉庫として使われていたが、今では別の業者が倉庫として使用している他、防音 性を活用して音楽用の貸スタジオとしても利用されている。意外だが実に上手い使い方だ。 ●近衛輜重兵第二聯隊・第三聯隊 太平洋戦争で、近衛兵が2個師団編成になった時輜重兵聯隊は近衛第二師団に属し、近衛第 一師団には輜重兵は置かれなかった。他の輜重兵聯隊よりも、兵員・装備の面で優遇された他 は、特に変わるところはない。本土決戦準備のため千葉で編成されたに近衛第三師団に近衛輜 重兵第三聯隊が所属。という訳で近衛輜重兵第一聯隊は存在しない。 |
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■駒場野公園 2丁目19番にある。東京教育大学(筑波大学)の農学部がつくば市に移転した後 半分が 公園として整備され、昭和61年に開園した。 広さ2.8haの園内には、雑木林や水田(ケ ンネル田圃)があって、かつての駒場野の面影を残して、野鳥なども数多く生息している。近 代農学発祥の地だ。他の半分は入試センター、国際高校になっている。 |
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■駒場体育館 2丁目19番にある区の施設。体育室・プール・テニスコートがあり有料。9〜21時。休 館日は月曜日(祝日の場合は翌日)と年末年始。 プールは9〜20時半 大人300円・中学生以下150円。 体育室は大人200円・中学生以下100円。上履き・運動靴は自分で用意すること |
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■英語の 国際高等学校 2丁目19番にある都立校。平成元年開校。都立高校としては唯一の国際学科を設置してい る学校で、同18年度の大学センター試験では英語の学校平均点が文京区の桜蔭に次いで全国 2番目の実績を残すなど、語学力に自信ある生徒が広く集まっている。入試問題は英語のみ自 校作成問題を導入しており、その難易度は他校とは一線を画し、高度な英語力が要求される。 男女共学であるが女子の比率が高く、3〜5:1程の割合だ。帰国生枠や在京外国人枠もあり 帰国子女からの人気も高い。同16〜18年度まで文部科学省からスーパーイングリッシュ・ ランゲージハイスクール (SELHi) の指定を受けていた。外国語の授業では海外の出版物 が多く利用されている。ドイツ語・スペイン語・フランス語・中国語の履修も可能であり、高 い語学力を付けることができる。「課題研究」が3年間必修となっており、入念な調査研究の 下、本格的な論文執筆が行われる。独自科目の「国際理解」では、文化理解・社会理解・環境 表現の3分野について、学校製作の独自のテキストを用いて学ばれている。教科によっては大 学教養レベルの高度な授業も行われている。そのため受験生全般に大変高い人気を誇ってる。 |
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■駒場農学校 明治10年駒場野の一画に開校した。前身は内藤新宿にあった内務省勧業寮の農事修学場で 欧米から教師を招いて先進国の農業技術を学ぶのを目的とした。この学校は、クラーク博士で 有名な札幌農学校がアメリカ式の農業を基本としたのに対しドイツ農法を柱とした。そのシン ボルともいえるのが、明治14年に赴任してきたオスカー・ケルネル(ケンネル)で、彼は水 田の土壌の研究と稲作肥料の研究に多くの業績を残し、古来から日本で用いられてきた人糞尿 ・大豆粕・干鰯などの肥料や伝統的農法を積極的に研究し、近代的視点から評価や批判をし、 我国の水耕農業に大きな足跡を残した。また日本で初めて化学肥料の使用を試みた。日本人教 師としては群馬県出身の優れた農業指導者船津伝次平(ふなつでんじべい)がいた。彼が学生 たちと開墾した実習田で、ケルネルが土壌や肥料の改良に取り組んだ。船津はそれまでの日本 農法に西洋の近代農法を積極的に取り入れた。学校は明治19年東京山林学校と合併して「東 京農林学校」となり、同23年「帝国大学農科大学」となった。さらにその後は「東京帝国大 学農学部」「東京教育大学農学部」となり、昭和53年に東教大農学部が筑波に移転するまで 駒場は農業教育の一中心地だった。今東京大学教養学部構内に「駒場農学碑」が建っている。 また京王井の頭線駒場東大前駅西方の東教大農学部の跡地 約2.8haは駒場野の面影を残す 「駒場野公園」として昭和61年に開園した。入り口に近い低地には、船津が開墾しケルネル が実習に使った水田がケルネル(ケンネル)田圃と名付けられて保存されている。井の頭線 の駒場駅近くに見える水田群だ。目黒区内の残された唯一の水田で、今も筑波大附属中学・高 校生がそこで体験学習を行っている。また北区飛鳥山の児童公園内には故郷赤城山麓に向かっ て建てられた「船津翁の碑」がある。 |
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■駒場東大前駅 3丁目9番にある井の頭線の停車場。昭和40年7月11日に駒場駅と東大前駅が統合して 両駅の中間に誕生した。だから駅名は、「駒場の東大前にある駅」の意ではなく「駒場・東大 前」駅なのだ。現在も駅跡の南に「東大前商店街」がある。 ホームは島式1面2線。周囲の地形が傾斜しているため、ホームの渋谷寄りは地上で、吉祥 寺寄りは高架となっており、ホームと改札を結ぶエレベーターは西口にのみ設けられている。 改札口は渋谷寄りの橋上駅舎2階にある東口と吉祥寺寄りの高架下にある西口の2ヶ所。出口 は西口1ヶ所、東口2ヶ所の計3ヶ所で、東口の北側出口には「東大口」という固有の名称が 付けられている。 ●駒場駅 駒場小学校西の踏切のところにあった。昭和8年「西駒場駅」として開業。同12年「駒場 駅」と改称。同40年東大前駅と統合して廃駅。 ●東大前駅 東大梅林門の南の踏切のところにあった。昭和8年「東駒場駅」として開業。同11年「一 高前駅」と改称。同26年「東大前駅」と改称。同40年駒場駅と統合して廃駅。 |
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■旧制第一高等学校(一高) 3丁目の東大教養学部のところにあった。明治7年官立東京外国語学校英語科が官立東京英 語学校と改称。同10年東京英語学校と官立東京開成学校普通科(予科)が合併し、東京大学予 備門を設立。その後、東大医学部予科、東京法学校予科、東京外国語学校仏学科・独学科を併 合。同19年帝国大学令・中学校令に伴う改正で、工科大学予科を併合、「第一高等中学校」 となる。同22年一ツ橋から本郷向ヶ岡(東大農学部のある区域)に移転。同23年木下廣次 校長が学生自治を承認(自治寮開設)。同27年高等学校令により「第一高等学校」となる。 昭和10年等価交換により帝国大学農学部の駒場跡に移転。同22年東京帝国大学は東京大 学に改称。同24年「東京大学第一高等学校」になる。新制東大の教養学部も生まれる。(同 24年7月〜同25年3月の間、東大一高と東大教養学部は同居していた。同25年3月を以 て東京大学第一高等学校は廃校となる。 ●明治34年第11回紀念祭西寮寮歌「春爛漫の花の色」 1.春爛漫の花の色 紫匂う雲間より 紅深き朝日影 長閑けき光さし添えば 鳥は囀り蝶は舞い 散り来る花も光あり 2.秋玲瓏の夕紅葉 山の端近くかぎろえる 血潮の色の夕日影 岡の紅葉に移ろば 錦栄えある心地して 入相の鐘暮れて行く 3.夫れ濁流に魚住まず 秀麗の地に健児あり 勤倹尚武の旗の色 自治共同の笛の声 白雲靡く向陵に 籠るも久し十余年 4.鳴呼衰えぬ東洋の 二千余載の君子国 銀鞍白馬華を衒い 翠袖玉釵美を盡くし 栄華の夢を貪りて 文明の化に人酔えり 5.港を遠み夜は暗く 逆巻く怒濤の大洋に 木の葉の如く漂へる 梶の緒絶えたる小舟すら 遥かに見ゆる明星の 光に行手を定むなり 6.自治の光は常暗の 国をも照す北斗星 大和島根の人々の 心の梶を定むなり 若し夫れ自治のあらずんば 此国民を如何にせむ 「春爛漫」は、作詞矢野勘治(翌年の「嗚呼玉杯」の作詞者) 作曲豊原雄太郎(一高野球 部の名捕手)による一高の明治34年第11回記念祭寮歌だ。この歌が発表されるや、忽ちに して日本全国津々浦々で流行し、特に当時の女子学生の愛唱歌となった。「嗚呼玉杯に」とと もに、一高を代表する寮歌だ。 明治34年「春爛漫」が作られた年の4月、隅田川のボートレースに際してこの歌 が歌われ外部の人に伝わったが、またその年の7月、作詞者の矢野が帰郷の途次京 都に立寄り、京都府立高等女学校を訪れたところ、早くもその寄宿舎からこの歌が 洩れてくるのを聞いたという(高橋佐門「旧制高等学校研究ー校風寮歌編34頁) 矢野大先輩自身も昭和35年11月3日付朝日新聞「六十年・夢心地の感懐」において、 この『春爛漫』は殊に大いに愛唱され、寮内各所にその歌声を絶たず、終に校外に 出て都鄙青年男女の間伝播し、燎原火の如く全国を風靡し大流行を来たせり と述懐している。それほどの有名歌でありながら、同じ一高生の間でも歌詞の一部が異なっ た歌い方がされることがあり、必ずしも統一されていない。「紅深き」→「紅淡き」、「翠袖 玉劍」→「翠袖玉簪」「翠袖玉釵」、「文明の華」→「文明の化」、「国を照する」→「国を も照らす」「国を照らせる」と変えて歌われる。「淡き」は「長閑けき光」に合わせたものだ ろうと考えられ、「翠袖玉劍」は「銀鞍白馬」に対応させたものだが、女性に愛唱されたため か「簪・釵(共に「かんざし」の意)に置き換えられた。「国を照らする」は明治37年の寮 歌集製作の際の誤植と見られ、「国を照らせる」だったのではあろう。「国をも照らす」とは 北斗星が別のものを照らしていて「国をも」となるのが文法だが、北斗星が何を照らしている のか意味不明だ。またメロディも原譜と現在歌われているものとでは大いに違っている。 ●第12回紀念祭東寮寮歌「嗚呼玉杯に花受けて」 明治35年 作詞・矢野勘治 作曲・楠正一 1.嗚呼玉杯に花受けて 緑酒に月の影宿し 治安の夢に耽りたる 栄華の巷低く見て 向ヶ岡にそそり立つ 五寮の健児 意気高し 2.芙蓉の雪の精をとり 芳野の花の華を奪い 清き心の 益良雄が 剣と筆とをとり持ちて 一度起たば何事か 人世の偉業 成らざらん 3.濁れる海に漂える 我国民を救わんと 逆巻く浪を掻き分けて 自治の大船勇ましく 尚武の風を帆に孕み 船出せしより十二年 4.花咲き花は移ろひて 露置き露の干るが如 星霜移り人は去り 梶取る舟師(かこ)は代わるとも 我乗る船は常へに 理想の自治に進むなり 5.行途を拒む者あらば 斬りて捨つるに何かある 破邪の剣を抜き持ちて 舳に立ちて我呼ば 魑魅魍魎も影潜め 金波銀波の海静か この歌には長調と短調と2通りのメロディがあり、長調はアップテンポ、元気で威勢がいい が、短調は逍遥歌的で、静かで落ち着いた感じがする。この2曲の他にも名曲といわれる一高 寮歌は多数愛唱されている。因みに第一高等学校の寮歌は3000曲に上るという。 |
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■駒場東大 東京大学大学院総合文化研究科・教養学部 3丁目の9割を占める。かつては農学部の敷地で、昭和10年文京区弥生にあった旧制第一 高等学校と等価交換して第一高等学校の敷地となった。 このとき敷地交換を求めた帝国大学 側は、主要な建物を建造することを約束し、これによって現在の1号館をはじめとする建物が 本郷キャンパスと同じ様式で造られた。当時の建物のうち現存しているのは1号館および講堂 (900番教室)、図書館の一部、101号館だけだ。戦後の学制改革で旧制高校は新制大学 に移行したので、第一高等学校も東京大学に包摂されて教養学部となった。いわゆる駒場東大 だ。キャンパスは大戦中被災して荒廃したが、新制大学発足後とくに植樹に力を入れ、緑の復 元に努めた。今では名物になっている桜木も戦後植樹されたものが多く、ラグビー場の土手の 桜並木もその1つだ。他に、ストレンジ先生レリーフ、イチョウ並木、桜と石碑、松と石碑、 ここに一高ありきの碑、一高大扉、矢内原門跡の碑、駒場農学碑、嗚呼玉杯之碑、ブッチール 先生胸像、アリヴェ先生胸像などの文化財がある。 ●学舎 1〜18号館(4号館欠)、101号館、102号館、105号館、講堂(900番教室) 身体運動科学研究棟、数理科学研究科棟、情報教育北棟、情報教育南棟、多目的ホール、アド バンス・リサーチ・ラボラトリー、アメリカ太平洋地域研究センター(旧アメリカ研究資料セ ンター 14号館)、 ●その他の施設 学生会館、駒場図書館(8号館)、自然科学図書館(14号館)、駒場博物館(美術博物館 ・自然科学博物館)、保健センター駒場支所、駒場ファカルティハウス(同窓会館跡地)、ア ドミニストレーション棟・学際交流ホール、課外活動施設、サークル(キャンパスプラザ)A 棟、サークル(キャンパスプラザ)B棟、コミュニケーションプラザ和館、コミュニケーショ ン北館、コミュニケーション南館、同窓会館対応プレハブ、正門、坂下門、裏門、梅林門、炊 事門、一二郎池、噴水、矢内原公園 ●スポーツ施設 第一体育館、第二体育館、トレーニング体育館、野球場、ラグビー場、弓道場・浩然堂、テ ニスコート3ヶ所・第一グラウンド・第二グラウンド・バレーボールコート ●男女共同参画支援施設 裏門付近にあった東大駒場地区保育所を、2004年に移転し、男女共同参画のための支援施設 として整備したもの。場所は教職員用テニスコートの南側。同保育所は昭和46年に設立され て以来、駒場の教職員や学生、周辺住民の育児(と育自)をサポートしてきた。この間、園舎 が老朽化し、特に阪神大震災以降、耐震性が問題視された。現在都の認証保育所A型。運営は NPO法人「駒場保育の会」が担う。園児は寝返りを打てるようになるとおむつからパンツと なり、泥んこ遊びを楽しみ、キャンパスをくまなくお散歩する。5歳児から高尾山登山に挑戦 し、毎朝の雑巾がけで働くことを学ぶ。今時珍しい腕白小僧やお転婆娘が、毎日元気よく通園 する。 ●柏蔭舎 駒場キャンパスにおける伝統文化の実践の場として設けられた施設で、現在の建物は老朽化 した旧柏蔭舎に代わるものとして平成8年6月に落成した。純然たる日本家屋で10畳の和室 2部屋からなり、それを囲んでL字型の一間廊下、玄関、水屋ならびに納戸がある。奥の部屋 は、茶室として用いられるように床の間と炉を備えている。手前の部屋は畳敷きの汎用スペー スだが、学生からのアイディアを取り入れて、畳を上げると稽古舞台としても使えるように設 計された。建築に当たっては、農学部演習林から選び抜かれた木材が用いられたんだよ。 |
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■東京大学 駒場博物館―03-5454-6188 教養学部内にある美術博物館と自然科学博物館・オルガン委員会を総称していう。建物は旧 制第一高等学校の図書館をリニューアルしたもの。 ●美術博物館 初代矢内原忠雄学部長の、文系・理系横断型総合教育構想の一環として、昭和26年に開始 し。10年間資料蒐集して、同36年第二本館内に展示室を開設、週2回の常設展示を実現し た。同46年第一高等学校からの図書館内部が改造され、展示室はその2階に移り、以後常設 展示日は週3日となった。さらに毎年本収蔵品を中心とする多彩な特別展示や、美術・音楽・ 文学など各分野の第一線で活躍している人々を講師とする講演会を開催して来た。平成12年 本館1階に置かれていた教務課が、総合図書館新築に伴って旧総合図書館に移動する計画が立 てれ具体化されるに従い、本館全体も改装されることになった。1・2階の仕切りを外して、 建物の中央部を吹き抜けの大きな展示室とし、その手前を2階建てに改造して、2階を自然科 学館、1階を事務室・セミナー室などとした。同15年11月第一高等学校図書館のシックな 風格を継承した本格的美術博物館としてリニューアルオープン。本館には長年の蒐集によって 明治・大正期以来の良質な日本画・洋画、日本と東アジア諸地域の貴重な美術品や出土遺物、 アンデス民俗資料などの多様な古典的・伝統的作品ともに、マルセル・デュシャンの大作「大 ガラス」をはじめ、様々な現代アートも収蔵されている。なのに無料だ。大好きだよ東大! ●自然科学博物館 教養学部での一般教育に資することを目的として昭和28年に設置されたもので、本学部に おける主に自然科学系の教員をメンバーとする「自然科学博物館委員会」によって運営されて いる。展示場所は、駒場博物館の2階にある。1階美術博物館と同じく、一般にも公開してい る。収蔵標本としては、鉱物、岩石、化石、蝶類、甲虫類、キノコ類などの標本、脊椎動物の 骨格標本を蔵している。また西洋科学や工学の導入時に用いられた実験機器、測量器具、模型 教材なども保管している。現在は、理化学実験機器を中心とした常設展示をしている。これも 無料だ。腐っても東大だね。 ●オルガン委員会 昭和52年森泰吉郎氏(森ビル株式会社初代社長)の寄贈によって、緑に囲まれた900番 教室(講堂)にパイプオルガンが設置された。以来定期的に演奏会が無料で開催され、東大の 学生はもとより、広く市民の方々にも愛されている。 ●東大友の会 入会すると、図書館も利用でき、特典が一杯だよ〜ん。 |
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■駒場小学校 3丁目11番にある。昭和7年(『目黒区教育百年のあゆみ』では8年だ)菅刈尋常小学校 分教場として開設。同9年「東京府東京市駒場尋常小学校」として独立開校。同16年国民学 校令により「東京府東京市駒場国民学校」と改称。12月日米開戦。同18年都制施行により 「東京都烏森国民学校」と改称。同19年福島県大戸村に学童集団疎開。同20年愚かなアメ リカ軍の非人道的無差別空爆により校舎全焼。8月日本は、ならず者国家アメリカの軍門に降 り敗戦。以後属国とされ、唯々諾々といいなりになる保守的傀儡政権を保持せざるを得ない今 日的不幸を背負い込む。もう200兆円以上持って行かれたし、米兵に少女が犯されても、告 訴を取り下げさせて泣き寝入りだ。これからの若者は米軍の尖兵として最前線の激戦地に送り 込まれるぞ。 敗戦後青空教室。第一高等学校の雨天体操場に間借りして授業。同22年アメリカの強制に よる学制改革により「東京都目黒区立駒場小学校」と改称。同23年7月仮校舎落成。同25 年木造2階建て校舎が落成。同42〜49年鉄筋コンクリート造り校舎落成。屋上にプール。 平成16年創開校70周年記念式典。 校歌「紫の春」 1.紫の春 星の秋 鋼の冬や雲の夏 柏の徽章 輝かし 我らは潜る松の門 ああ駒場 駒場 我らが母校 駒場 2.新たに興る日本の 大いなる夢抱きつつ 共々熱く結び合い 学ばんいざ諸共に ああ駒場 駒場 我らが母校 駒場 3.師の恩深く胸に生き 友情固く永遠に 柏の徽章 松の門 我が学舎よ 栄えあれ ああ駒場 駒場 我らが母校 駒場 |
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■駒場公園 4丁目3番、4丁目の東半を占める。江戸時代の鷹場駒場野の一部で、明治時代からは駒場 農学校、のちの帝国大学農学部の敷地の一部となった。大正の終わりに本郷の前田邸・第一高 等学校と農学部敷地の一部とが等価交換され、農学部跡は国立第一高等学校と前田邸に生まれ 変わった。戦後アメリカ占領軍に接収され、昭和39年返還に伴い東京都の所有となり都立駒 塲公園が建設された。同42年日本近代文学館・東京都近代文学博物館が開館、同50年管理 が区に移管された。 |
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| ●日本近代文学館 4丁目3番、駒場公園内にある。昭和37年5月、散逸のはなはだしい近代文学関係の資料 を収集・保存するため、文壇・学界・マスコミ関係者113名によって発起され、各界に文学 ミュージアム設立の欠くべからざることを訴え、発起者たちの献身と各界からの絶大な援助に よって、同42年4月竣工・開館した。この間館の設立に参加した人はおよそ15000名に 達している。開館後も引き続き文壇・学界関係者の奉仕と、出版社・新聞社、その他各方面か らの強い協力によって維持運営されていた。 |
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| ●東京都近代文学館 閉鎖 4丁目3番の旧前田侯爵邸の中にあったが、平成14年3月閉館した。 |
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| ●旧前田侯爵邸 旧加賀100万石前田本家利為(としなり)侯爵家の本邸として、昭和4年に竣工した建物。 設計者は東京帝国大学教授塚本靖だったが、実際の設計は技師高橋禎太郎が担当した。建物の 規模は地上3階・地下1階。建築面積342坪(約1200u)の鉄筋コンクーリート造り。 英国の後期ゴシック様式を簡略化したチューダー様式のデザインで、玄関ポーチの扁平アーチ にその特徴が見られる。外壁はスクラッチタイル貼り、アクセントに大華石を用い、屋根は銅 板葺きだ。内部は各部屋にイタリア産大理石のマントルピースがあるという豪華さで、建築当 時、東洋一の邸宅と称されたという。太平洋戦争中ボルネオ方面司令官として出征していた侯 爵が不幸にも戦死したため人手に渡ったという。戦後連合軍に接収され、極東軍司令官の官舎 としてが使われていたが、同39年に返還され都の所有となった。同42年東京都近代文学菊 物館に衣替えし、庭園も公園として一般に開放されたが、文学博物館は平成14年閉館。土日 祭日のみ建物を公開している。この建物は大正末から昭和初期に建てられた大邸宅建築を代表 する一つで機能性を重視し、当時における最新の技術を駆使している。内部の改造は少なく竣 工時の雰囲気をよく留め、上流社会の生活を偲ぶことができる貴重な歴史的建造物なのだ。見 学は土・日・祝・祭日のみ。 昭和5年完成の2階建て書院造りの日本家屋は、1階が洋館と渡り廊下で繋がっている。ロ ンドン駐在武官だった侯爵が、外人客の接待のために建てたともいわれている。 現在は都指定有形文化財の洋館が土、日曜日と祝日に、和館といわれている日本家屋の1 階広間が月曜以外の日に休憩所として無料開放されている。 |
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■前田育徳会 4丁目3番、駒塲公園正門のところの左隣に前田家、右隣に育徳会・尊経閣があり、加賀1 00万石の財宝を管理している法人だ。その所蔵の美術・工芸品・書画典籍は総数90点もあ り、総て国の重文で内22点が国宝だ。非公開で特別許可を得られた人だけが見られるが。た だ貸出出品はしているので、時々運がよければどこかでお目にかかれるさ。 |
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■日本民芸館 4丁目3番地、駒場公園のすぐ隣にある。創立者の柳宗悦は「民衆の芸術品」を展示したい と思い、全国を廻って捨てられかけていた日用品を買い集めた。昭和11年に建った素敵な日 本家屋は黒い屋根瓦に白い漆喰の外壁。通りを挟んで建つ素晴らしい長屋門は19世紀のもの で、栃木県から少しずつ運んだそうだ。 |
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■東京大学駒場U(リサーチ)キャンパス 4丁目6番、4丁目の西半を占める。工学部の敷地だった。明治19年帝国大学設置 東京 大学工芸学部と工部大学校の合併により工科大学(後の工学部虎ノ門)を設置。同21年工科 大学施設を本郷に新築(虎ノ門より移転)。同30年帝国大学を東京帝国大学に改称。大正8 年工科大学は工学部となる。昭和17年本郷地区を第一工学部に改称、千葉市に第二工学部を 設置し、同22年東京帝国大学から帝国を外し「東京大学」に改称。同24年新制東京大学と なる。生産技術研究所・先端科学技術研究センター・国際産学共同研究センターがある。 ●生産技術研究所(東大生研) 昭和24年5月31日設立。昭和17年第二工学部設立。千葉市弥生町1丁目8番地に設立 され、幾多の俊秀を世に送り出し、昭和26年まで存続した。生研は、その第二工学部内に同 24年5月31日「生産に関する技術的諸問題の科学的総合研究ならびに研究成果の実用化試 験」を目的として設置された。同29年試験高炉実験の開始。同30年観測ロケット研究開発 の開始。国際地球観測年(昭和32〜33年)に参加するため、文部省測地審議会の要請に応 じて研究開発を開始。同37年区米軍が撤退した六本木7−22のハーディーバラックス(旧 麻布第三聯隊跡地)へ移転。大型実験設備を含む施設は附属の千葉実験所として残った。同4 0年前年の新潟地震を契機として千葉実験所に当時としては最大規模の振動台を設置した。同 48年計測技術開発センター設置。同50年複合材料技術センター設置。同52年多次元画像 情報処理センター設置。同59年機能エレクトロ二クス研究センター設置。同60年先端素材 開発センター設置。 平成2年寄付研究部門の設置。インフォメーション・フュージョン(リコー)。同3年インテ リジェント・メカトロニクス(東芝)、グローブ・エンジニアリング(トヨタ)、国際災害軽減工 学研究センター設置。同6年概念情報工学研究センター設置。LIMMS/CNRS‐IIS 国際連携研究センター設置。同7年材料界面マイクロ工学研究センター設置。同9年東大駒場 Uキャンパス内に生研・先端研合同起工式。同10年東大駒場Uキャンパスに移転。同11年 海中工学研究センター設置。創立50周年記念式典。 1.研究実験棟 鉄骨鉄筋コンクリート造り地下1階地上8階建て 2.第45号館 鉄筋コンクリート造り地下1階地上5階建て 3.試作工場棟 鉄筋コンクリート造り2階階て(機械・部品作成) 4.食堂会議棟 プレハブ造り2階建て 5.図 書 棟 プレハブ造り2階建て 6.総合研究棟 鉄骨鉄筋コンクリート造地下1階地上7階建て(実験) ●先端科学技術研究センター(東大先端研) 昭和62年5月21日先端科学技術研究センター(基幹7研究分野、教官数14)発足。我 が国の国立大学初の寄付研究部門を開設。同63年19基幹研究分野、4客員分野、4寄付研 究部門(全教官数48名)に拡充。平成4年大学院の工学系研究科先端学工学専攻博士課程設 置。先端研は18基幹研究分野に変更。同8年文部省「卓越した研究拠点(COE)」に設定。 同9年知的財産権大部門設置(先端研は21基幹分野となる)。同10年駒場オープンラボラ トリー設立。株式会社先端科学技術イキュベーションセンター設立。同11年先端経済工学研 究センター(AEE)設立。22基幹分野・6客員分野・4寄付研究部門(全教官数52名) に改組。同13年先端科学技術エンタープライズ株式会社設立。科学技術振興調整費戦略的研 究拠点「人間と社会に向かう先端科学技術オープンラボ」計画開始。先端テクノロジービジネ スセンター(ActeB)設立。同14年特任教員/研究員を含むオープンラボプロジェクト 開始。同16年国立大学法人東京大学発足。我国初の寄付基金研究部門を開設。ActeBの 産学連携機能を吸収経営戦略企画室を発足。 ◆設立の4モットー @.学際性、A.流動性、B.国際性、C.公開性 ●国際・産学共同研究センター(CCR) 平成8年東京大学においてインキュベート(孵卵)された研究成果を企業化に向けて更に増進 するプロジェクトの遂行、国際産学共同研究全般の推進を目的として、駒場リサーチキャンパ スにある生産技術研究所と先端科学技術研究センターが中心となり設立された全学組織だ。 我が国では、「科学技術創造立国」の実現に向け、産業技術力の強化を経済の持続的な発展 を図るための基盤であると位置づけ、創造性のある研究及び開発、そしてその成果の事業化の 促進に取り組んでいる。東大でも、産業界等との共同研究や技術移転を通して積極的に社会へ 貢献したいと考え、取り組みを進めている。 その一環として、東京大学国際・産学共同研究センターでは、産業界等との連携を推進する ことを目的に、東大の研究者が提案する産学連携のためのテーマをデータベース化し、インタ ーネット上で一般に公開している。これらの提案テーマは、東大の研究者の希望する共同研究 テーマであり、バイオテクノロジー、環境・エネルギー、機械、情報・通信、エレクトロニク スなど多方面の分野に亘っている。またテーマ内容は、コンサルティングからソフトウェアの 共同開発、産業界等の持つスキルを活かした相互補完的な研究開発など多彩だよ。 HPを開くか、メールするか、電話してみたら? ◆テクノロジー・リエゾン・フェロー制度 我が国では技術の発掘、知的財産、技術移転、ベンチャー企業の育成などに関わるテクノ ロジー・マネージャーの数が不足し、これまでその育成もほとんど行われていなかった。 CCRでは、大学と産業界との間の技術を介在した連携活動(産学連携)を推進・管理するた めの人材を育成することを目的として、「テクノロジー・リエゾン・フェロー(TLF)制 度」を平成12年度より新たに発足させている。 |
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■三角橋 4丁目8・9番の境、目黒区の西北端、渋谷区と世田谷区に接するところに三角橋交差点が ある。橋は三田用水に架かっていた。橋の由来は伝わってないが、按ずるに、ここは溝ヶ谷分 水が分岐したとこで、三角地帯になっていたことから、小名にその名が起きたのではなかろう か? 明治時代にはこの辺りの字を三角といった。地名が先か、橋の名が先かは判らない。 ●溝ヶ谷用水(分水) 三角橋の西で三田用水から養水を受けた用水で、南下して北沢用水に注いだ小河川。 |
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○滝坂道 府中道=戦国時代以前の甲州街道 新宿追分(新宿伊勢丹のところ)から調布市滝坂までの甲州街道(国道20号線)は徳川家 康が道の無いところに軍事的意味を以て拵えたものだ。だから棒道な訳で、それにより半蔵門 ・四谷門が開かれたのだ。 ポイントを紹介しておく。矢倉沢往還(大山道→厚木街道→玉川通り)の道玄坂交番脇が起 点。神泉へ下る坂道を下り「神泉谷」へ、当時はあった三田用水(旧山手通り)にぶつかって そこの水番の親父に会釈して越え橋を渡り、その先の路地とを進むと山手通り渋目陸橋にぶつ かる。現在は直進できないが、かつては直進の下り坂で荷車泣かせだった。街道北の陸橋下に 公設青果市場があったが名残りは何もない。坂下で左折、往時目黒川の支流が流れていて「遠 江橋」という名の橋が架かってた。新道ができた時そっちの橋は「新遠江橋)といったが、現 在は淡島通りの拡張と川の暗渠化ですっかり様子が変わってしまった。橋詰めの松見地蔵(移 設したが現存)で道中の無事を祈り、そこから西の大坂(松見坂)を登る覚悟をした。 胸突き八丁の急坂を上りきるとそこは駒場野で、江戸時代は街道の南側が御鳥見役の御用屋 敷、明治以後は騎兵実施学校・近衛輜重大隊・騎兵第一聯隊が営門を揃えていた。北側は「御 鷹場」で全くの雑林原野、明治以後は騎兵の調練馬場・偕行社(陸軍)住宅・東京帝国大学農学 部(前田侯爵邸・旧制第一高等学校)・航空研究所風洞部の建物が林間や畑中に建ってた。野 中の道を過ぎると村境に駒場地蔵(現存)が建っている。下代田村(代沢)に入ると下りの富士 見坂だ。そこは追分で、直進すると淡島道、朱門を擁する名家阿川家や北沢神社・森厳寺(淡 島様)を経て下北沢に至る。向うの山は多聞寺山で世田谷城の出城跡。現在は多聞小学校。本 街道の富士見坂を下ったところが北沢川の渓谷で「大石橋(だいしばし)」が架かっていた。 その昔は深山幽谷、難所中の難所で橋を架ける工事はそれはそれは大変だったという。主導的 に働いた藤助という人の功績を讃えて「日本廻国供養之石塔」が建っている。代田村の「東向 地蔵」は前の大戦の空襲で破壊されて今はない。そこから円泉ヶ丘の「陸軍第二衛戍病院(世 田谷病院→国立小児病院→廃院)」を舐めるように右にカーブして西へ。円泉ヶ丘は円泉寺の ある丘の意。「太子堂の円泉寺」があることによる。 「代沢十字路」を越えてしばらく行くと若林村で、常林寺(廃寺)の前は二股になっている が直進路は戦後の新道だ。本道をそのまま進むが環状七号線の敷設で断ち切られっちまった。 梅が丘に入ると住宅街の中を行くので古道のイメージはない。「松原宿」でクランク、この辺 りは竹の上といい、南方に世田谷城(豪徳寺・世田谷公園一円)があるため竹林を設けて目隠 しにしたとか。東急世田谷線を越える。ここに「宮坂駅」があったが今は廃されて豪徳寺前駅 (宮坂駅)に名前を移した。その宮坂は踏切を越えて南側にあるが、這って登るような急坂で 旅人泣かせだったとか。宮は世田谷神社。本道を行くと右手に常徳院がある。かつては船橋村 にあったが吉良氏が世田谷城の出城の機能を持たせて現在地に移転させた。少し行くと地蔵尊 が建つ追分(岐路)がある。直進が本道で南に分かれる道が村道(バイパス)だ。経堂の繁華 街を避けるため牛車や馬車・大八車の専用道として拵えたんだと。経堂駅東の大踏切(現在は 高架になってガード下になった)を越える。駅の周りは随分変わったよ。バスがやっと駅前に 乗り入れるらしい。 さて街道だが、すずらん通り商店街からは正式名称を「都道調布・経堂停車馬線」というそ うだ。経堂小学校の前でバイパスが合流してくる。商店街の外れが赤堤通りと接する。イトー ヨーカドウの前で左に逸れ、ここから本道は一部が失われる。八幡山村の八幡神社前に出てさ ら西へ、明大グラウンドの裏、清掃工場の北側を過ぎると名無しの下り坂、南側に共同墓地が あった。坂下は金川(烏山川の一つ)で坂下橋を渡ると一面の水田だった。進んで小川を越えた 突き当たりに都動物管理事務所がある。戦後の野犬狩りのためにできた役所だ。千歳台の交差 点で環状八号線を越える。ここはさらに低地で水無川(烏山川の一つ)が流れていたが埋め立 てて高さを調節した。「だんご坂」を登る。右手はガスタンク、さらに北は水無川を越えて芦 花公園。徳富蘆花の農家的屋敷跡だ。やがて品川用水にぶつかる。千歳農協前の交差点だが、 かつては喜平橋といい用水沿いの道路は橋を境にクランクしていた。品川用水は削り取られて 今はない。西に行く。南は青山大学工学部・千歳中学校・塚戸小学校、北は千歳高等学校。バ スがすれ違うのが苦しい狭い道だったが、現在は榎十字路まで拡張した。榎十字路は新道が出 来て現在五差路、田無六郷道と交差した。安穏寺坂を下ると祖師谷田圃。現在は駒大グランド や都立祖師谷公園の一部となっている。公園用地の中に世田谷一家殺人事件の現場となった家 が残されている。仙川(せんがわ)は数流あり、現在のように一本の大きな川にしたのは最近 のことだ。宮下橋を渡り神明坂を登る。三差路を南に取ると成城に至る成城通り。本道を西す るとまた三差路(若葉町の交差点)に出くわす、調布市との境目だ。南に向かうとこれまた成 城に至る。仙川駅入口の十字路は桐朋学園の角、南すると狛江に至る。この辺りはかつては鬱 蒼たる森林の只中で、追剥(おいはき)に身包み剥がされる可哀想な旅人もいたそうだ。やが て大正橋に差し掛かる。京王線を越える跨線橋だが、これは切通しで京王電鉄が削り取ったも のだ。その以前は橋を渡ったところを通っていた。現在も一部が道路として残っている。橋か ら先、本道は失われる。戦後甲州街道を拡張して削り取ったため大幅な地形の改変が行われ、 滝坂道も現在の切通しに移された。したがって滝坂は陰も形もなくなり空中になっちまった。 滝坂の謂れは雨が降る坂道が滝のように水が流れて通行不能になることからその名があったと か。ここから新宿3丁目交差点までの甲州街道は徳川家康の命令で拵えたものだ。現在の甲州 街道の北側に旧道(廃道766号線)が残っており。かつての馬宿川口屋のお宅の門脇に「馬 宿川口屋瀧坂道旧道」の石碑が建っている。旧道を西に行って甲州街道と合流するところの交 差点は「滝坂下」という。 |
【下目黒】(しもめぐろ)1〜6丁目 昭和42年3月1日 下目黒村。明治11年大区小区制の廃止により荏原郡に復し、同22年「市制町村制」によ り目黒村大字下目黒。大正11年目黒町大字下目黒。昭和7年目黒区下目黒1〜4丁目。同4 2年新住居表示により下目黒2〜4丁目の各大半に1丁目の一部をあわせた町域を現行の「下 目黒」とした。 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『目黒区史』『目黒の歴史』など。 下目黒の由来 目黒村が江戸時代に上・中・下に三分され、その下目黒村だったことによる。五百羅漢・目 黒不動・林試の森がある。江戸時代はこっちが中心地だったンだゾー。 |
■松林山大円寺 1丁目8番、目黒駅を出て、行人坂を下るとすぐ左手にある。その向こうは広大幽邃(ゆう すい)な雅叙園ホテルで、東京砂漠のオアシスをなしている。かつてこの辺りは「夕陽ヶ丘」 と呼ばれ、落日の景の美しい、紅葉の名所だった。 寺は、寛永元年(1624)出羽三山は湯殿山の大海法印が大日如来を祀り(大日堂)、修 験道場を開いたことに始まる。この坊さんの験力は凄かったと見えて、門前の坂を往来する行 人が引きも切らず、それで行人坂の名が生まれた。 行人とは、出家しないで、つまり坊さん にならず在家のまま修行する行者のことをいう。 坂上にあった富士見茶屋(ホリプロのビル のあるところ)も名所だった。3世権大僧都養海の時盛大だった。別に7世権大僧都亮祐を中 興開山としている。 ●江戸三大黒 伝通院・上野の護国院と並んで大黒信仰で繁盛したという。 本尊の清涼寺式釈迦如来立像は本堂正面に安置されてある。都内最古仏像で、昭和32年国 の重要文化財に指定された。 |
| ●清涼寺式釈迦如来立像 この仏像は、永観元年(983)南都東大寺の学僧「然が宋の商人陳仁夾らの船に乗って宋 国に渡り、山西省の五台山に登ってそこの清涼寺で、天竺から伝来した釈迦像を拝した。「然 はその美しい姿に胸を打たれて、模刻を日本に持って帰りたいと訴えた。その願望は受け入れ られ、杭州まで像を移し、名工張延皎・張廷襲兄弟に依頼、一年半掛けて模刻仏を作って貰っ た。別には台州で模刻した優填王(うでんおう)所造の栴檀釈迦像を貰って帰朝という説もあ る。 寛和二年(986)または永延元年(987)京都西北の愛宕山を中国の五台山に見立 てて、ここに伽藍を建て大清涼寺と号することを奏請したが実現せず、長和五年(1016) に没した。そこで弟子の盛算は、愛宕山麓にある浄土宗棲霞寺内の釈迦堂に「然請来の栴構釈 迦像を安置して「清涼寺」と号することを勅許された。棲霞寺に仮寓した清涼寺は、この釈迦 像が三国伝来の霊像であり、また生身の如来でもあるとの信仰が高揚するに伴い次第に大きく なり、棲霞寺とその立場が入れ替わった。平安時代末から、生身如来から霊験を受けようとす る多数の参詣・参籠者で娠わい、また浄土教の発展と相まって嵯峨近辺に隠遁する聖たちの宗 教活動の拠点ともなった。 この釈迦像はその美しいことが全国的に轟き渡って、盛んに模刻仏が地方の寺に安置される ようになった。全国で80体以上といわれているが、東京周辺たけで8体が確認されている。 大円寺の釈迦如来像は、昭和34年に解体修理したとき胎内から出た品々より、建久四年(1 193)彫刻奉納、祈願者は丹治乙犬女だと判った。 |
■目黒行人坂の火事 明和九年(1772)二月大円寺から出火した火は西風に煽られて、忽ち東北に燃え移り、 江戸の東半を焼き尽くす大火となった。俗に「迷惑(明和九=めいわく)の火事」という。 火事の原因は放火。犯人は真秀(長五郎)という悪僧で、火の回りが速く、慌てて何も盗ら ず逃げたが、真秀は火事場泥棒の常習犯だった。彼は火災後、立派な袈裟衣を着て高僧になり すまし町を歩いていたが、踵に皹割れがあるのを怪しまれて捕まり、町中引き回しの上、火炙 りの刑に処せられた。しかし寺の再建は許されず、仏像・過去帳は明王院預かりとなった。 それから76年経った嘉永元年(184 8)薩摩藩島津家の菩提寺なることで復活が許された。この間に50年をかけて大火の犠牲者 の霊を弔うために石の五百羅漢像を造った。500の数字の示す通りなかなか揃わないものだ が、中央の釈迦像を囲んで脇侍に普賢菩薩・文殊菩薩、十六人の弟子像、合わせて509体が 揃っている。都の説明では「大円寺石仏群」といい、明和の火災の供養ばかりではない銘文が あるという。明和九年は十一月十六日改元されて安永元年となったが、当時こんな世を嘆いた 落首が詠まれている。 年号は安く永くとかはれども諸色高くて今に明和九(迷惑) |
■松樹山明王院茂林寺 廃寺 大円寺別殿阿弥陀堂に「阿弥陀三尊」が安置されている。これは雅叙園のところにあった茂 林寺明王院の本尊だった。明王院が廃寺となったため、仏像などが大円寺に移された。明王院 と大円寺の関係は単に隣り合うというだけでなく、明和九年(1772)悪僧盗人真秀が住職 に怨みを呑んで放火し、折からの大風に火は忽ち燃え広がり、江戸市中までを火の海に包んだ 「目黒行人坂の大火」となった。そのため出火元として再建は許されず、本尊大日如来や大黒 天の像は残ったので隣の明王院に移して両寺合併の形となり、76年を経過した嘉永元年(1 848)薩摩藩島津家の支援で再建が許されて明王院から独立した。ところが明治初年明王院 が衰微して廃寺となったので、そのため本尊阿弥陀三尊・弁財天・十一面観音・清涼寺式釈迦 像などが大円寺に移されたという訳だ。したがって大円寺にある仏像や墓碑などは、混在して どれがどっちにあったものかは判らなくなっている。なお本堂は明治13年に上目黒のやはり 滝泉寺末の寿福寺に移築された。 明王院は、本堂は小さく、寺域の一部を町家に貸し、後背の斜面3758坪は大名の抱屋敷 として、初め島津家に、次いで熊本の細川家、幕末には盛岡の南部家に貸して地代を取り、寺 の収入としていた。初め目黒不動の末寺として開山したのは栄運法印、中興は正蔵坊といわれ ているが、西運以前のことは文献がない。西運は浄土宗の僧で、初め鮫河橋(東宮御所の西) にあった嵩源寺の念仏道場で道心者として修行していたが、明王院が衰微して無住となってい たので、そこに移って念仏三昧の修行に入った。そしてそこから浅草観音へ隔夜日参して10 000日に及んだという。その頃念仏行者でやはり浅草観音へ一日も欠かさず千日参りをした 行者がいる。鮫河橋の隣千日谷の道心胡念で、この行をなし遂げて一寺を建て一行院と号し千 日寺ともいわれた。この胡念は寛永三年(1626)の入寂(死亡)だから、西運より先輩の 僧で、西運は鮫河橋での修行時代に、この胡念の千日参りを知っていたろう。西運は浄財を得 て明王院の前に念仏堂を建てると、明王院の仏像を移し、阿弥陀三尊をはじめ諸仏像を安置し た。そして茂林寺明王院と称し「念仏堂」三字の扁額を掲げた。この額はいま寿福寺に保存さ れている。西運は元文五年(1740)に寂滅した。この西運が八百屋お七の思い人吉三郎と されているが、それを証明するものは何一つない。 |
| ●吉三郎 八百屋お七の恋の相手とされるが史的確証はなく、いろいろな男の名前が論われている。本 駒込の吉祥寺では同寺の寺小姓だったとしているが、大円寺では、その吉三郎はお七処刑後出 家して西運となり、南隣の明王院(雅叙園のとこ)に入門。お七菩提のために「隔夜日参一万 日」の行を行ったという。これは一日おきに目黒不動と浅草観音の間、往復十里の道を夜から 朝にかけて鉦を叩き、念仏を唱えながら通うもので、満願の日まで54年をも要した。これが 江戸市中の評判となり、多くの浄財が集まり、これを基金に目黒川に太鼓橋が架けられたとい う。その後西運は、正徳元年(1711)の法然上人五百年遠忌に常念仏堂を建立し、阿弥陀 ・観音・勢至の来迎三尊仏を祀っている。明王院は維新後に衰退、明治13年に廃寺となり、 寺仏などは大円寺に移された。 |
■太鼓橋 『新編武蔵風土記稿』には、 一円相唐橋行人坂にあり。目黒川に架す。長八間三尺・幅二間の石梁なり。水涯よ り石を重ね上げて造る。その形円なるゆえこの名あり。また太鼓の状にも似たれば 太鼓橋ともいう。延享年中廻国の僧九州にてこの形の橋を見たりとてその製作にな らい作りしが、欄干いまだ成就せざりしを後人継いで造作し、宝暦十四年より明和 六年にいたりてついに落成す。そのことにあずかりし人々の名を碑に彫りて橋下に 立つ とある。『東京市史稿』では、延宝年間(1673〜80)の創架と、長さ8間3尺×幅2 間の石橋。なっている。太鼓の由来は唐式石拱橋(1スパン充腹アーチ橋)の半円が水面に映 ると円に見えることから準えたもので、俗称だった。大正9年9月1日の豪雨で流出した。現 在の橋は昭和6年の竣工なので、その間橋は架けられていたと思うが、大正12年から目黒川 の拡幅深鑿工事が始まっているので仮橋と思われる。平成になって改装された。現在は太鼓橋 が正式名称。 |
■目黒雅叙園ホテル 1丁目8番にある。昭和3年東京芝浦に純日本式料亭「芝浦雅叙園」を創設した細川力蔵が 昭和6年江戸名所の一つ「夕陽ヶ丘」の明王院跡の広大な土地を購入、「目黒雅叙園」を創設し た。総坪数は8000余坪、部屋数200余室。廊下だけでも数100メートル、絢爛豪華な 東洋一のホテル・レストラン・結婚式場・美術の殿堂として賑わいを見せる。目黒雅叙園の特 徴は、まるで美術館のように優美な館内の設えにある。黒漆に蝶貝をはめ込んだ螺鈿、色鮮や かな日本画と浮き彫り彫刻、手の込んだ組子をもつ建具。部屋ごとに趣の異なる多様な意匠に は驚かされる。しかし少くすると共通した一つの美意識が流れているのを発見できる。それは 江戸時代以前から受け継がれてきた日本の伝統的建築の一端が根をおろし、実を結んだもので あり、その豪華さは桃山風、さらには日光東照宮の系列、あるいは歌舞伎などに見られる江戸 文化の流れに属するものといえる。各種の要素を切り離して、抑制されたところに作られる透 明で完結された美を目指すのではなく、欲求が素直にぶつかり合ったところに生まれるエネル ギーに美を探しているともいえるだろう。しかし実は「昭和の龍宮城」といわれた美術の殿堂 も、戦災や平成の改築で失われ、文化よりは金儲けって訳さ。現在では漁樵の間・十畝の間・ 星光の間・草丘の間・清方の間・静水の間の6室と百段階段の部分が保存されているのみで、 宿泊室も60と激減した。最近建て増しした部分は本屋を凌ぐ超近代高層テナントビル(アル コタワー)で、終にここまで来たかの感強し。ああ雅叙園よ何処へ行く・・・ |
■目黒雅叙園美術館 1丁目8番にある。絢爛豪華な意匠で知られる目黒雅叙園の新装開業にともなって、創業者 細川力蔵の昭和初期から戦前までの日本画コレクションを中心に所蔵。雅叙園本体にも様々な 美術工芸作品が散りばめられている。建物自体が美術館状態で、所蔵品は県立美術館などの企 画展に貸し出すのがメーン、常設展示はないようだ。 |
■権之助坂 1丁目と目黒1丁目の境、目黒通りが目黒川に架かる目黒新橋へ下る坂だ。意味深な名前だ が、「権之助って誰?」 この辺を荒し回った悪党だと『目黒町誌』はいうが、江戸中期、中 目黒の田道(でんどう)に菅沼権之助という名主がいた。彼は本通りが行人坂という急坂なた め、村人が怖がって遠回りをしていることで心を痛め、村人の利便のためにと幕府に無届けで 新坂を開き太鼓橋の北に新橋を架けた。江戸時代の街道は戦略的に造られており、あえて一直 線を避け、湾曲や筋違いに作り、見通しを遮り、坂は九十九の胸突き坂とし、江戸侵攻軍の勢 いを削ぐように拵えてあった。通行人の利便など眼中になかったのだ。そのため権之助は刑に 処せられることになり、当時は新坂と呼ばれていたこの坂の上から生まれ育った我家を振り返 りながら刑場に引かれていった。村人は権之助の村に尽くした功績を讃えて、最後に振り返っ たこの坂を「権之助坂」と呼ぶようになったというが、権之助の墓は中目黒5丁目6番の民間 墓地にあり、江戸時代には罪人の墓は作ることが許されないので、権之助の墓が幕府によって 排斥されていないところをみると、勝手に坂を拵えたということはなさそうだ。坂名に重みを 持たせるために村人が拵えた寝物語だろう。仕来りを知っていればすぐに嘘だと判る話だ。 ここの土地の年寄に聞いた話だが、新橋なんちゅうと欄干の付いた橋を想像するが、大正の 頃は川底に板が渡してあるだけで自動車はぬからないように慎重に渡っていたという。その頃 は目黒も雑木林や田圃、畑の方が多く、狐や狸が走り回っていたんだと。それで狐が人を化か すというある雑木林の噂が飛んだのだが、事実は夜道を帰宅する芸者の姐さんたちが近道をし ていたということだった。昭和50年頃、目黒新橋交番の初老のお巡りさんは「一度も殺人強 盗などの凶悪事件には出くわしたことがない」といっていた。 昔は、行人坂が江戸市中から目黒筋に通じる幹線道路であったが、権之助坂が開かれ、明治 になって鉄道が敷設されると坂の主役は、権之助坂の方に移った。とはいっても、明治のころ の権之助坂は、現在の坂より急で、車馬の往来が激しく、時には馬諸共脇の杉林に落ちること もあったというから、決して十分な整備ではなかったのだ。坂下から新橋までの間は地盤が低 く、大雨で目黒川が氾濫すると橋だけが水面に頭を出していることがあった。目黒川には、水 車が数ヶ所あったので、氾濫の一因となったのではないかという。 新橋と行人坂下の太鼓橋との間には梨畑があって、行楽客の休憩所にもなっていたが、度々 の出水で梨の木が枯れてしまい、その跡に盛土して開業したのが現在の「太鼓鰻」という。太 鼓鰻の宣伝では、創業300年と謳ってるがね。 昭和に入ると権之助坂の南側一部分譲されて家が建てられた。そのころの権之助坂は、今の 行人坂より狭く、向こう側(北側)は久米邸の石垣になっていて、そこに萩の花がこぼれるよ うに咲いて、それはそれは綺麗だった。ホタルが沢山いて、ホタルが5つ6つ固まって飛んで いるのが火の玉のように見えて、腰が抜けるほどびっくりする人もいたとか。秋にはそこここ にスズムシやマツムシが鳴いていて、思わず立ち止まったものだそうだ。 さて商店街はというと、ここの商業の歴史は意外と浅い。戦時中は、駅付近に若干の商店が あっただけの寂しいところで、追剥も出たことがあるという。そんなところに、戦後ボツボツ 露店が立ち並ぶようになり、やがて定着して店舗を構え、地元のお客を相手に悠々と繁昌を続 け今日の隆盛を見るに至った。 ところが昭和42年11月ターミナルビル、ステーションビルが次々に完成し、中央から有 名店や老舗が進出してくると、地元商店街の様子も一変し、それまでビルができれば人が集ま るという期待とは裏腹にさっぱり客が流れなくなったという。「束の間の太平の夢から、一遍 に覚まされた」とある商店主はいっているが、ここにも激しい時代の移り変わりを見る思いが する。坂の方も、権之助坂の脇腹をけずるように、放射3号支線一が開通し、権之助坂は下り の一方通行にされてしまったが、それでも朝夕は車の洪水を捌き切れずに喘いでいる。権之助 も土の下で苦笑していることだろうよ。 |
■電車道 権之助坂の下、目黒川に架かる新橋の袂から、西南は不動前方面へ向けて斜めに走る道があ る。歩道を含め、最大幅員18mに及ぶ立派な道だが、全長わずかに600m足らず。目黒不 動交差点で山手通りと交差した途端、万有製薬の東京物流センターにぶつかって、忽然と途切 れる太く短い道だ。戦前、東京市が天現寺・恵比寿長者丸間の市電路線を延長するために買収 した軌道敷用地が、この道の前身だ。昭和19年に既存の路線自体が廃止となったため、戦後 新橋から終点予定地までの軌道敷用地が、そのまま道路に生まれ変わった。柳並木があったた め「柳通り」の名もあるが、現在はハナミズキの並木道だ。昔を知る人の間では、今も「電車 道」と呼ばれる。歴史を刻んだ道ではある。 |
■大鳥神社 3丁目1番にある。古代国常立尊を祀った小社だった。日本武尊が東夷征伐の時立ち寄り、 平定の祈願をした。日本武尊はその後伊勢の能褒野(のぼの)で亡くなったので、その霊を祀 り、2柱の祭神となった。大同元年(808)神勅によって社殿を造営し大鳥神社と称した。 今は弟橘媛命も合わせて3柱の神社で、例大祭は重陽の節句。酉の市は他の鷲(おおとり)神 社と同じように行われる。境内にオオアカガシの巨木とキリシタン灯籠、庚申塔などがある。 キリシタン灯籠は目黒駅西北にあった松平主殿頭抱屋敷にあったものを移したのだが、南隣の 別当寺大聖院にもあり、どういう割り振りをしたものか。 |
■キリシタン灯籠の大聖院/松輝山大聖院生運寺 3丁目1番、大鳥神社の隣にある。目黒不動滝泉寺の6末の1。弘治三年(1557)良順 僧正の開山。寛政十年(1798)に本堂を再建している。江戸時代は大鳥神社の別当寺だっ た。本尊の見返り阿弥陀像は、アメリカ軍の空爆で燃やされた。京都永観堂の仏像を模刻し、 頭を傾げていたので「見返り阿弥陀」と呼ばれた。その代わりとでもいうか、寺の名物は、昔 はなかった3基のキリシタン灯籠だ。千代が崎の松平主殿頭の抱屋敷にあった三体地蔵で、大 村邸だった大正15年10月に移設されたものだ。その形は織部型灯籠に似ているぞ。 |
■霊雲山蟠竜寺 3丁目4番にある浄土宗の寺。慶安の頃(1648)ころから行人坂にあった称名院という 小庵を、宝永七年(1710)増上寺の霊雲上人が律宗に改めて現在地に移したという。今こ の寺の本堂にある本尊阿弥陀如来坐像は藤原期の秀作で、城南方面で最も優れた仏像といわれ ている。昭和38年都の有形文化財に指定された。 裏山の洞窟の中に山手七福神の1つ弁財天が祀ってあるので「岩屋弁天」といわれる。別に 弁天堂もある。開山は霊雲上人だが、上人が八王子の大善寺へ去った後は無住となり、中目黒 の浄土宗の律院である長泉院が兼帯したことから、門前に「不許辛肉酒入山門」の結界石を建 てた。仏像はほかに善光寺式阿弥陀三尊がある。境内の植栽に「下目黒尋常小学校創立之碑」 「藍蝋の歌碑」がある。 「江戸名所図会」の挿絵にある露座の丈六阿弥陀仏は、明治の廃仏毀釈のドサクサにイギリ ス人に盗み取られ、ロンドンに運ばれたことまでは判っているが、それ以後は行方不明、今以 て戻されてない。白人は他の文化遺産を盗む癖がある。 |
| と記述したら、白人と思われる方からメールがありました。原文のママ。 先週、小生がパリのチェルヌスキ美術館に見学に参り、銅像の丈六の阿弥陀如来を 拝見いたしました。フランス語の解説にはMeguro Manryu-jiと記されていまし た。秀作は確かに秀作では御座いますが、藤原時代とは思えません。蓮台のおのお のの連弁には浄土宗の高僧たちの筆跡が彫られて、増上寺や知恩院が並べられ、年 号だけが見当たらなかったが、江戸時代と推察いたしました。 Manryu-ji が蟠龍寺と一致しているのか分かりませんが、目黒区内には別の浄土宗 のManryu-ji が見当たらない限り、同じ寺と思わざるを得ません。美術館の方から 聞いたところ、明治初期にイタリア生まれで、パリ住民の豪商、チェルヌスキ氏が 来日され、大仏を寺から譲る受けたと言う。白人のみならず、人間には文化財を収 集する習慣があるのは否定できませんが、すべては盗難に限りません。まして明治 の廃仏毀釈の嵐の中、寺の文化財を処分して難を逃れた例が少なくありません。南 品川の品川寺の梵鐘の例も御座います。御参考下されたく存じます。 平成18年10月2日 |
| * で、寺に連絡したら、返事を頂戴した。 さてご案内いただきましたパリ、チェルニスキー美術館所蔵の阿弥陀如来坐像の 件でございますが、およそ20数年前、パリ在住だった故フランク・ベルナール氏 が当山をお訪ねになられまして、その所在についてお知らせを戴きました。 その後先代住職が追跡調査を行いましたところ、明治4年にフランスへ横浜港か ら渡ったようでございます。当時廃仏毀釈の荒波の中、当山は無住の荒れ寺でござ いました。その折、東洋の美術品を蒐集するために渡航されていたチェルニスキー 氏にブローカーを通じて売却されたようです。文献には、住職がいなかったため、 近隣の庄屋さんに幾許かの金品を支払ったとの記述がありました。結果として海外 に寺宝が流出する事となってしまいましたが、かえって戦時下の供出を免れること で、現存し大切に所蔵していただいていることは、当山としても大変喜ばしい事と 考えております。 合掌 霊雲山蟠竜寺 とのことでござんす。区教委などの文化財管理は徹底してないっちうこっちゃねぇ。盗まれ たんじゃなくて、買い取られたのなら、それも訂正だし、存在が判ったら、存在場所を示さな あかん。区財産を食い物にしてた議員のいたとこだし、いい加減な区政だ。 |
| ●下目黒尋常小学校創立之碑 細長い参道を100mほど西に進むと一番奥に本堂、その前に庫裏と小さな池があって、池 脇のに植込みの中に殆ど草むらに隠れるように、高さ1m足らずの小さい石碑が建っている。 碑はかなり風化しており、文字を読み取るのは大変に難しい。目黒区は、江戸時代初期から三 田・上目黒・中目黒・下目黒・碑文谷・衾の6ヶ村に分かれていて、これがそのまま明治時代 に受け継がれ、明治11年からは東京荏原郡に属することになった。6ヶ村が目黒村・碑衾村 の2村に統合されたのは明治22年。これが合併して目黒区になったのが昭和7年のことだ。 目黒区で最初の小学校は八雲小学校(明治7年)、その後菅刈小学校に続いて、同11年に目 黒区で3番目の小学校として下目黒尋常小学校が、ここ蟠龍寺に設立された。 その後国民学校 時代を経て、昭和22年に目黒区立下目黒小学校となった。 ●藍蝋の歌碑 歌碑は目黒地区では唯一の江戸狂歌人の作。 藍蝋の色なる池のはちす葉に月のきらめく露の銀でい(星月庵真近) 七廻りの追福に石ぶみをいとなみて ふる寺の渇せぬ池に飛(とぶ)ほたる何とてびくの袖に入けむ(芝迺屋山陽) 文化十一年(1814)歌友近江屋九兵衛の追悼費として山陽(能勢嘉門)が建てたと碑の 側面に刻んである。山陽は江戸後期の狂歌人を代表する人物で、芝将監橋の千村家の医師だっ た。 |
■たこ薬師 不老山成就院薬師寺 3丁目11番にある別名「蛸薬師」という天台宗の寺。目黒不動門前の通りに面してある滝 泉寺6末寺の1。本尊の薬師如来像は蛸に乗っかってる。慈覚大師が唐の国から帰る時、暴風 に遭い、守本尊の小像を海に投じて風波を静めた。そののちこの小像が蛸の頭上に乗って海岸 に漂着したので、その形を採って薬師像を作り、胎内に小像を納めたと伝わる。看板に、 ありがたや福を吸い寄せる蛸薬師 と大書している。御撫石というのがあって疣(いぼ)ができた時、薬師の真言「おんころこ ろせんだりまとうぎそわか」と唱えて患部を撫でると効き目がある。もっとも、 イボの願なお出来そうなとこへかけ(川柳) ●矢の根大絵馬 「矢の根」とは、歌舞伎十八番の1つで、曾我五郎が矢尻を研ぐ芝居だ。作者は浮世絵師鳥 居家4代清長で、昭和9年重要美術品に認定され、現在は上野の東京国立博物館に保管されて いる。江戸時代には境内に秋葉社があって、その別当寺だった関係から今でも秋葉三尺坊木像 が十数体ある。三尺坊は不動の変身といわれ、不動像も本堂にある。 ●お静地蔵 本堂横に並んでいる。(右)准□観音・聖観音・十一面観音・(中)阿弥陀如来・(左)金 剛願地蔵・金剛幡地蔵・金剛宝地蔵。この石仏像群は、徳川2代将軍秀忠の側室お静の方の発 願で奉納されたものだ。お静は江戸城大奥にあがり将軍の寵愛を受け「お腹さま」となること を願い3体の観音像を納め奉り、その素願がない慶長十六年(1611)に男子「幸松麿」を 授かった。その後秀忠正室浅井崇源院(織田信長の妹の娘)の威勢をを畏れながらも、その恙 ないご成育を祈り三体の地蔵を刻んで納めた。そして再び願いかないまた家康公の側室見性院 殿(武田信玄の娘)の庇護もあり、保科正光の養子となり、長じて保科正之となった。元和の ころ3代将軍家光は、目黒で鷹狩の際この寺に参拝し、中興第15世舜興和尚との法談の折、 正之公は信州高遠城主となる。お静は大願成就の御礼として、阿弥陀如来像を奉納した。正之 は後に山形城主、さらに正保元年会津藩二十三万石の城主となり、会津松平家の祖なります。 また家光公の命により四代将軍家綱の御家門として幕政に力を注ぎ、善政を施した。お静地蔵 はその由来により、古くから縁結び・子宝・子育・出世・福徳・海運を願う人々の信仰を集め てきた。 |
■五百羅漢 天恩山五百大阿羅漢寺 3丁目20番にある無宗派の寺。開山は京都万福寺の2世木庵の門弟鉄眼禅師。開基は松雲 だ。寺の縁起によると松雲は京都の仏師で九兵衛元慶といった。22歳のとき仏門に入り鉄眼 の弟子となった。ある年豊後の耶馬溪の羅漢寺の五百羅漢石像を見て一念発起、江戸に下って 五百羅漢の木像彫造に取り掛かり一生をかけて完成、さらに弥陀三尊など38体を彫刻した。 仮堂を本所五ツ目(江東区大島)に建て、開山は師の鉄眼を勧請し、己は開基となって五百羅 漢像を安置し、天恩山大阿羅漢寺と称え、万福寺の末寺となった。松雲は仮本堂を本建築にし て大伽藍にしようと努めたが、果たせぬまま年を取り、宝永七年(1710)67歳で遷化し た。本建築を行い大伽藍としたのは3世象先和尚だ。五代将軍綱吉さらには8代将軍吉宗の庇 護を得て繁栄を誇り、「本所の羅漢」として人気を博すと、享保二年(1717)から十有余 年を費やして、仏殿・僧房などの堂宇を竣工させた。吉宗が寄進した右繞三匝堂(俗に「さざ い堂」と称し、螺旋状二重階段により右へ右へ登っていくと三階に達し、更に右に進むと自然 に一階に下る仕組みで、百観音が祀られてあった)が六本木ヒルズ的評判をとり、江戸市民が 踵を接して押し寄せた。以来大衆の参詣するもの多く盛んな日を続けてきたが、たびたびの風 水害や、安政の大地震などで堂塔の倒壊破損があり、明治に入ると荒廃した。同20年本所緑 町に移り、同42年に現在地にやってきた。移転後無住となり堂舎は腐朽し、仏像も雨露に晒 される時代もあった。もとより檀家のない寺では施す述もなく、仏像の一部は持ち去られ、荒 れるがままだった。しかし安藤妙照尼が入山以来戦中戦後の困難を何とか持ち堪え、昭和45 年木造釈迦三尊など仏像18体、五百羅漢坐像287体、紙本墨書の寄進者名簿5冊、石像松 雲禅師塔1基が都の文化財に指定され、他に梵鐘「平和の鐘」が重要美術品に認定された。同 54年日高宗敏貫主によって再建計画が立てられ、同56年多くの困難を乗り越えて近代的な 堂宇が完成し、名実ともに「目黒の羅漢」として蘇った。なお世田谷観音に流出した羅漢像9 体が安置されている。現在305体を数えているのは、東急電鉄の所有分が返還されたされた からだ。 金箔の奥眼低鼻竹の春(原 裕) 蓑虫のもぞもぞのぞく羅漢かな(丹所石蓴) |
| ●獏 バク 羅漢の中には腹をマルク切り開いた物、入浴中のものなど珍奇な物もあり、見て回れ ば興は尽きない。その中に獏という異獣が一匹ある。龍、麒麟、鳳凰のような架空の動物で、 辟邪、白沢などとも称した。実は中国ではそれぞれ違うのだが、日本では一緒くたにされてい る。で、かつて寺が本所五ツ目にあった当時に、堂内の護法神宮前に相棒相棒の天禄(麒麟に 似る)と並んでいて、我々にとってのゴジラのように、江戸っ子にとっては馴染みの怪獣だっ た。この白沢(獏)は、初め頭上に生えていた二本の角を失っているが、顔に目が3つあるほ かは脇腹にも左右に3つづつ立派な目があるので江戸の名物になっていた。『江戸名所図会』 の挿絵でも八っつぁんと熊さんが品定めしている。脇腹の目の位置が鍼灸の壺の「脇章門」に 当るので、川柳にこう詠われている。 白沢はわきじゃうもんで人を見る |
| ●銅鐘 昭和26年に日比谷で催された世界平和祭に出品して「平和の鐘」と呼ばれた。鐘銘は鉄牛 禅師の撰で、五百羅漢造立と開基の由来を記し、鐘は下総関宿の領主牧野貞成の夫人が寄進し た旨が刻まれている。 ●お鯉さん 戦中戦後の住職安藤妙照尼は、新橋板新道の「照近江」で左褄を取って出ていた芸妓で、1 5世市村羽左衛門や力士荒岩との経緯で嬌名を馳せ、後に総理大臣桂太郎の愛妾にもなった女 性だ。大正2年に桂が亡くなった後、もともと男勝りのお鯉はじっとしていられなかった。カ フェや待合を経営したりした。だが、勝気な気性が警察とトラブルを起こし、そのとき彼女の 身元引受人になった戦前の右翼の大立者頭山満の「尼になれ」の一言で尼僧になり、彼の世話 で昭和13年に羅漢寺の住職になった。今お鯉観音の下に眠っている「お鯉さん」こそその人 だ。彼女の知己だった俳人高浜虚子の碑は、お鯉観音を拝した句を刻む。 盂蘭盆会遠きゆかりと伏し拝む そのお鯉さん・妙照尼に関する数々のエピソードを、彼女と親しかった井上直明氏が『らか んじ物語』に書いてある。氏は太平洋戦争中の陸軍司政官で、戦後は経済安定本部員から多く の会社の役員を歴任、羅漢寺総代も勤めた。 ●俗謡碑 都新聞の艶種記事を書き、長谷川伸や江戸川乱歩らと雑誌「大衆文芸」の創刊にも加わった 平山蘆江の碑だ。 この辺りいつも二人で歩いたところ思い出してははまりみち |
| ●原爆の碑(移動演劇さくら隊殉難碑) 鐘楼の横に建てられている。昭和20年8月広島で被爆した移動演劇班「さくら隊」の俳優 丸山定夫ら9名の慰霊碑だ。第2次世界大戦中、日本では演劇も戦意高揚に利用され、日本移 動演劇連盟という組織ができ、進歩的な新劇人たちも加盟を余儀なくされた。その1つが俳優 丸山定夫たちの「苦楽座移動隊」だった。苦楽座公演は各地で好評を得た。だが戦局は悪化の 一方で、昭和20年東京の劇場のほとんどが空襲で失われ、連盟は傘下の劇団の疎開を決め、 苦楽座は広島市に行くことになった。同市はこの年の2月から3月にかけての公演先で、出発 の6月「桜隊」と改称した。広島には丸山を始め人気女優の園井恵子ら15人が疎開、現地や 近県で公演活動を続けた。運命の8月6日宿舎兼事務所には9人がいた。原爆は宿舎の西70 0メートル余の地に投下された。女優森下彰子・羽原京子・島本ツヤ子、裏方の笠絅子・小室 喜代の5人は即死だった。 丸山は倒壊した家から抜け出して近くの学校にいたのを東京から駆け付けた隊員に探し出さ れ、厳島の寺に運ばれたが、原爆症で苦しんだ挙げ句、終戦の翌日死去した。園井と舞台監督 の高山象三は広島を抜け出し、宝塚市の知り合いの家にたどり着いたものの、高山は20日、 園井は21日、に亡くなった。女優沖みどりは、1枚のシーツに身をくるまって東京の実家に 戻り、16日に現在の東大付属病院に入院した。しかし24日には他の3人と同じように死ん でいった。全員20代から40代の前途ある身だった。石碑は、9人の遺骨を預かっていた元 苦楽座員で往年の名弁士徳川夢声が、羅漢寺と相談、寺から石の提供を受け、敗戦の傷痕もま だ癒えやらぬ同27年、丸山とともに被爆した園井恵子の知己であり、碑銘を記した徳川夢声 とも知音のあった小久江慈雲尼(お鯉さんの次の住職)の貴い浄財で建立された。碑陰に柳原 白蓮の歌1首を刻む。 原爆の御霊に誓う人の世に浄土をたてむみそなはしてよ |
■海福寺 3丁目20番にある黄檗宗(おうばくしゅう)の寺。万治元年(1658)隠元禅師が江戸 深川(明治小学校のところ)に開創した。ということになっているが、新山仁右衛門という人 が起こした真言宗の寺を、妻の兄の独本が譲り受け、彼が隠元の弟子となり、隠元が将軍家綱 の招きによって江戸へ下った時これに従い、自分の寺に案内して黄檗宗に改宗、堂宇を建てて 隠元に開山になってもらい、己は2世住持となった。これは隠元が宇治に万福寺を建てるより 3年前のことだから、わが国黄檗宗の最初の寺という理屈だ。明治43年水害に遭い現在地に 移った。 |
| ●黄檗宗 中国の福建省福清に「黄檗山」という名山がある。ここには樹皮が染料や漢方薬になる「黄 檗(きはだ)」の木が繁茂しているのでこの名があるが、ここに起こった中国禅の一派が黄檗 宗だ。これを日本にもたらした隠元隆gはこの山で修行し、47歳の時印可を受け、承応三年 (1654)63歳のとき招かれて長崎に来た。この時弟子だけではなく、文人・仏具師・靴 造りに至るまで伴い、隠元豆や、今では寺には付き物の「木魚」などももたらした。最初は3 年で帰える予定が、後水尾天皇や大老酒井忠勝の帰依も厚く、混迷する当時の禅海のためにと 強く永住を切望され、終に帰国を断念した。しかし故国に80余歳の母を残しており、「帰っ てきて」という母からの再三の手紙を貼り合わせて観音像を作り、毎日礼拝しては親不幸を詫 びたという。こういったところに、日本人の得手勝手、自分さえよけれは後はどうなろうと知 らないという自己中心性が現われる。民族の性格というものは変わるようで変わりはしないん だよ。もう間もなく日本国憲法は改められ、自衛隊は防衛軍から国軍になる。そして官僚と軍 人が勝手気儘に振舞う国に変わって行くのさ。各々方お覚悟召されい。泣き言は今の内だぞ。 さて禅師が永住を決意したと聞くや、多くの信者が努力して、寛文元年(1661)京都宇治 に明様式そのままの「黄檗山万福寺」の建立にかかり、18年を費やして竣工させた。隠元は 延宝元年(1673)82歳で亡くなるが、その前年、朝廷から「大光普照国師」の号を贈ら れている。 |
| ●山門 四脚門(区指定文化財) この赤門は、上落合の泰雲寺の山門だったが、明治維新で廃寺と なった時、旧伊予宇和島藩伊達家が購入して海福寺に寄進移築したものだ。 ●花木 境内はあまり広くないが、ウメ、ツバキ、サクラ、ツツジ、ボタン、コデマリ、ザクロ、ナ ツツバキなどのほか、草花ではミヤコワスレ、キキョウ、ヒガンバナなどが植えられていて花 の寺ムードが濃厚だ。春は取り取りのツツジの花が咲く頃が最も華やかだ。夏はサルスベリ、 2ケ月近く咲き続けて目を楽しませてくれる。 ●九層石塔 境内に建っている。その昔武田信玄の屋形にあったと伝えられる珍品で、『江戸名所図会』 はその図まで載せて 寺境池のかたはらにあり。高さは一丈ばかりの石の塔也。相伝ふ、武田信玄のもの なりと。むかし土屋氏某これを持ち伝へしが、当寺へうつし建つるといへり と紹介している。図会の記載は、当然海福寺がまだ深川寺町通り(江東区深川2丁目付近) にあった時のものだが、塔のことは寺の挿絵の書き込みにも、 武田信玄の持ちつたへたりと云石の塔壱基堂前池の傍にあり とある。昔から、海福寺といえば9層の塔というほどの存在だったのだろう。 ●永代橋落橋供養塔 門の前左手に4mもある宝篋印塔が2基あり、その前に「永代橋沈溺横死者亡霊塚」という 碑が建っている。文化四年(1807)深川八幡の祭りの日、押し寄せる見物人で永代橋が持 ち堪えられず橋の一部が崩落して大変な犠牲者が出た。 この「落橋事件」については「北区・隅田川」に詳述してある。参照されたい。 ●梵鐘 都内第一の逸品で、総高139.5cm、竜頭高26cm、口径78.8cm、口径の厚さ8 cm、天和二年(1682)江戸の中村喜兵衛藤原正次の作。「支那禅刹図式」「黄檗清規」 などに図示されている近世支那鐘に似ながら、日本上代の鐘の形制に範をとった特異な考案に なるもので江戸時代の梵鐘中類例の少ない遺品と思われる。雲形の裾は黄檗宗風の珍しい形式 だ。昭和54年出版の本に「鐘楼がないので本堂に安置してある」と書いてあるから、鐘楼は その後に建てたんだ。狭い境内だから苦労したろう。 |
■金毘羅坂 酉の市では山の手一の賑わいを見せる目黒大鳥神社北側の目黒通りは、南西に向かって緩や かな上り坂になっている。沿道南側にユニークな博物館の目黒寄生虫館が建っているこの坂に は、金毘羅坂の名がある。金毘羅とは、仏法の守護神の1つ金毘羅さまに他ならない。今は辺 りにそれらしき神社や寺は見当たらないが、かつて大鳥神社北西の丘上に金毘羅さまが鎮座し ていたので坂の名になった? 『江戸名所図会』には「金毘羅大権現社」として「同所二町ばかり西の方、通りを隔てゝあ り。祭る所讃州象頭山金毘羅宮と同じ。同社を以つて御城南鎮護神と称し奉れり」と記されて いる。大鳥神社から200mほど西にあって、祭神は讃岐の金毘羅大権現、現在の香川県の金 毘羅宮と同じで江戸城南の守護神と称されたという訳だ。同書には木々に囲まれた社殿を描い た「金毘羅社」の挿絵も載っている。 江戸時代には随分繁栄した神さまで、大鳥神社・目黒不動尊と並んで「目黒三社」の1つに 数えられた。ただ幕府編纂の『新編武蔵風土記稿』を見ると、この金毘羅は、正徳年間(17 11〜16)開山の曹洞宗高幢寺(こうとうじ)の境内にあったとある。同寺は、『江戸名所 図会』の「金毘羅大権現社」の項には「別当は禅宗にして高幢寺といふ」とあるだけだ。しか し実際は、高幢寺開基後に境内の一隅に金毘羅さんが勧請されたという『風土記稿』の記述通 りだったのだろう。寺の名より金毘羅の方が一般には通りがよく、高幢寺そのものも「金毘羅 大権現」と呼ばれるようになったと見られる。その高幢寺も明治初年に廃寺となって金毘羅も なくなり、坂名に名残をとどめるだけになった。 |
■第三中学校 3丁目21番にある区立校。同22年田道小学校内に「東京都目黒区立第三中学校」として 開校。同24年現在地に移転。同26年第一期増築(4教室)。同28年2月第二期増築(4 教室)。3月校歌制定。 校歌「朝日影」 作詞・今泉忠義 作曲・信時潔 1.朝日影 映るも早きこの丘や 文化に薫る古へを現代に生かして 見よ ここに我らが街は明け渡る 輝け 文化 この街に 学べ 共々ひばりが丘の我が中学に 2.昼なれば 勤しむ友よ 窓々に 心理究むと揚ぐる声 四方に木霊し 見よ 日々に知識は広くなり優る 輝け 文化 この街に 学べ 共々ひばりが丘の我が中学に 3.帰り来て 静かに照らす 燈の下に 思いは到る 愛と和の心豊かに 見よ いよよ 我は拓かむこの道を 輝け 文化 この街に 学べ 共々ひばりが丘の我が中学に 同30年第三期増築(4教室)。同33年第四期増築(2教室)。同35年鉄筋4階建て教 室落成。同36年体育館兼講堂完成。同38年給食調理室完成。同39年プール完成。同40 年体育倉庫・給食室完成。同42年特殊学級校舎改装。同43年体育館付属更衣室・トイレ完 成。同50年心障学級教室・技術科室完成。同53年音楽室・図書室・家庭科室・視聴覚室完 成。同54年音楽室冷房化。同55年校庭開放用外トイレ新設。同57年プール循環濾過装置 取付。旧校舎外壁塗装。同60年正門及び通用門改修。 平成3年重層体育館完成。正門・横門グリーンベルト完成。同5年第一校舎改修。同14年 普通教室エアコン設置。 |
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■谷畑弁財天 1丁目15番、熊野神社からほど近い東横線のガードそばの路地奥に鎮座している。道路か ら社殿は全く見えず、道端に標識がなければ弁天さまの存在に気付く人はいないだろう。今は 住宅が立て込んでいるこの辺りも、昔は清水が湧き出て、飲み水や田畑の用水として使われて いた。それに感謝して地主が弁天さまを祀ったのだという。境内には狭いながらも池があり小 さな社殿にはサカキが供えられていて、今も地元の信仰は厚い。その隣には馬はいつも人間の 役に立っていたということで、「馬霊魂」という馬の霊を慰める石碑も建っている。 |
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■谷畑の権現様・熊野神社 1丁目24番にある。自由が丘・緑が丘(旧谷畑)を中心氏子とする鎮守で、伊邪那美命を 祭神とし「谷畑の権現さま」として親しまれてきた。社殿は昭和42年に新築されたが、それ までは茅葺の質素ながら重厚な立派な社殿だった。例大祭は毎年9月第1土・日曜日。この日 「目黒囃子」が奉納される。参道の奥右側に、碑衾村の村長として地域の発展につくし村内の 耕地整理に貢献した「栗山久次郎の銅像」が建てられている。昭和10年のことだ。世田谷吉 良氏の家臣筋に当たる栗山家は八雲に健在だ。 |
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■一誠堂美術館 1丁目25番、セザーム自由が丘地下1階にある。フランスのアール・ヌーボーのガラス工 芸美術館。館内には自然や草花、昆虫などをモチーフにした優美なガラス工芸品の数々が展示 されている。幻想的な美しさに、かねてより店主が魅せられて収集していたアール・ヌーヴォ ーのランプを中心に展示されている。繊細でこの上なく優美なガラス工芸品の数々、自然や草 花、昆虫などをモチーフとした幻想的な光の美しさの中に、ジャポニズムと呼ばれる日本的な 表現を多く見ることができる。ヨーロッパの重々しい伝統や様式を払いのけ、新しい息吹きを 持った表現を求めていたアール・ヌーヴォーの作家たちは、日本美術を受け入れ始めていた。 ヨーロッパの造形表現とはまったく形式を異にした日本美術の持つ新鮮な表現性、リズミカル な装飾性、高度に洗練された技法に、驚きと深い感銘を受け、その表現様式を吸収し、彼らの 作品の中に投影させる芸術家たちが現われたのだ。アール・ヌーヴォーのナンシ一派の中心的 指導者、エミール・ガレをはじめとしてドーム兄弟、ミューラ一兄弟、アルジィ・ルソーなど の作家らは、ガラスのもつ美の可能性を追求し続けた。彼らの作品と対峙した時、彼等のエス プリが直に我々の心に響く。隣接する喫茶室「エミール」はアルフォンス・ミュシャのリトグ ラフに囲まれてるぜ。 開館時間10時〜18時 休館水曜日定休。03-3718-7183 |
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■九品仏駅 → 自由ヶ丘駅 → 自由が丘駅 1丁目30番にある東急の大井町線と東横線の停車場。昭和2年8月28日東京横浜電鉄が 渋谷〜丸子多摩川(多摩川)間を開業させたのと同時にできた駅。2年後の昭和4年11月1 日には大井町線の自由が丘以西が開業。同年12月25日に反対側も開業し、大井町線の直通 運転が開始された。当初の駅名は「九品仏」といったが、大井町線により九品仏浄真寺に近い 駅ができることになったため、駅名をそちらに譲って「自由ヶ丘」と改称した。 「ヶ」の字が「が」平仮名になったのは昭和41年の新住居表示に合わせたものだ。この駅 は東横線と大井町線が交わる立体交差駅だ。大井町線が使用する1・2番線ホームは地上相対 式2面2線で、東横線が使用する3〜6番線ホームは高架島式2面4線構造だ。改札とホーム を結ぶエスカレーター・エレベーターは大井町線1番線ホームと東横線ホームを結ぶものが2 基と、大井町線2番線ホームと東横線ホームを結ぶものが2基の計4基がある。これにより、 全ての改札口と全てのホームがエレベーターで結ばれている。改札口・出口は駅北西にある正 面口と、1番線ホーム直結の南口の2ヶ所だ。 |
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■竜昌寺 自由が丘2丁目15番にある曹洞宗の寺。石柱の標識のみ。立派な2階建てのビル。まだ駅 前の賑やかさが残っている一角だ。昭和初年に建てられ、昭和21年に越してきた。開創地は 判らない。 |
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■自由ヶ丘学園女学校(地名の由来となった学校) 2丁目21番にあった私立校。昭和5年自由主義教育を目標に掲げた手塚岸衛により創立し たが、手塚が病に臥せったため立ちいかなくなった。 この校名が駅名となり、駅前の俗称となり、地名となった。同41年地名も駅名も現代国語 の用法により「自由が丘」となっている。 |
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■自由ヶ丘学園高等学校 2丁目21番にある私立校。昭和10年手塚岸衛の「自由ヶ丘学園」を立て直すべく立ち上 がったのが藤田喜作で、男子中学校として新しく出発し、質実剛健の野草的教育を目標に、手 塚の構想とは全く違った青少年の教育に専念。 敗戦後、昭和23年アメリカの強制による学制改革により「自由ヶ丘学園中学校高等学校」 として最発足。同34年中学校の募集を停止し「自由ヶ丘学園高等学校」に改称。同39年鉄 筋コンクリート造り校舎化と教育設備整備。同43年1〜3号館の建設により、校舎の鉄筋化 をさらに進める。同窓生によって藤田喜作の胸像が建立される。同48年藤田喜作逝去。妻京 子が理事長に。同53年全生徒の個人ロッカー設置。 平成3年子息龍二理事長に就任。全館に冷暖房完備。同6年新体育館完成。中学校を正式に 廃校。同7年5号館新築。道場・図書室・LL教室・美術室完成。同8年6号館新築(家庭科 実習室・理科実験室・音楽室・トレーニング室・普通教室等)完成。学校隔週5日制実施。同 9年1号館建替え新築(6教室)。同10年2号館建替え新築(地下1階地上4階 事務室・ 生徒ホール・特別教室・普通教室・礼法室・応接室・会議室・第1・2視聴覚室等)完成。推 薦試験制度導入。同11年3号館建替え新築(地下1階地上3階 コンピュータ室・トレーニ ング室・職員室・普通教室等)完成。校庭整備。同13年付属棟(多目的実習教室)完成。創 立70周年記念式典。同15年新カリキュラムへ移行。 校歌「学校讃歌」 1.我らが象徴フェニックス いざ春風に羽ばたいて 遠く駆けらん 我が友よ 全人類の理想峰 霞の中に我を呼ぶ。 ああ学園 我が母校 2.征けや真理の大道を 暗黒の世は続くとも 我が手に持てる灯火は 希望の光明らかに 征く手を遥か照らすなり ああ学園 我が母校 3.起てや自由の丘の上 高き大空青くして 若き命は赤く燃ゆ 歓喜に諸手高く上げ いざや踊らん若人よ ああ学園 我が母校 ●レスリング部 東京都を代表する名門校。団体戦、個人戦問わず毎年全国大会に出場している。監督を務め ているのは、元日本チャンピオンでバルセロナ五輪に出場した奥山恵二。 |
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■洗足学園第一高等学校 1丁目15番にある私立女子校。大正12年前田若尾、裁縫塾を開く。同13年前田は当時 の女子教育の在り方に不甲斐なさを感じ、平塚村戸越(現在の品川区戸越)に「平塚裁縫女学 校」を設立。その後順調に成長を続け、同15年碑衾町碑文谷(現在地の目黒区洗足)に「洗 足高等女学校」開校。昭和5年財団法人洗足高等女学校設立 理事長前田若尾。 同21年学校本部溝の口に移転、中学校を開校。同23年目黒の洗足高等女学校を「洗足学 園第一高等学校」と改称。同26年学校法人洗足学園に組織変更。昭和42年溝ノ口キャンパ スに洗足学園大学開学。同51年「洗足学園大学附属第一高等学校」と改称。平成14年「洗 足学園第一高等学校」に戻称。 なお洗足学園には、音楽大学・大学院(平成15年改称)、短期大学、高等学校音楽科、中 学校高等学校、小学校、幼稚園、音楽教室があり、キャンパスは目黒・溝の口・横浜にある。 ●「洗足」たる理由 移転した当時、洗足の地名は無く、日蓮上人が足を洗ったという洗足池と目蒲鉄道の洗足駅 があるだけだった。クリスチャンの前田若尾は、「洗足」の言葉が『新約聖書』のヨハネによ る福音書第13章の中にあることに気づき、校名に選んだという。 処刑される前夜、キリストは12人の弟子たちと最後の晩餐を共にした。その席上キリスト は自ら盥(たらい)に水を汲み、弟子たちの足を洗い清め、 我は主または師なるに、なお汝らの足を洗いたれば、汝らも互いに足を洗うべきな り。我汝らに模範を示せり、わがなせしごとく、汝らもなさんためなり と教えた。この教えにこめられた精神は、謙譲であり、愛であり、犠牲であり、奉仕だ。愛 の心を持って互いに他人の苦痛を分かち合い、世の混濁を清める犠牲的奉仕の心こそ、真に福 祉への導きとなる所以であり、勉学に励んで知識の向上を図るだけでなく、愛による奉仕の精 神を養うことが本学園の理想とするところだ。校名の「洗足」の名前はこれに基づいている。 |
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■第九中学校 1丁目29番にある区立校。昭和22年原町小学校内に開校。校友会(生徒会)創立。同2 4年。同25年校歌制定。 校歌「仰げ秀麗富士が嶺」 作詞・ 作曲・ 1.仰げ秀麗富士が嶺 空は朗らかに清気あり 培え質実剛健を 光り輝く日と共に 咲き誇りつつ永遠(とことわ)に 巡る向日葵範として 我らが第九中学校 2.見よ麗しき洗足の 杜に世紀は新しく 修めよ智徳信念を 暗きを厭い大らかに 天に笑みつつ美しく 清き向日葵範として 我らが第九中学校 3.未来は幸に満ちみてり 知性は常に光あり 自由と自治の心持て 智を練り身をば鍛えつつ 輝く時代作るのは 我らを貫く大使命 我らが第九中学校 同27年校舎増築。同29年全校庭舗装。同31年4教室および鉄筋階段完成。同32年更 衣室・保健室完成。同34年12教室と理科室完成。同35年家庭科室完成。同36年木工室 ・金工室内部完成。同37年屋内運動場兼講堂完成。同38年プール竣工(25m×11m)。 同44年完全給食に伴う調理室完成。同46年鉄筋四階新校舎完成。同47年岩石園完成。同 49年鉄筋三階新校舎完成。同60年プール移転竣工。 平成元年校章校舎壁面に設置。同2年教育相談室完成。同3年コンピュータ室完成。同5年 グリーンベルト工事完成。同9年カウンセリングルーム完成。同12年校舎の耐震補強工事完 了。同14年普通教室・英数教室に冷房設置。同16年会議室に冷房設置。 |
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■洗足駅 2丁目21番にある東急目黒線の停車場。大正12年3月11日目黒蒲田電鉄が目黒〜丸子 (沼部)間を開業させた時にできた。ホームは地下1階にあり、相対式2面2線構造。目黒線 はワンマン運転を行うため、ホームドアが設置されている。改札とホームを結ぶエレベーター も完備。改札口・出口は1ヶ所のみで1階にある。平成18年7月目黒線目黒〜大岡山間の連 続立体交差化事業が完了したが、この洗足駅だけは駅西側で交差する環状七号線の踏切を解消 するため、昭和40年に地下化が完了している。目黒線が南北線・三田線と直通運転を始める に当たって駅の内外が改良(ホーム長延長など)がなされたが、現在の駅舎にも旧駅舎のイメ ージがよく残っている。 |
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■大岡山小学校 1丁目3番ある。昭和3年碑小学校から独立して東京府荏原群碑文谷1877番地(南3丁 目2番)に開校。同9年火災により校舎の一部を焼失。同10年平町86番地(現在地)に新 築校舎完成。同12年緑ヶ丘尋常小学校を分校。同13年原町尋常小学校を分校。創立10周 年記念式典・校歌制定。フィルムライブラリー「東京市教材映画目黒文庫」併設。 同16年国民学校令により「東京府東京市大岡山国民学校」と改称。12月日米開戦。同1 8年都制施行により「東京都大岡山国民学校」と改称。同19年3年生以上山梨県甲府市・韮 山町に学童集団疎開。同20年5月愚かなアメリカ軍の非人道的無差別空爆により学校焼失。 青空授業。8月日本は、ならず者国家アメリカの軍門に降り敗戦、以後属国となり、唯々諾々 といいなりになる保守傀儡政権を保持せざるを得ない今日的不幸を背負い込む。もう200兆 円がとこ持っていかれたよ。女の子がレイプされても泣き寝入りだし、これからの若者は愚か なアメリカ軍の尖兵(手先)として最も危険な最前線の激戦地で扱き使われるだろうよ。 10月疎開解除により学童帰京。碑衾国民学校に間借り授業、以降八雲・緑ヶ丘・原町国民 学校渡り歩く流浪授業。同22年アメリカの強制による学制改革により「東京都目黒区立大岡 山小学校」と改称。仮校舎落成帰校。同24年木造校舎落成。同27年創立25周年記念式典 ・新校旗・新校歌制定 校歌「緑の森の丘に立つ」 1.緑の森の丘に立つ 僕らの学校 元気良く正しく勇気あれと 大空は教えます 楽しい学校 私たちの仲良く学ぶ学校よ 2.清らな富士よ師の守り 僕らの学校 日本の良い子は強く伸びる 大空に答えます 楽しい学校 私たちの仲良く学ぶ学校よ 同28年中根小学校を分校。同33年鉄筋3階建12教室・管理諸室完成。同36年図書室 ・視聴覚室完成。同42年給食調理室増改築。同43年屋内運動場兼講堂及びプール完成。同 46年校舎の一部に防音装置・冷房装置を設置。同47年鉄筋4階建8教室完成。同52年開 校50周年記念式典。 平成元韓国教育視察団参観。同9年開校70周年記念式典。同12年NHK全国学校音楽コ ンクール全国コンクール銅賞。同13年NHK全国学校音楽コンクール関東甲信越コンクール 銀賞。同15〜19年NHK全国学校音楽コンクール全国大会金賞。開校80周年記念式典。 |
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■酉蓮社成照院 1丁目4番にある浄土宗の寺。「ゆうれんしゃじょうしょういん」と読む。鉄筋コンクリー ト3階建てのビル。斎場にもなるようだ。隣に成照会館があるよ。 |
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■桜森稲荷神社 祭神は蒼稲魂命で、古くは小杉家の屋敷稲荷として祀られ、五穀豊穣・家内安全を祈願して いた。その後平根≠ニいわれたこの辺りの氏神として信仰されている。2月の初午には氏子 の人たちが集まり、旗を立て、酒を飲んで初午祭りを行っている。桜森の名は、むかし山桜が 生い茂っていたことから名付けられたという。 裏手には。幹回り4.5mもある大ケヤキがあ り、区の保存樹に指定されている。 |
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★割烹すずき 2丁目6番にある、『ミシュランガイド東京2008』で星1つを獲得した料理人鈴木好次 が経営する割烹料理屋。東急東横線・学芸大学駅の東口商店街から道を入った閑静な住宅街の 一角、京都のお茶屋を思わせる朱塗りの店構えが目印。木の扉を開けると左側に6〜7名程度 座れる小上がり、店内奥には白木造りのカウンター7席があり、隠れ家のような温かい雰囲気 だ。板場はカウンターよりも一段低く作られており、料理人の繊細な包丁さばきを間近で見る ことができる。鈴木は、目黒区自由が丘にあったすし店で修行を積み、29歳で独立。学芸大 学駅近くに現店舗とは異なる飲食店を経営していたが、「学芸大学においしい店を作って欲し い」という知人の一言がきっかけで、18年前に現在の場所へ移転して本格的な割烹料理店を 始めた。時にはフレンチやイタリアンなどのテイストもエッセンスに取り入れる鈴木の料理は そのほとんどが独学。「一流料理店で修行をしても、舌や感性は自分で磨くしかない。私の修 行の場は、お客様のリクエストで始めた料理教室。お互いに勉強しあって、私がみなさんに育 てていただいたようなもの」とは本人の弁。 11時〜14時・18時〜23時。 03‐3710‐3696 |
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■笠間稲荷神社 2丁目8番にある小祠。祭神は宇迦御魂命。元は中目黒4丁目にあり、戦時中に2回遷座の 後、現在地に本格的社殿を建立。毎年初午祭には神官が派遣され、盛大な祭典が挙行される。 |
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■学芸大学駅 3丁目2番にある東急東横線の停車場。昭和2年8月28日東京横浜電鉄丸子多摩川(多摩 川)駅→渋谷間延伸した時「碑文谷駅」として開業した。同11年電鉄会社が分譲住宅地を売 り出すために府立青山師範学校が下馬町3丁目に誘致し「青山師範駅」に改称。文教地区のイ メージで好印象を与え、売れ行きは上々だったという。同18年4月 青山師範学校が第一師範学校に改称したため、12月1日「第一師範駅」に改称。同24年学 制改革により第一師範学校が東京学芸大学として発足したことにより、同27年7月1日「学 芸大学駅」に改称。同39年 東京学芸大学は世田谷校舎を廃し小金井市に移転した。もう40年以上も主無しの駅名だ。こ の間入学試験で誤ってこの駅に降りで、受験できなかった者は少なくはない。東急が駅名を変 更しないのはその経費だ。少なくとも関東一円の駅で、切符と案内板、コンピュータの変更を 行わなければならない。ほっとこ、なぁ。 ホームは高架島式1面2線構造。ホームと改札を結ぶエレベーターも完備。改札口は1ヶ所 のみで、1階にある。出口は西口と東口の2ヶ所。 |
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■地震の学習館 1丁目20番にある区の施設。9時〜5時 無料。 |
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■鷹番小学校 1丁目20番にある。昭和7年1月荏原郡碑(いしぶみ)尋常高等小学校の分教場設置。7月 「荏原郡鷹番尋常小学校」として独立開校。同9年月光原尋常小学校開設に伴い一部児童が移 籍。同16年国民学校令により「東京府東京市鷹番国民学校」と改称。12月日米開戦。同1 8年都制施行により「東京都鷹番国民学校」と改称。同19年給食場完成し給食開始。山梨県 甲府市に学童集団疎開。同20年愚かなアメリカ軍の非人道的無差別空爆により校舎全焼。五 本木国民学校に間借り。8月日本は、ならず者国家アメリカの軍門に降り敗戦。以後属国とな り、唯々諾々としていいなりになる保守傀儡政権を保持せざるをえない今日的不幸を背負い込 む。もう200兆円以上がとこ持って行かれたよ。女の子がレイプされても泣き寝入り、これ からの若者はアメリカ軍の尖兵として最前線の激戦地に持って行かれるよ。覚悟しとけよ。 同22年アメリカ軍の強制による学制改革により、「東京都目黒区立鷹番小学校」と改称。 同23年仮校舎ができ生徒帰校。同24年父母と先生の会結成。同27年図書室設置。同33 年プール完成。同34年火災により校舎の一部を焼失。同36年鉄筋校舎化工事。同38年体 育館完成。同41年鉄筋コンクリート造り校舎9教室落成。同45年鉄筋コンクリート造り校 舎6教室落成。同48年鉄筋コンクリート造り校舎6教室・職員室・放送室・給食室落成。同 49年鉄筋コンクリート造り校舎15教室・7特別教室・校長室・主事室落成し、鉄筋校舎化 工事一段落。同52年給食室増築。同54年視聴覚室・第二理科室増築。 平成2年校庭スプリンクラー設置。同3年パソコンルーム開設。同4年ランチルーム完成。 同9年校舎FF暖房化。同10年体育館耐震化完了。同13年北校舎耐震化完了。同14年南 校舎耐震化完了。同15年校庭全面改修。同18年校内LAN設置。 校歌に校名がない素晴らしい校歌! 制定年は判らない。 校歌「この道は」 作詞・内藤 ? 作曲・小松清作 1.この道は 野辺より坂へ 坂より峰へ 一筋に上り行く道 いざいざ友よ つくづくと 見よ この道の果てしなさ 2.この道は 子供心の花と咲けよと うらうらと照り光る道 いざいざ友よ しみじみと 見よ咲く花の美しさ 3.この道は 空晴れ渡り 風そよそよと 吹き通う国へ行く道 いざいざ友よ 寄り集い 見よその国の和やかさ |
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■十日森稲荷 2丁目17番にある。社名は稲荷の森から転じたものだろう。この神社は五本木の旧家島崎 佐五衛門の邸内にあった屋敷神で、のちに今の所に移されたと伝えられている。祭神は蒼稲魂 命。五本木田圃の豊作守護神として崇め、雨乞い信仰のもとこの神社を祀ったに違いない。例 大祭は毎年9月14・15日。 |
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■第六中学校 廃校 2丁目32番にあった区立校。昭和22年五本木小学校内に「東京都目黒区立第六中学校」 として開校。同24年5月第一次木造校舎が現在地に落成し、2・3年生が移転。同26年増 築校舎落成し1年生が移転、完全独立校となる。同53年鉄筋コンクリート造り校舎落成。 校歌「叡智の白雪」 1.叡智の白雪 輝く富士の 雄姿は我等の理想の姿ぞ 文化の華をこの身につけて 学び励み 君と共に往かん 六中 六中・六中のペンは光る。 2.平和の綾雲 棚引く空の 自由のは我等の久遠の姿ぞ 民主の愛をこの身につけて 学び励み 君と共に往かん 六中 六中・六中のペンは光る。 3.知識の原流 流れる水の 真理は我等の希望の姿ぞ 科学の精をこの身につけて 学び励み 君と共に往かん 六中 六中・六中のペンは光る。 4.緑地の学園 花咲く庭の 香気は我等の誠の姿ぞ 師恩の深さこの身につけて 学び励み 君と共に往かん 六中 六中・六中のペンは光る 平成18年二中・五中と統合し「目黒区立中央中学校」となった。同20年3月まで旧六中 の校舎を使用し、同20年4月から旧五中の跡地に建てられた新校舎に移転。 |
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■中央中学校 移転 2丁目32番の旧六中跡に、平成18年4月〜20年3月まであった。旧五中跡に新校舎が 落成して移転した。 |
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■油面小学校 1丁目5番にある区立校。大正14年下目黒・中目黒尋常小学校から一部児童を移して「東 京府荏原郡油面尋常小学校」として開校。昭和6年五本木尋常小学校の開校に伴い一部児童を 移籍。同13年養護学級を設置。同15年不動尋常小学校の開校に伴い一部児童を移籍。同1 6年国民学校令により「東京府東京市油面国民学校」と改称。12月日米開戦。同18年都制 施行により「東京都油面国民学校」と改称。同19年山梨県甲府市・石和町・甲運村・山梨村 ・加納岩村に学童集団疎開。同20年5月愚かなアメリカ軍の非人道的無差別空爆により校舎 全焼。8月日本は、ならず者国家アメリカの軍門に降り敗戦。以後属国となり、唯々諾々とし ていいなりになる保守傀儡政権を保持せざるをえない今日的不幸を背負い込む。もう200兆 円以上がとこ持って行かれたよ。女の子がレイプされても泣き寝入り、これからの若者はアメ リカ軍の尖兵として最前線の激戦地に持って行かれるよ。若い者は覚悟しとけよ。9月中目黒 国民学校に間借り授業。 同22年3月仮校舎落成して移転。4月アメリカ軍の強制による学制改革により、「東京都 目黒区立鷹番小学校」と改称。同28年火災により校舎の一部焼失。同38年心身障害学級開 設。同48年訪問学級設置。同50年創立50周年記念式典。平成12年創立75周年記念式 典。 校歌「広がる都」 作詞土岐善麿 作曲・大塚淳 1.広がる都 街も新た 目黒は開け 日に日に進む 我らの体も伸び伸び強く 嬉し嬉し 我らは通う油面 2.大空晴れて 富士も間近 霞に雪に朝夕仰ぐ 我らの心も清らに高く 楽し楽し 我らは学ぶ油面 ●油面の由来 @.江戸時代中ごろから菜種の栽培が盛んになり、採取された菜種油は芝増上寺などに奉納 され、そのため租税が免除されていたので「油免」の名が生まれ「油面」に転化したと いう説と、 A.韓国では「面」は村を意味し、油面は菜種油の採れる村の意だとする説がある。 地名としては消滅したが通り・交差点・公園・商店街・住区センターに名が残っている。こ れはここ特別の地名でなく各地に見られるありふれたものだ。 |
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■第五中学校 廃校 2丁目37番にある区立校。昭和22年都立目黒女学校内に「東京都目黒区立第五中学校」 として開校。同23年5月第一次木造校舎が現在地に落成し移転。完全独立校となる。同34 年から53年にかけて鉄筋コンクリート造り校舎落成。 校歌「若き夢」 1.若き夢 常に羽ばたき 雲と湧く我が希望 遥けしや世紀の夜明け 鐘は鳴る 青空に 鐘は鳴る 待つある如く 目黒 目黒 目黒五中ぞ 我らが誇り 2.古き殻 今ぞ脱ぎ捨て 眉を張る我が誓い 新しき教科の理想 挙り立つ 友垣と 挙り立つ 紅葉ヶ丘に 目黒 目黒 目黒五中ぞ 我らが団欒(まどい) 3.白き虹 海を渡りて 境無き我が祈り 打ち樹てん世界の平和 睦み合う 真心と 睦み合う 鉄より固く 目黒 目黒 目黒五中ぞ 我らが基(もとい) 平成18年二中・六中と統合し「目黒区立中央中学校」となった。 |
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■中央中学校 2丁目37番にある区立統合校。平成18年生徒数減少のため二中・五中・六中が統合し、 「目黒区立中央中学校」として開校。同20年3月まで旧六中の校舎を使用し、同20年4月 から旧五中の跡地に建てられた新校舎に移転。 |
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■柿ノ木坂駅→府立高等前→府立高等駅→都立高校駅→都立大学駅 1丁目4番にある東急東横線の停車場。昭和2年8月28日東京横浜電鉄丸子多摩川(多摩 川)駅→渋谷駅延伸の時「柿ノ木坂駅」として開業。同4年4月1日目黒区碑衾町に府立東京 高等学校開校。同6年7月25日「府立高等前駅」に改称。同7年3月31日「府立高等駅」 に改称。同18年7月1日都制施行により府立東京高等学校を都立東京高等学校に改称。同年 12月1日「都立高校駅」に改称。同24年4月1日学制改革により都立東京高等学校は東京 都立大学として発足。同27年7月1日「都立大学駅」に改称。平成3年4月1日東京都立大 学は八王子市に移転。同17年統合により首都大学東京となり、東京都立大学の名称は消滅し た。主をなくして15年以上。東急は、ちょこっと住民アンケート取って、住民の要望により という名目で名称変更をしようとしない。柿ノ木坂駅に戻せばいいのだが、駅名を代えると膨 大な経費がかかるのだ。知らんぷりしてりゃ判りゃしねえよ。でもこの世に都立大学ってえも のはねえんだよね。変! ホームは高架相対式2面2線。ホームと改札を結ぶエレベーターも完備している。改札口と 出口は1ヶ所のみでガード下に面している。階段・エレベーターも1ヶ所しかないので、この 駅で下車する乗客はできるだけ横浜寄りの車両に乗車したほうがいいんだよ。 |
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■今井館聖書講堂 1丁目14番にある。東急東横線都立大学駅から目黒通りを南西へ7、8分ほど行った先の 南の裏通り、古めかしい木造平屋が建っている。無教会主義キリスト教の創始者内村鑑三ゆか りの建物だ。そう聞くと、ただ保存されているだけの建物と思われがちだが、歴とした現役の 講堂だ。「2つのJ」つまり日本とイエスに仕えることを念願とした内村は、「万朝報」の新 聞記者時代に日露戦争に反対して非戦論を主張、同社を退社した。やがて雑誌『聖書之研究』 で平和を説くようになり、この雑誌と研究会活動で多くの人の支持を得るようになった。明治 41年内村の弟子で香料商の今井樟太郎という人が、豊多摩郡淀橋町柏木919番地、現在の 北新宿3丁目に木造50坪の講義用の建物を建てて内村に進呈した。内村はここで生涯聖書の 講義を続けた。講堂は建設当時から内村の門下生が「今井館」と呼んでいて、それがいつしか 正式名称になった。内村の死後も門下生の活動拠点だったが、昭和10年道路拡張のため移転 を余儀なくされた。移転先探しの結果、当時は竹藪だったという現在地に移された。この中根 の今井館では、東大学長を務めた矢内原忠雄さんも聖書講義を続けた一人だった。現在は「今 井館教友会」というNPO法人によって建物の維持・管理・運営が行われており、講堂ではキ リスト教関係の催しや集会が行われてる。またすぐ隣に新設された図書館には『聖書之研究』 を始め内村に関する雑誌や図書が収集され、公開されている。 |
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■長昌山立源寺 2丁目21番にある日蓮宗の寺。寛永元年(1624)碑文谷法華寺北の坊11代のの遠馨 院日運上人の隠居所として開基。初め法華寺末だったが、不受不施派問題で法華寺が破滅した ので身延山久遠寺末寺に鞍替えして今日に至っている。法華寺の檀家が寺籍を移したので大い に栄えた。 参道の左右は墓地。入口のイチョウの木立が素晴らしい。50mで山門。境内右手に鐘楼、 左に鬼子母神堂、これには三十番神も併祀せられている。さらに行くと、右は庫裏、鉄筋コン クリート2階建て。正面は本堂。本堂には、木造の三宝尊像(南無妙蓮華経を記した上に宝珠 形の天蓋を配した中尊を中央に、左に釈迦如来、右に多宝如来を配している像)が安置されて いる。 ●三宝尊像 中央に七字題目(南無妙法蓮華経)、右に多宝如来坐像、左に釈迦如来坐像、ともに高さ5 3.7cmの像で、台座とも1.5mの非常に立派なものだ。『新編武蔵風土記稿』では、これ は法華寺の宝蔵にあったものを、草創の時に据えたとしているが、元禄十一年(1698)法 華寺破滅の時に、堀の内妙法寺がしたと同じように、本堂にあったものを遷したのだろう。釈 迦如来坐像の胎内には法華寺13世日晴の花押が、多宝如来坐像の像内背部に寛文三年(16 63)鎌倉の仏師今井善右衛門吉次が製作したとの墨書と紙綴が残されている。 ●祖師日蓮像 像高34.3cm 像底に「享保十年(1725)十二月十三日開眼、南之坊」とあるが、別に これより前41年の貞享元年(1684)七月十二日法華寺17世(日因)が再度彩色したと の墨書がある。これらの関係により、立源寺は碑文谷法華寺の三宝殿と称し、法華寺の跡を伝 えたものとしている。因みに法華寺は現在の円融寺だよ。 |
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■岡田の森 立源寺前を東へ進むと、間もなく同じ側に上部が白壁の堂々とした長屋門が建っている。岡 田家の現役の門だ。岡田家は代々衾村の名主を務めた家柄で、長屋門は江戸時代に造られた。 初め藁葺きだったが、昭和15年安政の地震や関東大震災で傷んだ門を大修理した時、現在の ような瓦葺きに改めたという。この付近は昔「岡田の森」と呼ばれたほど樹木が鬱蒼と茂って いた所でもあった。その面影は、岡田家の裏手に方に広がっている中根公園に残っている。中 心部分は広場で、ごく平凡な公園のようだが、岡田家に近い方の斜面は極端にいうと草木が生 い茂る山道のようになっている。一見の価値は十分にあるよ。 |
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残念だけど、中目黒駅は上目黒にあるんだよ。 |
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■倉方早生 くらかたわせ 桃の一品種。倉方英蔵が、長生種(タスカンに白桃をかけあわせたもの)に 果肉がゴム質の早生種を交配して育成したもので、昭和26年に種苗名称登録品種となった。 この桃は、倉方が戦後韓国から引き揚げるときに、種として持ち帰ったものから生まれた。7 月上旬に熟し、早生桃としては比較的大きく収穫も安定していたので、最近まで全国で栽培さ れた。早生の宿命として雨の多い時期に熟すため、甘みが薄くなりがちで、甘みの強い中生の 桃に取って代わられつつある。しかし南米では天候の良い時期に熟すために、その真価を発揮 している。 |
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■目黒氏館跡 1丁目1番・2番の一帯。この辺りは淀橋台の南縁に位置し、中目黒1丁目から上目黒一丁 目を経て青葉台1丁目に至る台地は大変に高く、急な長い傾斜地が続き、槍の穂先のように突 き出た地形から「槍が崎」といわれ、広くは別所台と呼ばれていた。高い台地上からは遠く富 士の霊峰を初め武蔵・相模の山々も望まれて眺めもよく、近くは目黒川・蛇崩川を挟んで対岸 の目黒台・諏訪山の丘陵とともに、攻めるに難く守るに堅い要害を形作っていた。中世の目黒 の豪族目黒氏も、この高台に目をつけ、居館を定めたのだろう。「吾妻鏡」や頼朝の功賞状の 中にも、目黒弥五郎・目黒太郎義政・目黒別所五郎左衛門義盛らが、戦功を立てて目黒の領主 になったことが記されている。また『新編武蔵風土記稿』にも、この史実を裏付けるように、 上目黒の東方渋谷村の境にあり、此辺に木立茂りて一村をなせる所あり、此地は昔 何人か住せし館地と見えて今も四辺に溝堀の跡と覚しき堀残れり と載せている。別所台に目黒氏の居館があったことは、昭和52年都教育委員会から、目黒 区遺跡地図の中目黒1‐1に「目黒氏館」が追加されたことで明らかとなった。これは青山学 院大学講師の伊礼正男の「中世城館所在調査」の結果に基づく。 |
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■ラグビーの目黒 目黒学院中学校・高等学校 1丁目1番にある私立校。昭和15年関口安五郎が「東京機械工科学校」として創立。同1 7年財団法人「目黒工業学校」として認可。同23年学制改革により「目黒高等学校」と改称 し、普通科併設。同30年東校舎竣工。同33年中央校舎竣工。同36年南校舎竣工。同38 年西校舎竣工。同39年川崎市中野島にグラウンド完成。同42年体育館・図書室・LL教室 ・機械実習室を含む第一別館完成。同55年山梨県甲府市に「富桐閣」完成。同59年第二別 館竣工。同62年第三別館竣工。同63年本館第一期工事落成。 平成元年本館第二期工事落成・記念館竣工。同2年創立50周年記念式典。同4年コンピュ ータ室整備充実。同5年校庭人工芝化。家庭科実習室設置。学校法人目黒学院に組織替え。中 学校開校。同10年「目黒学院高等学校」と改称。中高一貫教育実施(但し中高一貫生と高校 から入学した生徒は別教育で、校舎も違い、一緒に過ごす機会は少ない)。 |
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■川の資料館 1丁目11番の目黒川畔にある、レンガ色タイル張り外壁の小さな建物で、歩いていても見 落とすほど地味だ。目黒川の移り変わりなどが映像やパネルで紹介している。月〜金曜日は休 館で、土・日・祝日の9時〜4時半に開館してるからややこしい。でも無料だ。 ●目黒川 昔からある地方河川で、上流は烏山川・北沢川で、玉川上水から養水を受けた。江戸時代主 に農業用水として利用された。明治以降は流域にできた工場の資材や製品の運搬路にも使われ た。しかし目黒川は川底が浅く、台風や集中豪雨に見舞われるとすぐに氾濫する暴れ川で、水 害は、流域の都市化が進むほど度重なるようになった。所謂都市型水害で、雨水が地中に浸み 込みにくくなった上、洪水を防ぐ調節池の役割も果たしていた田圃などが失われたためだ。そ の対策として護岸改修や道路の透水性舗装の他、平成3年「地下式調節池」が設けられた。東 横線・東京メトロの中目黒駅から山手通りを南に進んで駒沢通りを越えると、左手の目黒川沿 いに広場がある。「船入り場」と呼ばれていたところで、この地点の川幅はやや広くなってい る。船入り場は船着場のことで、昭和初期この辺りに急増した工場の舟運のために設けられた が、川底が浅いのと自動車の発達でごみの運搬くらいにしか使われなかった。調節池はここの 地下にあって、増水時には55000トンの水を貯留して洪水を防ぐ。目黒川にはまた、新宿 区の落合下水場から水質改善用の処理水が送水されている。このためボラ、ハゼなどの魚影が 復活した他、それらを餌とするコサギなども飛来するようになった。 |
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■槍ヶ崎界隈 駒沢通りが渋谷区から目黒区に入る辺りは鎗ケ崎と呼ばれ、槍のように尖った高台だった。 その昔は遠く伊豆箱根の山々まで一望できる丘陵地帯だ。今でも高いピルの窓からだったら、 その眺望はあるよ。江戸時代の世田谷道であったこの駒沢通りは、ここから目黒川に架かる皀 樹橋(さいかちばし)へ向けて、緩いカーブを描きながら下っていく。この坂道には名前がな い。昭和2年に恵比寿から中目黒間の玉川電気鉄道敷設の際、整備・拡張された道だ。この玉 電は、昭和23年に都に譲渡されて都電となり、同42年に廃線となった。この坂は、地図に よっては「新道坂」と記しているが、新道坂は、地下鉄日比谷線の代官山トンネル脇で駒沢通 りから分岐した坂の名である。都電の通っていた坂の上には、三田用水の高架鉄樋があったが 今は撤去されてない。 |
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■新富士跡 別所坂上の2丁目1番26号にあった。上目黒の元富士に対したもので、択捉を探検した近 藤重蔵の屋敷は元は日本橋蛎殻町にあったが、銀座役所の移転のため収公されたので、この地 へ移ってきた。富士塚は、文政二年(1819)に槍ヶ崎の別邸に築いたもので、その工事は 当時江戸で流行していた民間信仰の富士講仲間の者たちの奉祀によるものだった。高さ5丈と いうから15mの富士塚には仙元宮を祀り、登山口には鳥居を建て、重蔵の鎧姿の石像を置い た。中腹に置かれた「小御嶽」と刻んだ石碑は、重蔵が蝦夷地から運んできた楠の化石で作っ たといわれてきたが、専門家はありえないという。7合目には烏帽子岩を建て、富士講の教祖 身禄を祀ったりした。完成祝賀の山開きの日には蜀山人がやってきて、狂歌一首を詠み、賽銭 箱に張り出した。 もののふのあらたにきづく富士の根は一番が槍が崎といふらん その後当時旧暦六月の山開きは大いに賑わい、槍ヶ崎事件を経ても、賑わいは変わらず江戸 名所の1つになっていた。幕末から明治の内乱期に寂れるが、大井甚兵衛という人の手によっ て整備され、新富士も装いを新たにした。明治20年頃、大井は旧近藤邸を改装し「新富士常 盤楼」という料理屋を開業した。常盤楼は当時の東京ではかなりの有名店となり成功を収めた が、大井はまた別所坂横の崖で水車を経営していたことが三田用水組合の資料に書き残されて いるとか。常盤楼は同32年以後個人の邸宅となって2、3の人の手を経た後、昭和15年ご ろ「驪山荘」という高級料理店になった。その頃のこの店の情景は横光利一の小説『旅愁』の 中に描写されているとか。その後幾ばくもなく海軍の手に接収されたが、敗戦後は一転してア メリカ軍の将校クラブとなった。そして講和条約成立後は占領解除され国有財産となる。同3 1年不動産会社が払い下げを受け、間もなく国際電信電話株式会社に転売した。戦争中から荒 廃するに任せていた富士塚は、その頃には1個の大土塊と成り果てていた。今のKDD研究所 が新築されるとき、140年の哀歓の歴史とともに新富士は取り壊されその姿を消したのだっ た。KDD研究所の芝生の庭の東端に、かつて新富士に祀ってあった「題目碑」「小御嶽碑」 「戊申碑(烏帽子岩)」の3つの碑石が保管されている。碑石は自然石なので、一見庭石と見 紛うだろう。なお戊申碑に刻まれている「正斎」は重蔵のペンネームだ。 ●別所坂 区の東北部の高台、淀橋台から目黒川の谷に面した急斜面を切り割った、いわゆる切り通し で、渋谷区境から1、2丁目の境を目黒川田楽橋に下る、折れ曲がった長い急坂だ。坂の由来 については、郷土目黒誌に、 この坂を下ったところに別所(居留地・隔離地)と呼ばれた地名があったからである と記されており、かつては江戸の人びとが麻布辺りから行楽の地、目黒に入る近道として重 要な交通路だった。また坂上は富士の眺めの良いところで、蝦夷・千島の探検で知られた近藤 重蔵が文政二年(1819)に新富士・近藤富士などと呼ばれた築山を造り、元富士とともに 江戸名所の一つとして、行楽客に親しまれていた。この築山は昭和34年まで、その形を残し ていたが取り崩され、今は「文政二己卯年六月建之」の碑石が残されているのみ。往時坂は暗 くて鬱蒼とした森の中にあり、とても寂しいところだった。区の花ハギもかなり自生していて 坂下に目をやると、目黒川を挟んで田んぼが続き、水車小屋もあった。現在のように開けたの は戦後も戦後、40年代のことだ。坂の途中にある別所坂児童遊園のところは、薄の山で、湧 き水もあり、子供たちは沢蟹取りにはしゃいでいた。 |
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○槍ヶ崎事件 文政九年のころ景勝の槍が崎の地に突如一大事件が勃発した。土地争いが原因で、近藤家と 塚本家との間で起こった殺傷事件だ。この事変は「嶽台の変」と呼ばれ、芝居にも「山開目黒 新富士」と題して上演された。事の顛末は、重蔵が大坂へ御弓奉行として転任するに当たり、 旧地主で近藤邸の北隣に住んでいた塚越半之助に預けて赴任した。すると半之助はそれをいい ことに、両家の境の垣根を取っ払い、近藤邸を遊園地にしてしまい、自分の家では「山本屋」 を屋号とするそば屋を開業した。勿論そば以外の酒食も供したのだが、目黒随一まーの眺望の 地だから忽ち江戸中の大評判となる有様、春の花時などには一日一両もの利益を上げるに至っ た。ところが重蔵は一徹剛腹の性質で上役を憚らぬところもあり、文政四年(1821)に永 代小普請入りを命じられた。小普請とは修理程度の大工仕事の意で、その程度の仕事しかやら せてもらえない無役のことだ。これは下級の旗本の謂で、上級旗本の場合は、寄合席入りとい い変わる。重蔵が小普請入りしたということは鎗ヶ崎屋敷に戻ってくることだ。半之助は慌て た。不正使用ができなくなるばかりか、商売が上がったりになる。半之助は悪意に満ちて陰謀 を仕掛ける。反近藤派の石川主水正を動かして、重蔵は寺社奉行に無届けで妄りに邸内に浅間 神社を勧請したと訴え出た。しかし結局文政九年(1826)重蔵の勝訴となり、重蔵は入居 のための整備を始めた。半之助は手を替えて無頼の連中まで集めて工事の妨害や嫌がらせに出 た。訴訟に勝った重蔵だが、2回の譴責を受けてるので、紛争を拡大しないように穏便に努め ているのだが、半之助はそれにつけ込んでくる。五月十八日梅雨明けの蒸し暑い日の夕暮れ、 重蔵の長男富蔵は、5年間に渡る隠忍自重臥薪嘗胆に耐えかね、怒髪天を突くと堪忍袋の緒を 切って白刃を払い塚越邸に討ち入った。物の度合いを知らず悪事の限りを尽していた半之助は その瞬間に己が非を悟ったが、時既に遅く、強欲を吐き出さぬまま正義の刃に夫婦諸とも斬り 倒され、詫びて命乞いをした時には致命傷に達していた。やらずもがの後悔は六日の菖蒲十日 の菊だった。この惨劇を目の当たりにした無頼の連中は度肝を抜かれ腰を抜かし這々の体で蜘 蛛の子を散らすように遁走したのはいうまでもない。富蔵は返す刀で半之助の長男林太郎夫婦 も斬り、私利私欲業突張りの悪党4人を黄泉の国に送り積年の恨みを漸くにして晴らすことが できた。一方重蔵の家臣高井庄五郎は半之助の次男を追って三田用水に斬り落とし、意外な結 末によって紛争は終わりを遂げた。 その結果現場不在だった重蔵は家事不取締りの抓みにり近江大溝藩にお預けとなり、3年後 の文政十一年(1829)謫地で病没した。富蔵は文政十年(1827)八丈島へ流されたが 翌年現地女性と結婚し、流罪の身となっても在島60年旗本の誇りを失なわず、己が非は己が 非として仏門に帰依し、よく孤島の困窮に耐えて、島の歴史。民俗を調査して記録し、不朽の 名著『八丈実記』9巻を著した。明治13年赦免されて東京に帰り、7年後の同20年82歳 で逝ったのは惜しまれる。 |
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■お留め山 江戸時代2丁目一帯は森林で、防衛庁技術研究所のあるところは将軍家の狩猟地だった。鳥 獣を追って走り回るところではなかったが、お立場(馬を駐(と)める所)という「高見」が築 かれ、将軍はその上に立って、崖下の冬田を将卒が騎馬や徒歩で獲物を追いつつ駆け巡る様を 眺めるのだった。高見の傍らに大きな松があって「御立場の松」と呼ばれていたし、崖下の水 田は「御立場の田圃」といわれていた。だから御立場の一円は立入禁止区域で、つまり「立ち 入りが留められている山」の意から一般に「お留め山」と呼んだ訳だ。杉並区神田川に架かる 「乙女橋」、新宿区の「乙女山」も「お留め橋」「お留め山」で同じ理由による。橋の場合は 禁漁区で、排便、遊泳が禁止され、この禁を破ったものは死刑だった。 そのお留め山が大きく変貌するのは嘉永六年(1853)のことだ。ペリーの来航で太平の 眠りを覚まされた幕府は、慌てて泥縄式の対策を講じ始める。その1つとして遅まきながら安 政三年(1856)にお留め山の一帯40000坪を御用地とし、千駄ヶ谷にあった塩硝蔵を ここへ移し、砲薬の大増産に取り掛かった。明治維新後、明治政府もまた火薬製造に力を入れ た。明治初年日本各地に起こった大久保利通の自分勝手な専制政治に抵抗する自由民権運動が 起こり、その弾圧のために三田の砲薬製造所の跡が復活する。目黒火薬製造所は後に海軍の技 術研究所となり、敗戦後はアメリカ軍のエビスキャンプ、変換後は防衛庁技術研究所の施設と なって今日に至っている。 |
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■目黒砲薬製造所 2丁目2番の防衛研究所のところにあった。安政四年(1857)幕府は、軍事上の必要か ら三田村の新富士辺より一軒茶屋上、広尾水車道までの約40000坪の地域に、それまで千 駄ヶ谷にあった焔硝蔵(えんしょうぐら 火薬庫)を移転し、さらに中目黒村内の三田用水よ り上目黒村・中目黒村・下目黒村の田圃への分水口下に、砲薬調合用の水車場を建てる計画を 打ち出した。勿論村民らは火薬の爆発を恐れたが、お上の言うことには逆らえない。しぶしぶ 承知する代わりに、用水の分水口を村の決めた所に作ること、地代金を支払うことを幕府に認 めさせた。こうして目黒砲薬製造所がつくられ、幕府の軍事力強化に一役買ったのである。 |
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■目黒火薬製造所 2丁目2番の防衛研究所のところにあった。明治6年に開設された板橋旧金沢藩邸の火薬製 造所は同9年に操業を開始したが、明治政府は更に新たな火薬製造所の開設を計画し、その候 補地を探していた。偶々幕末に火薬製造所が設置された跡地、三田村1005番地は、目黒川 左岸の崖上に位置した台地の一角で、目黒川、三田用水だけでなく、地下水をも利用すること ができた。板橋火薬製造所の場合に、石神井川が貫流していた旧金沢藩邸が決定されたのと同 じく、茶屋坂上の高台は、火薬生産に必要な「鉄製水車」を動力として運転するのに格好のロ ケーションにあった。同11年12月日産300kgを目標として、火薬製造の設備をドイツ のアーレンス社に発注した後、翌年2月設立工事が開始された。田畑を取り潰して道路を開き 水路工事に反対した村民の抵抗を退けて、雀の涙ほどの損害補償を行いつつ、多摩川上水を引 き、同13年6月に工事は完了、2000坪の火薬製造所は成立した。 明治18年いよいよ操業を開始。製造した火薬は、海軍や鉱山用に使われて、生産額も次第 に増加、同26年海軍省の管理から、陸軍の東京砲兵工廠へ移管された。日清戦争が始まると 軍用火薬の需要が増大したため、目黒火薬製造所は、隣接の土地を買収して建物10棟、機械 30台を増設したが、終戦とともに需要が減り、拡張した設備や労働力の整理に苦しむことに なる。そんな中で日露戦争が勃発。火薬製造は再びブームを迎え、夜を徹して増産につぐ増産 が行われた。目黒火薬製造所は、小銃・山砲・野砲用などの軍用火薬ばかりでなく、鉱山火薬 ・猟銃用火薬などを一手に引き受けて、独自に発展の道を辿る。明治時代の二大戦争によって 成長した目黒火薬製造所は、同44年それまでの水力および蒸気による動力を、渋谷発電所か ら供給される電力に切り換えるなどの近代化を行った。大正6年職工数は男女合わせて367 人を数えた。当時目黒で100人以上の規模を持つ工場は日本麦酒のみだった。 元々目黒には産業といえるほどのものはなかったが、それでも維新以来、灌漑用の三田用水 を利用して精米・製粉をする水車は少なくなかった。水車の数は同40年には大崎、目黒を中 心に49ヶ所に上った。日本麦酒や火薬製造所などの大工場も、動力源として、また生産の過 程で大量の水を必要としたため、三田用水を利用できることを前提に設立された訳で、目黒の 工業の発展の歴史は、同時にまた、三田用水が農業用水から工業用水に変わってゆく過程でも あった。そんな中で火薬製造所と村民の間に、頻りに水争いが繰り返されるようになる。三田 用水組合文書には、同24年目黒村民が挙って製造所の多量の用水使用を府知事に訴え出た記 録が残っている。しかし昭和に入ると目黒に人家が増え、商店・工場も建てられると、火薬製 造が危険ということで、昭和3年幕営時代から70年余、三田にあった火薬製造所もついに群 馬県岩鼻村へ移転することになる。目黒の工業化の元祖ともいうべき製造所が、他の工場など の進出によって追い出されたのだ。火薬製造所跡地の大部分は、海軍技術研究所を経て、現在 防衛省防衛研究所となっている。世界に冠たる酸素魚雷はここで開発された。 ●九三式酸素魚雷・潜水艦用九五式酸素魚雷 魚雷(魚形水雷)の一種であり、この名称を用いる場合は、第二次世界大戦中の日本海軍の 九三式もしくは九五式魚雷を指すことが多い。エンジンで推進剤を燃焼させる酸化剤として酸 素を用いることで無航跡の高速魚雷とする目的で開発された。副産物として長い航続力を持っ た。最大の特徴は雷跡(魚雷の航跡)が目立たないということだ。酸素を酸化剤として使用す る酸素魚雷では、発生する二酸化炭素が水に溶けやすいため、雷跡が目立ち難いのだ。そのた め敵が魚雷を発見した時には回避運動は間に合わないという利点を生んだ。しかし現在では、 整備が容易でなく運搬も危険なので、電池式の魚雷が殆どだ。従って雷撃機から投下攻撃する 航空魚雷はない。第二次大戦末期の人間魚雷「回天」もこの九三式酸素魚雷を改造して作られ た。敗戦直後アメリカが要求したことは人間魚雷攻撃のの全面停止だった。なお魚雷速度が早 いため日本海軍の船底爆破用の磁気式の信管が使用できず、全て接触式の信管となった。 他国でも酸素を酸化剤に用いるメリットは認識していたが、実際に試作品を作ると爆発事故 が多発したため実用化を断念した。そして世界で初めて開発に成功したのは日本の九三式魚雷 である。昭和8年(皇紀2593)呉海軍工廠で発射実験に成功。当時の帝国海軍の魚雷の推 進技術は、世界を大きくリードしていた。とにかく太平洋戦争の開戦当時、日米の海軍力では 圧倒的に日本の方が上位にあった。で、「なぜ負けたのか?」ということだが、まず勝利の女 神に見放され勝ち運がなかったことと、被害に慌てて総てが後手後手に回ったことに尽きる。 もう一つの特徴は、余分な窒素を搭載しないためにその分だけ燃料と酸素、炸薬の搭載量を 増やせたため、既存の魚雷と比較して航続力に優れ、雷速が高く、威力が大きいことだ。だか ら巡洋艦クラスでもこの魚雷を1本被雷しただけで大破に追い込まれた「ルンガ沖夜戦」のケ ースもあり、アメリカ軍からは「ロング・ランス」などと呼ばれ恐れられた。従って日本駆逐 艦との海戦の際は「敵に柔らかい横腹を見せるな(魚雷発射態勢に持ち込まれるな)」が連合 軍の合言葉になったといわれる。実際にこの魚雷によりオルモック湾海戦で日本の護衛駆逐艦 「竹」が、優勢だった米海軍の新鋭艦隊駆逐艦「クーパー」を討ち取るなどの戦果も挙げてい る。更にそれまでの空気魚雷との大きな相違点として、九三式では魚雷のエンジンの冷却を海 水で行っていたという点がある。それまではエンジン冷却に魚雷内のタンクに積んだ真水を用 いて行う方式だったが、このタンクと真水の代わりに魚雷内に小型のポンプを搭載して海水を 取り入れてエンジンを冷却後排出するという方式を採った、その分だけ余分に燃料と爆薬を積 めたのだ。 大戦末期、制空権を握られた中では日本海軍の活躍も少なくなったが、時々行なわれた日本 軍の水雷戦隊の奇襲で、英米軍は酸素魚雷の隠密性と航続力に驚嘆することがあった。酸素魚 雷の長駆を示すものが、ガダルカナル沖海戦での米戦艦ノースカロライナ撃破だ。これは伊号 第19潜水艦が発射した九五式酸素魚雷6本のうち3本が航空母艦ワスプに命中し撃沈、外れ た魚雷が5海里(約9.3km)もの距離を走って偶然射線上に居合わせた戦艦ノースカロラ イナと駆逐艦オブライエンに命中したものだ。これによりノースカロライナは左舷艦首部水線 下に幅10m、高さ7mにも及ぶ大破口を空けられ中破、オブライエンは大破・曳航中に艦体 が折れ沈没の憂き目を見た。この時米軍はもう一隻別の潜水艦がいたと思い、一隻だけの攻撃 だと知ったのは戦後のことだった。潜水艦搭載用の九五式魚雷は直径が53cmで、水上艦艇 が搭載する九三式より小型で威力も小さいが、実質的には列強の水上艦艇搭載用魚雷と同等以 上の性能を有していたのである。 また皮肉にもこの長射程が同士討ちを呼んでしまった事例もある。太平洋戦争緒戦において 昭和17年3月1日ジャワ島沖で起きたバタビア沖海戦で、重巡「最上」が米重巡「ヒュース トン」を狙って午前1時27分に九三式酸素魚雷6本を発射したが、これが目標を捕らえられ ず、そのまま走って射線延長線上にいた陸軍第16軍主力を載せた味方輸送船団に到達してし まったのだ。その結果、午前1時35分に右舷缶室に直撃を受けた第2号掃海艇が轟沈、ほぼ 同時刻に第16軍司令官今村均中将が座乗していた「佐倉丸」が沈没、「竜城丸」「蓬莱丸」 「竜野丸」が大破横転という被害を出してしまった。今村中将は無事であり、謝罪に来た海軍 幹部に対し笑って許したそうだが陸軍の軍司令官を深夜の油まみれの海に叩き込んでしまった ことは海軍としては大失態であり、この戦いに参加した部隊の指揮官であった第5水雷戦隊司 令原顕三郎少将は戦訓所見として、 輸送船団泊地至近ノ海面ニ於ケル戦闘ニシテ、シカモ多数ノ夜戦隊挟撃ノ態勢ニ於 ケル魚雷戦ニ於イテハ、射線方向ニ対シテ特ニ深甚ノ注意ヲ要ス と海戦自体は日本軍の大勝利に終わったにも拘わらず注意を促したほどだった。尚この同士 討ちについては事故現場近くで九三式魚雷の尾部が直後に引き上げられており証拠は歴然とし ていたが、日本海軍の名誉を守るためと大勝利に終わった海戦結果に泥を塗らないために、今 村中将の好意もあって、戦後事実が明らかになるまで米魚雷艇部隊の攻撃による損害、とされ 幻の敵襲≠ニなっていた。 |
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■自衛隊幹部学校・統合幕僚幹部学校 2丁目2番にある。自衛隊の幹部中の幹部の養成機関、一般でいえば大学院、昔流なら天保 銭組といったところか、陸海空それぞれの幹部学校のほか、三軍の中枢幹部を養成する統合幕 僚幹部学校がある。統合幕僚部とは、戦前の陸軍参謀本部と最軍軍令部を合わせた有機的能力 を発揮する自衛隊の最高総司令部だ。戦争をしない自衛隊も、いつでも戦争ができる体制を整 えている。日本は潜在的核保有国だから、実際は直ぐにでも核兵器を持てるから、アメリカが 戦々恐々なのだ。日本にいつ復讐されるか、イッツァプロブレン。 アメリカが、北朝鮮に核兵器保有の可能性を残して釈然としないのは、北朝鮮の脅威を残し ておくためだ。そうすれぱ「東アジアは不安定」ということになる。アメリカ軍がアジアに駐 留するのは日本を監視するためで、対中戦争の構えのためではない。アメリカの仮想敵国はあ くまで日本で、日本が復讐をしないように牽制するためにこそ駐留している。だから拉致問題 も北朝鮮問題も片付いて貰っては困るのだ。日本では日本史を、特に戦後史を時間不足という ことで教えないが、それはアメリカが日米戦争のことを深く知って貰いたくないからだ。日米 は仲良しなんだということで、サラッとアメリカのことを思って貰いたいのがアメリカの本音 で、太平洋戦争のことは日本人に忘れて欲しいのだ。ハッキリいうとアメリカの属国でいる限 り、日本に攻めてくる国なぞない。自衛隊は無用の長物なのだ。当然日本が戦争を仕掛けるこ ともやらせては貰えない。自衛隊はアメリカ軍の尖兵としての機能しか持たないのだ。 |
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■防衛研究所(防衛省技術研究本部第一研究所) 2丁目2番にあるが、入口(衛門)は渋谷区恵比寿南3丁目12番にある。ここは戦前は海 軍大学もあった海軍の専用研究所で、アメリカを震撼させた「93式魚雷(91サンチ93式 無気泡酸素魚雷)」はここで生まれた。しかしこの酸素魚雷が開発されていなかったら「真珠 湾攻撃」はなかったのだ。さらにいえばアメリカが先制攻撃を仕掛けてこざるを得なかった。 もしかするとこの無寄港攻撃でアメリカ艦隊、特に空母部隊は壊滅して、日本のアメリカ本土 攻撃が可能となり、世界は変っていたかも。戦後は、イギリス軍に占領されて、キャンプ・エ ビスと命名されてた。 ●史料閲覧室(図書館) 防衛研究所では、戦史の調査研究と戦史の編さんを行うために、陸海軍にかかわ る史料の収集を行いました。史料の大半は終戦時に焼却され、あるいは戦後の混乱 により散逸してしまいました。焼却を まぬがれたものは米軍に押収され、米国国 務省公文書部の保管するところとなりましたが、長い外交交渉の末、昭和33年4 月にようやく我が国に返還され、その大部分が防衛研究所に所蔵されています。こ れら米国返還史料のほか、戦後厚生省復員局が整理保管していたもの、防衛研究所 が自ら収集したものを含め、防衛研究所図書館史料室が保管する明治期以来の旧陸 ・海軍の公文書類等は約15万冊(陸軍史料54000冊、海軍史料37000冊 戦史関連図書等59000冊)にのぼっております。(防衛研究所史料閲覧室) 軍事・戦史に関する資料や図書が閲覧できる。それほどびっくりするような史料もないが靖 国神社のように戦争礼賛的、威圧的なところはなく、研究所らしい静かな落ち着いた雰囲気の 専門図書館だ。 |
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■目黒警察署 2丁目7番にある。 |
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■実相山正覚寺 3丁目1番にある日蓮宗の寺。本堂の外に開運殿・国柱法産堂・鐘楼・瘡守稲荷・水掛観音 ・実相会館・別館たちばながあり、一際大きく豪華なのが寺務所だ。 元和五年(1619)日栄上人によって創建された。初めは碑文谷法華寺の末寺だったが、 法華寺が不受不施派の宗論を奉じて幕府の弾圧を受けた時、俄かに身延山久遠寺の末寺になっ て難を免れた。のち寺運は衰え、山門寺塔は大破し惨憺たる有様となったが、安政年間(18 54〜1859)に16代是輪院日登・17代興雲院日騰の努力によって漸く旧観に服するこ とができた。 ●三沢初子像 名優6代目尾上梅幸をモデルに作られた3mを越える見事な銅像で、境内に偉観を添えてい る。目黒川水死者供養塔、忠魂碑とともに並んでいる。 ●浄眼院(三沢初子)の墓 正覚寺の墓地にある。三沢初子は、山陰の尼子(あまこ)氏重臣三沢清長の長女で、主家滅 亡後江戸に移る。初子13歳の時父清長が亡くなり、2代目仙台藩主伊達忠宗夫人振姫の老女 を勤める叔母の斡旋で伊達家に仕え、3代藩主綱宗の側室浅岡局となる。4代藩主綱村となる 亀千代を含め3子の母となり、万治三年(1660)亀千代が4代藩主になると、綱宗に従っ て品川の下屋敷に移りそこで暮らした。生前から正覚寺の鬼子母神を信仰し、我が子亀千代の 平穏長久と子孫繁栄を祈り続け、貞享三年(1688)48歳で歿した。寺の庫裏・客殿は、 下屋敷の初子の居宅を移築したものだという。浄瑠璃や歌舞伎狂言の「伽羅先代萩」の政岡の モデルといわれ、わが子を犠牲にして幼君を守護し御家安泰を図ったという物語だ。墓は都の 史跡だが、初子の墓は仙台孝勝寺にもあるので供養碑ではないかとの説がある。初め廟所だっ たが、明治6年に取り壊され、現在の墓碑の形となった。忠宗室(徳川振姫)、綱村室(稲葉 仙姫)と共に葬られている。 |
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■第二中学校 廃校 3丁目6番にあった区立校。昭和22年アメリカ軍の強制による学制改革により、中目黒小 学校内に「東京都目黒区立第二中学校」として開校。同25年最終地に木造校舎落成移転。同 33年から43年にかけて鉄筋コンクリート造り校舎落成。 平成9年創立50周年記念式典。同18年生徒数減少のため五中・六中と統合し「目黒区立 中央中学校」として開校。同20年3月まで旧六中の校舎を使用し、同20年4月から旧五中 の跡地に建てられた新校舎に移転。 |
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■八幡神社 3丁目10番にある。中目黒村の鎮守で、誉田別命を祭神とする。創建年代は不明だが、江 戸幕府が源氏の守護神八幡信仰によって農民との融和団結を深めようとして農村に八幡神社の 建設を奨励した寛文時代と推定される。境内には高さ30mを超える椎・楠・欅・榎などの巨 木が茂り、区の保存樹林に指定されている。重厚な本殿などの建物と共に旧中目黒村総鎮守の 風格を今も十分に保っている。本殿・神楽殿・手水舎などがよく整備され、産土神にふさわし い神域だ。毎年9月の第3土・日曜日の例大祭に、演目十二座の神楽を奏している。境内に国 歌君が代に歌われる「細石(さざれいし)」を置いてある。 |
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■中目黒小学校 3丁目13番にある。明治34年正覚寺内で目黒高等小学校として開校。同35年現在地に 移る。同41年尋常科を併置し「東京府荏原郡目黒尋常高等小学校」と改称。大正12年関東 大震災により3教室倒壊。同14年油面小学校を分校(263名移籍)。 昭和2年東横鉄道が開通。同3年烏森小学校を分校(258名移籍)し、7月「東京府荏原 郡中目黒尋常小学校」と改称。同4年府道開通(現在の都道317号線 山手通り)。同6年 五本木小学校分校(235名移籍)。創立30周年記念式典・校歌制定。 校歌「富士の高嶺を」 作詞・豊田八千代 作曲・福井直秋 1.富士の高嶺を見晴るかし 八幡の森の緑濃き 目黒の岡のさやけさよ 2.日陰唯射す岡の辺の 良き学舎(ふみのや)に集い来て 学ぶ我らは幸多し 3.この喜びを身にしめつ 誠の心一筋に 高き望みに羽ばたかん 同7年周辺郡部が東京市に併呑されて目黒区が成立し、「東京府東京市中目黒尋常高等小学 校」と改称。田道小学校が開校し69名移籍。同8年府道開通(現在の都道416号線 駒沢 通り)。同11年今の第二中学校のところに目黒高等小学校が開校し、高等科の男子児童65 4人が移動。「東京府東京市中目黒尋常小学校」と改称。同13年二宮金次郎像贈られる(現 在は台座だけが残っている)。同14年2月失火により12教室・職員室を焼失。高等科の女 子が目黒高等小学校に移籍。同16年国民学校令による「東京府東京市中目黒国民学校」に改 称。上目黒尋常小学校が開校し25人が移籍。創立40周年記念式典。同12月日米開戦。同 19年556名の児童が福島県白川郡棚倉町に集団疎開。同20年8月日本は、ならず者国家 アメリカの軍門に降り敗戦。以後属国となり、唯々諾々といいなりになる保守傀儡政権を保持 せざるをえない今日的不幸を背負い込む。もう200兆円以上がとこ持って行かれたよ。少女 が犯されても泣き寝入り、これからの若者はアメリカ軍の尖兵として最前線の激戦地に送り込 まれるぞ。まあ精々武運長久にな。10月疎開解除により全生徒帰校。 同22年アメリカの強制による学制改革により「東京都目黒区立中目黒小学校」と改称。目 黒第二中学校が併置開校。同25年新校舎落成し第二中学校転出。同26年創立50周年記念 式典。同36年創立60周年記念式典。同37年4階建鉄筋校舎落成(普通教室6、特別教室 4など。現在の西校舎の一部)。同38年失火のため北校舎・央校舎・講堂焼失(普通教室1 4、特別教室6)など。一部二部授業・一部第二中学校で間借り授業。同38年4階建鉄筋校 舎落成(現在の西校舎の一部)。同39年北校舎落成。同40年体育館完成。同46年創立7 0周年記念式典。同53年プール完成。同56年創立80周年記念式典・同窓会から「よい子 の像」が贈られる。同61年校舎大改修。平成3年創立90周年記念式典。同13年に創立1 00周年記念式典・タイムカプセル製作。 |
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■長泉院 4丁目12番にある浄土宗の寺院。芝増上寺の末。江戸の人北川保久仙(祐善)が増上寺第 4世成誉大玄大僧正を尊信して律院起立の大願を起こしたことに始まり、宝暦十一年(176 1)大玄和尚が開山した。堕落した宗風を刷新するための律院として建てられたものだ。江戸 時代の儒学者松崎慊堂(こうどう)の墓がある。和尚はアーティストになりたかったんだろ。 寺全体が美術館で、本物の現代彫刻美術館まで作っちゃった。墓地までが整然としており、ア ーティスティックだ。ここまで四角四面の墓地も珍しい。 南へ下ると十七ヶ坂、東へ下る馬喰坂は急坂だ。西北に進んでなべころ坂緑地公園の角に、 「藤庚申」があり、2基の庚申塔が藤棚の下にある。なべころ坂も急坂だよ。 |
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| ●現代彫刻美術館 中目黒の閑静な住宅街の中にある。この美術館は、浄土宗長泉院の教化事業の一環として企 画された。20世紀後半の日本の彫刻家たちが、どのような作品を創造したのか記録すると同 時に少しでも多くの方々が彫刻の素晴らしさに触れ、楽しめるように設立された 昭和53年 具像作品を野外展示したのが最初で、4年後に本館が完成し、さらにその5年後、抽象作品の 野外展示場を増設した。現在56人の作家による242点が収蔵展示されている。入館料は無 料で、本館入り口で住所氏名を記帳すれば見学できる。開館時間は午前10時から午後4時3 0分まで。年末年始の約4週間と毎週月曜日が休館。寺には珍しい活動で、野外展示場は起伏 にも富んでいてその昔の丘陵地だった面影を偲ぶこともできる。野外彫刻シンポジウムの開催 をはじめ、発表の機会に恵まれない若い作家の企画展など幅広い活動をしている。 ●松崎慊堂の墓 本館前に入口がある墓地にある。まつざきこうどう 江戸時代後期の儒者だ。肥後熊本に生 まれ、初め地元で僧となったが儒学を志し、江戸に出て幕府の儒官林述斎に学び、後遠州掛川 藩教授になった。幕府から迫害された渡辺崋山の赦免運動に尽力した人でもあり、天保の改革 を推進した老中水野越前守忠邦は彼の弟子だった。また住居跡は現在渋谷区立白根記念郷土博 物館になっている一帯だ。 |
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■なべころ坂 4丁目13番と14・16番の間の急な坂道。昔、鍋が転がるほどの急坂であったことから この名がつけられたとする説と、「なべごろ」とは赤土が水で柔らかくなった状態を示す目黒 の古い方言とする説がある。「なべごろ坂」とする説によると、坂道の両側には耕地があり、 坂道は狭く曲がっていた。用途が比較的少なかったため、改造されることもなく、昔ながらの 道路面は表土の黒土層が洗い流されて、赤土層が露出していた。そのため夏の乾燥日には赤土 のかたまりがごろごろしていたし、冬の雪の日や春の霜解け、入梅期の雨の日などには赤土が ぬかっていたという。 |
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■実相寺 5丁目7番にある天台宗の寺。普通の住宅。看板がないと判らない。本尊は地蔵菩薩で、寛 永六年(1629)日是上人により芝白金に創建され、明治44年移転してきた。 |
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■三等山永隆寺 5丁目7番にある天台宗。元和四年(1618)日達上人により開創。麻布山大乗寺といい 日蓮宗の寺だった。この寺は悲田派だったため、不受不施派に対する弾圧に遭って、元禄十一 年(1698)十一月住職日衷は遠流に処せられ、延宝八年(1698)随道上人は中興の祖 となり、天台宗に改宗し、天保五年(1834)正月現在名に改称した。明治35年三田より 現在地に移転。本尊は阿弥陀如来。本堂は鉄筋コンクリート2階建て。道路の向いに墓地があ る。 |
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■明顕山祐天寺 5丁目24番にある浄土宗の名刹。江戸中期祐天上人を開山とし弟子の祐海が創建した。八 代将軍吉宗により「明顕山祐天寺」の号が与えられ将軍家と縁ある寺として大いに繁栄した。 祐海は経営の才があり、寺の経済的基盤を固めることに努め、寺憲を作って、喜捨された金が 100両になる毎に地所を購入するように定めた。その後も祐全・祐東などの努力によって寺 運は発展し、その所有地は幕末には4町歩を越えた。現在でも目黒区一の大地主だ。維新後も 寺は荘厳を極めたが、明治27年日清戦争の時、目黒火薬製造所が増産で出てくる弾丸の貯蔵 に困り、寺に預けたものが爆発し、堂塔の大半を失ってしまった。しかしそれでもなお多くの 寺宝、文化財を今日に伝えている。 山門の左右に寺の名を刻んだ石が立っている。左のものは普通の角柱だが、右のものは碑石 と見紛う平たい青石で、ともに2mを越える。門を入ると正面に「仁王門」が見える。右手の 小祠は「子守り地蔵尊」、その隣は「荏原郡死者弔魂碑」、もう少し進んだ右手の新しい碑は 特に説明がない。平成11年に建てたもので、 寝ぬわばほと希のみたま 覚むれば佛のみ手に と刻み、「知恩院門跡86世中村康隆」と彫ってある。左手には碑群の一区画がある。門脇 から右に時計回りに見てみると、「耆山上人衣鉢塔」と平二の「句碑」が並ぶ。平二が誰か判 らないが、自然石の碑裏に「維時安政五年 先祖代々ニ や組小次楼」とある。句は、「舞う 蝶の」までは読めるが後は達筆過ぎて・・・。続いて立派な墓石、「瑞泰院殿祐蓮社高誉豊安 寿英大禅定尼」と「養源院殿貞室知栄大姉」と刻するの墓碑が並ぶ。ともに女性だが誰か判ら ない。少し離れて建つ「敷石志諸群霊等」は、文化二年(1805)四谷・鮫ヶ橋・市谷の奉 安、舗石成就の記念碑らしい。境内の東北角の「島崎七郎翁胸像」は、目K政界のドンの功績 を顕彰したものだが、檀家としても貢献した縁により寺域に建てたようだ。直角に向きを変え ると海難供養碑が2基ある。説明によると、左は白子組が安政四年(1857)に建てた「溺 死碑」。右は「灘目の海難供養碑」と呼ばれる、寛政八年(1796)の溺死碑。白子組は木 綿問屋、呉服問屋の総称で、名古屋から伊勢木綿を運んでくる廻船が台風で遭難して沈没し乗 組員が溺死したのを弔う供養碑だ。灘目の方の碑裏に、 願以此功徳平等○一切 同發菩提心住生安楽國 としっかり彫ってある。○は木扁に色という字、「もみじ」と読むそうだ。お堂の方に向き を変える。「永代千部講中」とある文化十年(1813)の供養塔。委細不明。その右隣は大 きな「百万遍」の石塔。田安家御殿女中の名がずらりとあり、岡山藩家中を初め全部ではない が各藩の家中の名前、江戸の各町内有志の名前が台石にびっしりと彫り連ねてある。文化八年 (1811)の建立で、裏に西誉祐東と本寺住職の名前がある。その隣の「南無阿弥陀仏」と ある碑は火消しの二番組が建てた供養塔だろうが、他には何も彫っていない。 碑群の南に中門付きの立派なお堂があるが、掲額の文字が読めないし説明もない。「○○○ 地堂」とある。仁王門左手の植込みに「南無阿弥陀仏」の大きな石碑が2基、左のものは新し い。「祐天寺上人二百五十年御遠忌記念碑」とあり、昭和43年「元五睦」が建てたものだ。 碑の脇面に纏の図柄が幾つか線刻してある。左の碑も「五番組中」とあり、安政四年(185 7)に玉垣を新設した記念のもののようだ。仁王門を潜ると左手に精進殿、阿弥陀堂、五社稲 荷と続き、その参道を挟んだ向いに「各区消防記念碑」が建つ。これも「南無阿弥陀仏」とだ けしか彫っていない。「惣町火消中」と判断するしかない。その奥に鐘楼があって、「かさね 碑」がある。さて正面は本堂、続きの左の堂はガラス張りで巨大な「かさね」の累塚建立60 年を記念した縦4m、横10mもの大絵馬が展示してある。昭和61年日本美術院同人の月岡 栄貴氏らによって制作されたもので、踊りの場面に祐天上人が舞い降りる絵柄になっている。 本堂右の植込みに安住敦の句碑。右側の新築の建物が寺務所だ。 |
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| ●祐天上人 磐城大浦に生まれ、三之助といった。12歳で江戸芝三縁山増上寺袋谷の檀通上人の下で出 家し、愚心と名乗ったが、名の通りに理解力に欠け、物覚えも極めて悪い子僧だった。そこで 成田山新勝寺に赴き、21日の断食修行をした。満願の日、眼前に不動明王が現われ、愚心の 口中に氷のような霊剣をぐさりと突き刺した。腸の中まで貫かれた愚心は、ドッと血を吐いて 気絶したが、気がつくと生来の愚鈍が嘘のように消え去り、難解な仏典もすらすらと解読でき るようになった。以来研鑽を重ねて50歳を過ぎた頃、念仏を弘めるべく全国行脚を発心し国 中を歩いた。師の死により江戸に戻り、元禄十二年(1699)60歳の時、将軍綱吉の特命 で、千葉生実(おいみ)の大巌寺の貫主となった。その後、水海道飯沼弘経寺、小石川伝通院 と移り、最後には浄土宗大本山増上寺法王にまで上り詰めた。77歳だった。晩年は麻布竜土 町に隠棲し、念仏三昧と民衆強化に努めた。享保三年(1718)82歳で亡くなるが、その 生涯は『祐天上人御一代記』となって語り継がれている。墓は墓域にあり、都史跡だ。 |
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| ●地蔵堂 焼失後の建物だが、増上寺天英院の御霊屋の古材を用いたもの。 |
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| ●耆山上人衣鉢塔 きざんしょうにんいはつとう 横文字が彫ってあってもおかしくない洒落たデザインによく 耆山の好みが現われているという。碑には耆山上人の伝記と、彼の後を継ぐ者がいないため、 衣鉢をこの地に埋める心境を表わした詩が刻まれている。撰文は、彼の後輩に当たる武蔵国小 机(横浜市港北区)の泉谷寺住職恵頓で、書は当時の老大家小河保寿だった。目Kの名碑の1 つだ。耆山は増上寺の学寮に学んだが、同輩で彼に並ぶ者がない英才だった。28歳で早くも 竪義部頭に昇進したが、感ずるところがあり、32歳で引退して青山の梅窓院の住持となり、 母と二人で自由洒脱の生活に入った。 仏業の暇には詩と書の芸に遊び、無欲簡易、無病健康、85歳の長寿を保ち、寛政六年(1 794)遷化した。まさに達人の生涯だ。詩は服部南郭に師事し、『青山樵唱集』4編8冊に 長短の詩千数百種を残してる。太田南畝(蜀山人)は彼に深く私淑し、その追懐の文を綴り、 また恵頓との交誼や文通についても調査記録している。 |
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| ●仁王門 享保二十年(1735)の建立。仁王像は、法橋石見の作で5代将軍綱吉の娘竹姫による寄 進だとか。 |
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| ●かさね塚 祐天上人にまつわる伝説の中でも、最も有名なのが「累物語」だ。羽生村に累という醜い娘 が住んでいた。累は名主の世話で村の若者と夫婦となり、男は与右衛門の名を継いだ。しかし 田畑だけが目当ての与右衛門は、累を川に突き落として殺してしまう。その後与右衛門は新し い妻を娶ったが、次から次に死んで5人目を迎えた。5人目の妻も、菊という娘を生んだもの の、菊が13歳の時に死に、与右衛門は娘に婿をとった。喜びも束の間、菊は病に倒れた。と ころが累の怨霊が菊に乗り移り、狂乱して与右衛門を罵る。与右衛門は村人の前で累殺害を認 めて謝った。そこへ祐天上人が通りかかり、村人に請われるまま一心不乱に念仏を唱えると、 さしもの累の怨霊も鎮まり、菊は元の娘に戻った。この話は歌舞伎や寄席噺にもなり大変な人 気を呼んだ。現在よく上演されるのは『法懸松成田利剣』という芝居の踊りの場面『色彩間苅 豆』、通称『かさね』で、作者は『東海道四谷怪談』で知られる4世鶴屋南北だ。この踊りは 長い間絶えていたが、明治末年に復活上演された。さらに大正9年、6代目尾上梅幸・15代 目市村羽左衛門・5代目清元延寿太夫のトリオが歌舞伎座で上演して大当たりを取り、以来人 気舞踊となった。大正15年に3人で上演したあと、大入りの祝賀と歌舞伎宣伝の目的で、累 の霊を慰めるために立派な記念碑を建立。これが境内に残る「かさね塚」なのだ。除幕の時、 テレビもなく、ラジオさえAK(NHK東京放送局)が開局した時代のこととて、参加した大 勢の人気俳優や芸人たちを見逃すまいと、一張羅に着飾った娘たちを初めとする見物人が、目 K以外の地からも押し寄せて、尾崎豊の葬儀のようなテンヤワンヤの大騒動だったという。 |
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●鐘楼・梵鐘 参道右側にある。享保十四年(1729)6代将軍家宣の17回忌に夫人の天英院が奉納し た。 ●阿弥陀堂 参道左側にある。5代将軍綱吉の娘竹姫の寄進で、阿弥陀像は安阿弥快慶の作と伝わる。 ●安住敦の句碑 二本榎に生まれ、柿の木坂に住む。久保田万太郎の「青燈」を創刊し、のち主宰、俳句にお ける個の抒情を確立。昭和63年死亡、81歳だった。 てんとむし一兵われの死なざりし ●祐光殿落慶記念「祐天寺和讃」 寺務所入口左にある。本多正雄の詞、中村祐美子の曲。 江戸の名残の仁王門 潜れば花が散る風が舞う 如来の教え明顕し 福田ここに開かれて 念仏の声は響きあう |
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| ●柳原一位局の墓 祐天寺墓地にある。柳原愛子(やなぎはらなるこ) 明治天皇の典侍。大正天皇の実母。最 終位階の正二位を以て「柳原二位局」と呼称される。女房名は梅ノ井、早蕨内侍など。幕末の 議奏・権中納言正二位柳原光愛の次女で、伯爵柳原前光の妹。「筑紫の女王」柳原白蓮は姪に 当たる。明治3年皇太后宮小上臈として出仕し、掌侍を経て、同6年に権典侍となった。明治 天皇の宮人となって、第二皇女梅宮薫子内親王、第二皇子建宮敬仁親王、第三皇子明宮嘉仁親 王を出産したが、のちに大正天皇となる嘉仁親王のみが成人できた。明治35年典侍に任官。 所生の皇子の即位後、大正2年正三位皇后宮御用掛御内儀監督となり、同4年従二位に叙され 大正14年に勲一等瑞宝章を授けられた。大正15年=昭和元年12月25日息子である大正 天皇が崩御し、孫である昭和天皇が即位した。昭和18年10月16日薨去。大正天皇臨終の 際、貞明皇后の配慮によって枕辺で別れを告げたという逸話を残す。墓碑に何故一位とあるの かは不明。正一位は天皇陛下、従一位は皇后陛下、それ以外の日本人は生きて除せられるのは 正二位が最高、歴史上の人物でも死んでですら正一位に達したのは稀だ。お稲荷さんは正一位 だけどね。 |
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■指月山浄桂院 5丁目24番、駒沢通りに面して祐天寺西隣にある浄土宗の小寺。石造りの門柱の門を入る と正面に本堂。静かな佇まい。墓地は無い。慶長年間実誉上人によって芝西久保に開かれ、昭 和4年現在地に移転してきた。本尊は阿弥陀如来。 |
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■「中目黒駅」は上目黒にある 東横線・東京メトロの中目黒駅周辺は、各種の商店が立ち並び、若者の人気スポットになっ ている。加えて平成15年には、区役所が中央町から駅近く、38年間千代田生命が本社ビル として使っていたビルに移ってきたほか、駅前に図書館などの公共施設も入っている25階建 ての「中目黒GTプラザ」がお目見えして益々賑やかになった。つまりここは駅を中心とした 盛り場で、誰もが一帯を駅名と同じ「中目黒」だと信じて疑ってないとこなのだ。 しかし実は中目黒駅も、中目黒GTプラザや区役所も、正式な地名は「中目黒ではなく上目 黒」なのだ。地名の中目黒は駅近くの駒沢通り以南になる。駅名が地域の通称になるのは珍し いことではない。とはいえ上目黒1816番地に設けられた駅がどうして「中目黒」と命名さ れたのか? 昔は隣接の中目黒のほうが開けていたので、そうなったのではないかとも推測さ れるが、区でもはっきりした理由は分からないという。もう1つ考えられるのは、かつての渋 谷橋〜中目黒間の玉川電鉄中目黒線の停留所「中目黒」の存在である。同停留所は目黒川に架 かる皀樹(さいかち)橋南方の、現在の駒沢通りに設置されていた。今そこの駒沢通りは上目黒 に含まれるが、当時は中目黒の西端で、停留所名は地名と一致していた。このことは、地形社 編『昭和16年大東京35區内目黒區詳細圖』の復刻版(人文社)で確認できる。後に東京市 電から都電となった路面電車で、同図にはまだ「玉川電気鉄道」となっていて、「中目黒停留 所」が記されている。同線は昭和2年3月、東横線渋谷〜丸子多摩川間は同8月と、同じ年の 開通だった。しかも停留所と駅は僅か230mしか離れていない。そこで利用者の利便のため に、当時の関係者が話し合って停留所と駅の名を同じにした、と見ることもできるよな? |
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■荏原教会 1丁目5番にある浄土真宗大谷派の寺。木々に囲まれた普通の小住宅だ。看板がなかったら 判らない。墓地はなく説教場のようだ。 |
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■原町小学校 2丁目18番にある。昭和13年碑尋常高等小学校・大岡山尋常小学校・向原尋常小学校の 一部児童を移し「東京府東京市原町尋常小学校」として開校。校章・校旗制定。同16年国民 学校令により「東京府東京市原町国民学校」と改称。12月日米開戦。同18年都制施行によ り「東京都原町国民学校」と改称。15mプール完成。同19年愚かなアメリカ軍の非人道的 無差別空襲が激しくなったので、山梨県甲府市へ児童集団疎開。同20年校舎に十数発の爆弾 が落とされたが、職員の努力により消し止める。洗足・原町は焼野ヶ原にされた。8月日本は ならず者国家アメリカの軍門に降り敗戦。以後属国とされ、唯々諾々といいなりになる保守的 傀儡政権を保持せざるを得ない今日的不幸を背負い込む。もう200兆円以上がとこ持ってい かれたよ。女の子がレイプされても泣き寝入り、これからの自衛隊はアメリカ軍の尖兵として 最前線の激戦地に連れて行かれるだろうよ。武運長久にな! 10月疎開解除により学童集団 帰校。 同22年アメリカ軍の強制による学制改革により「東京都目黒区立原町小学校」と改称。給 食開始。同23年創立10周年記念式典。同25年学校放送開始。同29年校歌制定。 校歌「桜は春の」 1.桜は春の光に咲き 鈴懸は夏の緑に戦(そよ)ぐよ 希望の空に富士を仰いで 正しく学び弛まず励む 秋も霜踏む冬の日も 2.世界の中の一つの国 新しき時の民たる誇りに 柏の葉蔭 何時も明るく 力を協わせ心を磨く 目黒原町小学校 同33年創立20周年記念式典。同38年創立25周年記念式典。同40年25mプール完 成。交通安全校として東京都から表彰。同43年創立30周年記念式典・体育館完成。同年か ら同53年にかけて鉄筋コンクリート造り校舎落成。同61年プール改修。同63年校庭にス プリンクラー設置。創立50周年記念式典。 平成3年校舎外壁工事が終了。同4年飼育小屋改修。ランチルーム完成。同4年コンピュー タルーム設置。同5年体育館改修。同10年インターネット導入。屋上にビオトープ(ミニ動 ・植物園)設置。同11年サイエンスグランプリ'99 学校賞受賞。同13年ロシアの子ども たちとの交流開始。同14年全国ビオトープコンクール奨励賞受賞。第41回かんぽ作文コン クール入賞校。同20年創立70周年記念式典。 |
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■碑文谷鶉場 ひもんやうずらば 東急目蒲線武蔵小山駅〜洗足駅の間の西側の旧字名は、北から順に月光 原、向原、東原、金杉原、原などの原の名が続いたのは、この辺り一帯が近世までもまだ広い 原野を残し、8代将軍吉宗の寛保二年(1742)に鶉場と定められた。つまり将軍家のもの ということで立入が禁止されたのだ。将軍家の占有地にするということは乱開発を防止するこ とが主たる目的だった。民主主義ではこうはいかない。 |
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■宮野古民家自然園 2丁目5番にある。東急目黒線洗足駅の北西、徒歩五分ほどのところに古びた屋敷がひっそ りと建っている。碑文谷村の旧家の建物で、江戸時代の農家の面影を伝える貴重な建造物とし て区指定の有形文化財として一般公開されている。門を入ってすぐ右手に建つ木造平屋132 uの母屋は、骨組みや間取りなど18世紀の建築当時のまま鎮座している。ただし茅葺き屋根 は銅版葺きに変わり、南側の庭に面した縁側のガラス障子は大正時代に作られたも のだ。もっとも縁側の廊下は長さ九mもの杉の一枚板でできている。土間を上がって左手に広 がる板敷きの座敷は、昔囲炉裏がある居間だった。そこと八畳間の奥座敷を区切る帯戸四枚は 一本の杉から取ったもので、同じ木目をしている。その縁取りは檜材が使われている。土間の 突き当たりの部屋は天井が取り払っててあって梁や桁などの構造が覗けるようにしてある。ま たこの部屋には江戸時代から太平洋戦争時代くらいまで宮野家が使用していた民具類の数々が 展示されている。その中に文久三年(1863)に発行された諸国通行手形、明治の地券、学 校の教科書、明治から昭和10年ころまで使われたという電式壁掛電話器、昭和初期のラジオ や蓄音機等々。中には空襲警報発令中と赤字で書かれた木札、軍国少年が熱中した行軍将棋な どという珍品もある。別棟の納屋にも昔の農具類が展示されていて興味が尽きない。起伏のあ る枯山水の庭も、敷地の周囲150m以上にも及ぶ屋敷林と共に十分一見の価値があるよ。 入園料200。休園日は月曜日と7月13日〜18日、12月21日〜1月15日だ。 |
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■東根小学校 1丁目20番にある。昭和23年八雲小芳窪町分教場として開校。第十中学校が移転してく る。同25年1月「東京都目黒区立東根小学校」として分離独立。校章制定。愛唱歌「伸び行 く東根」制定。同26年第十中学校転出。同27年校旗制定。同29年2年生二部授業。木造 第一校舎落成。同30年木造第二校舎落成。同31年給食調理室完成。同32年木造第三校舎 落成。同34年校歌制定。 校歌「緑の木陰」 1.緑の木陰 風爽やかに 明るい窓辺に小鳥は歌う すくすく伸ばせ心と体 希望の光 輝く処 東根は楽しい揺籃(ゆりかご) 2.富士の嶺高く 空澄み渡り 長閑な学舎 花咲き匂う 正しく強く我が道進む 現想の芽生え育てる処 東根は心の故郷 同35年創立10周年記念式典。校庭整備。同36年プール完成。同39年体育館兼講堂完 成。同45年創立20周年記念式典。第一期鉄筋コンクリート造り校舎落成。同47年第二期 鉄筋コンクリート造り校舎落成。同50年第三期鉄筋コンクリート造り校舎落成。同51年第 四期(最終)鉄筋コンクリート造り校舎落成。同52年「学校ひろば」開始。同54年創立3 0周年記念式典。同57年給食室増築。同60年体育館開放開始。 平成元年プール改修。日本語学級開設。日本語指導室・学習室完成。同3年屋上改修。同4 年西校舎絨毯張り。校舎壁面全面改修。同6年校舎全面改修。同7年図工室改修。同8年理科 室・家庭科室改修。同11年創立50周年記念式典。平成19年防犯カメラ設置。 |
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■海軍軍医学校第二附属病院 廃院 移管 1丁目2番にあった。明治17年海軍軍医学校第二付属病院(並びに海軍第一療品廠病院、 財団法人東京海神会病院)として設立。昭和20年海軍の解体により厚生省に移管、国立東京 第二病院となる。 |
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■国立東京第二病院 → 国立病院東京医療センター 1丁目2番にある総合病院。昭和20年海軍病院が海軍の解体により厚生省に移管、「国立 東京第二病院」と改称。平成10年国立病院東京医療センターと改称。同16年独立採算制の ため独立行政法人国立病院機構東京医療センターに改称。 |
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■碑 1丁目21番の小川児童遊園にある。 |
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■東山中学校 1丁目24番にある区立校。昭和31年占領軍(アメリカ軍)の撤退により返還されたアー ティラリー・パレード・グラウンド(旧陸軍駒沢練兵場跡地)の東端の現在地に第一中学校の 分校として、菅刈小学校の分校(東山小学校)とともに開設。同33年独立し「東京都目黒区 立東山中学校」として開校。菅刈小学校分校は東山小学校として独立し現在地に移転。 |
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■オリンピック道路 山手通りの青葉台一丁目交差点から世田谷区下馬方面へ通ずる道がそれだ。昭和15年開催 予定だった東京オリンピックに備えて、渋谷から当時競技場建設予定地だった現在の駒沢公園 方面へ通じる道として、同12年頃に敷設されたからだ。オリンピックは戦争のため開催され なかったが、その名だけは残ったのだ。1丁目22番から25番にかけて、道の両側はかなり 高い切り通しで、その上に「鴻之巣橋」が架かっている。戦災前まで、橋の北側近くに松やヒ ノキの林に囲まれたお稲荷様の小祠があったとか。その社前の松の巨木に、毎年コウノトリが 飛来して巣を作ったため、鴻之巣松と呼ばれ、橋の名もこれに由来するという。 |
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■陸軍駒沢練兵場 2丁目と世田谷区池尻1・2丁目に展開していた練兵場。幕末期に持ち上がった駒場野演習 場拡張計画は、周辺農民たちの激しい抵抗に遭い、とうとう実現しなかった。いわゆる「駒場 野一揆一件」だ。しかし明治政府が富国強兵策を進めるに至って、駒場野周辺は、軍用に適し た土地として再び注目を浴びた。幕末の動乱で、軍事力強化の必要性を痛感していた明治政府 は、差し当たって諸外国から自国を守るために軍備を固めた。やがてそれは、アジア大陸への 領土拡大を目論むものへと変わっていった。「富国強兵」の旗の下、我国は、軍国主義の道を 歩き始めたのだ。明治の初めには、旧大名屋敷が兵営に充てられていたが、明治6年に徴兵令 が敷かれて以後、兵隊が増えたこともあって、兵営は郊外へ移転を始めた。また新しい兵営も 続々と建てられた。その適地として目をつけられた土地の一つが駒場野だった。帝国陸軍用地 として買収の話が持ち上がった時には、幕末の駒場野一揆のような動きは起きなかった。寧ろ 招致運動さえあったという。何の補償も示されなかった幕末の時とは違い、今度は幾ばくかの 土地代金が与えられたし、買い上げられた土地の用途は、増強に増強を続ける帝国陸軍の用地 だ。軍事施設が出来ることによる地元発展への期待も、人々の中にあったのかもしれない。最 初に現れた軍事施設は、同24年に移転してきた騎兵第一大隊(のち連隊)の兵営だった。翌 年にはその東に、新しく創設された近衛輜重兵大隊第一中隊(のち大隊)が兵営を築いた。輜 重兵とは、弾薬や食糧の輸送を任務とする兵科。これらの兵営の北、駒場野の一角に駒場練兵 場が置かれた。同30年、駒場野の南に置かれた駒沢練兵場は、現在でいうと南北は国土地理 院跡から三宿病院、東西は東山中学校から池尻小学校にまで及ぶ広大なものだった。その後駒 沢練兵場の西側一帯に、野砲兵第一連隊営、近衛野砲連隊営、砲兵旅団司令部、野戦重砲兵第 八連隊営が続々と建てられた。駒沢練兵場で訓練を受けたのは、主にこれらの兵隊だった。 敗戦後アメリカに接収され、アーティラリー・パレード・グラウンド(砲兵観兵式場)とし て活用された。 |
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■東山小学校 2丁目24番にある区立校。昭和31年東山中学校の処に菅刈小学校の分校として開設。同 33年菅刈・烏森両小学校から一部児童を移籍して開校の新設校。校章制定。同34年校旗制 定。同35年校歌制定。校歌「空は高いな」 作詞作曲・不詳 1.空は高いな 雲が飛ぶよ 草が茂れば露も緑か 花も咲き鳥も鳴く みんな友だち 光と影に囲まれて 学ぶ楽しさ広々と 2.富士を仰いで朝の風に 道を急げば何時も爽やか 弛みなく焦らずにみんな進もう 正しく強く健やかに 一人一人が新しく 希望に育ち 平和に生きる ああ我らの東山小学校 同39年プール完成。同40年体育館完成。同43年創立10周年記念式典。同44年文部 省の海外帰国子女教育研究協力校となる。同47年海外帰国子女教育の一環として英語教室・ 日本語適応教室を設置。同53年創立20周年記念式典。同55年帰国子女特別教室増築。給 食調理室改修。同56年校庭アスファルト舗装。北校舎側壁補修金網取付工事完成。同57年 校舎改修工事完成。同58年西門改修工事完成。創立25周年記念式典、同59北側校舎西側 ・西校舎便所改修。同61年プール改修。同62体育館改修。同63年第1理科室改修。創立 30周年記念式典。 平成元年校庭改修。同5年創立35周年記念式典。同6赤松文部大臣学校視察のため改修。 同6目黒区東山グリーンクラブ発足。こども音楽コンクール東日本優秀演奏発表会において特 設管弦楽クラブ優秀賞費賞。同7北校舎屋上ウレタン補修。同8西校舎教室他塗装工事完成。 同9年英語保持教室開室。ホームページ開設公開。同11年創立40周年記念式典。新型パソ コン20台導入。TBSこども音楽コンクール東日本優秀演奏発表会において特設管弦楽クラ ブ優秀賞費賞。同12年北・西校舎耐震補強工事施工。平和記念コンサートに特設管絃楽クラ ブが参加。音楽の集いで名ピアニスト、マルタ・アルゲリッチとヴァイオリニスト、ギトリス 体育館で演奏。同14年普通教室冷房化。マルタ・アルゲリッチとの交流演奏会。東校舎耐震 補強工事完成。同15年マルタ・アルゲリッチとの交流演奏会(パーシモンホール)。同16 年特設管弦楽クラブ、東京都教育委員会「児童生徒等表彰」を受賞。新校舎完成。同17台湾 西門国民小學との音楽交流。マルチメディア室パソコン20台更新 普通教室LANケーブル 配置。校庭拡張工事始。同18年第二校庭完成。日本フルブライトメモリアル基金 米国視察 団来校。同西校舎アスベスト除去。図書室冷房化。創立50周年記念式典。 ●特色 昭和58年度から「帰国子女受入推進地域センター校」の指定を受け、帰国子女教育に永年 取り組んできた。平成13年からは「帰国・外国人児童生徒と共に進める教育の国際化推進地 域」として目黒区が指定を受けたため、国際化推進の中心校として、新たに実践的な取り組み を行っている。 東山賛歌 曲:シベリウスの交響詩「フィンランディア」より拝借、松本政雄作詞 1.美しいな人みな 世界より知恵以って かえりくる学びの友 われら東山 歴史いまここにあり 誓い合う富士の嶺 2.清い光 満ちあふれ 目黒の 丘に開く 僕たちの 私たちの 世界の東山 歴史今此処ににあり 誓い合う富士の嶺 |
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■東山遺跡 3丁目11〜13・16・21番の一帯から発見された。貝塚と竪穴住居集落跡からなって いる。貝塚は明治の中ごろから、北区西ヶ原貝塚、港区丸山貝塚とともに3大貝塚として知ら れていた。この辺りは一帯は、明治初年に茶畑に、中ごろに駒沢練兵場になり、震災後だんだ んに住宅地に変り、戦後は全部宅地になったため、失われてしまった。この遺跡は、標高25 m線を中心に、目黒川に面する丘陵の北辺から東北辺にかけて営まれたものだ。貝層は広く淡 ・海水産両方の貝類や縄文中期・後期・晩期を遺物が多数出土している。貝塚の南側に遺跡が あり、大正15年の土地区画の整地の際、13ヶ所の住居跡が発見された。出土品は国学院大 学考古学資料室、守屋教育会館の郷土資料室で保存している。 |
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■第七中学校 1丁目1番にある区立校。昭和22年碑小学校内に「東京都目黒区立第七中学校」として開 校。同26年現在地に第一次木造校舎落成して移転。同33年最後の木造校舎落成。同40〜 52年にかけて鉄筋コンクリート造り校舎に建替え。同60年耐震化完了。 平成9年創立50周年記念式典。同12年地方自治法改正により、東京都の冠称を外し「目 黒区立第七中学校」と解消。 ホームページの作成能力は稚拙。メカに強い先生がいないのだろう。 校歌「富士の峰」 作詞作曲・不詳 1.不時の峰 空に聳えて 雲輝き 正しく高し 目黒七中 ここに我ら 文化を築く力新たに 希望を掲げて弛むことなし 2.地には梅 既に薫れば 春遍(あまね)く微風(そよかぜ)清し 目黒七中 ここに我ら 真理の道の歩み確かに 時代に先駆け進み行くべし 3.絶えず湧く 清水湛えて 見よ岸辺の草原広し 目黒七中 ここに我ら 友情深く 語る若き日 平和ま花咲き 取りも睦まじ 目黒七中 ここに我ら ここに我らのあるを誇れ |
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■法谷山蓮栖院正泉寺 1丁目8番にある浄土宗の寺。増上寺の末。江戸時代は芝三田台町、現在の御田小学校のと ころにあったが、明治44年現在地に移転してきた。起立は元亀三年(1532)存冏(そん けい)上人が総州相馬郡に小庵を結び「泉蔵院」と称した。徳川家康が江戸に入ると、桜田溜 池に移って「正泉寺」に改め、さらに西久保に移り、貞応の頃(1652〜54)三田台町に 移った。この三田時代の幕末から明治初年にかけての同寺は、フランス・イギリス・スイス各 領事館員の宿舎になった。墓地には羽倉簡堂・4代目竹本綱太夫・国学者岡部春平・問宮宇山 ・式亭三馬などの墓がある。 ●式亭三馬の墓 墓地にある。三馬は、江戸時代中後期の草双紙や滑稽本の戯作者。菊地茂兵衛の長男として 安永五年(1776)浅草田原町に生まれた。名は菊地泰輔、字は久徳、通称は西宮太助、号 はほかに遊戯堂、四季山人、本町庵、戯作舎、洒落齋(しゃらくさい)、酔夢閣などがある。 寛政年中に書肆蘭香堂万屋太治右衛門の婿養子となったが、妻が早世したため離縁された。そ れから薬屋を営みながら著作活動を行って、寛政六年(1794)処女作『天道浮世出星操』 『人間一心覗替繰』を著した。滑稽本『浮世風呂』『浮世床』はその代表作だ。文政五年(1 822)に47歳で若死にした。墓は綱太夫と同様、もとは深川霊岸町雲光院末長源寺にあっ たものを大震災後の大正14年春に改葬したものだ。墓碑は二重の台石の上に立ち、その中央 に「式亭三馬墓」、台石上に「馬」の崩し字、これは彼が経営していた薬屋の商標だよ。下に 「本町庵」の三字を刻し、花立には本姓の菊地の姓が彫ってあり、香立には五三の桐の紋を刻 む。 辞世 善もせず悪も作らず死ぬるみは地蔵も笑わず閻魔叱らず ●羽倉簡堂の墓 墓地東端の奥まったところにある。墓形は四注形平面、棹中央に「羽倉用九之墓」の文字を 刻す。棹30cm角、高4〇cm、台石2段、全高85cm。墓石のこのように短小で、極め て安定感のあるのは、江戸の地が震災のあるのを考えての簡堂の遺命によるとされている。幕 府代官の子として大阪に生まれ、名は用之、字は士乾、外記と通称し簡堂と号した。晩年はさ らに蓬翁とも号した。父の後を継いで各地の代官を務める一方、学問にも励んだ。清廉な人柄 で知られ、諸国の代官であること30余年、老中水野忠邦に抜擢せられて納戸頭に進み、勘定 吟味役を兼ねて尽瘁するところ多かった。天保十四年(1843)忠邦の失脚に座して職を免 ぜられてからは、意を当世に絶ち、家は武四郎という老実な用人に任せて淡泊な生活に甘んじ 読書を楽しみ、塾を開いて後進の養成に徹した。簡堂は学殖あり、識見あり、当時の旗本は勿 論のこと、儒流にも類の乏しい人材だった。 ●四代目竹本綱太夫の墓 墓地の南隅にある。文化九年(1812)生まれ。浄瑠璃義太夫3代目竹本綱太夫(飴屋万 吉)門下、初めむら太夫といい、生来の美音のため天保六年(1835)4代目を襲名。斯界 の大立者となる。安政二年(1855)43歳で没す。深川長源寺に葬られた。墓石は高さ台 ともで120cm、台石2段、墓碑表面中央に柊輪に四ツ目結の家紋、真綱慈教信士の法名、 上段の台石には四綱翁の3字が刻まれている。これは6代目が23回忌に追善のために建てた ものだ。三馬の墓同様大震災後に改葬された。 |
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| ●岡部春平の墓 紫黒色の根府川石、正面に隷書風に「大江岡部春平之墓」の文字を刻んである。高165c m、幅120cm、厚み24cm。春平は江戸中期の国学者、歌人。大江春平ともいう。通称 蔵人、大蔵。また松田も名乗る。屋を葛根堅室といった。寛政六年(1794)筑前福岡に生 まれる。初め性理学(哲学の1種、心理学属)を修めたが、のち古事記伝その他本居宣長の著 書を読むに及んで、深く宣長の学識思想人格に傾倒し、以来皇学の研鑽、皇道の復古に全生涯 を投ずるに至った。文政十一年(1828)のころ初めて石見浜田藩主松平周防守康任に仕え 天保七年(1836)康任が磐城棚倉へ国替えとともに、ここに移り住み、天保十年仕を退い て京都により、祇園に居住、宣長、篤胤の流れを汲む国学者となり、天保十五年(弘化元年= 1818)江戸に出た。江戸においては芝増上寺山内三島谷の僧坊観随寮を寓居として、三縁 山の僧徒に和歌国学を講じた。のち隅田河畔にも居を移したともいわれる。国学、和歌及び考 証の造詣極めて深く、当時の著名な学者の多くと交わり、門下から秀才も出た。安政三年(1 856)没、63歳。正泉寺に葬られたのは13世住職光善が春平の門人であったのみならず かなり親密な間柄だったためといわれる。 ●問宮宇山の墓 幕臣、明治の俳人、草川宇橋門下で鴫立庵13世。西園寺公望と俳句を通して知己だったと いう。墓石は高120cmの根府川石。正面中央に「粟庵問宮宇山墓」の7字、裏に「円徳院 殿令月浄空大姉」「明治二十一年五月」とあるのは夫人か? |
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■碑小学校 1丁目18番にある。「いしぶみ」と読む。明治12年八幡神社の境内に東京府第2中学区 37番公立小学碑学校」として開設。同12年学制を廃し教育令公布により「東京府荏原郡碑 小学校」と改称。同25年現在地に新築移転。同35年高等科を併置し「東京府荏原郡碑尋常 高等小学校」と改称。昭和3年大岡山小学校を分校。同4年創立50周年記念式典。同5年向 原小学校を分校。同7年周辺5郡の東京市併呑により「東京府東京市碑尋常高等小学校」と改 称。同年鷹番小学校、同9年月光原小学校、同12年原町小学校をそれぞれ分校。同15年高 等科が独立して「東京府東京市碑衾高等小学校」となり分離。同16年国民学校令により「東 京府東京市碑国民学校」と改称。12月日米開戦。同18年都制施行により「東京都碑国民学 校」と改称。15mプール完成。同19年愚かなアメリカ軍の非人道的無差別空襲が激しくな り、山梨県甲府市・中巨摩郡吉沢村・西山梨郡千代田村に学童集団疎開(北巨摩郡上手村・小 笠原村・朝神村に再疎開)。8月日本は、ならず者国家アメリカの軍門に降り敗戦。以後属国 とされ、唯々諾々といいなりになる保守的傀儡政権を保持せざるを得ない今日的不幸を背負い 込む。もう200兆円以上がとこ持っていかれたよ。女の子がレイプされても泣き寝入り、こ れからの若者はアメリカ軍の尖兵として最前線の激戦地に連れて行かれるだろうさ。武運長久 にな! 10月疎開解除により学童集団帰校。 同22年アメリカ軍の強制による学制改革により「東京都目黒区立碑小学校」と改称。同3 6〜50年4期に分けて鉄筋コンクリート造り校舎に建替え。同53年100周年記念式典・ タイムカプセル埋設。同61年岩石園しだれ桜植樹。校庭散水設備設置。同63年開校110 周年記念式典。 平成2年クーラー工事(管理室・職員室・事務室等)。同3年FF暖房化(普通教室)。同 4年パソコンルーム開設。同9年災害時用井戸開鑿。同10年ビオトープ(ミニ生物園)。同 16年125周年記念式典。同17年校舎全面建替えのため仮校舎完成移転。旧校舎解体。同 19年新体育館完成。同20年1月新校舎落成して移転。 校歌「うけらさく」 作詞・作曲不詳 1.うけらさく 武蔵野の原 常盤木の栄ゆる処 懐かしく 建てる校舎に 今日もまた学びに学ぶ 楽しや 我ら 嬉しや 我ら 2.いと高き理想を目指し 伸び勝る力を持ちて 思うどち 諌め励まし 一筋に進みに進む 楽しや 我ら 嬉しや 我ら 3.校庭の桜の印 散らん日のあるべきものか 碑の石の如くに 誉れをば止めん世々に 楽しや 我ら 嬉しや 我ら 【うけら】オケラに同じ。キク科の多年草。山野の乾燥地に自生。高さ50cm内外。 |
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■法華寺騒動一件 1丁目22番、円融寺のところにあった日蓮宗の寺の不受不施派追放事件。寺の開創は仁寿 三年(853)第三代天台座主慈覚大師円仁が開基した天台宗の寺で、「妙光山法服寺」の名 で430年間平穏に過ぎた。法善寺、法眼寺とも称したようだ。 下って鎌倉中期の弘安六年(1283)日蓮18中老の1人知海日源上人が、日蓮宗に改宗 し「妙光山吉祥院法華寺」と改めた。釈迦堂が建ったのは、この少し後の4世日明の時で、当 時この地方の豪族世田谷吉良氏の篤い保護があったという。 ●不受不施派 文禄年間(1592〜1595)京都の妙覚寺の日奥上人によって開かれた思想だ。その理 念というべきものは、日蓮の現世利益主義、謗法意識(ほうほういしき 法華経以外の信奉者 は法華正法を謗る者だという認識)、妥協主義の排撃に当たるので、全く純粋な日蓮宗本来の 面目を維持しようとしたものだ。従って法華経の信者以外から供養を受けず、また施しもして やらないという意味だ。そこには祖師日蓮以来の壮烈な気魄さえも窺うことができる。 江戸時代に入ると、徳川氏の手厚い庇護下に置かれて隆々たる繁栄を見せ、寛永年間(16 24〜44)10世日瑞の時最絶頂に達して、寺領19石、坊舎16棟、末寺75ヶ寺、境内 3万坪の大寺院となった。碑文谷法華寺は、早くから江戸、更に関東の不受不施派の統者であ り、代々の住職は最も熱烈なぞの実行者だった。特に11世日進上人は、明確に不受不施の義 を唱えた坊さんで、池上の日樹上人と行動を共にし、身延山衆が幕府から布施を受けたことに 対し、それは不受不施の禁制を犯したものであるとし、身延山日暹(にっせん)に攻撃の矢を 放ち上訴した。このため天海・崇伝の審判の下に池上日樹と身延日暹の対決が行われた。その 結果徳川一門の身延山に対する擁護もあって不受不施は邪義と見做され、この異端は幕府の忌 み嫌うところとなり、多くの上人が処罰され、日進も信州上田に流罪となった。 以後、両派の争いは絶えなかったが、寛文元年(1661)八月不受不施派は赦免されるこ ととなった。 しかし身延の日奠、池上の日豊は寺社奉行井上河内守正利・加賀爪甲斐守直澄などに対し、 頻りに不受不施派側の処分を追い求めた。そのため同五年(1665)七月末幕府は各寺社に 向かって、社寺領は悉く国主の供養だぞとの手形を出し、その朱印を頂戴するようにと要請し た。この決定は、年来の受不施派の主張だった「寺領即供養」の義を成功させたものだが、こ れに対して十一月二十三日小湊誕生寺日明・碑文谷法華寺日禅・谷中感応寺日純らは、領主よ り給わる寺領は、仏教三田の内の悲田に属するものという解釈から、それを承諾し、直ちに手 形を差し出している。これが法華寺などを中心とした「悲田派」の成立だが、この時手形提出 を拒んだ不受不施派の僧侶には厳しい処分を行い流罪などに処している。しかしながら当時の 人々は、却って不受不施派に対する同情を高め、その反対に悲田派に対しての指弾は激しいも のがあった。翌十二月上野不忍池付近に出された落首には 餓鬼道の朱印を取るや日善が不受不施になればのどは碑文谷(狂歌) 曲げ物の曲げても過ぎし碑文谷が施行を受けて渡る世の中(狂歌) 不受不施の理を曲げ物にすることも皆檜物屋の細工なりけり(狂歌) とあり、法華寺及び他の悲田派に対する非難の声はなかなか手厳しいものがあった。そのた め一時悲田派は信徒のみならず世間一般の信用を回復するためかなり手厳しいものがあった。 翌六年(1666)になると下総野呂檀林の能化安国日講、玉造檀林の能化明静日浣は、幕 府に向かって「寺領は為政者が民衆に与える仁恩で、信仰による供養というべきでない」と苦 諫を述べたので、幕府は二人を直ちに流罪に処した。このような処置に対し、不受不施派、悲 田派双方の僧侶は非常に憤激し、断食自寂や自首受刑する者さえ生じたので、翌七年(166 7)四月に碑文谷の日禅は佐渡に配流されることになり、幕府の不受不施派に対する禁制はい よいよ厳しいものになっていった。やがて元禄四年(1691)になると、幕府は悲田派が禁 制の不受不施を秘かに広めていると断じて大禁圧を加えた。即ち小湊誕生寺・碑文谷法華寺・ 谷中感応寺の悲田派3ヶ寺に対し、 今度悲田宗堅く停止の旨仰せ付けらるるの宗旨相改め候。向後悲田宗之輩受不施に 成る共、又は他宗に成る共心次第改め申すべく候 との禁止令が発せられ、七月十二日には改宗しなかった僧侶が伊豆諸島に流されている。こ の時法華寺日附上人らは起請文を幕府に差し出し執行延期を願い、密かに不受不施派の再興を 図ったと伝えられるが、終に同十一年(1698)19世日附・感応寺日遼らは八丈島に流さ れ、法華寺自体が天台宗に戻された。 ●腐敗堕落 法華寺取り潰しについては「蓮華往生」という悪事が行われていたためという伝承がある。 これは信仰に固まった信者に「即身成仏させる」と称して、生きながら蓮台に乗せ、下から槍 で肛門を突き刺し死に至らしめるというものだ。縁者は殺されたとは知らず多額の金品を寄進 して成仏を心から喜んだという。しかしこの謀殺を見破ったのが大久保彦左衛門の物語に架空 の人物一心太助たというから史実としては信じ難いが、不受不施派の寺でそういったことが行 われたというのは事実らしい。法華寺においても日附らのご乱行は伝えられるところだから、 信仰の堕落・僧侶の腐敗から江戸一円で行われていた日蓮宗僧の悪事悪行を法華寺事件として 語り伝えたのかもしれない。とにかくこういった伝承が語られてきたということは、当時寺院 の俗化が甚だしかったことを示しているといえる。 正徳のころ(1711〜16)火災で本堂と祖師堂を失い、相次ぐ悲運に見舞われつつ、法 華寺は衰退していった。最盛期には堀ノ内の妙法寺さえ末寺に数えて75ヶ寺もあった末寺は 僅かに豊島郡谷中三崎の妙林寺1ヶ寺に減少した。 |
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■円融寺 1丁目22番にある天台宗の寺。法華寺が壊滅した後、天保五年(1834)品川常行寺の 慶尊阿闍利が入山して中興、名も「経王山円融寺」と改め、上野寛永寺末の後、京都延暦寺末 とされるに至った。この時寺宝が持ち去られ、庫裏・客殿・山門など建造物までもが移築され た。安永のころ(1772〜81)仁王尊がもてはやされて俄かに寺の名が喧伝されることが あったが長続きしなかった。それから永い逼塞の時代が続いた。 しかし第二次世界大戦後になって漸く次第に復興し、昭和50年積年の夢だった本堂が再建 され、さらに客殿(新書院)も整って、三度目の隆盛の兆しが見え始めた。寺宝の大半は元禄 の取り潰しの折に散逸してしまったが、釈迦堂、仁王門のほか寛永十二年(1643)鋳造の 梵鐘が残った。その他題目板碑10数基(文保〜天文のもの)、春日板法華経8巻、日源上人 法塔、歴代住僧の墓塔がある。とにかく建物が詰んでないので境内が広々としており晴れた日 の爽快感は堪らない。こここそが天国だぁ! 大門を潜って入ると右手に平成2年に10mずらして新築された鐘楼、正面が仁王門、左手 は信徒会館「示真殿」、経塚、中門、大正14年の本堂重修碑、昭和40年建碑の宇田川定豊 先生碑、日源上人法塔、円融碑、道京塚、六地蔵、墓地、仁王門続きの正面に釈迦堂、その奥 に本堂、本堂裏に毘沙門天の小祠、真公稲荷、円融寺幼稚園がある。 |
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| ●大門 入口の門 天保四年(1833)の建築、もと兵庫県下の寺にあったものだが、品川御殿山 の原邸に遷され、昭和26年円融寺大門となり、「山門三遷して所を得た」といわれる。 ●梵鐘 寛永二十年(1643)同じ日蓮宗の谷中感応寺の9世日長上人が、感応寺の梵鐘を作るに 当たり、飯田善兵衛宗次に同じものを二つ作らせ、一つを法華寺に寄進したものとされる。日 長上人は吉良氏の旧臣小杉氏の出であるので、その縁で贈ったものだろう。感応寺も不受不施 派であったために潰され、天台宗の天王寺に替えられたが、そのドサクサの折、鐘は失われて しまった。その片割れがこの寺に健在なのは奇妙な歴史の縁を感じる。鐘楼は寛延四年(17 51)尾山村原田清右衛門によって建て替えられたが、平成2年南へ10mずらして新築され た。 ●仁王門 室町期の建築で江戸時代に修理した。その仁王像は永禄二年(1559)鎌倉扇谷の権大僧 都大蔵法眼の作(都重要文化財)だ。この仁王さん痩せ型で黒いところが一風変わっていて、 それが霊験あらたかだとの評判が立ち、「黒仁王」として大流行してどっと参詣者が押し寄せ るようになった。黒仁王のブームは、その後ますます高潮し、寛政元年(1789)黄表紙、 芝全交の『拝寿仁王参(おがみんすにわうさん)』、山東京伝の『碑文谷生利四竹節(ひもん やりしょうよつたけぶし)』、石部琴好の小咄集『比文谷噺』などの戯作が一挙に刊行され、 仁王を主人公として躍らせて、そこに集まる人間どもの様々な金と色の飽くなき願望の様を面 白おかしく描き出したので、一層の評判を高めた。それによって御籠堂が出来たり茶店も現わ れ、名物の焼き団子を売る店も登場した。またこの寺の井戸水を飲むと空腹が凌げるとして、 この水を飲みながらの断食行も流行した。しかしこのブームも根のついた信仰ではなかったの で数年で衰微し、碑文谷は元の静かな農村に戻った。碑文谷道というのは円融寺参道として開 かれた街道で、品川区には東海道線が跨ぐ踏切に碑文谷踏切がある。なお仁王像は昭和43年 の大修理で、永禄二年(1559)鎌倉仏所権大僧都大蔵法眼の作である記録が発見され、翌 年「都重宝」に指定された。 |
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| ●円融碑 昭和39年建碑。豊道春海師の筆で、「○の中に融、無礙天真」と刻んである。円融無礙天 真とは「大宇宙に融けあった自己本来の姿だ」そうだ。 ●日源上人法塔 日源上人は、碑文谷法華寺の開祖だが、死んでも追善供養はして貰えず、遺骨も散乱状態に あったという。そのため心を痛めた法華寺の10世日瑞が、寛永十三年(1636)石塔を建 て中興開山日源上人を手厚く供養したという九輪塔(五重塔)だ。旧は釈迦堂の東20mほど の樹林中にあったが、昭和49年新本堂ならびに客殿建設に伴う境内整備のため現在の位置に 移した。その際塔の下から古壺が発見された。 ●古壺 長さ25cm、口径9.5cm、淡黄色(黄瀬戸)四手(4耳)付き、古風な壺で、中に日源 上人のものと思われる風化した骨灰が入っており、他に茶碗・湯呑・盃・土器などが入ってい た。これらはもとより遷された塔下に納められている。 ●道京塚 340枚ほどの板碑を建て並べて半円墳に造り、頂に観音像を建てている。説明がないので 判らないが、三合塚近くにあった道京塚がなくなっているので移したものだろうか? 観音像 は夥しい板碑を供養するために建てられているものか? ●釈迦堂 明治44年関野貞博士による調査があり、特別保護建物(国宝)とされたが、これは都下に おける国指定重文第1号という記念すべきものなのだ。製作年代は応永年間(1394〜14 28)とされ、桁行3間×梁間4間、単層の銅板貼り屋根入母屋造り、軒の反りの美しい唐様 建築だが作者は不明。俗に飛騨の匠といわれるが、棟束に彫った「我手よし。人見よ」の手彫 りによって自身のほどが偲ばれる。修理は2回行われ、大震災後の大正15年と戦後の昭和2 6年、この時は大規模な復元修理が行われた。 ●真公稲荷社 もともとこの辺りに住んでいた白狐を祀ったものだが、次第に廃れて祀らなくなったら村に 悪疫が流行したので、再び祀ったら病気はたちまち退散したという。それから安穏に流れてい つしか祀らなくなったが、明治になって椎橋弥七の弟宮野留吉が奇病に取り憑かれ、稲荷の崇 りだというので、純禎和尚が稲荷を祀ったのがこの稲荷だ。留吉は明治43年1月24日に死 亡した。以来春に稲荷祭を催して祀ることを欠かさない。 |
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| ●花木 境内は広くて、ウメ、シダレザクラ、サトザクラ、モモ、サルスベリ、ハギなどが見られる が、趣のある花景色を見せてくれるのはサトザクラ、花の色から「一葉」といわれているらし い。ウメは参道の両脇に十数本が並んで植えられており、浄域に馥郁たる芳香が流れて、実に 味わいのある情景だ。 |
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■サレジオ教会 1丁目26番にある「カトリック碑文谷教会」の俗称。この聖堂は、昭和22年にここ碑文 谷に創設されたサレジオ修道会によって、同29年に建築された教会だ。初め「江戸のサンタ ・マリア聖堂」と呼ばれ、当時ヴァチカン大使だったマクシミリアノ・デ・フルステンベルク 大司教の手によって荘厳な献堂式が挙行された。江戸のサンタ・マリア聖堂の名前の由来は、 正徳五年(1715)布教のために来日していたイタリア人宣教師シドッチ師がキリシタン屋 敷で殉教した時、師がドルチ作の絵画悲しみの聖母(江戸のサンタ・マリア)≠所持してい たことによる。今はローマ・カトリック教会の男子修道会「サレジオ修道会」に所属するため 「サレジオ教会」と呼ばれて親しまれている。聖堂はロマネスク式で、壮大と優美の点で日本 1、2を争う。祭壇には十字架のキリスト像、ヨハネ・ドン・ボスコの木像、悲しみの聖母の 絵などが祀られている。 ●汚点 杉並のスチュワーデス殺しの犯人と目されたベルメッシュ・ルイズ神父はここの出だった。 性行為をするだけやって日本人スチュワーデスを殺し、善福寺川に捨て、逮捕直前にベルギー に逃げ帰り、警視庁はむざむざ見送った。敗戦国のジレンマだ。白色人種は往々にして責任を 取らずに逃げる。ベルメッシュも生きていれば相当な老人だ。白人だからのほほんと生きたん だろうな。白人は白人以外の人間は豚に見えるそうだ。バカ・ブッシュがアメリカ軍を派して イラク人を10万人も殺しても平然としていられるのは、豚を殺しているからだ。 |
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■殊印刷工業写真資料館 2丁目10番の日本文化精工内にあるヤマブキ色の建物だ。会社の創立60周年を記念し、 平成12年に開設した資料館だ。主に地元の小学生の社会科授業に利用されている。印刷技術 について様々なものが展示されているが、非常口の印刷からお菓子、点字、CD、漆器、陶磁 器への印刷まで実際に印刷された物を目にしながら印刷への理解を深められる工夫をしている よ。見学希望はまず連絡を 03-3711-5741 |
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■目黒星美学園小学校 2丁目17番にある私立校。中学・高校は世田谷区にある。本学校の設立母体である「扶助 者聖母会」は、明治5年サレジオ会創立者聖ドン・ボスコにより創設され、聖母マリア・マザ レロを初代総長として、教育事業・社会事業を中心に活動してきた。 昭和29年「扶助者聖母会」を母体に「目黒星美学園小学校」として開校。平成16年創立 50周年記念式典。赤羽の星美学園は同じ系列の学校だ。 |
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■目黒の筍 「目黒のさんま」は有名だが、目黒のタケノコはもっと有名だった。孟宗竹は中国南部の原 産。元文元年(1736)薩摩藩主島津吉貴が琉球(沖縄)から移入したのが最初とされてい る。江戸に入ったのはそれより40数年後で、三田四国町の薩摩藩中屋敷に数株移植したのが 始まりで、幕府御用の廻船問屋山路治郎兵衛が同邸に伺候した折、馳走の筍の風味にすっかり 魅了されてしまった。山路は寛政元年(1789)五月薩摩から種竹として1株銀1朱で取り 寄せ、品川領戸越村の自宅(品川区小山1‐5)近くに植えた。しかしタケノコが人々の食膳 に上るまでには、販路とともに料理法の普及など並々ならぬ山路の苦労があった。山路は孟宗 竹の大きさを宣伝するため、桐で立派な箱を作り、これに入れて馬に積むなど、人に関心を持 たせるように注意を払いつつ神田多町の青物問屋紀伊国屋へ出荷した。この努力が実って、鮮 度が命なだけに、江戸に近い有利性を以て目黒に広まった。目黒の筍を江戸中に広めたのは、 目黒不動の門前で春から初夏にかけて、数軒の茶店が幟を立てて参詣者に試食させたからで、 その季節には筍目当てに目黒不動に参詣する人も多かったという。 「筍美人」ということば があるが、タケノコを食べると肌艶が良くなって美人になるという記事が新聞に載ったのは明 治35年のことだった。 筍や目黒の美人ありやなし(正岡子規) 大正12年に2700トンもの出荷量記録したのを最後に、宅地化の影響を受けて減少の一 途を辿り、今では多摩地区に移ってしまった。駒沢通りに面した明治33年創立の中目黒小学 校の校章は「抱き茗荷」に似た「抱き筍」で、地域に密着した教育の原点を示す。 |
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■八幡神社参道 大正の末に碑文谷耕地整理組合が立会川を改修して直線化し、川の両側に道路を作り川端に 桜を植えて並木とした。これは八幡神社の正面に作られた表参道なのだ。戦後川は暗渠とした がソメイヨシノの桜並木はそのまま残したので、春はちょっとした桜の名所となっている。現 在名は立会川緑道。なお立会川の源は碑文谷池だ。一の鳥居から境内の参道は約200mばか り、三の鳥居の手前右に碑群がある。歌碑は達筆過ぎて判読不明。説明もない。「征清戦勝紀 念碑」は日清戦争の勝利を寿ぐもの、揮毫が高知出身の山地元治中将、村から出征した兵士1 3名の名前が階級とともに刻まれている。当時は寒村の名もなき百姓如きが国家にご奉公でき たことは無上の喜びであり、村の誇りだったに違いない。「日露戦役紀念碑」は、揮毫が乃木 希典大将で、碑の前に、 うつし世を神去りましし大君のみあと慕いて吾は逝くなり(希典) 出でまして帰ります日のなしと聞く今日のみゆき会うて悲しき(静子) 明治天皇御崩御の日、乃木大将夫妻が殉ずるに際して詠んだ歌が板に書いて置いてある。ど うせなら歌碑を建てればと思うが、碑文谷の人は礼儀を知らないのだろう。 |
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■八幡神社 3丁目7番にある。古風な佇まいの境内は神社らしい清浄さだ。社殿は東に面した高台にあ り、茅葺の社殿は銅板葺の屋根に変わってる。創建ははっきりしない。しかしその創立につい ては1つの言い伝えがあり、江戸時代の書物にも書かれている。鎌倉時代の武将で、源頼朝に 仕えて戦功と人望のあった畠山重忠が、北条時政の排斥を受け、讒言によって、武蔵二俣川に 北条義時の軍に討たれた時、「討死する者に守本尊はいらぬ」といって兜につけてあった守護 神である小さな仏像を、陪臣の宮野友右衛門に託した。宮野は、重忠の孫の時麿を連れ碑文谷 まで逃れてそここに住むと、仏像を八幡社に奉納、己の主榛沢六郎成清を祀って「榛沢稲荷」 とした。榛沢は重忠とは乳兄弟だ。時麿は成長して目黒小太郎となった。社殿右に碑文石が小 堂に安置されている。明治維新の神仏分離令で仏像は除かれ、現在の祭神は誉田別命(応神天 皇)1柱だけだ。既にあった社に奉納合祀したものかは判らない。また角田家文書の元禄十六 年(1703)の村訴訟文の中に、 碑文谷八幡宮御建立の年暦、永正十五年(1518)御造営の略記の石碑存す とある。とにかく永正の頃は室町時代の後半、足利幕府の勢力衰え、世は戦乱の絶えない時 代ではあったが、村では八幡社の創立がこの頃だと認識していたようだ。社殿は延宝二年(1 574)に渡辺越中守殿之という信者が建てたという棟札があるが、渡辺が誰かは判らない。 明治5年再造営がなされ、同20年に改築した。現在の社殿は昭和50年代後半に改修または 新築したのだろう ●神体と碑文石 古河古松軒の寛政七年(1795)刊の『四神地名録』に、 此村に畠山次郎重忠守りとせし八幡宮の小社あり、神体はあれども昔より秘仏也と て見しものなし。別当寺に神宮寺という貧院あり。此住僧の同地内に、宮友右衛門 という 百姓古へよりの家にて代々当社の神主にして重忠家臣筋にて、重忠秘蔵の 鎧、兜、弓、矢、古文書なども持ち伝へし事にて、平生此社内に入れ置きしに、い つの頃にや、日蓮宗と天台宗と事にかり双方うち合ひ、たたき合ひして、村中大ひ に混乱せし時、あしき者ありて、盗取、何国へうり払ひし事にや、その時紛失行方 知れず・・・此家に云ふ伝は、今の八幡宮の西は昔の鎌倉街道にて、道の傍らに古 き碑ありしに、何か此碑の村内へ崇りありとて、八幡宮の境内に深く埋めしと云伝 へあり。神体は自然銅の鋳物と云事にて定かならず、宮という家名は、此宮を代々 支配せし家故にして、里人逸となく、宮のなにがしと云初しよし也。此社地を穿ち て見たきものならずや。定めて往古の碑なるべし と、注目すべきことを幾つか明記している。碑文石は、白乳色の砂質岩、付近の呑川の川床 に点在していた沢丸石で、碑の上方中央に大日如来、左右に勢至菩薩の梵字を刻し、高さ75 cm、横45cm、厚み10cmばかりの板碑形式を追うもので、大体室町時代のものと目さ れる。寛政から文化の頃に書かれた『御宮什物すでに諸品控』に「碑文石壱ツ箱入』と載って いる。 また秘仏とされる神体については、やはり前出「諸品控」のはじめに 印子(いんす)八幡様、阿弥陀如来形、厨子入壱体 とある。印子とは広辞苑によると、 @、よく精錬された純金の如来、明から輸入され豊臣秀吉・徳川家康らの貯蔵金となった。 A、純金で作った品物。阿弥陀如来のようであり、厨子に入っている、 とある。これはまさしく現在も3丁目の角田家に大切に保管されていて、八幡の御神体を、 明治維新の神仏分離 の際、碑文谷村の年寄役であり、のちに名主、次いで戸長となった角田長広翁が、保存のため 譲り受けたものとされている。この像は鋳金製(ブロンズ)、中空扁平で高さ11cm、台座 とも16cm、重さ300g、背面下に取付用の鉤形の部分があり、いかにも冑の前立物とも 見られるが、寧ろ懸仏であろうと思われる。冠を付け、両手合掌の姿は、阿弥陀如来像より、 印を結んではいないが、大日如来像と見るべきではなかろうかという。大日如来なら、碑文石 の中央梵字と一致していて、ここに1つの郷土資料を提出することになる。像は黒塗りの厨子 に入っているが、その右の扉には 奉寄進御厨子、神宮寺、時之閑主□□(□□は「舜応」か?) とあり、左扉には、 元禄七甲戌五月日、施主品川飯田太左衛門 とある。元禄七年はまだ法華寺の日蓮宗時代、飯田太左衛門は品川歩行新宿飯田庄十郎家の 先代だろう。 ●勝海舟筆の額と幟 額は拝殿の中央に掲げてあったもの「八幡大神」と書かれている。今は取り外して社務所に しまいこんである。幟は9月15日の祭礼の時、第一鳥居の地点に立てるもので長さ12m、 幅1.2m、白地の三河木綿に「奉献八幡満津里」 下に「氏子中」と書かれ、左の端に「明治 十四年九月十五日海舟勝安芳拝書」としてある。明治14年は勝海舟59歳の時だ。これは村 人が縁故に寄せて頼みに行ったところ、海舟が快く皆の前で筆を振るったものだという。 |
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■すずめのお宿緑地公園 3丁目11番にある。今からおよそ200年前、江戸時代安永年間に始まったという目黒の 筍(たけのこ)栽培は、大正の中頃に最盛期となり、有数な竹林だったこの地では料質の筍が 収穫された。また昭和の初め、この竹林は付近一帯のスズメのねぐらだった。数千羽というス ズメが朝どこへともなく飛び立ち、夕方には数百羽が一団となって帰り、空が薄暗くなるほど だったとか。ためこの場所は「スズメのお宿」と呼ばれるようになった。その後周囲が開発さ れて住宅地となった後も、この竹林は所有者の角田セイによって大切にされてきた。そしてそ の死後、国に返したいという遺志が生かされ、昭和56年区が公園にしたという。今でも竹林 やシイ・ケヤキの大木が残り、野鳥が多く生息している。 ●目黒区古民家 北側の一角に復元されている百姓家は栗山家の母屋(目黒区指定有形文化財)だ。古びては いるが、風格のある百姓家が建っている。緑が丘1丁目にあった栗山重治さんの旧宅で、昭和 54年区に寄付されたのを移築復元したものだ。栗山家は衾村の旧家で、江戸時代には代々村 の年寄役を務めた。家は普通の農家より規模が大きく、一般には禁止されていた長屋門が前面 に建てられていた。建築年代は、安政四年(1857)に大改築が行われた記録があることや 大黒柱を含めた軸組の仕方などから江戸時代中期と推定されている。構造形式は、桁行7.5間 ×梁間5間の広間型平面、寄せ棟造り。茅葺きの屋根を、茅葺き型の銅版葺きにした以外は元 のままに復元されている。昔の農具や生活用品も保存されていて内部を自由に見学できるので 公園を訪れた際にはぜひお立ち寄りをしてみやしゃんせ。 |
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■トキワ松学園小学校・中学校・高等学校 4丁目17番にある私立校。沿革の詳細不明。大正5年「常磐松女学校」として、現在の渋 谷区東の常磐松御料地に設立。昭和20年現在地に移転。同22年アメリカの強制による学制 改革により「常磐松中学校」開校。同23年新制の「常磐松高等学校」開校。同26年「トキ ワ松学園小学校」開校。同41年学園創立50周年を期してトキワ松学園女子短期大学造形美 術科を神奈川県横浜市港北区(当時)に開学。平成8年女子短期大学に専攻科・造形美術専攻 (大学評価・学位授与機構認定)を設置。同13年女子短期大学を男女共学化し、横浜美術短 期大学へ校名変更。 校歌「常盤の松に」 作詞・校友会 作曲・安部正義 1.トキワの松に吹く風の 香り床しき学舎に 新たなる陽は今昇る 2.高き思いを雲にかけ 清き願いを松に寄せ 誠の道を求め行く 3.身は健よかに晴れやかに 心は深く育みて 日々に進まん我らいざ ●1クラス23人制 1年生から4年生までは1クラスの人数が23人という、理想的なクラス構成。普通、「少 人数クラス」といっても、大方は30人前後が多いが、23人という学級は、色々なことを実 現できる数だ。例えば、 1時間の授業の中で、全員が発表することができる。 児童が書いた作文や日記など、まだ「温かい」内に返事を書くことができる。 子ども同士の交流の密度が濃くなり、相手の気持ちを考える心が育つ。 そして、何よりも先生と子ども全員との距離がとても近く、一人ひとりの個性を大事に育て ることができるのだ。また5、6年生では、多くの教科で、23人編成の授業を行い、確実な 力をつけていく。 ●モジュール制 「全学年の全教科が45分の画一的なものでいいのだろうか?」15分を1単位(モジュー ル)として、その組み合わせで時間割をつくる生活時程は、より高い学習効果をあげるために 考え出されたものだ。1モジュールの計算や漢字の授業、4モジュールの実験や総合の授業、 6モジュールの図工や生活科の授業など、学年や教科によって、それぞれに合った学習内容を 創り出していまる。これに伴い、チャイムの回数を休み時間の終わりなどに留め、自ら進んで 行動するようにしている。 ●土の校庭 子どもの成長にとって遊びは欠かすことができない。遊びの中で、子どもたちは逞しい体を 作り、色々なルールや健全な人間関係を築いていく。トキワ松の子どもは外遊びが大好きだ。 朝は7時半から校庭での外遊びが始まり、休み時間や放課後も校庭は子どもたちで一杯だ。こ れも、土の校庭ならではのことで、子どもたちは思いっきり体を動かすことができる。またト キワ松の子ども達は伝統的に学年を越えての縦割りの遊びの輪がある。例えば5年生の遊びに 1年生が入ったり、6年生の遊びに4年生が入ったりと、よい人間関係が自然に築かれていっ ている。トキワ松の土の校庭には、子どもらしい生き生きとした姿がいつも見られる。 |
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■第八中学校 4丁目19番にある区立校。昭和22年碑衾国民学校の校舎を転用して「東京都目黒区立第 八中学校」として開校。同28年教科書室制採用、同29年廃止。同37年〜50年校舎鉄筋 化。 校歌「君は聞かずや」 作詞・佐藤春夫 作曲・大中寅二 1.君は聞かずや 武蔵野の 碑衾辺り伝へいふ 信義に生きし白鷺の 形見と咲ける野の花ぞ 今我が校の記章(しるし)なる 2.君は見ざるや目黒区の 竹より直く学ぶ子は 正義と真理 愛しつつ 命の華を生き競い 皆勤労(いにしや)楽しむを |
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■碑文谷警察署 4丁目24番にある。 |
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■碑文谷公園 6丁目9番にある区立公園。ここは清水池公園と並んで、区内で最も古い公園の一つ。公園 の大半を占める碑文谷池は広さ0.8 昔は「三谷の池」と呼ばれ、現在よりずっと大きかった そうだ。かつては野鴨が多く飛来し、将軍家の鷹狩場になったこともある。江戸期から昭和初 期にかけて、この池は碑文谷村の灌漑用貯水池として大切に管理され貴重な水源で、今は暗渠 となった立会川の源流の一つだ。昭和7年池の周囲を公園として永久保存することを条件に東 京市に寄贈され戦後区に移管された。現在は、ボート遊びができ、また一角にはこども動物広 場がある。もあり、ちびっ子たちの天国。 ポニーの乗馬教室も定期的に行われているよ。 北側に第一勧業銀行(みずほ銀行)の碑文谷グラウンドがあったが、平成13年に公園用地 として取得し、面積は倍になった。テニスコート・野球グラウンド・碑文谷体育館が併設され 区内でも有数の公園となった。 ●こども動物広場 昭和56年開設。無料でイヌやウサギ、ヤギなどの動物とじかに触れ合える広場。他に有料 でポニーへの乗馬体験やポニー乗馬教室がある。毎週月曜日(祝日の場合は翌火曜日)と祝日 の翌日、年末年始は休み。 ●厳島神社 公園の碑文谷池の中の島に祀られ、市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)を祭神としてい る。 本殿に旧碑文谷村地頭(代官)神谷大夢庸正が嘉永元年(1848)九月願主として奉 献した弁財天像が安置されている。丈が30cm。恥極彩色で「村内繁昌・五穀成就・子孫長 久」のためと書かれている。また名主角田家に残されている社殿棟札の写しには、「嘉永元年 九月法主円融寺別当神宮院、名主角田長左衛門、同安東徳次郎、同横田平左衛門、同角田半兵 衛」とある。 |
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★鉄板焼 恵比寿 1丁目4番のウェスティンホテル東京22階にある、『ミシュランガイド東京2008』で 星1つを取ったステーキ屋。店内は優雅な日本様式で、晴れた日には富士の山が見渡せる壮大 な景色が楽しめる。 11時半〜15時・17時半〜22時 03‐5423‐7790 |
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■音羽ゆりかご会(コロンビアゆりかご会) 1丁目9番にある。戦後ウィーン少年合唱団の来日以来、国内の合唱団が頭声発声に切り替 え、常任指揮者を持つようになるなどの影響を受けた中、現在でも指揮者を用いない演奏方法 で民族音楽の伝承を実践している。昭和8年童謡作家海沼實は、文京区大塚の護国寺の好意に より、同境内に児童合唱団を創設し、「音羽ゆりかご会」を創設した。「音羽」は護国寺の前 の地名を拝借したものであり、「ゆりかご」は海沼の師匠、同郷の草川信作曲の「ゆりかごの 歌」に因んでおり、草川はこの歌を会歌として贈呈している。 戦後初期には川田三姉妹(正子・孝子・美智子)をはじめとした童謡歌手を多数輩出したこ とで知られる。第二次世界大戦直後には、日本放送協会の嘱託となり「東京放送児童合唱団」 として活動、4年間もの長期にわたって放送されたラジオドラマ「鐘の鳴る丘」の主題歌「と んがり帽子」などを歌った。その後、日本コロムビア(コロンビア・ミュージック・エンタテ インメント)と提携して「コロムビアゆりかご会」として活動したこともある。この時期には 子ども向けアニメーション番組のテーマソング(アニメソング)を多数手がけている。平成2 年には、ニューヨークのカーネギーホールで日本の児童合唱団としては初めての単独公演を実 施。現在は、創設者の孫にあたる3代目海沼実による新作童謡のCD化などが行われるととも に、国際的な児童音楽祭にアジア地区を代表して参加するなど、日本の児童音楽文化ともいえ る童謡を世界に広めようと取り組んでいる。 会歌「ゆりかごの歌」 作詞・北原白秋 作曲・草川信 1.ゆりかごのうたを カナリヤが歌うよ
ねんねこ ねんねこ ねんねこよ 2.ゆりかごの上に 枇杷(びわ)の実が揺れるよ
ねんねこ ねんねこ ねんねこよ 3.ゆりかごの綱を 木ねずみが揺するよ
ねんねこ ねんねこ ねんねこよ 4.ゆりかごの夢に 黄色い月がかかるよ
NHK連続放送劇「鐘の鳴る丘」主題歌ねんねこ ねんねこ ねんねこよ 「とんがり帽子」 作詞・菊田一夫 作曲・古関裕而 1.緑の丘の 赤い屋根 とんがり帽子の 時計台 鐘が鳴ります キンコンカン メーメー子山羊も 啼いてます 風がそよそよ 丘の家 黄色いお窓は 俺らの家よ 2.緑の丘の 麦畑 俺らが一人で いる時に 鐘が鳴ります キンコンカン 鳴る鳴る鐘は 父母の 元気でいろよと 言う声よ 口笛吹いて 俺らは元気 3.とんがり帽子の 時計台 夜になったら 星が出る 鐘が鳴ります キンコンカン 俺らはかえる 屋根の下 父さん母さん いないけど 丘のあの窓 俺らの家よ 4.おやすみなさい 空の星 おやすみなさい 仲間たち 鐘が鳴ります キンコンカン 昨日にまさる 今日よりも 明日はもっと 幸せに みんななかよく おやすみなさい アニメソング「鉄腕アトム」 作詞・谷川俊太郎 作曲・高井達雄 1.空を越えて ラララ 星の彼方 行くぞアトム ジェットの限り 心優し ラララ 科学の子 十万馬力だ 鉄腕アトム 2.耳を澄ませ ラララ 目を瞠(みは)れ そうだアトム 油断するな 心正しい ラララ 7つの威力だ 鉄腕アトム 3.町角に ラララ 海の底に 今日もアトム 人間守って 心弾む ラララ 科学の子 みんな友達 鉄腕アトム |
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■恵比寿ガーデンブレイス 1丁目13番と渋谷区恵比寿4‐20に跨る多目的集合スペース。ヱビスビールの工場跡地 の再開発。サッポロビールホールディングスグループが展開する不動産事業の総称だ。また地 帯一帯の名称でもある。恵比寿の中心地からはやや離れているものの、恵比寿駅から動く歩道 「スカイウォーク」で直結されている。ショッピング、オフィス、飲食から住居に至るまで、 様々な機能を兼ね備えた、東京における都市開発の代表的存在であり、国土交通省の都市景観 100選を受賞している。総合的な開発により六本木ヒルズのような低俗な建造物の集合群と ならず、敷地の多くを開放し周辺の環境と隔絶的にならないよう留意されている再開発のスタ イルについては、都市再開発のモデルの一つとなっている。一見都か区の公園地なのかと錯覚 させる。 ●歴史 明治20年日本麦酒醸造(後のサッポロビール→サッポロビールホールディングス)が目黒 と渋谷に跨るこの一帯に設立した工場で「ヱビスビール」を製造したのが始まり。日本鉄道が ヱビスビール輸送用の駅「恵比寿駅」を開設し、その後正式に「恵比寿」が住居表示となり、 地名としての「恵比寿」が定着した。昭和63年7月20日渋谷区近辺の都市化や、郊外への 移転が進んだことに伴い工場閉鎖。土地の再開発事業が平成3年8月26日から開始され、同 7年10月8日「恵比寿ガーデンプレイス」として竣工、グランドオープン。現在は六本木ヒ ルズを代表とする様々な大規模商業施設が相次いで都心に誕生し、競争が激化する中でも一定 のリピーターを確保している。 現在使用されているガーデンプレイス北側前の道路は、ガーデンプレイスが完成するまでは 無かった道路で、交通の利便性を上げるために作られた。この道路のある場所は元々はビール 工場の敷地内だった場所で、以前からあった道路は、その少し北側にあるマンションなどと面 している方の道路だった。またスカイウォーク出入口にある横断歩道や信号も道路敷設に伴い 設置されたものだ。 ●ビアステーション恵比寿 かつて、敷地内に工場の建物(倉庫)の一部と、敷地内で使用していた線路の一部に設置し たブルートレインの客車や食堂車を利用したビアガーデンやレストラン。入口は現在のエント ランスパビリオンの辺りにあり、施設の位置は入口右手の坂を下った周辺に位置していた。ブ ルートレインの客車や食堂車を設置してある線路はJRの線路沿いにあり、目黒〜恵比寿間を 走る山手線から望むことが可能だあった。ビヤステーション恵比寿は工場閉鎖後も再開発事業 開始の前まで営業していたのだ。 ●クリスマス イルミネーション 毎年クリスマス前後の11月〜翌年1月にかけて、約10万灯の電飾を用いたクリスマスイ ルミネーションが実施される。これに合わせてフランス・バカラ製、8000ピース以上のク リスタルパーツ・電飾250灯からなる世界最大級のシャンデリアがお目見えする。実施時期 は年によって長短し、概ね11月上旬〜翌年1月中旬だが、年によっては2月中旬まで行われ たこともある。 |
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■シャトーレストラン ジョエル・ロブション 1丁目13番の恵比寿ガーデンプレイス内にある一見してベルサイユ宮殿のような3階建て の洋館は、4つの異なった空間で構成されている。3階はジョエル・ロブション・サロン(大 ・中・小の個室3室)、2階はガストロノミー・ジョエル・ロブション(本格フレンチレスト ラン)とルージュ・バー(赤を基調とした高級飲み屋)、1階はラ・ターブル・ドゥ・ジョエ ル・ロブション(モダン・フレンチレストラン)、地下がラ・ブティック・ドゥ・ジョエル・ ロブション恵比寿ガーデンブレイス店(パン、焼き菓子、ケーキなどを販売するパティスリー &ブランジュリー)だ。 ★★★ガストロノミー・ジョエル・ロブション シャトーレストラン「ジョエル・ロブション」の2階にある、『ミシュランガイド東京20 08』で星3つを取ったフレンチレストラン。ジョエル・ロブションが世界中で展開する様々 なレストランの中でも、最高峰のブランドとして世界で初めて登場したレストランだ。ジョエ ルによる料理の骨頂を堪能して貰えるコース料理を提供。最高の素材を惜しみなく使い、素材 が持つクオリティを最大限に引き出したジョエルのフレンチの集大成を存分に楽しむことだ。 フロア全体はシャンパンゴールドの色調で統一し、温かみのあるゴージャス感を演出してる。 バカラのシャンデリア、壁に埋め込まれたクリスタル、上品で優雅な煌きに包まれて、最高の 一時を愛する人と過ごしてみたら・・・・高いよ。 11時半〜14時半・18時〜22時 03‐5424‐1347 ★ラ・ターブル・ドゥ・ジョエル・ロブション シャトーレストラン「ジョエル・ロブション」の1階にある、『ミシュランガイド東京20 08』で星1つを取ったモダン・フレンチレストラン。平成16年ジョエル・ロブションが、 パリにオープンした同名のカジュアルフレンチレストランの日本第1号店だ。ロブションのモ ダンフレンチを、アラカルト中心に小皿料理で提供する。徹底的に素材にこだわったフランス 料理をベースに、スペイン料理やイタリア料理などのエッセンスを加えたオリジナリティ溢れ る料理の数々を、気分に合わせてお好きなだけ自由に組み合わせて楽しめる。料理にもサービ スにも、客に心地よさを感じさせる「コンビビアリテ(懇親性)」をテーマにしており、気軽 に楽しめるオープンなフロア。パープルのイメージで統一された店内は、上品で開放的な雰囲 気に満ちてるよ。レストランウエディングやガーデンウエディングも利用できる。 11時半〜17時・18時〜22時 03‐5424‐1338 |
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■東京都写真美術館 1丁目13番の、跨線橋の側、恵比寿ガーデンブレイスの一角に、企画展専門の美術館はあ る。写真と映像という二つの専門分野を総合的に扱う美術館だ。楽しみながら写真や映像の理 解を深めるために体験的ワークショップを年間約15プログラム開催している。 03-3280-0031 |
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■春日神社 2丁目8番にある小さな祠だ。昭和9年港区三田の春日神社から分社したが、神主は本社の 神主の兼務、管理も本社が行っている。 |
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■茶屋坂 2丁目10番と11番の境にある。その名の由来は、爺ヶ茶屋があったからだ。昔から綺麗 な清水が滾々と湧いて樹木が茂っていた。明治にはいって、山手線が通ると、目黒、恵比寿の 中間ほどに位置する茶屋坂一帯は工場立地の条件が揃い、海軍の火薬製造所が建設された。同 工場は、辺りに住宅が建ち始める昭和の初めに移転したが、その後も海軍技術研究所などの施 設が入った。やがて、今日のマンション時代を迎えることになるが、そうなると、この辺りは 高台で展望が利く上、目黒というイメージがマンションにぴったり合って、高層建物が建ち並 ぶようになり、町の景観を変えてしまった。昔から湧いていた清水も、マンション建設の槌音 が響き始めると、水脈が変わってか、パッタリ止まってしまった。 茶屋坂は、昔はたいへん寂しいところだったらしく明治維新で世情が混乱の頃には、茶屋場 はたびたび泥棒に見舞われ、島村家は、終に坂下の村の方に移ってしまった。坂道も一部を残 して付け替えられており、現在の茶屋坂は江戸時代の道筋とは違っている。 |
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| ●爺ヶ茶屋 じいがちゃや 百姓島村彦四郎が農業の片手間にやってた峠の茶屋だが、別にその名の看板 で経営していた訳じゃあはない。将軍家光が目黒筋の放鷹に来た時のことだ。この眺望の良い 茶屋に立ち寄って休息した。家光は茶屋の主人彦四郎を気に入り、「爺、爺」と呼んで話しか けたことがあったので、誰いうとなく「爺ヶ茶屋」と呼ぶようになったという。この一軒茶屋 は、家光とのこうした由緒によって店の周辺1町ばかりの土地をを拝領した。 さらに8代将軍吉宗がやはり鷹狩りの折にこの茶屋に立ち寄り、村役人から家光以来の由緒 を聞かされると、家光を慕っていた吉宗は「茶屋の主は仕合せ者である。今後も鷹野の折も遠 慮なく茶店を開いていろ」と命じ、以後一軒茶屋は幕府御用達ということになり、歴代の将軍 の目黒筋御成の時は、必ず立ち寄り、銀1枚を与えるのが慣例となったという。 また安永六年(1777)に10代将軍家治が立ち寄った時、団子と田楽を作って差し上げ たのが嚆矢となり、それからは予め100串とか、200串とかの注文があり、さらには将軍 の目前で作って供するようになった。ここでいう田楽とは味噌田楽で、串刺し豆腐に甘味噌を つけて焼いたものだ。 将軍家が何故彦四郎を特別扱いしたのかは判らないが、将軍の御成りとなると村や農民の精 神的、物質的、肉体的負担は大変なもので、その上に助郷が加わると「何のために生きている のか?」ということになる。明治維新で楽になるかと思へば、明治政府は農政に失敗、結局移 民と満蒙開拓という誤魔化しも行き詰って、とどのつまり戦争に向かうしか脳はなく、結果国 を滅ぼし、アメリカの属国にされてしまった。それでも農民が「まぁ楽になったか」と思える ようになったのは、昭和50年代に入ってからだろう。戦後政治もお世辞にも上手とはいえず 日本が何処に行くのかは、水を出すとどこに向くか判らない水道のホースの先のようなもので 未来的安定は全く見えないよな。リーダー不在で小泉純一郎のようなとんでもないのが飛び出 して来る始末、さらにリーダー予備軍は親の七光りで当選してきた世襲議員たちで、程度は恐 ろしく低い。麻生太郎や阿部晋三、福田康夫でいいのかい? 困ったもんだぜ! 今日では、茶屋場の跡を正確に知る由もない。 茶屋の子孫は、坂下の田道橋向こうは目黒2丁目13番の島村家がそれで、同家は代々彦四 郎を襲名してきた。同家には、今なお当時の模様を伝える古文書『御成之節記録覚』や一軒茶 屋の図が保存されているとか。 |
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■新茶屋坂 山手通りを中目黒駅から大鳥交差点に向かい、目黒警察署の先を左折すると、旧目黒村の小 字名に因んで、目黒川に架かる中里橋がある。橋を渡ると、勾配の緩やかな長い坂道が、かつ ての海軍技術研究所(防衛庁技術研究本部第一研究所)に沿って続く。坂の中程にあるバス停 に「茶屋坂」とあるが、この道は、右手奥の3代将軍家光にまつわる「茶屋坂」に対して、昭 和3年に開かれた隧道で「新茶屋坂」と呼ばれる。坂の途中にあったトンネル上には、同49 年に廃止されるまで、三田用水が延々300余年に亘って流れ続いていた。トンネルをくぐる 辺りから、坂上にかけて左手に、うっそうと生い茂った松林は、江戸時代の目黒の姿を物語る かのように、当時の面影を忍ばせていたが、隧道は撤去され、町並みは変ってしまった。 |
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■目黒のさんま そんなことから明治になって落語の題材となり、目黒は「タケノコ」よりも「さんま」の方 が有名になった。落語というのは、江戸郊外の目黒へ乗馬で遠出した雲州松江の城主松平出羽 守は、家来と早駆けの競走をしたため急に空腹に襲われた。折から近くの農家でサンマを焼く 匂いに誘われた殿さまは、炊きたてのご飯とサンマをご馳走になって大満足。以来サンマの味 が忘れられない。江戸城へ登城したとき、他の大名にその話をしたところ筑前福岡の黒田候が 自邸に帰って家来にサンマを食べさせろと注文した。台所役人は早速本場房州のサンマを取り 寄せたが、殿さまが食べ慣れない魚に当たってはいけないと、脂や尾頭、骨を抜いてだしがら のようなものを出したからさっぱりうまくない。翌日殿中で出羽守に会った黒田候が苦情をい うと、出羽守は「サンマはどこでお求めになった」と聞いた。「房州から取り寄せました」と の答えに、出羽守は「それはいかん、サンマは目黒に限る」という落ちだ。 今村信雄著の『落語事典』に載っている、落語家によって、主人公が将軍だったり筋立てに 多少の違いがあることもある。しかし、いずれにしろ落ちは世情に疎い殿様をからかった「サ ンマは目黒に限る」となっている。しかしこの噺はあくまで落語であって、将軍や大名が目黒 でさんまを食べたという記録は残っていないし、将軍や大名はさんまの区別がつかないような バカじゃない。だがこの落語のお蔭で、目黒港で水揚げされるさんまは日本一だということは 農水省が公表しないのだ! |
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■「さんままつり」は2つある → 3つになった ●目黒さんま祭り 目黒駅前商店街振興組合青年部(通称め組)が町興しとして始めたもの。平成9年から毎年 品川区の誕生稲荷神社一帯で行われている。なぜ品川区かというと、目黒駅が品川区にあるた めだ。品川区側は「将軍の鷹狩は品川区内で行われた」と主張している。将軍や殿様が目黒で さんまを食べたという正式な記録はない。そんな噂話があるだけで、祭りの根拠は落語「目黒 のさんま」だ。それで「目黒のさんま」は何か特別のものという誤解があるのか、祭りは年々 盛大になるばかり。12000→15000人もの人出となった。第3回から徳島神山町が8 000〜10000個の「すだち」を、第4回からは宮古市から5000匹の「さんま」を、 第6回から栃木県那須市高林の青年団が大根を、それぞれ無料提供してくれるようになった。 ほかにもイベントや物産展があり、秋の大祭りだ。 ●目黒のさんま祭 こっちは区民まつり「目黒のSUNまつり」の一環で、どちらかというと区役所が恵比寿ガ ーデン始めたのを嚆矢とする。今は田道広場公園を会場として行われている。さんまは気仙沼 で、酸味は大分のカボスだ。7000匹というぞ。無料引換券を貰うのに蜿蜒長蛇の列だ。こ こはモスクワかと見紛うばかりさ。開催日が一週間遅いので、両方とも行けるぜ。 ●恵比寿となりのさんま祭り 平成18年から始めたらしい。渋谷区恵比寿4丁目交差点(明治通り)からガーデンプレイ スに向かうビール坂で行われている。こっちはさんま2000匹と小規模だが、隆盛すれば量 も増えるだろう。恵成商店街の主催。阿波踊りを高円寺が始めたら都内各所でやるようになっ たようなもので、今商店街は客寄せが大変なのよ。 |
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■松平主殿頭下屋敷 三田・中目黒・下目黒・上大崎4ヶ村入会の地(目黒駅の西北一帯)に十八松平の1つ、肥 前島原藩7万石の深溝松平家の抱屋敷3万余坪があった。この屋敷のことは『遊歴雑記』に、 「千代ケ崎林泉の逍遥」と題して詳細が載っている。酒井戸のこと、大きな池があって、新田 義興の奥方千代の前が、矢口の渡しで義興が騙し殺されると、その池に飛び込んで死んだので 千代ヶ池≠ニ呼ばれるようになり、その時衣を松ノ木に掛けて入水したので衣掛けの松 と呼んだこと、三田用水を利用して滝が設けられたなどだ。 |
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■青木周蔵邸 維新後この地を買い入れたのは外国帰りの子爵青木周蔵だ。またその権之助坂に沿った小区 画を買い入れたのは、歴史家久米邦武だった。青木は欧州の貴族の農園に模して乳牛を飼い、 イチゴを栽培し、ミルクを添えて提供し、芝生の庭園を清遊できるというので゜若者たちを喜 ばせた。大正3年青木が71歳で歿すると、ロシア人の妻は、第八十六銀行に委託して売りに 出した。その時公爵三条実美の子孫が15000坪、久米が隣接地4000坪、旧肥前大村藩 主の大村純熈が3000坪を買い取った。残りの8000坪は後に無線電信講習所となった。 ●キリシタン灯籠 『遊歴雑記』には、また「三体地蔵」が林中の小祠にあったことを興味深く書いている。こ の地蔵のある地所は、松平邸→青木邸→大村邸と移り、大正15年下目黒の大聖院に移されて 「キリシタン灯籠」といわれている。 |
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■千代ヶ崎・千代ヶ池 権之助坂から北、爺ヶ茶屋辺りまでを以前千代ヶ崎と呼んでいた。ここに島原藩松平家下屋 敷の庭「絶景観」があり、その庭池を「千代ヶ池」と呼んだ。池は徳川家康が江戸に入る以前 からあり、名前の由来は『太平記』まで遡る。延元三年(1358)新田義興は多摩川矢口の 渡しで、逆臣竹沢右京らの謀略にかかり、船底に孔を開けられて無念にも溺死した。 大切に漕げと竹沢ちょちょら云い(川柳) 「ちょちょら」とは「おべんちゃら=世辞」のことだ。その時義興の愛妾千代は目黒村に居 たが、義興の訃報を聞いて、悲しみと将来不安のあまり池に身を投げた。以来村人は千代ヶ池 と呼ぶようになったという伝承が残っている。 しかし、世田谷区の民話に、 中世南北朝の頃のお噺し。多摩川で武士の合戦がまたあるという噂が、深沢村にも 流れてきた。旗指物(背旗)をみると、どうやら新田氏と江戸氏の合戦のようだ。 ある夜旧家三田家に、身籠もった姫と供の者がやってきた。供の者は「姫に生まれ る子供がもし男の子だったなら、芝の神明様に送り届けて欲しい」といい残して立 ち去った。後に姫は男の子を産み、三田家では誰にも気付かれないように屋敷の奥 で母子の世話をした。世田原で合戦が終わった後、敗残兵が逃げ込んでないかと吟 味の兵が三田家にもやっ来た。姫の子供は敗れた新田の忘れ形見だ。そこで三田家 では子供を密かに芝の神明様に届けることにした。しかし屋敷の外は江戸氏の目が 光っていて送り届けることができない。なので三田家では屋敷神に芝の神明様を迎 えて、子供を神前に届ける儀式を行なった。 と話は以上なのだが、続きが気になるところだねぇ。この後目黒で入水自殺を図ったのか? 多摩川で新田氏と江戸氏の戦いというと、新田義興が矢切の渡しで謀殺された話が思い浮か ぶが、この民話はこれと関係しているんだろうかいな。それにしても世田原ってどこだい? 大田区の字か? 千代ヶ池は埋め立てられたが、また掘り返されて、東京都立教育研究所の地下室になってい る。 |
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■目黒区清掃工場 2丁目19番にある。清掃工場の白くスマートな煙突の高さは150m。高々と聳える煙突 は区内のどこからでもよく見え、目黒のランドマークになってる。敷地面積30000u。1 日当りの焼却能力は600t。300tの処理能力を持つ焼却炉2基がフル稼働し、区内の家 庭やビルから出されたゴミを瞬く間に灰にしてしまうよ。目黒区のゴミの排出量は1日500 t。ゴミがこのまま増え続ければ、人間を含めた地球の生物にとってより深刻な公害や環境破 壊を招く恐れがあり、一人ひとりの自覚と努力によってゴミ減らしを推進することが、今何よ りも求められている。清掃事業と密接な連携を図りながら、平成7年循環型社会の形成を目指 し「エコライフめぐろ推進協会」が誕生した。 昭和46年「ごみ戦争」宣言・東京都ごみ清掃対策本部設置。同49年から全区で分別収集 を開始。同59年目黒清掃工場建設計画に対し、住民エゴの反対運動が起こる。同60年「有 価物の回収と再資源化に関する条例」制定の直接請求。署名が13000名も集まるも否決。 同61年目黒区リサイクル事業懇話会設置。同62年2月「目黒区におけるリサイクル事業の 基本的なあり方について」提言。10月「目黒区におけるリサイクル事業の具体的方策につい て」提言。目黒清掃工場建設工事着工。同63年5月目黒区リサイクル事業推進連絡協議会設 置。10月3000世帯で、びん・アルミ缶分別収集モデル実験開始。 平成元年4月びん・アルミ缶分別収集開始。5月第1回リサイクルフェア開催。7月「びん ・アルミ缶分別回収」拡大基本計画策定。7月アルミ缶拠点回収開始。同2年6月リサイクル シンボルマーク決定。9月紙パック拠点回収開始。同3年3月目黒清掃工場竣工。4月乾電池 拠点回収開始。同4年7月「集団回収支援事業」都から区へ移管。12月中央町リサイクルス トックヤードが稼動。同5年2月事業系廃棄物再資源化推進会議設置。4月目黒リサイクルプ ラザ開設。5月目黒区「リサイクル推進都市」宣言。同6年4月「目黒区リサイクル推進協会 (仮称)」設立準備委員会設置。平成7年2月リサイクルめぐろ推進協会設立。同8年事業系 ごみの全面有料化。同9年ごみ発生抑制研究会発足。6月アルミ缶・スチール缶混合収集モデ ル実験開始。同10年6月平町リサイクルストックヤード稼動。8月平町リサイクルプラザ開 設。同11年生「ごみダイエットの会」発足。10月リサイクル作品展示会開催。11月「毛 糸deボランティア活動」開始。同12年2月「アートなウィーク」開催。都清掃事業において 古紙回収開始。3月びん・缶回収地域区内全町会達成。4月清掃事業都から区に移管。6月生 「ごみダイエットの会」解散。同13年3月リサイクルめぐろ推進協会のホームページ開設。 「かたつむりオフィスねっと」開始。同14年10月「区の施設における事業系食品廃棄物の 再生利用等に係る調査報告書」発行。同15年3月紙パック回収連絡会が解散。環境教育ビデ オ「3つのやくそく」を紙パック回収連絡会より譲り受ける。「目黒区アルミ缶拠点回収連絡 会」が解散。同16年4月びん・缶分別回収事業を目黒区清掃事務所に引き継ぐ。乾電池・紙 パック拠点回収事業を目黒区清掃事務所に引き継ぐ。同17年リサイクルめぐろ推進協会が平 町エコプラザ内に移転。2月リサイクルプラザがエコプラザとしてリニューアルオープン。名 称を「エコライフめぐろ推進協会」と改称。 |
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■中根小学校 1丁目1番にある。昭和27年許可。同28年1月現在地に八雲・大岡山・緑ヶ丘の3小学 校の1〜5年生の一部を移籍して「東京都目黒区立中根小学校」として開校。同29年北側4 教室増築。同30年南側4教室増築。給食室増築。校地拡張。同32年校地拡張。同33年校 地拡張。同35年職員室完成。呑川東岸校庭完成。同36プール完成。同41年体育館兼講堂 完成。同43年給食室完成。同46年3月鉄筋校舎6教室・保健室・放送室落成。12月鉄筋 校舎7教室・校長室・教職員室・事務室・保健室・用警室・玄関落成。同47年岩石園完成。 正門完成。同50年理科室・図書室・音楽室・給食室・会議室・7教室落成。同51年視聴覚 ・音楽・家庭科・図工の特別教落成。同53年暗室・学童養護主事控室落成。同54年粘土焼 窯小屋完成。同55年校庭側校章取付。同60年東階段手すり設置。同63年うさぎ小屋・う さぎの広場完成。 平成2年体育館・プール完成。同3年校庭拡張整備。同4年開校40周年記念式典。同5年 機械警備開始。同6年校舎内給水管取替。同7年耐震補強。同9年開校45周年記念式典。同 11年校舎全面塗装。同13年コンピュータ室完成。同14年敷地内に学童保育クラブ完成。 各教室に冷房機が設置される。開校50周年記念式典。 校歌「朝日の光」 作詞・坂本越郎 作曲・坂本良隆 1.朝日の光 輝いて 野山の花が開く時 真を求め汚れなく 伸び行く子らの幸せよ ああ清い中根小学校 2.学びの庭の朝夕に 友と仲良く励む時 都の空に響き行く 明るい子らの歌声よ ああ楽しい中根小学校 3.険しい山を踏み越えて 遥かな空を望む時 力協わせて逞しく 勤しむ子らの眼差しよ ああ嬉しい中根小学校 |
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■東京工業大学 1丁目9番にある国立大学。詳細は「大岡山」に記載。 |
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■第十一中学校 1丁目18番にある区立校。昭和22年緑ヶ丘小学校の中に「東京都立目黒区立第十一中学 校」として開校。同24年3月日本光学の建物を借用し学級増に対応。8月現在地に新校舎落 成して移転。同29年第二運動場開設。同35〜37年順次鉄筋コンクリート造り校舎に建替 え。同41年プール完成。同51年校舎増築・体育館完成。 平成2年100m走路完成。同5年挌技室完成。同9年創立50周年記念式典。 校歌「緑ヶ丘は」 作詞・大木敦夫 作曲・石井歓 1.緑が丘はかがよいて 十一中に望みあり 学びの園に勤しみて 操正しく立つ者に 見よ幸いは来たるなり 世知に静けく美しく 我ら開かん 世の中を 2.不二が嶺浮かぶ朝雲に 真を諭す徴(しるし)あり 集いの土に慎ましく 責めを清しく負う者に ああ喜びは来たるなり 世知に静けく美しく 我ら慕わん青空を 3.花咲く桜 麗(うらら)けく 雅(みやび)を誘う戦(そよ)ぎあり 光の門に睦まじく 愛し敬い待つ者に よき訪れは来たるなり 世知に静けく美しく 我ら夢みん安らいを |
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■本地山妙真寺 1丁目20番にある日蓮正宗の小寺。住宅街の一角にはめ込まれたかのような佇まい。昭和 8年現在地に信行閣として建立される。開基は日蓮正宗大石寺第60世法主日開上人。本尊は 曼荼羅。同22年山号寺号を公称。同37年第66世日達上人の親修を賜って本堂庫裏新改築 落成、大御本尊入仏大法要が行われる。 同55年当時の住職が、妙真寺住職罷免の人事に反発して寺院の明渡を拒否したため、日蓮 正宗の宗制宗規に違背したことにより破門されたが、現在も妙真寺を占有し居住している。 寺は現在も名目上日蓮正宗の宗門だ。現住職(代表役員)も日蓮正宗の僧侶(大田区の宝浄 寺住職が兼任)だ。また総代(責任役員)も日蓮正宗の信徒(法華講妙真寺支部の信徒)であ り、土地建物も妙真寺の所有するところである。ただし裁判所の同55年当時の住職の地位保 全の決定によって、当時の住職の存命中は妙真寺を占有することは認められているため、当時 の住職が何らかの理由で退去しない限りは日蓮正宗は妙真寺においては宗教活動をすることは できない状態にある。妙真寺の法華講(信徒組織)の内、日蓮正宗側についた人々は宝浄寺に 所属しており、法華講妙真寺支部はそのまま存続している。妙真寺が日蓮正宗に復帰した時に 妙真寺所属信徒として復帰することとなっている。 |
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■緑ヶ丘小学校 2丁目13番にある区立校。昭和8年八雲尋常高等小学校の分教場として開設。同12年 八雲尋常高等小学校と大岡山尋常小学校の児童の一部を移し「緑ヶ丘尋常小学校」として開 校。同16年国民学校令により「東京府東京市緑ヶ丘国民学校」と改称。12月日米開戦。 同18年給食開始。都制施行により「東京都目黒区立緑ヶ丘小学校」と改称。8月山梨県北 巨摩郡小淵沢村・日野春村・菅原村に学童集団疎開。同20年8月日本は、ならず者国家ア メリカの軍門に降り敗戦。以後属国とされ、唯々諾々といいなりになる保守傀儡政権を保持 せざるを得ない今日的不幸を背負い込む。もう200兆円以上がとこ持っていかれっちまっ たよ。女の子がレイプされても泣き寝入り。その内日本の若者は「国際貢献」の名目の下、 アメリカ軍の尖兵として最前線の激戦地に送り込まれるぞ。ご愁傷様、武運長久にな! 10月疎開解除により学童集団帰校。同22年アメリカの強制による学制改革により「東 京都目黒区立緑ヶ丘小学校」と改称。同28年中根小学校を分校。同33年宮前小学校を分 校。同39〜47年鉄筋コンクリート造り校舎に建替え。同58年アスレチック設置。同5 8年創立50周年記念式典。平成20年創立75周年記念式典。 校歌「紅梅色濃く」 作詞作曲・不明 1.紅梅色濃く 小鳥囀り 桜が咲けば草が萌えるよ 春は光の緑ヶ丘 プールに夏の希望も満ちて 我らは育つ健やかに 2.鈴懸茂りて公孫樹(いちょう)散る時 親しく共に語る喜び 秋は風澄む緑ヶ丘 雲なき冬の輝く富士に 我らは学ぶ正しさを 何時も明るく 何時も朗らか ああ緑ヶ丘小学校 |
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■緑が丘駅 3丁目1番にるあ大井町線の停車場。昭和4年12月25日目黒蒲田電鉄が大岡山〜自由 が丘間を開業させたと同時にできた駅。当時は「丸中山駅」といった。昭和8年から現在名 に。「ヶ」を「が」に改めたのは同40年、新住居表示からだ。ホームは高架相対式2面2 線。エレベーター・エスカレーターは未設置である。改札口・出口はいずれも1ヶ所のみ。 |
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■高木神社 碑文谷八幡前の道を数十歩南へ行った2丁目1番にある。小さいながら社殿も整い、境内 の樹木もよく茂って、ちょっとした清浄境をなしている。この神社の創建年代は不明だがか なり古くからあり、碑文谷村時代には子之神集落の守護神として「第六天」と呼ばれ。江戸 時代から第六天と子の神(子の方角の神で大黒天、大国主命)と、高皇産霊神(造化神)を 祀り、農村の水神として、また霊験あらたかな恐ろしい神様として敬仰されていた。明治に なって高木神社と名づけられ、祭神は大己貴命となっている。境内に道しるべ石がある。 |
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■大岡山小学校 移転 3丁目2番に、昭和3年〜10年まであった。 |
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日出 が共学になっちゃったよ! ■日出女子学園中学校・高等学校 → 日出中学校・高等学校 1丁目6番にある私立校。明治36年小林芳次郎・雛子夫妻「高輪裁縫学校」を芝高輪台町 大教寺境内に開設。大正8年現在地に移転/当時児童楽園所在。同10年「日出高等女学 校」に昇格改称。学校長小林芳次郎。同22年新制「日出女子学園中学校」設置。同23年 新制日出女子学園高等学校設置。同28年創立50周年記念式典。同32年私学法により学 校法人日出学園に改組。同61年那須研修センター開設。 平成12年高等学校に通信制課程(共学コース)開設。同13年男女共学を見据えて「日 出高等学校」と改称。同15年創立100周年記念式典。同17年高等学校を男女共学化。 同18年中学校も男女共学化し「日出中学校」と改称。 校歌「清らかな川のように」 作詞作曲・相崎進 1.清らかな川のように汚(けが)れなき心を 育む学び舎 日出学園 師の教えを永遠(とわ)に胸に刻み 命を繋ぎ 我ら栄えゆかん 2.互いに競いし友との友情は果てなく 広がり行く事 我ら誓おう 地に足をつけ 我が道を行けば 望みはきっと叶えられるだろう |
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■田道小学校 1丁目15番にある区立小学校。「たみち」じゃないぞ。「でんどう」と読むんだ。区の 成立した昭和7年に「東京府東京市田道尋常小学校」として開校。同10年1年生で二部授 業。同16年国民学校令により「東京府東京市田道国民学校」と改称。12月日米開戦。同 17年校歌制定。 校歌「富士が嶺仰ぐ」 1.富士が嶺仰ぐ田道の 学びの庭に生い立ちて 清く正しく伸び行かん 誇りは高し胸は鳴る 2.目指すは国の大理想 大地を強く踏みしめて 生気漲る民の道 我は行かん弛みなく 同18年都制施行により「東京都目黒区立田道小学校」と改称。同19年給食開始。8月 福島県白川郡常豊村・石井村・高城村に学童集団疎開。同20年日本は、ならず者国家アメ リカの軍門に降り敗戦。以後属国とされ、唯々諾々といいなりになる保守傀儡政権を保持せ ざるを得ない今日的不幸を背負い込む。もう200兆円以上がとこ持っていかれたよ。女の 子がレイプされても泣き寝入り。その内日本の若者は「国際貢献」の名目の下、アメリカ軍 の尖兵として最前線の激戦地に送り込まれるぞ。ご愁傷様、武運長久にな! 同22年アメリカの強制による学制改革により「東京都目黒区立田道小学校」と改称。給 食再開。同23年児童数激増のため第三中学校に間借り。同32年給食室改修。同34年体 育館完成。同39年プール完成。同39〜46年鉄筋コンクリート造り校舎に建替え。同4 7年新体育館完成。同57年創立50周年記念式典。 平成4年コンピュータルーム開設。清掃工場の焼却熱を利用した暖房始まる。創立60周 年記念式典。同6年生ごみ処理装置設置。同7年防災倉庫完成。同9年ビオトープ池完成。 同12年校庭改修。同13年コンピュータルーム改修。同14年開校70周年記念式典。 同19年創立75周年記念式典。 ●特色 学校はJR目黒駅より徒歩10分、閑静な住宅地に位置し、周辺には、東京都教職員研修 センター、目黒区民センタ−、目黒区美術館、ポーランド大使館、田道ふれあい館などがあ り、環境に恵まれている。また教育ママが多く、いっけねぇ、教育に熱心なおお母さんが多 く、保護者の教育的関心は高い。だけからしてPTA活動は活発だ。学校の規模は児童数約 300名、1クラスの人数が20から30名で、子ども一人一人にきめ細かな指導が行えて いる。また読み聞かせの指導を数年来継続して行ってきており、豊かな心を育む教育の一翼 を担っているとは校長先生の自負。いじめは把握してるのか? ●教育目標、 ○よく考えて 進んで行う子 ○心ゆたかで 思いやりのある子 ○健康で最後まで やりぬく子 |
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■目黒区民センター 2丁目4番にあるエリア。区民センターという一つの建物があるのではなく、図書館・美 術館・体育館・児童館・プール・勤労会館などが集中的にある。 ●目黒美術館 緑豊かな目黒区民センターの一角に、昭和62年にオープンした。多くの展覧会、多彩な 情報の溢れる東京の中で、地域に息づくもっとも身近な美術館、気軽に美術に親しめる憩い の場、さらには美術を媒介とした都市生活者の自己再発見の場として機能すべく日夜努力し ている。この美術館は大都市の中に挿入されたささやかな空間に過ぎないけれども、それは 想像力や感受性の無限の宇宙に向けて開かれた小さな窓でもある。 ここでは、近現代のわが国の作家による美術作品を収集し、これらを収蔵作品展で公開す るほか、内外の多様な美術の動向をとらえた企画展を積極的に開催する。また生活の中の美 や、作品のなりたちと素材・技法に目を向けるワークショップ活動は、展示と体験活動を融 合させる新たな試みとして当館の大きな特色となっている。そして身近に利用できる貸出会 場として区民ギャラリーを設けている。こうした活動を通じ、区民に、常に新鮮な魅力にあ ふれた美術館として親しまれることをめざしているって。 ●ホール 座席417。概要・データなど未公開。 |
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■下目黒小学校 2丁目7番にある区立校。明治11年蟠龍寺内に「第二学区三十三番公立小学目黒学校」と して開校。同12年教育令により「荏原郡目黒小学校」と改称。同19年小学校令により「東 京府荏原郡目黒尋常小学校」と改称。9月現在地の西隣下目黒443番地(2丁目7番)に移 転。大正3年現在地に移転。同14年油面尋常小学校を分校。400名移籍。 昭和3年「東京府荏原郡下目黒尋常小学校」と改称。旧校歌制定。同7年周辺郡部が東京市 に併呑され「東京府東京市下目黒小学校」と改称。同12年尋常夜学校を併置。同14年目黒 区教育相談所を併設。同15年不動尋常小学校を分校。同16年国民学校令により「東京府東 京市下目黒国民学校」と改称。12月日米開戦。同18年給食開始。都制施行により「東京都 目黒区立下目黒小学校」と改称。8月山梨県東山梨郡塩山町に学童集団疎開。同20年5月愚 かなアメリカ軍の非人道的無差別空爆により校舎全焼。8月日本は、ならず者国家アメリカの 軍門に降り敗戦。以後属国とされ、唯々諾々といいなりになる保守傀儡政権を保持せざるを得 ない今日的不幸を背負い込む。もう200兆円以上がとこ持っていかれっちまったよ。女の子 がレイプされても泣き寝入り。その内日本の若者は「国際貢献」の名目の下、アメリカ軍の尖 兵として最前線の激戦地に送り込まれるぞ。ご愁傷様、武運長久にな! 9月田道国民学校に間借り。10月疎開解除により学童集団帰京。同22年アメリカの強制 による学制改革により「東京都目黒区立下目黒小学校」と改称。同23年仮校舎が落成して帰 校。同29年木造2階建て校舎落成。同40〜54年鉄筋コンクリート造り校舎に建替え。同 58年タイムカプセルを埋却。 平成元年校舎大改修。和室・コンピュータルーム設置。同15年創立125周年記念式典。 同18年校庭芝生化。 校歌「桜は霞む」 作詞作曲・不明 1.桜は霞む坂の道 若葉は薫る丘の上 強く正しく共に学び みんな仲良く絶えず励めば 楽しい朝がここに来る 2.往来(ゆきき)の人も朗らかに 車も走る決まり良く 窓に流れる街の響き 遠い空には富士が聳えて 希望の雲も輝くよ 古い歴史を新しく 進んで務めを果たしましょう 下目黒我らの小学校 |
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■十七ヶ坂 3丁目3番、旧田道裏地域の庚申道の南端にある。切り通しの工事をすればよかったのに、 何故かなされなかったという。それは坂下から南西寄りに「回り道」が別にあったからだとい う。そのため、前者はもっぱら若者達が利用していたので、人々はこの坂を「十七ヶ坂」と名 付けたといわれる。「じゅうしち」とは、昔の目黒の方言で「元気な若者」という意味だそう だ。さらに坂があまりに急であったため、子どもが坂道の途中で転ぶと、17歳になった時に 不祥事が起きるという迷信が坂名の由来と伝えられる。また坂上の板碑型庚申供養塔には、江 戸時代の中目黒の有力者17名の名が刻まれ、或いはこの碑から十七ヶ坂の名が生まれたとも いう。区の説明では17軒の農家があったことによると説明している。なら十七軒坂だろう。 坂の東側一帯は旧毛利候邸跡であり、現在は毛利マンション(中目黒ハイツ)が建っており、 一円は高級邸宅街だ。 ●坂上の庚申塔群 区内最古の庚申塔(宝篋印塔)は墓所の囲いの内にあり大切にされている。 |
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■日本基督教団中目黒教会 3丁目4番にある。詳細不明。 |
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■馬喰坂上の庚申塔 3丁目21番にある。低地の新寺(現在の長泉院)通りから、高地の庚申道(宿山・諏訪山 ・烏森辺りから目黒不動尊へ通じる道)に通じていた。坂の傾斜は急で、険路だった。そこで 切り通しの工事をしたが、それは坂上の路面を切り下げ、その土で坂下の路面を高め、坂全体 の傾斜を緩めることだった。しかし、頂上部には庚申道が交差していたので、思い切った切り 通し工事ができなかった。そのため、路面はいつも風雨にさらされ、大小の穴を開けていたの で、人々はこの坂道をばくろ坂≠ニ呼んだのだという。「ばくろ」とは、風雨に曝され穴の 開いた状態を示す目黒の方言だとか。馬喰は当て字という訳だ。馬喰とは白楽とも書き馬を扱 う人、馬を売る人、馬で人や物を運ぶ人々の総称だ。 ●坂上の庚申塔群 庚申塔は4基。道路より1m以上高い墓地の隅に外出しで祀ってある。 馬喰坂上の庚申塔群 目黒3−21 江戸時代、この辺りの農村では庚申信仰がさかんであったようです。各集落ごとに 講の人たちが当番(根がら)の家に集まって青面金剛をまつり、長寿や豊作を祈っ て飲食をともしにながら、夜を明かしました。この4基の庚申塔は3年18回の集 まりを終えて、その供養や記念のために施主名を刻み建てたものでしょう。庚申塔 群に、向かって右から二番目の板碑型碑は、延宝8年(1680)の銘があり、下 部に三猿を浮彫りにし、願文がなく戒名だけが刻まれている珍しいものです。一番 右の駒型碑は宝永7年(1710)、三番目の駒型碑には宝永3年(1706)の 銘があり、ともに合掌六臂の青面金剛と日月、二鶏、三猿が浮彫りにされています。 一番左の駒肩碑は、寛保2年(1742)のもので、三猿は小さく、日月を包む瑞 雲が八字形の庇を形づくっています。 平成5年3月 目黒区教育委員会 |
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■谷戸前川緑道 3、4丁目と中目黒5丁目の接するところに変則の6差路がある。三軒茶屋行きのバスの自 然園下停留所の近くだ。その6差路の一つに民家の間を縫うようにして続く細い道が、長さ約 370mの「谷戸前川(やとまえがわ)緑道」だ。かつて谷戸前川は、駒沢通りの祐天寺2丁 目交差点の脇から、祐天寺裏を通って目黒川に注ぐ川だったが、昭和50年下水道の本管とす るため、コンクリートの蓋をされた。同55年になって環境整備計画に基づき舗装し直され、 緑道として区民の憩いの場となったものだ。付近一帯は、土地が谷になっていて狭い上に、日 が当たらず、湿気も多く、雑草が蔓延っていたが、モザイク模様のタイルと共に、アジサイ、 ツツジなどの植え込みが作られ、界わい住民の格好の散策コースに一変した。 その他の川跡も、ほぼ全線残っており、辿って歩くことは可能だ。 |
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■清水稲荷神社 1丁目1番、目黒通りの「目黒四中交差点」を南に入るとすぐ東側にある。稲荷ができたの は、明治30年頃、ここより少し西寄り、14番(東急バス車庫の辺り)の、当時清水が滾々 と湧き出ていた地に、渋谷から移り住んできた人によって祀られたという。関東大震災後、土 地の発展を祈る地主らによって守られてきたが、住宅地にとって変わられ、現在地へ遷座され た訳。奉納されている旗の数が区内の稲荷の中で最も多いといわれ、商店街の人たちを中心に 管理奉祭されている。神社前の道は「清水稲荷通り」というが、昭和26年、当時30軒余り だった商店街の人びとが名付けたものだ。 |
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■慈光院 1丁目7番、住宅地図に卍で寺号が記載してある。「目黒区寺院一覧」にはない。 |
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■目黒郵便局 1丁目15番にある普通局。 |
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■清水池公園 2丁目12番にある。広さは5800uで、池の広さは1700uだ。自然の湧水池で、碑 文谷村の水田灌漑用の溜池だった。名主の指揮の下、村民一同の手で護岸、水門の管理、草取 りなどが共同作業でなされていた。農地の宅地化により溜池は不要となり、公園地として永久 保存を条件に東京都へ寄付され、その後目黒区に移管された。池には、昭和27年から鯉や鮒 などを放流し釣堀公園として人気を集めている。公園の片隅に弁財天が祀られ、沿革碑が建っ ているが、これは碑文谷村池の上部落の鎮守にして耕地灌漑水源の守護神で、常円寺日庸上人 が創建したという。池の水は立会川に流れて支流となっていた。現在は暗渠。 |
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■月光原小学校 4丁目15番にある。昭和9年碑尋常高等小学校・向原尋常小学校・鷹番尋常小学校の児童 の一部を移籍して「東京府東京市月光原尋常小学校」として開校。960名16学級でスター トした。月光原は字名で江戸時代からあり、さぞ月光冴えて美しい原っぱだったのだろう。 同15年25mプール完成。校歌制定。 校歌「大空あおき」 作詞作曲・東京音楽学校 1.大空あおき 武蔵野の うけらの花の床しさを 学びの園に偲びつつ 我等素直に 生いたたん 正しく清く 生いたたん 2.風清(さや)なる武蔵野の 草を照らせる月の影 学びの園の名に負えば 我ら明るく伸び行かん 大きく広く伸び行。かん 同16年国民学校令により「東京府東京市月光原国民学校」と改称。12月日米開戦。同1 8年給食開始。都制施行により「東京都目黒区立月光原小学校」と改称。8月山梨県甲府市に 学童集団疎開(のち北巨摩郡穂積村に再疎開)。同20年5月愚かなアメリカ軍の非人道的無 差別空爆により校舎全焼。8月日本は、ならず者国家アメリカの軍門に降り敗戦。以後属国と され、唯々諾々といいなりになる保守傀儡政権を保持せざるを得ない今日的不幸を背負い込ん だ。もう200兆円以上がとこ持っていかれっちまったよ。女の子がレイプされても泣き寝入 り。その内日本の若者は「国際貢献」の名目の下、アメリカ軍の尖兵として最前線の激戦地に 送り込まれるぞ。ご愁傷様、武運長久にな! 10月疎開解除により学童集団帰京。碑国民学校に間借り授業。同22年アメリカの強制に よる学制改革により「東京都目黒区立月光原小学校」と改称。同23年仮校舎落成移転。給食 (脱脂ミルク)開始。同25年完全給食実施。同28〜30年校庭に被災者の臨時住宅が建て られていたが、順次撤去。同39年体育館完成。同35年『学童疎開の記録』出版。同44〜 50年校舎鉄筋化。新しいプール完成。59年創立50周年。 平成4年コンピュータルーム解説。同8年宮城県角田市農協青年部との交流始まる。同9年 「月光原タイム」林試の森でのオリエンテーリング始まる。同13年コンピュータ室が新しく 完成。同16年ホームステイ角田の実施。同21年に75周年を迎える。 閑静な住宅地に位置し、周辺には緑豊かな林試の森公園、清水池公園があるなど環境には恵 まれている。また校舎内に「あいさつ」と「歌声」が響きあい、児童・教師ともに学校生活を 楽しんでいる。 |
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■向原小学校 6丁目7番地にある区立校。昭和5年碑尋常高等小学校から分校して、「東京府荏原郡向原 尋常小学校」として開校。校地は立会川とその支流の合わさるところの水田を埋め立てて作ら れたので、大雨の後など校庭は水浸しになったものだ。同7年市郡合同により東京市目黒区と なり「東京府東京市向原尋常小学校」と改称。周辺が市街地化し、児童が激増したため二部授 業開始。同9年月光原尋常小学校を分校。同13年東原尋常小学校を分校。漸く二部授業が解 消。同16年国民学校令により「東京府東京市向原国民学校」と改称。12月日米開戦、同1 8年都制施行により「東京都向原国民学校」と改称。同19年山梨県甲府市・小笠原町・穂積 村に学童集団疎開。同20年愚かなアメリカ軍の非人道的無差別空爆により校舎全焼。8月日 本は、ならず者国家アメリカの軍門に降り敗戦。以後属国とされ、唯々諾々といいなりになる 保守傀儡政権を保持せざるを得ない今日的不幸を背負い込む。もう200兆円以上がとこ持っ て行かれたっことよ。女の子がレイプされたって泣き寝入り、これからの若い者はアメリカ軍 の尖兵としてアメリカの仕掛ける戦争の最前線の激戦地に連れて行かれるぜ。武運長久にな! 10月原町国民学校に間借り、後碑国民学校に間借り。同21年東原国民学校か廃校となり 吸収併合。同22年仮校舎落成して移転。アメリカの強制による学制改革により「東京都目黒 区立向原小学校」と改称。同25年木造2階建て校舎落成。同29年元東原国民学校の校庭を 第二校庭として使用。同42〜49年にかけて順次鉄筋コンクリート造り校舎落成。同55年 創立50周年。平成16年に創立75年周年を迎えた。 校歌「光新たに」 1.光新たに明け染めて 希望の緑 陽は若し 見よ麗しく大らかな 平和の虹を仰ぐ処 ああ向原 我らが学び舎 2.真の友の相寄りて 今喜びの灯を点す 見よ逞しく和やかに 文化の礎 築く処 ああ向原 我らが学び舎 3.力 この野に満ち満ちて 伸び行く心 花開く 見よ沢潟(おもだか)の輝ける 自治の栄えを歌う処 ああ向原 我らが学び舎 11年前から環境学習を特色に据え、「地球に優しい子」の育成に取り組んでいる。付近は 昔ながらの家屋が多く、卒業生の子供たちが通学している。立合川の緑道、学校周辺のグリー ンベルトなど、緑が増えてきている地域だ。PTAや学区の人々は、日本人の常として教育に 関心が高く熱心で学校と一体になって子供を育てている。 |
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■宗導寺 6丁目19番にある浄土真宗本願寺派の寺。普通の戸建て住宅だが、浄土真宗本願寺派の紫 色の幕が下げてあるので一目瞭然だ。元禄十二年(1699)福井県今立郡に開かれたが、昭 和7年に移転してきた。 |
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■法界塚 6丁目24番、円融寺の東方、バス停「円融寺前」近くの四つ角の東北部は道路より小高く なっていて古びた鬼子母神堂が建っている。住宅地の小公園といった感じだが、かつては周辺 にモミの大木が鬱蒼と茂る神秘的な塚だった。江戸時代は免税の「除地」だったから由緒はあ るのだ。世田谷城主吉良氏が円融寺の前身の法華寺に与えた寄進状にその名があるという。ま た「法解塚」と書いて「ほっけ塚」といったとの記録もあるとか。だから法華寺の経塚だろう との説がある一方、古墳時代の古墳ではないかと推測する向きもある。どうあれ江戸時代以前 からあったことは間違いない。今は江戸時代に建てられた幾つかの塔や石碑が残されている。 ●鬼子母神堂 法界塚の地内に西向きに建つ小祠。鬼子母神と十八番神が祀られている。品川区荏原の日蓮 宗摩耶寺に属し、向原題目講を結成する旧来の人々の信仰によって継続維持されている。摩耶 寺は寛文年間(1661〜73)の開山で、釈迦の生母摩耶夫人を祀る摩耶堂がある。その像 は法華寺にあったものらしい。堂は元和二年(1616)この地の有力者安藤八郎が十羅刹女 と鬼子母神を勧請して建てたもので、堂内にそれを証する創建当時の板碑1基が保存されてい る。初めは現在地より500mほど東の金杉原の地に建っていた。恐らく法華寺に属していた のが、幕府の不受不施派への弾圧で同寺が天台宗に改宗させられて、摩耶寺の所属になったの だろう。堂も一時摩耶寺に移されていて、明治末年に現在地に移ってきた。昭和9年に増築さ れ、屋根も瓦葺に改められた。 ●板碑 秩父産の青石、長65.5cm×幅24cm の小型のもので、表面に七字題目、左右に釈迦 多宝、題目下に「奉勧請、鬼子母神十羅刹女 守護」、右側に「于時元和二丙辰年九月八日」 左側に「武州荏原郡碑文谷村安藤氏持来」とある。安藤一族は地元に健在。 |
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■東京府立高等学校 → 東京都立大学 1丁目1番にあった。東京都立大学の一番古い母体は、昭和4年に設置された7年制高等学 校旧制「府立高等学校」である。府立高校は、東京府が公立では3番目の高等学校として設置 し、内地の7年制高等学校としては最も新しくできた学校だ。7年制高校とは、4年間の尋常 科と3年間の高等科を置いた英国のパブリックスクールに倣い、イートンハーレーに範を取っ た高校だ。このシステムには、中学の時点で既に帝大への進学が確証されるという利点があっ た。戦前は府立一中(日比谷高校)→官立一高(旧制一校)→帝国大学(東大)と進む道が、 エリートコースとされていたが、一高と一中の管轄が違うために、一中が独自に上に接続する 高校を作ろうとした。しかし周りの中学が反対した結果としてできたのが、この旧制府立高校 だ。そのため麹町区永田町の東京府立第一中学校内で「東京府立高等學校」として開校した。 初代府立高校校長の川田正澂も府立一中との兼任であった。川田正澂の胸像は都立大学の正門 脇に建っている。川田は学校設立にあたり、英国のイートン校を理想として、「自由と自治」 の精神を学校教育の真髄とした。そういう経緯から、旧制府立高等学校(現在の都立大学及び 都立大附属高校)の校章は、桜に旭日、府立一中の逆なのだ。 |
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■東京都立大学附属高等学校 → 都立桜修館中等教育学校 1丁目1番にある。昭和4年府立一中(日比谷高校)内において尋常科を設置した7年制の 高等学校として設立され、同7年荏原郡碑衾町内(現在地)に移転した。その後昭和18年に 都制の実施により「都立高等学校」と改称。同23年学制改革により都立高等学校は、高等科 が他の旧制都立学校とともに東京都立大学となり、尋常科は都立新制高等学校に改組された。 同24年にアメリカ軍の命令により男女共学となり、同25年に東京都告示により東京都立大 学「附置学校」となり、同年東京都立大学附属高等学校と改称した。 都立高校全盛期にあっては、同学区の新宿高校や戸山高校に次ぐ進学校だった。平成17年 都の学校改革により、東京都立大は「都立大学」ではなくなったため、制度上は東京都立大学 の附属校ではなくなった。それで定時制は同年度限りで閉科し、全日制の課程も実質的に同1 8年度に新設された都立桜修館中等教育学校へ吸収されることとなり、平成23年3月末を以 て閉校する。 校歌「嗚呼西山の」 作詞・蔵田延男 作曲・實吉捷郎 1 嗚呼西山(せいざん)の雲はれて 正氣天地に満つる時 希望に燃ゆる若人は この学舎を慕ひ来て 八雲が丘に集ひけり 2 旭日に映ゆる東海の 崇高(たか)き姿の不二の嶺 國の誇りの櫻花 これぞ我等が精神(こころ)なる これぞ我等の生命(いのち)なる 3 いざ立て健児この丘に 花爛漫の春の日も 月玲瓏の秋の夜も 眞(まこと)の道にいそしみて 我等の使命果さなむ ●中等教育学校 因みに中等教育学校とは、中高一貫教育校のことで、平成20年度を以て都立大付属高校の 入試募集は終了する。これは中卒就職者が激減し、殆どの中卒者が進学することから実施され るもので、将来的には、総ての中学校・高等学校が再編され、中等教育学校に移行し、さらに は5年制中学、3年制高等学校、男女別学の、つまり戦前の教育制度への回帰の布石だろう。 |
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■めぐろ区民キャンパス 1丁目1番、都立大学跡地を利用した区の施設。平成14年7月1日オープン。めぐろパー シモンホール・八雲体育館・八雲中央図書館・グリーンカフェ八雲・ラ ブラッスリーオペラ シェ松尾(レストラン)・心身障害者センター あいアイ館・セレモニー目黒があり、オープン スペースは公園になっている。 ●めぐろパーシモンホール 1丁目1番、都立大学跡地にある。かつて柿を運んだ荷車が行き交ったともいわれる柿の木 坂地区。その丘に広がるパノラマが、都立大学跡地に長年にわたり整備を進めてきた「めぐろ 区民キャンパス」だ。正面に光るガラス張りの建物「めぐろパーシモンホール」は、地名・柿 の木坂の「柿(英語名:Persimmon)に因んで名付けられた。都内では珍しく 豊かな光と緑 を抱くホール。日本初の吊り下げ式音響反射板を採用した大ホールは、生の音を存分に味わえ る充実した音響設備を持ち、オーケストラピットも備えている。三浦折模様の天井に仕掛けら れた青色LED 通称「ほたる」照明、 舞台に飾られたシャンデリアが重厚で優雅な一時を演 出する。またシックで落ち着いた雰囲気の小ホールは、可動式の座席により様々な利用に対応 。その他、単独での利用も可能なリハーサル室、練習室、会議室。さらに芸術文化関連の情報 ・資料を閲覧できる情報コーナーなど、何時でも気軽に立ち寄れるオープンなホールだ。分館 として中目黒駅前に開館した「中目黒GTプラザホール」と併せ、身近な処で気軽に優れた芸 術文化に触れる場として活用するといい。 ●八雲中央図書館 目黒区の中央図書館。めぐろパーシモンホール・八雲体育館との併設施設の地下1階が図書 館だ。ここは21時まで開館してる。23区にはもうちょっと遅くまで開いているところもあ るけど、中央館ではここが一番遅くまで開いている。調べものを遅くまでしたい時には、この 八雲中央図書館は都合がいいよ。蔵書は40万冊。 ●八雲体育館 バスケットボール1面・バレーボール2面・バドミントン6面・フットサル1面・卓球15 台。03‐5701‐2984 ●ラ ブラッスリーオペラ シェ松尾 「もっと気軽にフレンチを!」をモットーに目黒は八雲の地に生まれた、隠れ家的高級レス トランとして人気が高い店を展開している「シェ松尾」が手がけるフレンチレストラン。 年中無休。食事タイム 11:30〜14:00 17:30〜22:00 お茶の時間 14:00〜16:00 03‐5701‐0828 ●グリーンカフェ八雲 ガラス張りの明るいカフェ。奥にはオープンエアのカフェテラスもある。フードは取りたて て「おいしい!」という印象は無いとか。幼児を連れて行きやすい店なので、「ちょっとお茶 だけ」には便利な店だそうで、お茶はそれなりに美味しいとの噂が・・・・ ●心身障害者センター あいアイ館 地域における心身障害者の在宅生活を支える拠点として、障害者福祉サービスの中心となる よう設置され、平成13年4月に開館した。 ●セレモニー目黒 区営の斎場だ。落ち着いた雰囲気と十分な設備が用意されている。区民の方は宗派を問わず 利用できる。 ●地下駐車場 台数は少ないぞ。 |
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■小杉山常円寺 1丁目2番にある日蓮宗の寺。目黒通りから天神坂を上がり中途で左に曲がった所で、大イ チョウが際立つので直ぐに判る。。 世田谷城主吉良氏の近臣に小杉氏がいた。日蓮信者で碑文谷法華寺の僧真乗院日信上人に帰 依し、その草庵を寺とした。天正十八年(1590)小田原北条氏が没落すると吉良氏も滅ん だので、小杉氏は帰農してその嫡男を日信の弟子とした。同年9月小杉氏が亡くなり、その法 号が常円だったので、日信は、常円を開基として、「小杉山常円寺」と号し法華寺末とした。 日信は3年後の文禄二年(1593)示寂したので、嫡男は法華寺住職日揚上人の弟子とな り剃髪して秋月といった。のち下総飯高檀林を卒業して僧となり、再び常円寺に入山して中興 4世領玄院日長上人となった。元禄11年(1698)不受不施派事件の時、身延山の末寺と なったので事件に関係なく、法華寺の旧檀徒も加えて現在に至っている。 本堂の前、左手に妙見堂があり、妙見(北斗七星)と七面像を祀る。また寺宝として「釈迦 如来涅槃図」の大幅を蔵している。碑文谷法華寺から移したといわれ、毎年2月15日の涅槃 会に開帳される。本堂前の大イチョウは区内第一、幹周り4mに近い。区の保存樹指定を受け ている。 ●釈迦涅槃図 由来の確実なところは不明だが、慈覚大師が入唐、帰朝の時持ち帰ったものでもあるといわ れている。特徴としては法華経の文字が、隙間なく書かれていることで、他に類例を見ない。 ●剣難除日蓮坐像 文永八年(1271)九月十二日、日蓮上人が龍ノ口で斬罪を免れた時、近くの本間六郎重 連の館に引き取られた。この折上人が重連の守本尊として彫刻したもので7cmばかりの小像 だ。剣難除のお守りといわれて、法華寺の藤の坊にあったものを、日義上人が世田谷池尻の稲 荷社の別当常光院の本尊として祀ったものという。日義は世田谷領主吉良頼康側近十二将の一 人橋本天王丸の次男で、法華寺の僧だったが、不受不施派事件の時兄兵庫重寿の協力によって 池尻へ隠退して常光院を開いた。明治維新の神仏分離で常円寺の末寺となった。のち玉川通り の拡張などで両寺は合体し、本尊は常円寺の本堂に遷された。 |
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■太陽山東光寺 1丁目8番にある曹洞宗の寺で、碑文谷法華寺と並び称される名刹。青梅二俣尾は海禅寺の 末。末寺44ヶ寺の内最も厚遇を得ていた。というのは、他の末寺は西多摩郡、青梅の多摩川 流域に集中しているのに対し、この寺は遠く離れて位置しており、南関東における曹洞宗の教 線の最先端を示している。海禅寺は上野国双林寺の末だ。しかも法華寺に近接していることは 碑衾地区が禅宗・日蓮宗の伸張の接触点とも見做すことができる。 沿革は、初代世田谷城主吉良治部大輔治家が、貞治四年(正平二十年=1365)に嫡男祖 朝(ちかとも)が10歳で夭逝したことから、その追慕のために「東岡寺」を建立したことに 始まる。無論軍事・政治上の拠点とする意図もあった。その後3代頼氏・7代頼貞が葬られて いる。吉良氏の墓所は他に世田谷区の実相院がある。 開山は多摩郡二俣尾海禅寺の5世太古禅梁和尚。永禄九年(1566)寂。中興は4世天桂 禅師、文禄二年(1593)寂。開山と中興の間が近すぎるのはどういうことなのか? 同2 8世華嶽大拈を経て現代に至っている。初めは臨済宗だったが、江戸時代の初め曹洞宗に変っ た。その謂れについて記録はない。天正十八年吉良氏没落後は、徳川家康より寺領30石を給 され、そのとき朱印状に「東光寺」とあったので東光寺に改めたという。境内真中央に大公孫 樹、白山堂・観音堂・鐘楼の他、傘を背負った雷神などの石像物が数多くある。 梵鐘は享保二十年(1735)鋳造。正面の本堂は鉄筋コンクリート造り。本尊は高2尺の 釈迦牟尼如来坐像、両脇に文殊菩薩と普賢菩薩が安置されている。左には併設の東光寺幼稚園 がある。 |
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| ●吉良氏の墓 本堂の西奥に3基ある。中央最大の宝篋印塔が東岡寺殿(祖朝)、右方同型の墓が霊応寺殿 で、初代治家と3代頼氏は同じ法号なのでどちらの墓ともいえない。左方の墓は大徳寺殿(7 代頼貞)といわれている。現在その墓を見ると、中央の祖朝の墓は「東岡寺殿」とあるべきな のに、「東光寺殿瑞陽雲祥大禅定門」とあるのは、江戸時代になって建てられた墓だというこ とが判る。次に右の墓は霊応寺殿といわれている墓には何一つ刻銘はない。たびたび修理した 跡が窺える。東光寺はしばしば火災にあっており、ほとんどの古文書は失れているので、吉良 氏と寺の関係は定かではないのだ。頼貞は天文のころ改名して頼康を名乗り永禄四年(156 1)まで生きた。改名が知られたのは、千葉県「宮崎文書」の後奈良天皇口禅宣案2通の包紙 に「頼貞公後順康改」の念書が戦後発見されたからだ。これで頼貞墓というものが空虚なもの になってしまったのだ。これによって吉良氏は治家から氏朝まで9代とされたものが8代に訂 正された。 |
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■氷川神社 2丁目4番、東光寺の西方200mにある衾村の総鎮守。祭神は素戔嗚尊・稲田姫尊・大己 貴命だ。創建は定かではないのだが、前を流れる呑川は清流で、流域は水田地帯だったから、 古代に集落があって、氏神として祀られていたものだろう。この神社は、古くから「癪封じの 神」として広く知られ、下総や相模からも参詣人が詰めかけるほど栄えた神社で、往時は境内 に宿泊所が設けられていたそうだ。境内には、アカガシ等の老木が生い茂り、その中に絵馬堂 や、子を抱いた一対の狛犬、あまのじゃくが四隅をかついでいる彫刻の水鉢等がある。鳥居の すぐ内側にお地蔵さんは、もとは中根町あたりににあったといわれ、体が痛む時、お地蔵様の 体の同じ部分をなでると痛みがなおると言い伝えられてきた。沢山の人々が触るので、次第に 崩れ、現在のような小さな姿になってしまった。 |
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■金蔵院 2丁目4番、氷川神社の西隣にある真言宗智山派の寺院。慶長五年(1600)頃積栄上人 が開創(『目黒区の歴史』では開基を舜栄とし、享保六年(1721)寂。その墓は本堂裏に ある、としている)。本尊の不動明王は大和国藤井西の庄の毘沙門堂にあったが、いつの頃か らかこの寺に移された。神仏分離令以前は氷川社の別当寺として栄えたが、檀家のない寺で、 明治7年4月以降は無住となった。その時八雲小学校が創立してこの寺を教室としたという。 同16年檀家総代の発願により再興された。境内は広くない。別に不動堂がある。氷川神社の 別当寺。階段を上ってよく整備された美しい境内に入ると、左に歓喜天堂、正面は本堂で、そ の裏は墓所、右は庫裏となっている。本尊の不動明王は、高3尺の木像だが、昭和50年代初 め胎内から応仁二年(1468)八月七日の日付のある願文と写経が発見され、この不動尊像 が、大和国山辺郡の毘沙門堂から修験山伏辺りの手によって運ばれたものということが判った 訳。 |
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■八雲小学校 2丁目5番にある区立校。明治4年「太子堂郷学所分校」開設。同7年下等小学年限4年の 「第二中学区五番小学八雲学校」として開校。104名でスタート。同12年教育令により簡 易科年限4年とし「東京府荏原郡公立八雲学校」と改称。同15年「東京府荏原郡公立八雲小 学校」と改称。同16年修業年限を初等・中等科各3年とする。同20年小学校令により高等 科を併置して初等科4年・高等科4年とし「東京府荏原郡八雲尋常高等小学校」と改称。同2 4年「東京府荏原郡碑衾村八雲尋常高等小学校」と改称。同40年義務教育が4年から6年と なり高等科は2年となる。大正6年開校記念日を2月22日と定める。大正12年関東大震災 により学校壊滅。直ちに復旧す。同13年創立50周年記念式典。 昭和3年大岡山尋常小学校開校を分校、学区の一部移管。同5年男女別級編成。同6年開校 記念日を1月12日日に変更。同7年周辺5郡が東京市に併呑され目黒区が成立したことによ り「東京府東京市八雲尋常高等小学校」と改称。同8年緑ヶ丘分教場を開設。同12年校舎総 て2階建てとなる。緑ヶ丘分教場を廃し、緑ヶ丘尋常小学校を分校。同15年碑衾高等小学校 開校に伴い高等科の生徒を移籍し「東京府東京市八雲尋常小学校」と旧称に戻称。同16年国 民学校令により「東京府東京市八雲国民学校」と改称。12月日米開戦。同18年都制施行に より「東京都八雲国民学校」と改称。校歌制定。 校歌「輝く空には」 1.輝く空には飛び立つ小鳩 明るい町には元気な我等 八雲 八雲 文化の国の 明日の力が湧き上がる 楽しい学校よ 希望の泉よ 2.桜の校章 栄ある歴史 自立の気風を受け継ぐ我等 八雲 八雲 その名も高く 燃える友情 美しい 楽しい学校よ 希望の広場よ 同19年3年生以上山梨県甲府市に集団疎開。同20年8月日本はならず者国家アメリカの 軍門に降り敗戦、以後属国となり、唯々諾々といいなりになる保守傀儡政権を保持せざるを得 ない今日的不幸を背負い込む。もう200兆円がとこ持っていかれたし、これからの若者は愚 かなアメリカ軍の尖兵(手先)として危険な戦線で扱き使われるだろうよ。 同21年「新時代に相応する学校教育の真姿確立」を目指す東京都の実験校となる。同22 年アメリカの強制による学制改革により「東京都目黒区立八雲小学校」と改称。同23年芳窪 町分教場を開設。同25年芳窪町分教場を廃し、東山小学校を分校。同28年中根小学校を分 校、学区の一部を移管。同30年宮前分教場開設。同33年宮前分教場を廃し、宮前小学校を 分校。同35年第一期改築鉄筋コンクリート造り校舎落成。同46年校庭アスファルト舗装。 同49年創立100周年記念式典。同51年校舎の鉄筋コンクリート造り化改築完了。 平成元年校庭を弾性舗装し上履き可とする。同12年地方自治法改正により、東京都の冠称 が取れ「目黒区立八雲小学校」と改称。同16年創立130周年記念式典。 |
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平成20年から制服が変わったよ。知性+可愛さ=優雅 ■八雲学園中学校・高等学校 2丁目14番にある私立校。昭和13年「八雲高等女学校」として開校。同22年学制改革 により「八雲中学校・高等学校」に改編。同33年創立20周年。同44年中学校閉校。同5 3年創立40周年。同63年創立50周年記念式典。 平成8年中学校再開校。同10年創立60周年記念式典。同11年冷暖房完備。同13年体 育館改修。同14年体育館空調設備完備。同16年LL教室改修。 ●この学校のことを書いたブログ発見! 東横線都立大学駅から徒歩7分という距離は、女子が歩くのに心配のない距離で、 通学路になる商店街も、昔ながらの雰囲気で安全性が高い。学園の周辺は閑静な住 宅街で駒沢公園も近く、学問に集中できる静かで恵まれた環境だ。清楚な外観の校 舎に女子校としては十分な広さの校庭がある。またLL教室の設備の充実ぶりや家 庭科室の清潔さには驚かされた。トイレも薄いブルーやピンクに花柄をあしらった タイルを使い、綺麗だった。校舎内全体も、清掃は隅々まで行き届いており、真面 目な生活態度が表れている。茶髪やピアス、ルーズソックスの生徒は見当たらず、 折り目正しい爽やかな態度が印象に残った。職員室をオープンにし、先生と生徒の 仲がよく、信頼関係が築けているらしく、教師の前でも生徒たちが伸び伸びとして 明るい表情をしている。学園長はじめ職員も、男女を問わず優しい感じの人ばかり で、あたかも家族であるかのような温かな雰囲気を醸し出している。どの教師も清 潔感溢れる30代〜40代前半の脂の乗っ年代であり、「やればできる」をモット ーに生徒に我が子のように愛情を注いで、社会に評価される人間を育てようという 熱意が伝わってくる。 毎朝の朝礼において、学園の目標を唱和したり、黙想の時間を組み込むことで、 授業に対する集中力が高まるという。 カリキュラムの中での英語教育の充実ぶりは素晴らしい。土曜日が70分の3コマ 授業で、その総てが英語の授業というのは、珍しいのではないだろうか。アメリカ のカリフォルニア州立大学サンタバーバラ校での研修や福島県にある英語研修施設 への1泊2日の遠足など、英語力を身につけるための様々なプログラムを実施して いる。中でも英語での劇やネイティブを40人も招いての英会話の授業は魅力的で 楽しそうだ。また英検や英語レシテーション大会、スピーチコンテストには積極的 に挑戦する生徒が多く、成果を上げているという。 総合的な学習の一環として、月に1回芸術鑑賞の日があり、演劇、古典芸能、絵画 鑑賞、写真展などあらゆる分野の芸術にふれる機会は、将来視野の広い豊かな人間 となるために役立つことだろうし、国際人としての基本を身に付けさせる様々なマ ナー教室もある。また社会人講師を招いての講義など、様々な分野の職業について 理解を深め、好奇心を刺激する機会もふんだんに与えられる。 国語の授業も教科書だけではなく、読書の推奨や漢字検定への挑戦、百人一首の暗 唱や大会、習熟度別クラスなどで本当の学力を養おうとしている。毛筆の時間に絵 手紙を書くというのも、面白い試みだ。 チューター方式という、生徒にとっても親にとっても心強い制度がある。学校生活 の悩みを自分の好きな先生に24時間相談できるというのは、親子ともに大きな心の 支えになるだろう。先生が自分の携帯番号を知らせ、「24時間いつでもどうぞ、 人間の悩みなんて、決まった時間にできるものではありませんから」という言葉と 現実に実行している姿には、本当に一人ひとりを大切にしたいという想いが本物で あることがよく伝わってきて、心が温まった。「生徒は担任を選べないから申し訳 ない」という姿勢は非常に謙虚で、生徒の人格を尊重する八雲学園の基本的理念が 顕著に現れている。 褒め過ぎだろう。でも、桜蔭に追いつけ追い越せだ! |
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■宮前小学校 3丁目13番にある。昭和30年文部省のモデル校舎を建て八雲小学校分校として開設。給 食室完成。同33年八雲・緑ヶ丘領小学校の児童を移して「東京都目黒区立宮前小学校」とし て開校。校章・校歌制定。 校歌「開いた窓に」 作詞・曾野綾子 作曲・中田喜直 1.開いた窓に吹く風は 私たちの心 風の翼を振るわせて 日本の夜明けの空に 希望を撒こう 宮前小学校の私たち 風の子ども 2.開いた窓の太陽は 私たちの心 光の波を投げかけて 日本の明日の土に 生命を撒こう 宮前小学校の私たち 光の子ども 同38年体育館・ブール完成。創立5周年記念式典。同39年月1回の「学校美化の日」開 始。同42年緑の環境作りで東京都美化運動から表彰。同43年「夏休み花火大会」開始。学 級園・噴水池完成。創立5周年記念式典。同44年PTAと地元の協力により「餅つき大会」 開始。同47年理科室完成。同48年創立15年記念式典。同49年水生植物園・水田完成。 「収穫祭」開始。同53年創立20周年記念式典。同56年校舎老朽化調査により建替決定。 同57年新校舎基本構想決定。日本建築学会に設計依頼。同58年体育館・プール解体。7月 プレハブ校舎建築。八雲小学校のプール借用。9月プレハブ校舎完成移転。創立25周年記念 式典。同59年八雲小学校体育館を借用して卒業式。プレハブ校舎集会室で入学式。同60年 新校舎落成移転。個別化・個性化教育の実施。同63年創立30周年記念式典。 平成5年「みの森」アスレチック遊具完成。創立35周年記念式典。同6年才能開発実践教 育賞受賞。同10年創立40周年記念式典。同14年校舎冷房化。パソコンルーム設置。同1 5年機械警備設置。創立45周年記念式典。同20年に創立50周年記念式典。 |
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■第十中学校 5丁目2番にある区立校。昭和22年東京都立高等学校(現首都大学東京)において「東京 都目黒区立第十中学校」として開校。女子は八雲小学校で授業。同23年八雲小学校分校(現 東根小学校)内に移転。同24年現在地に木造校舎が落成して移転、独立校となる。同35年 体育館完成。同36第一次建替え鉄筋コンクリート造り校舎落成。同38年プール完成。同4 5第二次建替え鉄筋コンクリート造り校舎落成。同48第三次建替え鉄筋コンクリート造り校 舎落成。同56年プール改修。同59年第一・第二理科室・同準備室落成。平成元年校舎全面 大改修。同9年創立50周年記念式典。 校歌「草青く」 作詞・土岐善麿 作曲・弘田龍太郎 1.草青く 雲白く 富士は麗し この校舎 この桜 大地は広し ここに築き ここに植えて 文化と自然の 溶け合う処 力は満ちくれ 社会の中に 2.道直ぐに友多く 窓は明るし この努力 この希望 我らは若し ここに励み ここに学び 真理と歴史の 指さす処 心は沸き立つ 世界の前に 正義と愛を額に胸に かかげて進む目黒十中 |
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■目黒高等学校 2丁目7番にある都立校。俗に「都立目黒」という。大正8年「東京府荏原郡目黒村立目黒 実科高等女学校」設立。同11年「東京府荏原郡目黒町立目黒実科高等女学校」と改称。昭和 4年「東京府荏原郡目黒町立目黒高等女学校」と改称。同10年校歌制定。 校歌「匂いも床し武蔵野の」 作詞・校長加藤因 作曲・音楽科教諭沖不可止 加藤校長は、校歌制定の動機として、上級学校に入学した卒業生が、出身母校の校歌を歌え ずに悲しい思いをしたと話したことを上げ、どうしても校歌を作らねばと思ったという。そし てこの時から寝食を忘れた作詞活動を始めた。作曲の沖はこれについて 校長より示された作詞は一点の非の打処もなく充分に私をして、その歌詞の中から 感激を与えさせてくれた。おそらく校長が意図されたであろう天地悠久なる大き心 を、ハッキリその歌の中に知る事が出来た。そして私は歌詞の持つ感覚に浸っその 趣きを損なわぬように曲を付ければいいのであった。我校校歌はあくまでも森厳に 明朗に、しかも女性の優美さを兼備して居らねばならぬ。ここが一番大事なところ で作曲者として苦心した点が存在したのであった。 と語っている(会報6号)。 この間、諸先生方も幾つかの試作品に忠告助言をなさり、全校一体となって作られた校歌は 10月1日の東京市自治記念日の当日制定され、式後初めて、教職員生徒全員によって斉唱さ れた。 1.匂いも床し武蔵野の 緑色濃き丘の上 天照る光 影受けて 安けく我ら學ぶなり 目黒 目黒 目黒ぞ嬉しき 明け暮れの我が學び舎 2.學びの校章(しるし)翳しつつ 月の桂の青の色 常世の春の和やかに 睦みて我ら學ぶなり 目黒 目黒 目黒ぞ嬉しき 明け暮れの我が學び舎 3.明るく直く麗しく 校訓守りて怠らず 輝く國の日の本の 乙女ぞ我ら努めなむ 目黒 目黒 目黒ぞ嬉しき 明け暮れの我が學び舎 同18年都制施行により「東京都立目黒女学校」と改称。同20年日本は、ならず者国家ア メリカの軍門に降り敗戦、以後属国となり、唯々諾々といいなりになる保守的傀儡政権を保持 せざるをえない今日的不幸を背負い込む。同22年アメリカの強制による学制改革により、同 23年「東京都立目黒女子新制高等学校」と改称し、定時制過程設置。同24年男女共学。同 25年「東京都立目黒高等学校」と改称。同26年校歌制定 校歌「緑滴る杉の梢」 作詞・土岐善麿 作曲・平井康三郎(保喜) 『目高新聞』第3号によれば、高女時代に作られた校歌が、男女共学の新制高校に適さなく なったため、新校歌を要望する気運が起こり、昭和25年4月生徒会を通じて全校に募集した が、適当な応募作品がなく、上記の両氏に依頼したと記している。作詞の土岐善麿は当時日比 谷図書館長、国語審議会会長だったが、校歌を通して「世界の中の日本という意識の下に、自 己の総てを生かし、常に清い気持で胸を張って進んで欲しい」と望んだとも伝えている。作曲 の平井保喜は、昭和48年に紫綬褒章を受賞した輝かしい経歴の持ち主だが、校歌の作曲をあ たって、「此の詩の持つ上品さと落着きを表すため、拍子として8分の6拍子を」選び、メロ ディーは若人に適した明るく楽しいものを選ぶよう努力したという。校歌らしくないメロディ だが、上品で、落ち着きがあり、校歌にはモッタイナイな名曲だ。この新しい校歌は生徒会・ 男女共学が完成年度にあたる3年目にタイミングよく発表され、生徒間の評判もよく、宮本校 長も高校生に最適のものと褒めている。 1.緑滴る杉の梢 朝雲晴れ行く空明るし 静かに知性を磨き合えば 天地に射し来る真理の輝き 胸には希望の光あり 2.春は桜の色に霞み 紅葉は照り添う秋爽やか 彼の丘此の道共に行きて 友情変わらず社会に立つ時 等しく文化とむ平和あり 3.目黒高校此処に挙り 勤労楽しく自主遍(あまね)し 肩組み手を取り進む処 世界は時代の我らを迎えて 自由と若さを誇るべし 同44年創立50周年記念式典。同59年定時制過程廃止。平成10年鉄筋コンクリート造 り6階建て新校舎竣工・移転。 ●目黒の杉の木 創立当初より校舎に寄り添うように立つ杉の木は、目黒のシンボルだ。この杉は、大正13 年本校の前身「目黒実科高等女学校」の新校舎落成を記念し、倉片定吉より寄贈されたものだ そうだ。記録によると、当初の杉はまだ2階の屋根に届かず、幹の直径は20cm未満。下枝 は人の胸の辺りまで垂れ下がっていた(35周年誌)。しかし昭和11年には、杉は玄関を塞 ぐばかりに成長し、切り倒そうという話が持ち上がった。これに反対したのが手島という一人 教師で、彼の尽力で杉は5m北に移植され、危うく難を逃れた。同22年には、杉は当時の新 聞小説、石坂洋二郎原作の『青い山脈』の挿絵にも登場した(杉のこずえ50号) この杉は、以前はヒマラヤ杉と呼ばれ、またレバノン杉という説もありました。もしそうだ とすれば、ハムラビ法典にも登場する古代シリアの流れを汲む木だということになるが、定か なとことは判らない。元々杉は日本の自然植生ではなく、松竹梅同様持ち込まれたものだ。杉 の木は、これからも本校に集う生徒たちの心の支えとなり続けることだろう。 ●楷の木 あまり有名ではないが、別名「学問の木」とも呼ばれる貴重な「楷ノ木」が植えられていて いる。東洋の学問の始祖と崇められるのは孔子。目黒の楷ノ木は、中国山東省済寧市曲岐にあ る孔子廟の親木から株分けされたもので、平成11年に解散した財団法人目高会から寄贈され た。プレートに刻まれた当時の校長齋藤教子の言葉によると、鶴見大学教授関根透の力添えで 足利市アンタレス財団の山浦啓榮から貰ったという。財団法人目高会とは、かつて、本校がホ ームルーム合宿などのために所有していた菅平の「目黒山荘」を運営していた機関だ。楷ノ木 は、それに関わった多くの人々の功績を称えるため、また在学する生徒の学問の精進を祈って 植えられたと記されている。目黒の楷ノ木は、きっとこれからも生徒たちが勉学に励む様子を 静かに見守り続けてくれるよ。きっと。階の木は乃木神社、昌平黌にもあった、と思う。 |
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■祐天寺駅 2丁目13番にある東急東横線の停車場。昭和2年8月28日東京横浜電鉄が渋谷〜丸子多 摩川(多摩川)間を開業させたのと同時にできた。ホームは高架相対式2面2線構造。ホーム と改札を結ぶエレベーターも完備している。改札口は1ヶ所のみで1階にある。出口は東口と 西口の2ヶ所で、東口側には3階建ての駅舎とロータリーがある。 |
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