「ほほ笑みの国」と呼ばれるタイのイメージが、どれほど傷ついたことか。バンコク近郊のスワンナプーム国際空港を反政府団体「民主市民連合」が占拠し、日本を含む世界中からの訪問客や乗り継ぎ客を足止めさせた異常事態の、一日も早い終結を期待する。
アジア屈指のハブ空港のまひ状態が続けば、観光部門だけでなく物流にも影響が出て、タイ経済は大きな打撃を免れまい。北部のチェンマイで12月中旬に予定されている東南アジア諸国連合(ASEAN)首脳会議や、日中韓などを加えた16カ国の東アジアサミットも、延期の可能性が高まる。多方面にわたって国益を損なう危険を、タイ国民は深刻に恐れるべき状況と言えよう。
この騒乱の本質はタイ国内の権力闘争である。
新興財閥のオーナーであるタクシン元首相が総選挙勝利で政権を握った01年以降、それまで経済を支配していた旧貴族ら既得権層との確執が続く。
タクシン氏自身は06年の無血クーデターで失脚し、今は中国や中東地域で事実上の亡命生活を送っているという。だが、昨年末の総選挙では同氏派の政党が勝利し政権を奪還した。すると今度は背後に旧支配層がいるとされる市民連合が反政府運動を展開し、8月末からは3カ月も首相府を占拠し続けている。
さらに「最後の戦い」と銘打ってデモ隊を大量動員し、国会封鎖や空港占拠に出た結果が今の姿だ。目標は、タクシン氏の義弟であるソムチャイ首相を退陣させ、タクシン派勢力をつぶすことである。
いくら問答無用の権力闘争といっても、議会制民主主義の原理に照らせば、大義名分は辞任を拒否しているソムチャイ首相の側にあるだろう。タクシン元首相に不正腐敗、貧しい地方での「ばらまき」による支持獲得など問題があったにせよ、選挙で勝てない勢力が実力行使で政権打倒を図るのは無理がある。
この国には「タイ式民主主義」という概念がある。国民の崇敬を集める王室の権威と民主主義が共存し、政治危機の際には国王が動いて対立を収めてくれるという認識だ。軍事クーデターも、国王の追認がなければ正当化されない。
一連の騒乱の中、警察との衝突で死亡した女性の葬儀に王妃が出席した。市民連合は「王室の支持がある」と公言しているが真相は不明だ。国王の軍という性格が強い国軍のアヌポン陸軍司令官は下院解散と総選挙を要求し、ソムチャイ首相は拒んだ。
国民の間ではクーデター計画のうわさが広まっているという。だが2年前のクーデター後に政治・経済が混乱し、国内外で酷評を受けた経緯がある。流血の事態はもちろん、無血クーデターであっても国際社会は歓迎できない。民主主義への配慮が不可欠である。
毎日新聞 2008年11月29日 東京朝刊