1 始めに(メディアリテラシーとは)
お手元の資料をご覧ください。一番最初にメディアリテラシーとあります。これは今日お見えの愛媛大学の栗原先生を中心に、愛媛大学の中でも「メディアリテラシー研究会」というのが裾野を広げております。現在私たちが情報化社会という中で生きている様々なメディアによって、テレビとか新聞とか週刊誌とかインターネットとか、そういう情報の渦の中に生活しているわけですが、その数多の情報というものをどのように解釈すればよいのか、どのように読み取ればよいのか。ただ無条件に呑み込むだけでなくて、そこに何らかの工夫なり配慮なり、あるいは注意なりといったものが必要であろうと思います。そのメディアリテラシーが関心を集めている今、この教科書問題を題材にしてメディアのあり方を考えてみるというのも、大変意味あることではなかろうかと思っております。 お手元に1枚だけの資料がございます。これをまず最初にご覧ください。左側に『世論とマスメディアの役割』とあります。これは扶桑社新版「新しい公民教科書」から採りました。採りましたと言いましょうか、内輪を言わせていただきますと、私が書きました。メディアリテラシーということに対して何かよく分からないぞとおっしゃる方もおられると思います。 右のページをご覧下さい。『マスメディアの問題点』という所にアンダーラインが引いてあります。『我が国でも戦前戦中の一時期あるいは終戦後の占領期において政府やGHQにより厳しい言論統制が行われていた。このため国の進路を左右する重大な場面においても正しい世論が形成されず大きな反省につながる結果を招いたという例もある』 『今日の社会では広く言論や報道の自由が認められているが、それでもマスメディアから得られる情報が常に正しいとは限らない。マスメディアが自社の思惑に基づいて一面的な情報を流すといった世論操作が行われることがある』 『さらにマスメディアにはそれぞれ立場や考え方の違いも見られる。1つの事件について伝える事実は同じでもそのことについての価値観や判断の違いは報道の差となって現れることがある。そのため受け手に全く違った印象を与える内容となっていることも多い』 これがまさにメディアリテラシーという問題でありまして、私たちが触れるメディアの情報というものが果たして事実なのか事実でないのか。そしてもうひとつは事実と真実は違うということなんです。 以前お話したことがありましたが、「盲人評象」という禅の考案があります。目の不自由な方が象とはどんなものか、象を撫でた。多分インドのお話なんでしょう。ある方は象の背中を撫でて、象とは壁みたいなものだと言った。ある方は象の鼻を撫でて、象とは柔らかくて、くねくねしたものだ。ある方は象の足を撫でて、象とは柱のようなものだ。これはいずれも事実であります。しかし象の真実を言い当ててはいない。それぞれ名のとおったメディアであれば全く虚偽の内容を流すということはまずあり得ないかもしれない。ただ皆さんご承知のように、最近は日本を代表するようなメディアが虚偽の報道を行ったという事実がありますね。たとえば、某新聞の長野県の記者が田中康夫知事といろいろ面談したというまるっきりの嘘を書きました。あるいは先日の新聞ですと、某大新聞社の報道がNHKの番組について政治家の圧力を受けた、事前に検閲を受けたと書きました。これも証拠のないことであったということがわかっております。そしてその日本を代表する某新聞社はそのページの右上に登場してまいります。記憶力のよい方は覚えておいでだと思います。「サンゴ礁事件」。私はこれをどうしても教科書に入れたかったんです。そこで、扶桑社にお願いして「これを入れてください。記事を探してください」。扶桑社の方は一生懸命探してくれました。ご丁寧に一番左側に○○新聞社というのもきっちり入れてくれました。非常に胸のすく思いであります。合わせまして左側に戦時中のいわゆる大本営発表も入れました。この右側の「サンゴ礁事件」の新聞社の流す記事というのは、要するに大本営発表なんだということを出したかったわけです。 裏側をご覧ください。子供たちの課題学習として社説の研究という特別のページも書かせていただきました。左上の囲みの中にこんなのがあります。2行目。『しかし記事の分量や位置、見出しのつけ方や写真の有無などによって読み手の印象は随分異なってくる』 紙面作りというのは、仮にそれが虚偽ではなく事実であったとしても、誰がそう受けとめたのか、それについてどういう価値観をそのメディアが持っているかによって、読み手に与える影響というのは非常に違うものになってしまいます。 その例として、外国人に参政権を与えることが是か非かという二つの相異なる新聞の社説を載せています。ちなみにA新聞というのはその名の通り「あ」のつく新聞であります。B新聞はわれらが産経新聞でありますが、書いてある内容というのは180度違う内容になっております。したがって、読み手がどちらの新聞を購入し講読するかによって、おそらく世論の形成というものに影響を与えるであろうと思います。および右側の方は新聞社によって意見の対立しがちなテーマ、たとえばPKOの協力法であるとか、国旗国歌法であるとか、それぞれの代表的な社説を載せました。 実は、この紙面見たら注意深い方はわかると思います。左側にテーマおよび概要とありますね。その次にNOとあるでしょう。1番右側がYESですね。これは一種の情報操作なんです。普通は真中にYESがきて、右側にNOがくるんです。おわかりですか。横書きの日本語というのは読む人は左側から読みますから、当然最後にくる事が印象や後味として残るわけですね。ですから最後に右端にNOと書くと、生徒は多分NOの方が印象強く、真中のYESが打ち消されるんです。それで真中にNOを持ってきたんです。そういう、多分書いた本人しかわからないということをやっております。これも実はメディアリテラシーの一つなのかもしれません。ですから、もう少し頭の良い反対派がいたら、これは生徒に対してこういう意識操作をしようとしていると。誰も気がついている人はいなかったみたいなんですけれど。この夏、この点について突っ込んだ反対派は誰一人いませんで、しめしめと私は思っております。 一番最後にYESの立場、これを載せまして、生徒たちにメディアに触れる場合は複数のメディアに接しなくてはだめだよと。少なくとも家で愛媛新聞と朝日新聞を読んでわかったような気になってはいけないよという意味です。これからのメディアリテラシーというのは、そういう複数のメディア、いろんな角度から1つの事実をライトアップさせる、それによって出来事というのが立体的に浮かび上がってくる、ということを生徒にも、そして大人もまた気をつけなくてはいけないんではなかろうかと思っております。 2 愛媛新聞は教科書問題をどう報じたか これが今日の前振りでありまして、分厚い資料に入っていきます。皆さんはこの資料の多さにきっと驚かれたと思います。私も驚いています。実はこの表紙の部分に『愛媛新聞は教科書問題をどう報じたか 平成17年3月〜9月』とあります。お手元の資料の中で一番古いものが平成17年3月25日、一番新しいものは9月8日です。ということは、3月から9月までの7ヶ月間の間に愛媛新聞がこれだけの分量を報道したように見えますが、正味は5か月半です。まず教科書問題という小さな1つのピンポイントに対して、愛媛を代表する新聞が僅か5ヶ月半の間にこれだけの分量を報道したということを、まず覚えておいていただきたい。これは並外れた分量です。実は教科書の報道に関して言うと、産経新聞よりも愛媛新聞の方が多いです。それぐらい一種異様な情熱をもって愛媛新聞は教科書問題を追跡調査いたしました。その中心が中井君という若手の記者でして、この中に何度も署名記事が登場いたします。家にも何度か来ましたし、何度か喫茶店で会って話もしました。 マスメディアにはどこかの機関紙、例えば自由新報とか赤旗とかいう機関紙でない限り、ふつう新聞綱領というものに従っています。そこには不偏不党の立場で報道をするということがしっかりと謳われております。不偏不党、どちらの立場にも偏らない、客観的な事実を尊重して報道するということが、産経であろうが読売であろうが地方紙であろうが、それなりのメディアの綱領であろうと思います。したがって新聞というのは社会の公器であります。半公共的な、もちろん一企業でありその経営については市場原理に委ねられているわけですが、まるっきりの私企業かというと、やはりそうではない。社会の公器であり、愛媛県においては愛媛新聞が県紙であると、これは自他ともに認めていることであろうと思います。そういう、一企業でありながら公的な立場を帯びている愛媛新聞。そして現在32万部という発行部数を持っております。18年前に日刊新愛媛が潰れまして以来、愛媛新聞がほぼ地方紙としては独占状態にあります。地方の小さなミニコミを除けば、愛媛新聞は独占企業として愛媛県に君臨しております。 愛媛新聞も、もちろんマスメディアである限り自分の立脚点というものがあります。たとえば朝日新聞と産経新聞では明らかに違う。毎日と読売でもその立場、スタンスは違うと思われます。しかしながら他の新聞よりも公共性が強く、しかも地方における独占的な地位を保っているという愛媛新聞は、実は朝日や産経よりももっと色の薄い、つまり中立の立場・不偏不党ということを他の新聞よりも尊重しなくてはいけない立場にあると思われます。たとえば全国紙であれば産経がいやならば私は毎日に変えようとか、朝日がいやなので私は読売に変えようとか、そういうことができます。 しかし愛媛新聞というのは県下16の支局を持ちまして、非常にきめ細かい報道をしております。私が勤める学校などもそうですが、県下全ての学校において愛媛新聞が取られております。これはたとえば新人戦であるとか、総体であるとか、様々な美術展、音楽会、そういうところにおいて自分の学校が載ったり生徒が取り上げられたり、そのようにきめの細かい取材というのをしているからです。したがって、地元紙の強みということからみて、役場や学校などが愛媛新聞を取ることはこれはごく自然のことだと思いますし、当然だと思います。それが求められている愛媛新聞であるからこそ、他の全国紙に比べて遥かに中立性というもの、不偏不党性というものは高くあらねばならない、という要請はもちろんだと思います。皆さんとご一緒に見ていきたいのは、この教科書問題という愛媛新聞がほぼ総力を挙げたといえるこの取組みの中で、その県紙として社会の公器としての不偏不党性・中立性というものが損なわれていないのか、という点です。ちなみに私は「つくる会」の評議員でありまして、教科書の執筆者でありますので、「つくる会」に非常に深く関わっている立場にあります。しかしながら今日につきましては「つくる会」の立場というのではなくて、極力中立の立場で、いわば一県民としてこの愛媛新聞の表現・報道というものを見ていきたいと思っております。 3 検定合格 それでは1ページをご覧下さい。4月5日に文部科学省が8社の歴史・公民教科書の合格を出しました。その中に扶桑社ももちろん含まれていたわけですが、その時の愛媛新聞の記述です。これ100%の記事ですのでこの大きさです。拡大・縮小しておりません。一番左側に『新たな火種、遠のく宥和』という非常に大きな六段抜きのタイトルがド-ンと出ております。新聞などをあまりご覧にならない方、あるいは読み飛ばす方というのはこのリードのつけ方で第一印象を持ちます。我々でしたら詳しく中を読むわけですが、あまり興味のない方はこの大きな縦横の字だけ読みまして、「ああ、そうか」と。中国や韓国との宥和・友好・親善というものが遠のいたのか、その火種はこの教科書かと。外国との友好を妨げる厄介な教科書が通ったのかと。『不信の悪循環 懸念』 これで2つの国がお互いに仲が悪くなるんだなあ、そういう問題のある教科書が合格したんだなあ、という第一印象を、まずここで持ちます。 一番上の左側。『教科書問題が火に油を注ぐ結果になりかねないとの懸念も広がっている』 これはおそらく事実でしょう。事実なんですが、これは何を言っているのかというと、この教科書問題によって日韓・日中の間に不信感が広がってほしい、という愛媛新聞の願望を表した表現です。これを普通は「外圧導入記事」と我々は呼んでいます。「外国さん、中国さん、韓国さん、このような教科書が検定を通ったんです。あなた方はこれを黙って見ているんですか」という呼びかけとイコールです。そういう面で内部告発をしている。 同じものが右上3段目にもあります。『国民レベルで相互不信の「悪循環」にも入りかねないとの不安も消えない』 この文章には主語がありませんね。主語は何かと言いますと、私たち愛媛新聞は、というのです。「私たちはそういう不安を持っていますよ」とここで訴えているんですね。資料の・に検定合格とあります。検定に合格したことをこの後4ページにわたって愛媛新聞が報道しております。 次のページをご覧下さい。かなりのものですが、『歴史歪める中韓反発』 この教科書は歴史を歪めた教科書なんだと愛媛新聞は言いたいわけですが、表だって言うわけにはいかないので、「歴史を歪めていると中国・韓国はおっしゃっていますよ」という表現になっております。「中国・韓国がこの教科書に反発していますよ」ということを一方的に報道することによって、つまり中国・韓国の言葉を借りて、愛媛新聞は自分の言い分ということを報道しているんです。「中国・韓国がこの教科書に懸念を持ち、反発を感じていることは事実でしょう。だから私たちは事実を報道するんですよ」 こういうスタンスなんです。自分が「この教科書は事実を歪めている」とははっきり言わないんですね。「中国・韓国がおっしゃっていますよ。嘘じゃないでしょう」 ですから我々は突っ込めないわけです。つまり、扶桑社に対する反発の姿勢を持った人々だけを報道することによって、片面的な報道を作り上げているという手法であります。 もちろん片方だけの言い分を書いたのでは、「お前偏向しているじゃないか」と突っ込まれることは愛媛新聞にもわかっていますので、一番上の段を見てください。『「今度の採択では勝たないと」1月下旬に都内で開かれたつくる会主催の集会で、西尾幹ニ名誉会長が力を込めた』 力を込めた、なんです。その4行あと。『幹部(高森元事務局長)は「4年後は必ずリベンジする」と息巻いた』 言い方が不親切でしょう。力を込めた、息巻いた、です。こういう括り方になっているんです。ごく普通に同じことを書こうと思えば、「4年後は必ずリベンジをすると言葉に力を込めた」とか書けばいいわけです。書かない。息巻いた、なんですね。確かに高森明勅さんは熱っぽく「必ず4年後もう1回撒き返します」と言ったんでしょう。それを「息巻いた」とか「ぶち上げた」とか、そういうふうなもの言い方をすることは、確かに事実かもしれませんけれど、主観が入っていますね。こういう主観の入れ方をすることによって、「両論併記していますよ」と言いながら、実は価値観の違いを見せているというやり方をするんです。 下から2段目を見てください。これはお涙ちょうだい記事なんです。『「心労で倒れたこともあった」ある教科書会社の役員は振り返る』 この教科書会社とは日本書籍新社といいまして、日教組ご用達の教科書会社です。前回の採択で扶桑社効果によりガタッとシェアを減らしまして、倒産いたしました。『4年前、ただ1社「慰安婦」との言葉を掲載したが、採択を六割減らして経営難に陥った。株主や銀行に頭を下げて回る日々。結局、倒産し新会社として再出発した』 非常に愛媛新聞が気持ちを摺り寄せていますね。この日本書籍新社。「かわいそうになあ。扶桑社のせいで辛い目にあったんだね」という記事なんです。 その段の一番最後。アンダーラインを引いていますが、『日中関係の悪化を懸念する知識人の間でも歴史教科書問題への反発は強く』 日中関係の悪化を心配している人は扶桑社の教科書に反発を持っていると書いてあるんです。では皆さん、日中関係が悪くなっていいとお思いですか。思っていませんね、そんなこと。出来ることなら隣の国とは仲良くやりたいと思っていますよね。我々だって執筆者の私だってそう思っています。ところがこの記事だと、この扶桑社の教科書は日中関係を悪くする方にしか働かないんだと。この両国の行く末を心配している人たちはことごとく扶桑社に反対しているんだ、こういう捉え方であります。何か意地悪い意図というのを感じます。 3ページ。これも先ほどと同じです。相手の言葉を借りて自社の主張を訴えている。右端のリードです。『「侵略戦争を美化」憤る』 これも一方的報道ですね。相手がそう言っているという事実だけです。これは北京発の報道ですが、アンダーラインの所。『日本の右翼勢力が侵略戦争の「美化」を図っていると指摘し、「人類の正義と良識に対する挑戦だ」と糾弾した』と。次は中国の大使の言葉ですが、『扶桑社の教科書は歴史の事実を改竄しており、中国を含めたアジアの被害国の国民感情を傷つけるものであり、日本の国際的イメージにもマイナスだ』と。これも向こうの一方的な言い分です。その下には韓国のコメントもあります。では、この記事の後に文科省なり扶桑社なりのコメントがあるのかというと、ないんです。反対する方の声だけを一方的に紹介した記事です。 左側を見てください。嘘が書いてあります。『「つくる会」主導による公民教科書が竹島(韓国名・独島)を日本領と表記したことに「深刻な憂慮」を示し、強い対応を取る方針を表明した』 これ嘘なんです。この文章を普通に読んで、「竹島を日本領だと書いたのは誰ですか」と中学生に出題したとします。すると普通の生徒は「「つくる会」が書きました」と答えるでしょう。違うんです。文科省が書かせたんです。問題の部分はどこにあるかと言いますと、この「つくる会」の教科書のグラビアの部分に竹島の絵があります。一番最初の見本本(検定合格のために文科省に扶桑社が差し出した検定申請本)によりますと、「日本と韓国との間で領有権を争っている竹島」と出したんです。ところが、文科省の注文がついたんです。「これは違う、書きなおせ」という注文がきて、現行版のように「我が国固有の領土であるが、中国が領有を主張している尖閣諸島、および韓国が不法占拠している竹島」という言い方になったんです。これは文科省が書かせたんです。むしろ扶桑社が書いたよりも日本の立場というものをはっきり出した。「なかなかやるじゃないか、文科省」と我々が喝采を送った部分であります。ところが、こう書いたのは「つくる会」であるというようなことを何の検証もなしに愛媛新聞は書いております。 4ページです。みなさんの中には「健全な男女共同参画社会をめざす会」の方もおられますし、私もその幹事をしておりますが、この教科書に関してジェンダーの問題です。『背景に過剰な反応』 これを読みますと、愛媛新聞というのはジェンダーフリー推進派であることがよくわかります。アンダーラインの所なんですけれども、『執筆者の一人は「男女平等教育に行きすぎがあるとする勢力(山谷えり子さんや安倍幹事長など)がジェンダーフリーという言葉をやり玉にあげた影響が大きい』 『「ジェンダー恐怖症」ともいえる過剰な反応が各地で起きている』 その愛媛新聞のリードのつけ方、縦リードです。『男女平等教育批判広がる』 これはもう違いますね。私ども「健全な男女共同参画社会をめざす会」が主張しているのは、「男女平等教育批判」ではありません。男女平等は大いに結構です。ジェンダーフリーと男女平等はまるっきり違うんです。そんなことさえ愛媛新聞はわかっていない。こういうふうな書き方をしますと、この教科書というものが男女平等を否定しているかのようにみえる。そうではない。ゆきすぎた「男女の中性化」、あるいは「らしさの否定」、あるいは文化的行事・伝統・価値観、そういったものまで一切否定してしまう。専業主婦を否定し、女も働かなくてはいけない、子育てを社会に任せて女は働け、そういったイデオロギーというのは明らかに行きすぎではないのか。個人の信条や行き方を無視したものではないのか。多様な生き方を認めるというなら、専業主婦や、自分の性を大切にする、男らしさ女らしさを大事にすることも尊重してくれと我々は言っているだけであります。なにも男女平等を非難しようとか、せき止めようとかしているわけではありません。ところがそういうものを全部いっしょくたにして、誰も反対できない「男女平等」すらこの教科書は反対しているかのような、そういう印象を与えています。『背景に過剰な反応』 過剰なんだ、してはいけないんだ、行き過ぎなんだ、という価値観が見えます。 その右側の方向ですね。リードはこれはどちらかと言えば両論併記、2つの意見を並べているわけです。我々にとって従軍慰安婦が消えていい方向に行っていると。これは私が言ったんですけどね。書いてあります。今日お見えの久松会長のコメントもここに入ってあります。で、2人ずつの意見を取り上げて並べてあります。これはそれぞれの同じような分量でそれぞれの立場の人が出ておりますので、愛媛新聞としては中立的な記述かなあと思ったりいたします。 4 特集・対論 ・特集・対論をご覧下さい。5ページ。ここから特集に入ります。愛媛新聞はシリーズでこの教科書問題『採択の夏へ』と題しまして5回の特集を組みました。全て中井有人君という若い記者が足で稼いだ記事であります。彼は非常に精力的に取材をしまして、県立西中にも行ったり、いろんな先生にも会ったり、県教委にも足を運んだりとか、私の所にも来ましたし、反対派の所にも行ったりしましてね、熱心に良く動いた青年でありました。一番が『授業』という所でありまして、現在県立中高一貫校で使われている扶桑社の教科書についての考えを取材したものであります。これは「教科書と授業は別物ですよ」ということが書いてあります。つまり教科書はそれを使うんだけれども、教員というのはその通りにずっと授業するわけではない。自分のオリジナリティーというのが入るので、教科書の内容がストレートにどんと生徒にいくわけではない。ワンクッションがあるというのが5ページに書いてあります。 6ページ目です。では教科書というのは教育現場でどのような意味を持っているのか、という内容です。ここでは、やはり教員の裁量によって教育の内容が多少変形するとはいえ、教科書の内容は徐々に生徒に行き渡ってくるものですよ、ということが書いてあります。誰が言ったのかといえば、私が言ったのです。この辺は私の名前がぼんぼん出てきてちょっと面映いわけですけれども、特に一番下の段ですね。扶桑社のこの教科書の影響力が少しずつ子供たちに染み透っていきますよという語り口で終わっています。もちろんこの文章の書き方で、中井記者は「それで本当にいいんですか。危なくないですか」という読後感を持たせるような記述をしております。 7ページ目です。生徒の声。これはラインを引いた所を読んでおいて下さい。積極的に評価する意見もあれば、そうでない意見もあります。 8ページ。これは「つくる会」という私たちの活動を捉えた1枚です。ここでも1番上右端に私の名前が出るわけですけれども、2段目。『市町立中学校への普及を県内の目標とし「生徒数の多い松山市で採択されれば」と意気込む』 やはり私たちが喋る言葉は「意気込む」などと書かれたりするわけでありまして、もう少し違う述語が欲しいなあと思ったりします。 上から4段目。『「つくる会」には今、追い風が吹いている』 何が追い風になったのかというと、タウンミーティングで文科大臣が現在の教科書は「自虐史観」であると批判しているし、埼玉県では高橋史朗先生が教育委員になった。それから、学習指導要領を見てみると「我が国の歴史に対する愛情を深め」というふうなことも書き加えられて、扶桑社にとって採択に都合のよい環境ができている。しかも隣の広島県では「つくる会」の会報を配ったりしている。愛媛県では加戸知事が以前「この教科書がベストだ」と発言している。これが追い風の正体なんです。おわかりでしょうか。今愛媛新聞が書いた内容というのは全て行政の働きかけ、上から下への働きかけです。知事、教育委員、行政の資料配布、あるいは学習指導要領、あるいは文科大臣の発言、全て上から下へ向かって「つくる会」に追い風が吹いているという、そういうもの言いです。市民運動として下から上に向かって、「どうかこの教科書を採択してくれ。今までの教科書は問題がありますよ。扶桑社の教科書がバランスがいいんじゃないですか」と、そういう声が起こっているという記述ではありません。上から下へ向かって、つまり後からもっとはっきり出ますけれども、意地の悪い言い方をすれば、「行政」「政治家」「国家権力」、そういうものがこの扶桑社の教科書を追い風として子供たちに与えようとしているのですよ、という図式を愛媛新聞は作り出したい。全国都道府県に「つくる会」の支部が誕生し、そこで名もなき市民たちが一生懸命署名を集めたり、語り込みをやって支持を増やそうとしているとか、講演会を開きシンポジウムを開き地道に頑張っているとか、そんなことは一言も書かない。市民運動なんか一言も書かない。全て、上から扶桑社に風が吹いています。上から抑えつけていく教科書。知らないうちに私たちの生活の中に扶桑社が忍び込んでいませんか。「つくる会」の色になっていませんか。そういう表現なんです。これが我々のことを紹介する文章なんです。読み終わった人は不気味な印象を持ちますね。「つくる会」とは何だろう。行政と一体になって権力の手先として子供たちにとんでもないものを押しつけようとしている。そういう会みたいなイメージが残ります。 で、最後。これがこのシリーズの最後なんです。最後はやはり反対派で締めるんです。この後見ていただくと、賛否両論の紹介というのがあるんですね。何か事件が起こった場合、愛媛新聞が賛成派・反対派両方の意見を紹介する場面がいっぱいあるんですね。たいていの場合、反対派が後にきているんです。これ、なぜ入れ替えてくれないのかなあと思うんですけどね。で、順番に上から読んでいって最後は扶桑社反対派で必ず締める、という終わり方をしますね。 余談ですけど、日本語というのは同じ言葉を組合せて熟語を作った場合、下にある言葉の方が強いんです。生徒によく言います。ネコヤナギというのは植物ですか動物ですか、と言うんです。植物です。柳の種類でして猫じゃないんですね。クマタカというのは動物ですか鳥ですか。鷹なんですね、熊じゃないんです。青緑というのはどっちが強いかというと、緑が強いんです。緑の中に青がちょっと入っているのを青緑といいます。黄緑もそうです。緑が強い。上はおまけで接頭語なんですね。下にあるほうが強い。だから夫婦といったら下の婦のほうが強い。おわかりですね、実感として。ですから、愛媛新聞の取材というか紙面作りをするときに、必ず最後は反対派の言葉で締め括るんですね。私はこれは編集部にお願いして、どうせ同じだったら僕らの方を最後にしてもらえません?是非そう言って欲しいですね。 ちなみに愛媛新聞って僕は毎年思うんです。ここ20年ぐらい思っています。2月12日の新聞。ご存知ですか、建国記念日の次の日の新聞。日本会議などで建国記念日の集会をやっていますよね。2月12日の愛媛新聞には必ず県内で建国記念の日に賛成するグループと反対するグループが集会を開いたと記事が出ます。我々の集会、県民文化会館で1000名を集めた集会とか講演会とか出るわけです。こちらの方でどこかのキリスト教の教会で反対派が信教の自由を訴えて建国記念の日に反対する集会を開いた。我々の方は1000名単位で集めるわけですね。向こうの方は70名とか80名とかなんです。しかし新聞記事は同じ面積なんですね。毎年そうなんです。お気づきでない方はこれから2月12日の愛媛新聞を見てください。ここ20年必ずそうなっています。80人の集会と1000人の講演会を同じ面積で並べて賛否両論なんですか。違うんじゃないですか。少なくとも県下で反対派の十倍以上を集めたら、それなりの面積の出し方があると思うんですが、私たちの建国記念に反対している愛媛新聞は、両論併記と言って同じ面積で80人の集会も1000人の講演会も出してしまう。こういうところがあります。この逆手の取り方というのはあるんですけれど、それはまた後でご説明します。 この9ページ目。始めの方に村上さんという大洲市の郷土史家が登場します。ラインが引いていますが、『教科書問題の影響を受け、地元で計画していた日韓少年サッカー交流が中止になるなど、両国の友好は一気に悪化した。長年の苦労が1回の採択で崩される。また、あんな思いをするのだろうか』 これを読んだ人はどう思うでしょうか。ああ、村上さん可哀想になあ。長い間子供たちが楽しみにしていたサッカーの都市交流の大会が中止になった。なんて可哀想なんだう。誰がこんなことをしたんだろう。扶桑社の教科書か、となるんです。子供たちの夢を打ち砕く扶桑社の教科書であります。この言い方。しかし本当にそうなんでしょうか。サッカー大会が中止になったのは、韓国が「中止にする」と申し出たからでしょう。よその国の教科書がどの会社のものになるかによって、全く関係のない友好都市交流を打ち切ったり、サッカー大会を中止したりする韓国の方がおかしくないですか。そういう視点は一切ないんです。ただ、子供が犠牲になった。なぜか。それは「つくる会」がこのような教科書を出したからだ。韓国の神経を逆なでするような教科書を書いたから、サッカー大会ができなくなり、子供たちが非常に残念な思いをした。こういうものの言い方になるんです。 これはどこかで聞いた論理だなあと思ったら、今までの歴史教科書ですよ。日本が悪いことをしたから原爆を落された。あの論理です。日本が戦争に突入したから東京大空襲で10万人が死んだんだ。日本が悪い戦争をしたから中国残留孤児が生まれたんだ。あの論理です。違うでしょう。無差別爆撃をしたのは一体どこの国なんですか。日ソ中立条約を破って満州に侵攻したのは一体どこの国ですか。それを全部日本が悪いから、この論理なんです。全部扶桑社が悪いから。子供たちが泣いたのも、友好都市・姉妹都市がご破算になりかけたのも、全て扶桑社のせい。韓国側は責任を一切問われていない。これはおかしいんじゃないですか。どうして教科書のことでサッカーを楽しみにしていた子供たちが泣かなきゃいけないんですか、という突っ込みは一切ありません。 一番下を見てください。『しかし、愛媛は「管理教育」県として知られてきた。三年前の県教委による県立中での採択では、下部委員会で一番の評価ではなかった扶桑社版が選ばれただけに、反対派は懸念を払拭できない』 ここもそうですね。愛媛県というのは管理教育県なんだと。つまり現場の教員の声を無視して扶桑社版を採用する教育委員会というのがあると。上から下への流れ(追い風)とは、上から下への抑えつけなんだと。その押さえつけの風に乗って扶桑社がシェアを広げようとしている。というイメージで紙面を作っております。 次の10ページは特に問題はありません。これは両論併記が割合まともに出来ている部分です。藤岡先生と琉球大学の高嶋教授です。ただこれは先ほど申し上げましたように、高嶋教授のほうは愛媛県下3ヶ所、東予・中予・南予3箇所で連続講演会を3日間に渡って開きました。私も中予の講演会に行ってまいりました。合計二百数十名の動員でしたが、藤岡先生の方は皆さんも行かれたと思いますが、森田健作さんもお呼びしまして千名という動員をいたしました。しかし同じ面積で書かれております。これぐらいは我慢しないといけないのかなあと思ったりします。 11ページ。7月になりますと採択直前になりました。『平和のかたち』というシリーズが始まります。これもやはりジェンダーフリーの問題です。同じく『「男女平等」歩みに逆風』として現在の教科書。これは扶桑社とは銘打っていないんですけれども、中を読んでみますと、『復古調の愛国心教育や歴史教科書問題などの揺り戻しが』と、これは明らかに扶桑社のことですね。こういうふうな流れの中で男女平等が妨げられようとしておりますよ、という記事が載っています。この『平和のかたち』の第2部が現在始まっておりますけれど、愛媛新聞をお読みの方は注意して見てください。この『平和のかたち』のシリーズは本当に酷いです。メチャメチャですね。 例えば一番最初の部分ですね。松山市内で開かれたジェンダーを考える勉強会。『ある男性が唐突に発言した』 唐突に発言した。『子供が親を殺したりするのは家庭教育ができていないのが原因』 そうでしょう。『女性が社会に出て強くなったからだ』という声。これは私たちはよくわかります。この方は言葉が足りないんです。足りないんですけど、意味はわかりますね。女性が家庭を顧みることなく子供にあまり愛情をかけずに社会に進出しなくてはいけないと、育児の社会化ということが言われるようになって以来、子供が愛情不足になっていると。それが親殺しであるとか非行なんかにダイレクトに結びついているんではないんですか、という意見なんです。補足すれば充分わかります。確かにこれは現場教員にとっても重たい問題です。ところがその意見に対して『会場からは「時代錯誤の考え方だ」と半ばあきれ気味の声』
半ばあきれ気味の声。これはあきれた意見だと愛媛新聞は書いています。『ただ、今の日本社会、同じ趣旨の発言は公然と語られ始めている』 これは差別じゃないんですか。この表現。この方に対する露骨な差別です。ここまで書いている。この方の言っていることは明らかに間違いなんだと、メディアがこう書いているんです。あきれた内容なんだと。そして人を唖然とさせるような内容が今、公然と語られているんだと。それがこの復古調や愛国心教育や歴史教科書問題の揺り戻しなんだと。つまり言葉を変えてみれば、扶桑社の歴史教科書は我々があきれて声も出ないような現象なんだということであります。 この後、3段目を見てください。山本翠さんという67歳の女性の声を紹介しております。この方の肩書きは県アジア・アフリカ・ラテンアメリカ連帯委員会の事務局長ということで載っていますが、この山本翠さんという方は今NHKと朝日新聞の間で問題になっている例のむちゃくちゃ裁判というのがありましたね。女性国際戦犯法廷という、松井やよりという元朝日新聞の女性記者が昭和天皇などを被告に見立てまして有罪判決を下すという、弁護士一切なしで行われたという暗黒裁判。あれはNHKの教育テレビで放送したので大問題になったというあの女性国際戦犯法廷に出席した方なんです。ですから、バリバリのジェンダーフリー派の方です。この方の意見を長々と紹介しております。 たとえば、この方は雇用差別撤廃に取組んできた。『市職員が働く学校給食などの現場に正職員、臨時職員、パートなどの異なる身分があった』 おかしいと思いませんか。正職員とか臨時職員とかパートというのは身分なんですか。違うでしょう。これは職務の違いでしょう。なんでこれが身分なんですか。身分というのは士農工商などが身分というんですね。この人はこれが身分差別だと言うんです。うちの学校にも講師がいますけれど、あれは身分差別なんですか。採用試験に受かっていなくて講師でいるというのは差別だと言うんですかね。明らかにおかしいですね。 で、一番下まで、ずっーとアンダーラインを引いています。『権利を勝ち取った人がそこに安住し、いつの間にか権力側に立ち、より恵まれない階層の人を見下していないか。「自分の成長を止めている」山本さんの指摘は、「権力」が時計の針を急速に逆回転させようとしている今の時代こそ重く響く』 赤旗ですか、これ。この『平和のかたち』のシリーズって本当に酷いです。だからコンセプトとして、扶桑社の教科書が広がったりジェンダーフリー批判が起こるというのは平和を脅かすものなんだ。そういう意図が明らかに込められております。この編集者に言わせれば、私たちの集いというのは平和に対する敵、戦争に直結する集会だと思われているのではないかと思います。 12ページをお出し下さい。愛媛新聞の迷走がだんだん激しくなるあたりなんですが、この『平和のかたち』の第6回。リードが『歴史に向き合わぬ交流』 日韓交流ですね。韓国から訪問団がやって来た。平澤市の市民たちですね。あの事件です。アンダーラインの所だけいきます。彼らは平澤市から『贈り物を用意し、率直な意見交換に期待していた訪問団は「ものを言う機会さえ与えられなかった」と肩を落した』 これは県や松山市の面談がキャンセルされたんですね。ものを言う機会さえ与えられなかった。お土産を持ってきていたんですね。でもそれも渡すことが出来なかった。そう書いてあります。「なんて可哀想な」と、これを読んだ人たちは思いますね。 その段の終わり。『日本に再び侵略されるんじゃないか。独島(竹島)、靖国、歴史教科書問題でみんなそう感じている』 では、竹島を不法占拠しているのはどこの国だ。何を考えているんでしょう。その2段目の終わり。『杭を打ち込んだ加害者(日本)は忘れても、打ち込まれた被害者(韓国)はその歴史を忘れることができない』 つまり過去に日韓併合という事実があったとすれば、未来永劫韓国人はそれを歴史カードとして利用できると、こういうわけです。その下。『「日本には自衛隊がある。北朝鮮の脅威を抱える韓国が日本と戦争になれば、また侵略される」』って、何を考えているのでしょうか、この人は。日本には自衛隊しかないけど、あんたの国には軍隊があるだろう。しかも韓国は徴兵制じゃないんですか。 その後です。『「歴史教科書」はメンバーにとって、「恐怖心」を「友好」に変えるため越えねばならない問題』 これは向こうが言っているんじゃないんですよ。愛媛新聞がそう書いているんです。「 」がついてないでしょう。これは愛媛新聞の台詞です。だからこの扶桑社の歴史教科書を採択しないことが平澤市からやって来た心優しき友人たちを迎え入れる唯一の方法なんですよ、「恐怖心」を「友好」に変える唯一の方法なんですよと、愛媛新聞が書いているんです。その段の最後。『倭寇、豊臣秀吉の朝鮮征伐、日清日露戦争、そして植民地支配ノ。「朝鮮半島の歴史が変わるのは、いつも日本の侵略がきっかけ」』 元寇はどうした。何にも書いていませんね。これが愛媛新聞のスタンスなんです。 一番最後です。『歴史と向き合い、認識の違いを共有することから始めたい』 認識と共有するとはどういうことですか。日本が韓国の歴史観に合わせるということなんです。それ以外この文脈の中で読みようがありません。他にどのような意味があるのか。お互いに真実を話し合いお互いに論戦してもいいから、自分たちの本音を出し合って落しどころを探っていこうと言っているんではありません。日本が一方的に韓国の言い分に従えと、杭を打ち込まれた側の方に杭を打ち込んだ側が合わせろと言っているんです。これが愛媛新聞のスタンスです。 13ページはパス。 14ページですが、3回にわたって扶桑社の教科書を支持する人と反対する人の両論を紹介しておりますが、(支持派)の中島さんにつきましては「つくる会」のスタンスとは違います。ラインを引いてある所が私たちとは若干温度差があるなと思われているところです。『南京大虐殺は否定できない』ではありません。私たちは否定致します。こんなものありませんでした。『満州事変からは侵略だ』というのも、こういう一方的な言い方も出来ません。侵略的な要素はありましたが、満州事変からは侵略だと切って歴史を解釈することは無理だと思います。『加害者として大変な迷惑をかけた歴史を忘れてはならないが』
とありますけれども、これも言葉が足りないなという印象が浮びます。下に私がコメントしてありますように、弱アルカリ的な意見ですね。左側にさっき出てきた大洲市の村上さんですが、この人ははっきり反対派です。弱アルカリと強酸性では中性にならないでしょう、と言うことですね。 その次ははっきり中性になっています。15ページ。これはわれらが小笠原ミワ子会長ですので、これはしっかり「よくぞ言った」みたいな非常に良い意見です。後でお読みください。 5 反対派の動き それから注目していただきたいのは16ページからですね。愛媛県内における反対派、扶桑社反対派の動きが延々と続きます。この後ずーっと約8ページにわたって続きます。どういう人々が反対しているのかということをまずご覧下さい。この16ページでは県立高校の2人の先生が裁判を起こした。加戸知事に対して、あるいは県教委に対して裁判を起こした。ふつう裁判を起こしたというのは1段ベタ記事ですよ。ところがこれだけ大きな記事になっています。そしてラインを引いている所を読んだらわかりますけれども、本当にこの人たちの言い分というのを長々と紹介しているんです。しかもこの文章は何も知らない人が読んだら涙が流れますよ。 たとえば、『生徒たちに対して無責任にならないよう、現職のときに言わねばならないと思った。いま黙っていて、後から生徒に「悪かった」と謝るようなことはしたくない』 その下です。『戦前と同じような中身のこの教科書が使われ』 扶桑社の教科書は戦前の教科書と同じなんですか、読んでないですね、この人。どこが同じなのかと聞きたいですね。『影響を受ける子どもたちの未来を思うとき、計り知れない恐怖と不安を覚える』 病気でしょうね、この人。『それは、子どもたちと深く接する教師の仕事の喜びと明らかに相反するものに感じられた』 子どもたちと深く接する教師の仕事の喜びを感じている私はこの教科書を書いているんですけどね。 『この教科書を使わされる子どもたちや教師と非常に身近な位置にいて、この教科書を使う学校に勤務する可能性が高いからだ。教育現場や生徒のことを一番知っている教師の意見が無視された採択経過にも「上から押しつけられ、納得のいかないことを指導するのが教師の仕事だろうか」』 一番最後、『「教育から『人の命を大切に』『平和を』の観点だけは抜けてはいけない」』 私もそう思います。『「それを失ったら多くの人に幸せは来ない、と思いながら仕事をしています」』 私もそう思います。 こういう言い方を頻繁に紹介していますよ。情を揺さぶるような文章をどんどん書いて、この人たちに気持ちをシンクロさせようとする。だから県教委や加戸知事の発言は許せないんだと、上からの押し付けなんだと、そういう方向に持っていっています。つまり扶桑社の反対サイドに「人道」というものを置く。こういう情に絡めるという文章を愛媛新聞はよく使います。 この後、ずーっと反対派が出ています。言葉を囲んだ所がありますね。これが反対派の個人もしくは組織でありますのでそこだけご覧下さい。17ページ。写真入りで、でかく出ていますね。つぎの18ページ。いっぱい出ています。『えひめ教科書裁判を支える会』あるいは『子どもたちの未来をひらく教育を求めて、新日本婦人の会』 新日本新婦人の会というのは共産党女性部です。19ページ。『憲法9条をまもる大洲の会』『市民グループ教科書問題を考える会・西条』それから『男女平等市民オンブズえひめ』『県退職教職員連絡協議会』『愛媛〜沖縄・ゆいまーる』『松山地域労働組合連絡協議会』等、こういう諸団体が反扶桑社のいろいろな活動をしております。20ページ目も続きます。『愛媛労働組合会議』『愛媛大・松山大の教授有志』『戦争をとめよう!百万人署名運動県連絡会』『県外の教授たち』『えひめ母親大会』 これも共産党系ですね。さまざまな労働団体が続きます。それから次のページ。今度は写真入りで出てきます。『市教組』『日本コリア協会』『県教組』『原水協』などですね。 こういった反対派が何かを行なったかということを愛媛新聞は事細かに、4、5人が県庁に来て何か要望書を出した、どこかの団体が署名を集めて持ってきた、と載せるんです。ずーっとこれが続きます。その中心が『えひめ教科書裁判を支える会』という会です。これが何かをやるたびに記者会見を開いてマスコミにアピールする。通算15回やっております。そのうちの半分は6月。例の韓国の平澤市からやって来たそれを中心にやっています。合計15回のアピールをマスコミにやり、その度に愛媛新聞が拾うんです。 ということは何が言えるのか。私たちもさまざまな団体を抱えていますね。「モラロジー」や「学ぶ会」「つくる会」「めざす会」さまざまな団体を抱えていますが、4年後に戦略として、私たちがそれぞれ自分たちの団体というものを使って愛媛新聞に書かせる。「あなたこれ書いたでしょう。どの団体でも書いたじゃないですか」「私たちも書いて」。そこで、はっきり書く。「扶桑社を採択してください」。公正な採択じゃなくて、「扶桑社を採択して下さい。一番良い教科書です。私たちの会は扶桑社の教科書を愛媛の次の教科書として推薦します。それを県教委にお願いに来ました」。だから、静謐な環境でとか学習指導要領に忠実な教科書をというよりも、むしろ1歩進めて、「扶桑社の教科書を採択してください」。いろんな団体が時間をずらして、そして愛媛新聞に「出してください」と言えばいいんです。 (愛媛新聞には)毎日のようにこういう細かい記事が載っているんです。ですから言ってみれば、小さなパンチを休みなく打ちつづけるというボディーブローでたくさんの手数を出すんです。そうすることによって、「また載っている。また載っている。こんなに毎日反対にさらされている教科書というのは評判悪いんだろうな」という印象を、実は私たちは受けているんではなかろうか。もちろんそれが愛媛新聞の狙いなんであろうと思います。 そして極めつけが22ページ。これは韓国の市民団体です。8月13日お盆前に出ました。下のほうに出たんですけれど、かなりの面積。これは100%よりももう少し縮めています。本当はもっと大きいんです。新聞の下3分の1ぐらいを占める大きな広告が載りました。この文章を後で読んでいただきたいと思うんですが、これは敵ながら天晴れな文章です。私は10年間国語の教員をやっていましたが、この文章は本当に上手いですよ。何も知らない人がこの文章を読んだら、扶桑社を支持しようとは絶対誰も思わないです。これは泣かせます。自らを被害者の立場に追い込み、そして相手の情にほだしていくという。たとえば最後から2つ目の段落。『日本を見守る韓国とアジアの友人たちに、皆さんはどのような行動で応えてくださいますか』ときますよね。本当に情に訴える文章なんです。これは敵ながら見事です。私たちも真似をしなければいけません。本当に感情面で、理屈じゃないんです、感情面で、「仲良くしましょう。どうしてあなた方は私たちが仲良くしようという手を、そう無慈悲に払い除けるのですか。私たちがどんなに悪いことをしたんですか。あまりにもそれはひどいことありませんか。私たちの子供たちの未来のために、そしてふたつの国の不幸な運命を乗り越えるためにどうか手を結びましょう。そのためには扶桑社を採択しないで下さい」 こう来るんです。 6 「つくる会」の動き ・「つくる会」の動き。23ページ。では、それに対して私たちのカウンターパンチはどうであったか。これだけなんです。私たちの行事で載ったのは、たった1ページで終わり。松山で森田健作さんの講演会、藤岡先生のシンポジウムをやった。写真もない。その後、宮川会長が声明を出した。今治の市教委に村上さんたちが公開質問状を出した。これだけです。反対派とは手数が違うんです。確かに松山では千名集めました。しかし、大ぶりの1発を出しただけです。あと、向こうがちょこちょこと手数を出していく。我々はブーンという大ぶりな一発を出しただけ。この違い。県民に与える影響、そしてマスコミの紙面に現れる影響ですね。ここらへんからしっかり我々は学ばなくてはいけないと思います。 7 外国の圧力 ・外国の圧力です。これは先ほどの採択の合格のところでも出たわけですけれども、韓国を中心としてどんどん出ました。先ほど申し上げたように、愛媛新聞で最初の3月4月あたりはこの外国の声を一方的に紹介することによって扶桑社を叩こう、自分たちは隠れておいて、中国・韓国の代弁者になることによって反扶桑社の運動をリードしようとしたという明らかな証拠です。 それから、このページで非常にいやらしいのは、24ページの左側『君が代に起立せず教諭11人を処分』 これを一緒に同じ所に出すんです。これは何をしようかとしているか。韓国の議員が提訴したということと広島の県教委が君が代に立たなかった教諭を処分したというのは全く違う記事ですね。同じ場所に載せるんです。するとなんとなく読んでいる人は続けて読むでしょう。そうするとこのふたつの記事を頭の中で関連づけるわけです。「なるほどなるほど。年々君が代を歌わせるというような国家権力による強制がだんだん広がっているんだなあ」。しかも、この記事の最後には『(広島)県教委は「学習指導要領に基づき、指導を徹底したい」』とある。学習指導要領といえば扶桑社の教科書だと連想が連動するようになっていますね。わざとここに載せているんです。つまり扶桑社の教科書が採択されるということは君が代をむりやり歌わされるということと同じなんですよ、そしてどちらもその根拠は学習指導要領なんですよ、それは児童や生徒の内面の自由まで侵害されていることなんですよ、という共通項でこのふたつの事件を括ろうとしている。本当に上手な操作ですね。 25ページ。これは韓国政府の写真入りの抗議です。ただこの時の韓国は教科書というよりも竹島問題をメインに出しておりました。竹島プラス歴史教科書だったんですね。教科書はむしろおまけです。ところがこの意見を出している間に、日本国民は竹島は日本の領土じゃないかということを皆知っておりますので、むしろ竹島と教科書をセットにすると逆にまずいと愛媛新聞は思ったんですね。途中から竹島は言わなくなりました。明らかに日本の領土である竹島が韓国領だと主張するような人々が扶桑者に反対していると、これは扶桑社にとって追い風になってしまうと判断したんでしょうね。途中からこれを切ります。 26ページ。ラインを引いていますが、そこに『韓国の保守系団体が扶桑社の教科書のポスターや小泉首相の人形、日の丸を焼き』という非常に過激な記事があります。その国の国旗を焼くという非常に子供っぽいと言うか乱暴なと言うか、こういう抗議をする。ところが愛媛新聞には「これは無礼ではないのか。そういうやり方は失礼だ。国旗というのはその国を代表するものであるから街角でそれを焼くとかシュプレヒコールを挙げるとか、そういうことは失礼ではないのか」という視点は一切ありません。 27ぺージ。これは平澤市の問題であります。この平澤市の問題というのは、阿部悦子という環境市民という会派におります県議会議員が中心になって扶桑者反対派の活動家を引き連れ平澤市(松山市と友好都市)に行って、あることないことを言いまくったんです。そうしたところが平澤市の中で反日運動が起こった。そして今まで草の根運動で松山市と交流を進めてきた平澤市の市民団体が市民から「お前は売国奴だ。そんな右傾化した、歴史を捻じ曲げるような都市と韓国民でありながら友好都市関係を結んできたというのは国に対する裏切りだ」ということで、非常に厳しい目に合わされた。そしてそのことが愛媛県にも波紋を広げたということなんです。 ところが愛媛新聞の報道というのは、この『本筋離れ対立波紋』というリードを取っております。本筋離れ、ということは松山市も平澤市もどっちもどっちだなあという言い方です。これは明らかに喧嘩の仕掛け人がいるんですね。松山が扶桑社の教科書を採択したとか、「坂の上の雲」のまちづくりを進めて韓国民の気持ちを逆なでしようとしているとか、そういうことを一方的に言ってきて、そこで問題が起こっている。これはそのような告げ口をしようとした奴が悪いに決まっているんですが、愛媛新聞のスタンスは全く違いますね。 『細部の表現に過度にとらわれたままでは、いくら議論を重ねても相互理解を妨げるだけで建設的とは言えない』 妙に覚めた目で仲裁をしている論です。この問題をめぐり平澤市から市民団体がやって来て、扶桑社の教科書を採択しないようにというふうな面談を行なった。ところがこれはこと教科書問題でありますので、それを外国の市民団体が、しかも平澤市の市民団体はおまけでありまして、メインは日本全国で反扶桑社運動をしている韓国の市民団体なんです。これは先ほどの全面広告を出したところですね。このグループがやって来て教科書の採択についてクレームをつけようとしていることがわかりまして、加戸知事も中村市長も距離を置いたんです。中村市長はこう言っています。「政治目的のために事実と異なる内容を外国に伝えたりして刺激し、反対運動に協力することは真っ当な県会議員としてのやり方ではない」と。もっともな意見です。加戸知事は「目的のためには手段を選ばないこの阿部さんのやり方は典型的な例であり、政治家としての見識を疑う」と。これも真っ当な意見を述べておられます。 この市民団体というのは左側の資料を読みますと、非常にむごい取り扱いを松山市から受けて屈辱的だというふうなことが書いてありますが、事実は、実際に県教委に一方的に押しかけて、そこで大声を出して叫んで、しかも教育長室に30分間座り込んだ。こういうことをやっておりますが、愛媛新聞は一切書いておりません。妙にこの市民団体を弁護する表現をしている。 28ページもそうですね。この友好都市交流について書きましたのは、左側に署名記事がありますが角南圭祐という人物です。この人は酷いです。名前をちょっと覚えておいてください。この人の署名記事があったら要注意です。この平澤事件についても、28ページの1番下ですね、最後は阿部悦子さんの弁明で締めくくっております。『行政や民間団体の交流を壊すつもりはまったくない。間違った情報を伝えたこともない」と反論している』と反論で締めくくっています。無罪であるかのような締めくくりをしております。 その次29ページ。右側の上から2つ目にアンダーラインがあります。この阿部県議のやり方について、「これはあまりに酷いじゃないか」というふうなことを県議連が声明を出したわけであります。この阿部さんというのは県議の中でも大変評判の悪い方でありまして、私は阿部さんのことを誉める人に会ったことがありません。このあいだある県議とお会いしたことがあったんです。お話の中で半分は阿部さんへの批判だったですね。本当にこの人はみんなから嫌われている人なんです。『一方、集会参加者の1人は「事実と異なる」と話し、阿部氏は「声明は論理のすり替え、こじつけ」としている』 この参加者とは誰なんですかね。そして最後は阿部さんで締める。必ず最後は反対派で締めるという終わり方をいたします。 それからこの愛媛新聞のスタンスとしまして、例えば、平澤市とか外国から市民団体がやって来て、「扶桑社の教科書を採択しないでくれ」と、こういうことをやる。これは誰がどう考えても内政干渉ですね。「これは内政干渉ではないんですか」「その国の国民教育の観点で文科省が検定を行ない、そしてこれが妥当だと判断した教科書をそれぞれの教育委員会が自主的な判断に基づいて採択をする。こういう民主的なやり方が日本では取られています。それに対して韓国はなんですか。韓国は国定教科書でしょう。とても非民主的じゃないのですか」。そう反論して欲しいわけです。「我々は足を踏まれた側の人間だ。その痛みをわかってくれ」と韓国が言ってきたら「それは内政干渉じゃないんですか。気持ちはわかるけど、そんなことを言うのはお門違いです。気持ちはわかるけれど、それは筋が違います」と返してほしいわけです。しかしそういう視点というのは、このすべての資料を読んでみても愛媛新聞からは1行も出てこない。韓国の言いなりになることが日本にとってすばらしいことであるかのような発言を致しております。 ちなみに愛媛新聞は憲法と教育基本法が大好きなんです。その教育基本法の第十条には、「教育は不当な圧力に服することなく、国民全体に対し直接責任を負って行なわれるべきものである」と、こう書いてあります。この韓国からの市民団体の圧力、これはまさに不当な圧力に当たるのではないのか。ところが愛媛新聞の頭はそうではない。不当な圧力とは加戸知事の発言だと。これはおかしいでしょう。行政の最高責任者、県民によって選ばれた責任者、しかも県教委の委員は議会の同意を得て加戸知事が任命したものです。その知事が自分の県の教育についてコメントを入れてはいけないと、それは不当な圧力なんだと。これでさえ無茶苦茶でありますが、百歩譲って加戸知事の言葉が不当な圧力なんだ、行政による教育委員会への不当な圧力なんだとしても、この韓国の言い分は200%不当な圧力でしょう。それを一言も書いていない。これは客観的に見てどう考えてもおかしい。 30ページから後は・議会・政治の動きですから、読んでおいて下さい。 8 社説・新聞社のコメント ・社説・コメント。愛媛新聞自体の言葉です。3月の愛媛新聞の社説です。『隣国の「痛み」重く受け止めたい』 痛みを重く受けとめたいということは、韓国の言いなりになりなさいという意味です。アンダーラインの所。『教科書や靖国神社の問題で相手国の感情を逆なでしてきたことも事実だ』 そうなんでしょうかねえ。たとえば自分の国で使う教科書を独立国である日本が決める。一国の総理が大戦で亡くなった人々への慰霊の仕方をこういうふうに行なう。どうしてこれが相手国の感情を逆なでするのでしょう。ここがよくわからない。それでは、「竹島で感情を逆なでされたのは一体どこなんだ」と逆に突っ込んでみたいのですが、そのことは一言も言いませんね。愛媛新聞に「竹島はどこの国の領土だとお考えですか」と私は聞いてみたい。何と言うか楽しみなんですけど。 34ページ。愛媛新聞の教科書に対するスタンスの基本は、この教科書は権力(文科省や加戸知事等)により押し付けられようとしている教科書だというスタンスが1つ。もう1つは中国・韓国に配慮した教科書であれというのが2番目。そして3番目は、現場教師の声を尊重しなさい。これが愛媛新聞の3番目のスタンスです。ところが、現場教師の意見を尊重するということは、教育委員会の権限を捨てなさいと言っていることなんです。 私はかつて新聞記者に言ったんですけども、教育委員会というのは裁判官であるべきだと。裁判官というのは憲法にも書いていますが、法と己れの良心にのみ従いなさいと、こう書いてあります。それ以外のものに囚われてはいけない。たとえば金を貰うとか自分の出世とか利害とか、国民世論にさえ囚われてはいけない。これが裁判官の中立義務なんです。法と己れの良心のみです。国民世論さえ考慮されない。ましてや外国の声なんて、なんです。そういう中立性を貫くことによって初めて法はその権威を増す。私は教育委員会の採択というのはそうでなくてはならないと思います。 たしかに現場教員というのは、私も現場教員ですからよくわかるんですが、非常に忙しいんです。教科書が変わったら仕事がひとつ増えるんです。毎日毎日、週20時間も授業をやる。その授業で使う教科書が変われば、また一からノートを作りなおし、資料を作りなおし、授業展開を考えてやらなくてはいけない。大変なんです、これ。ですから現場教員はある意味、教科書の内容なんかどうだってかまわない。今の教科書をそのまま使って欲しいんです。正直なところです。私がそれを一番よくわかっています。 その現場教員の意見を尊重しろと。たとえば、教科書を使っているのは現場教員なんだからその教員の意見を無視するのはおかしいでしょうと。それは半分当たっています。教員の声を聞くのは悪くないです。それは裁判官が容疑者や検察官や弁護士の意見を聞くようなものです。それらを全部聞いておいて、法と自分の良心に従って最後の判決を下す。それが裁判官です。ですから教育委員会が現場教師の意見をアンケートなどをやって聞くことは間違いではありません。しかしそれをそのまま決めるとすれば、それには問題がでてきます。この場合、教科書をどうするかということは、きちんと法律の中でこれは教育委員会の最も重大な責務であると書いてあるわけですから、それは現場の教員の声を参考にするとはいえ、最終的に教育委員会が責任を持って決めなくてはいけないということなんです。そういう観点が愛媛新聞には何もないんです。 左下。ここも中井君の署名記事ですね。2段目。『同会関係者(つくる会)が同社版(扶桑社版)の理念として語った「教科書は国の公式見解を示すもの。この国の自画像を示すものでなくてはならない」』 いい言葉でしょう。これは誰が言ったのか。私が言ったのですけどね。ところが彼はこれに対して、どんな言い方だって自画像が描けるじゃないか。その通りであります。だけど自画像というのは日本人が日本の歴史を語るんです。外国人が語るのではない。愛媛新聞のスタンスは、外国人に日本の絵を描かそうとしている。これは違うんじゃないのか。そしてアンダーライン。『県内のある教育関係者は「あれでアジアの人々と仲良くなれるだろうか」と判断に悩む』 仲良くならなければいけないんですか。ここなんです。理不尽な内政干渉を許して、理不尽な圧力を加える隣人とどうして仲良くならなければいけないんですか。友好ということは、お互いに言いたいことを言い合って喧嘩も出来る関係をいうことじゃないのでしょうか。 たとえば中学校の中で、心ならずも力の強い奴に引きずられていやいや万引きをしている生徒、いやいやいじめに荷担している生徒がおります。それは仲良くしているんでしょうか。たしかに喧嘩はしていません。一緒に行動はしています。けれども相手に言いたいことも言えず、「俺は万引きはいやなんだ」「いじめは嫌だ」「授業サボるのはいやだ」。そういうことも言えないで「お前も一緒に行くんやろ」と言われたら、へらへらして「うん、行く」と答える。それは仲良くしていると言うんですか。今の日本の教育というのは、まさに心ならずも一緒に万引きしている少年のような、そういう仲の良さを示している。それは友好と呼ぶのか。違うんじゃないのか。 竹島は日本のものだ。あそこのガス田は半分日本のものだ。南京大虐殺はどう考えても「ない」だろうが。もし竹島が韓国のものだと言うなら国際司法裁判所に訴えようじゃないか、お互いに。そういうことが言えない友好関係というのはどういうことなのか。あれは植民地支配ではない。日韓併合なんだ。あの中で韓国人は国は失ったけれども韓国人のアイデンティティーを失わずに苦しい歴史の中でしっかり工業化を成し遂げ、近代国家の基礎作りをしたじゃないか。それは立派なことだ。なぜそれを避けようとするのか。勇気を持って自分の国の歴史を見つめろ、と言ってやるのが本当の友達ではないのか。私は自分のクラスに韓国人がいてもそう言います。相手を一人前に扱うということはいつまでも「足を踏まれた人間の足の痛み」に謝りつづけることではありません。それは相手を馬鹿にしていることです。相手を半人前にしか扱っていないことです。「そうではない。いいかげんに立ち直れよ。いつまで泣きごと言っているんだ。たしかに不幸な歴史はあった。しかしいつまでそれを自分が出来ないことのカードに使っているのか。それでも一人前の国ですか。あなた方は」と言ってやることが私は友好だと思います。 35ページ。愛媛新聞の社説です。すごいですねえ。アンダーラインの所。『これまでの県教委の採択に対し、私たちは歴史教科書の内容や採択の経緯などを踏まえ疑問を呈してきた』 これは県教委の採択の後の社説です。疑問でなくて妨害でしょう。誹謗中傷ですね。その下。『同社版教科書(扶桑社版教科書)が広がらなかったのは自然な結果だろう』 自然な結果だろうとまで我々は書かれている。それは愛媛新聞が不自然なことをやったからでしょう。 36ページ。・世論・その他。これは読んでおいて下さい。 38ページは門欄です。昨年度、私は愛媛新聞に18回投書をいたしました。載ったのは3回。残りの15回は全てボツになりましたが、その内容のほとんどは教科書問題についてでありました。賛成意見は載せない。おそらくこの中にも教科書問題で投書された方はおられると思います。多分ボツになったと思います。載ったのはこの3名です。ちなみに左上にあります藤原さんという主婦の方ですが、この方はいろいろ投書されております。その中でたとえば北朝鮮への経済制裁に反対している方です。また靖国神社というのは国に命を差し出させるひとつの権力装置であると、よく書いておられる方です。 ・採択の方法・結果。採択が次々開かれていきます。いろんなコメントがあります。下のほう。大田原市が採択したことに対する賛否両論が書いてありますが、微妙に反対派のほうが分量が多い。40行あります。一方「つくる会」の八木先生のコメントは34行。2割少ない。 40ページ。大田原市の採択。これは全国に先駆けて栃木県大田原市が採択いたしました。写真入りでデカデカと載っております。タクシーの写真の下の記事。『幼い孫を連れた同県那須塩原市の無職の男性(75)は「展示会でほかの教科書と見比べたが、扶桑社版は子供には学ばせたくないと思った」』 孫を連れていると、やっぱり訴えるものがありますね。 下から3段目。『小沼教育長の車を反対派の人々が取り囲み、約30分立ち往生』した。こういうのを暴力と言わないのでしょうか。教育長の車を取り囲んで30分間立ち往生させて、怒号を繰り返すのを暴力と言わないのでしょうか。愛媛新聞はそこをどうして突っ込まないのでしょうか。『「ちゃんと説明しろ」と声が上がったが、後部座席の教育長は視線を落したままだった』 何かやましいことをしたみたいですね、この人。扶桑社を採択したことはやましいのですか。堂々としたのじゃないのですか。そのくせ『胸張る教育長』とあって、何がなんだかわからないリードになっています。 その左下の記事。『扶桑社版を評価する人たち(つくる会)は採択の広がりを期待し、採択反対運動を進めてきた市民団体関係者らは生徒への影響や中国、韓国との関係悪化などを懸念した』 述語の長さが随分違うことありませんか。我々に対しては『採択の広がりを期待し』だけなんです。ところが反対側には『生徒への影響や中国、韓国との関係悪化などを懸念した』 もう少し我々のことも書いてくれよと思うでしょう。これでも愛媛新聞から見れば両論併記なんでしょうね。我々には随分そっけないのに、向こうには丁寧ですね。 43ページ。左のラインの所。『中国や韓国などから批判を受けている「新しい歴史教科書をつくる会」主導の扶桑社版歴史・公民教科書』 すごい枕詞でしょう。ここまで書くんですよ。我々の教科書についてね。 44ページ。これは松山市の採択なんですが、左上のアンダーライン。これは松山市の土居貴美さんという教育長がいますね。この人のコメントです。松山市は審議の過程を公開しなかったんですね。その理由として、『土居教育長は非公開理由を「教科書採択に携わっている保護者や教諭などの自宅に訪問する人がおり、家族が怖がっている」などと指摘』している。つまり脅迫が行なわれている、ということなんです。 これと関係して48ページ。そこに土居貴美教育長の写真があります。松山市の採択が行なわれた後のコメントなんですけれども、この愛媛新聞には一切紹介されておりませんが、産経新聞が書いております。土居貴美さんはこのように言っております。『扶桑社版の採択を巡りたくさんの方が家においでになり脅しの留守電も入った、と事情を説明した。それぞれの家庭でいろいろあったと、他の委員にも同様の脅迫行為などがあったことも示唆した』というのが産経にあるんです。ところが愛媛新聞は一切書いていない。教育委員会は会議をオープンにしなかった。そのうしろには教育委員やその家族に脅迫が行なわれていたという事実があるんです。愛媛新聞はそれを見ない。それを記事にしない。それよりも、県民の透明性、情報公開の時代の流れに反してどうして松山市は非公開なんだ、おかしいじゃないか、そういう言い方をします。公開したら命に関わるということをどうして突っ込まないのか。反対派の運動というのはそういう暴力的で脅迫的な内容が日常的に行なわれていたということを、愛媛新聞は突っ込まないわけですよ。そのくせ会議の内容を隠したと言って騒ぎ立てる。 いよいよ県の採択です。50ページ。その大きな記事。これも賛否両論書いていますが、反対派のほうは写真が大きいですね。そしてその下、私も傍聴の抽選に行きました。村上さんは当選して中に入られましたが、『県職員、県民に威圧感』 これは嘘です。全然威圧感など私にはありませんでした。実際に行きましたのでわかります。威圧感を感じたのはよこしまな気持ちを持っている人たちだけです。この記事の中に、いかに県の教育委員会が県民の声を圧迫したかのような、居丈高な威圧的な態度で県民に臨んだかということが、縷々書いてあります。 51ページ。県の教育委員6名が全員賛成したと書いています。『異色際立つ全員賛成』 『知事の意向反映か』 この教育委員は知事のロボットだと言いたいわけですよ。全員が扶桑社版に賛成することはおかしいと書いてある。では、全員が東京書籍に賛成するのはおかしくないのですか。全員が大阪書籍に賛成するのはおかしくないのですか。一言も突っ込みがない。扶桑社版にのみ、そのような書き方をする。たとえば東京書籍や大阪書籍では他の採択区では全会一致で決まっている所はたくさんあるわけですけど、その突っ込みというのはまるでない。 時間がなくなりましたので、他の所は読んでおいていただきたいと思います。ただ今回の採択では、私たちは正直に負けを認めてもよいのではなかろうかと思います。10%の目標を出した以上0.4%とか0.2%の採択に終わったというのでは、これは明らかな敗北だと潔く認めたいと思います。最後に、現在靖国神社の問題というのが高等裁判所で問題になっております。この靖国裁判の応援団で、弁護士で参加されました松本弁護士がこのような文章を書かれております。ご紹介します。 『我々日本人は戦争に負けたことであまりにも閉じこもりすぎたのです。生きていくために日本の歴史と文化を守るために戦うときが今来ているのです。これが日本と日本人が生き残る道なのです。トロイの勇士エアネイスの言葉があります。敗者にとってただひとつの安全は、如何なる安全も期待しないことである。トロイ戦争のときトロイの都が炎に包まれたとき、英雄エアネイスは戦士たちに呼びかけ「死のう。そして武器の真っ只中に突撃して死のう。負けた者は助かると思うな。助かることを期待しないことこそ唯一助かる道なのだ」と叫んだというのです。最後エアネイスは助かり、後にローマの建設者になりました。関が原で家康本陣を正面突破した薩摩の島津義弘の撤退戦に繋がるものです。負け戦のときには安全を求めないことが却って安全に繋がるという武人の教訓は古今東西共通しています。負け戦の後に続く長い戦いの中でもその本質は同様であると今日の我々に教えてくれています。何故戦った相手でもない韓国・中共・台湾の顔色を窺がわなければならないのでしょうか』という言葉がありまして、最後に、『おずおずとお願いするものは相手に拒絶することを教えていることだ』という言葉で締めくくっております。 私たちはこの教科書で一敗地にまみれたと言っていいと思います。しかし、4年後にもう1回私たちには機会が与えられております。今回の愛媛新聞というのは私たちにとって逆風の県のメディアでありました。このメディアに対し、この4年間で少なくとも中立的なメディアにするためにはどうすればよいか。これが愛媛県にとって次の採択に繋がる大きな一里塚ではなかろうかということを提案致しまして、終わらせていただきます。ご静聴ありがとうございました。