本の紹介
|
鶴見事件に関する本
|
現実の刑事裁判がいかに絶望的に行われ、国家による暴力によって無実の者が死刑に処せられようとしているかが、逐一証拠に基づいて赤裸々に語られています。
週間朝日98.8.15号に本についての鎌田慧さんの紹介記事がでています。とてもわかりやすく(私の紹介とは比べものにならないほど、、)要点と本の特徴をまとめてくださっているので、良かったらご覧ください。 |
有隣堂本店(横浜伊勢佐木町)や、東京の大きな書店等で
ノンフィクションのコーナーにて販売されています。
本屋にない場合は、おとり寄せ下さい。
本の書評図書新聞より抜粋 |
98年9月5日付の図書新聞2402号に掲載されました、前坂俊之さんの書かれた書評を抜粋してご紹介します。
大河内秀明著
『無実でも死刑、真犯人はどこに』
(鶴見事件の真相)
6.30刊 四六版354頁 本体価格2200円
現代企画室発行
前坂俊之
正義と人権からはずれた刑事裁判の恐怖
戦後起きた数々の死刑再審事件や冤罪、誤判事件をかつて私は調べたことがあるが、それらの事件と比べても、この「鶴見事件」は難事件といえるだろう。
1988年6月20日午前、横浜市鶴見区上倉田町の不動産業「梅田商事」で朴仁秀社長、大村ヨシ子(いずれも仮名)が事務所奥六畳間で鈍器のようなものでメッタ打ちにされて殺され、事務所にあった現金千二百万が奪われていた。
強盗殺人事件として捜査の結果、約十日後、朴から借金していた電気工事業の高橋和利が逮捕された。高橋は無実を訴えたが、横浜地裁は95年9月に死刑判決を下した。
これがいわゆる「鶴見事件」の概要だが、高橋被告は虚偽の融資話を朴に持ちかけて千二百万円の金を準備させて、所定の日に朴の所に行き、朴ら二人が殺されていたことは目撃したが、金だけを持ち去ったもので、「殺人はおかしていない。無関係」として否定、捜査段階では一旦は殺人を自白したが、裁判では初公判から無実を一貫して主張、冤罪を訴えた。
高橋は朴とは融資話などで密接に関係した人物であり目撃者や高橋のアリバイ、直接証拠もないという、高橋被告には不利な条件がそろっており、無実を証明するのは容易ではない事件である。
本書はこの事件の主任弁護人があらゆる角度から数々の捜査の誤謬、事実認定の矛盾や疑問点を指摘して、高橋被告の無実を立証しており、第三者からみても説得力がある。
確かに、高橋の行動には架空の融資話といい、不可解なところや、疑惑は残る点も多くあるが、高橋を犯人とするには合理的な疑いが多すぎる。
冤罪事件かどうか、を見分ける決定的なポイントは物的な証拠の存在であり、自白と物的証拠の一致である。見込み捜査や自白の強要などによって冤罪は作られるがその自白と物証の不一致によって冤罪は自己崩壊してしまう。
この事件の場合も最大のポイントは凶器の特定であり、凶器と傷の一致である。
朴は十数ヵ所、ヨシ子は胸背部、後頭部などに六十ヵ所以上の刺創、切創があり、強い怨恨による殺意をうかがわせるが、高橋には朴に対する恨みがない。
しかも、検察側は凶器を十字トライバーとバールとしたが、その最重要な証拠である凶器がいずれも発見されていない。
被害者の傷はバールによって出来るものとは一致せず違っており、裁判所が任命した鑑定人によっても被害者の傷は十字ドライバーとバールによるものではない、との断定的な鑑定結果が出ている。
ところが、横浜地裁はこれに対して再々鑑定を強行して、「十字ドライバー、バールの凶器性をはっきり否定することはできない」とするあいまいな鑑定を出させて、これを手掛かりに有罪の判決を下した。
そのほか、高橋には殺さなければならない動機がないことや商店街に面してガラス越しに中が見える狭い事務所、座敷で単独犯で二人を次々と殺すことは不可能であること。
また、朴が銀行から現金を引き下ろして入れて持ちかえった黒いカバンや重要書類が常に入っていた布袋がなくなっており、これについての高橋の自白が全くないこと、このことは逆に朴の日常や内部事情に精通した真犯人の存在をうかがわせ、高橋の冤罪を証明することになるが、このほかにも数多くの疑問点が残されている。
刑事裁判は「日本の隠された恥部である」といわれる。裁判所がいかに「疑わしきは罰す」の悪しき方向に傾いているかが、本書では捜査、裁判の過程を全面的に俎上にあげて冤罪の構造を克明に検証している。
正義の実現と人権の確保からはずれてしまった刑事裁判の恐怖を告発している怒りの書でもある。
(静岡県立大学国際関係学部教授)
図書新聞より抜粋
本の目次紹介
|
第一章 事件
第二章 捜査
第三章 公判
第四章 被告人の弁明−「無実の推定」原則の適用
第五章 潔白の証明−その一「被告人の非犯人性」
第一章 他の犯人性
第二章 潔白の証明−その二「アリバイの存在」
本のあとがきの抜粋
|
本件は、1995年9月、横浜地裁で死刑判決があり、現在控訴中の事件だが、控訴審の公判審理はまだ始まっていない。
本書執筆の動機は、刑事裁判の現状を広く世間の人々に訴えたいと思ったことにある。「わが国の刑事裁判はかなり絶望的である」といわれて久しい。それが改善されるどころかますますひどくなっていることを『実証的』に明らかにし、市民の目の届かない裁判所という事実上の密室で行われている刑事裁判を白日のもとにさらす以外に、それを改善することは期待できそうにない。そうするしか、無実の被告人を生還させることはおぼつかないのではないかという強い危惧感を抱いている。
犯罪者であると疑われ、最も弱い立場に置かれている被告人が、絶望的な裁判に直面させられている。それは被告人の人権の保護が絶望的な状態に置かれていることを意味する。最も弱い立場の者の人権を絶望的な状態にしておいて、人権を云々しても、それはしょせん絵空事でしかない。健全な刑事司法の実現こそが、真に人権を尊重する社会の前提になるとすれば、刑事司法のあり方は、単に被告人だけでなく社会全体に関わる問題であることが理解できる。
本書の内容は四部から構成されている。第二部「判決の分析」はやや細かい論述になっているので、ひとまず飛ばして第三部「真相解明」を読んでいただいてもよい。それでも筋は追えるようになっている。
被告人の無実を確信する弁護団の輪が関東一円に広がり、控訴審は、現在十二人の弁護士で取り組んでいる。(中略)
本書を読んで、被告人の無実を確信された方が、一人でも多くの支援の会に加わっていただけることを願っている(機関紙の請求先、「東京都新宿区西早稲田2-3-18日本基督教団社会委員会気付」『「死刑」から高橋和利さんを取り戻す会』)。
死刑を廃止すべきかどうかという問題について、凶悪犯罪を抑止する効果だあるかどうか、残虐な刑罰といえるかどうか、あるいは被害感情や素朴な正義感から「人の命を奪った者は自らの命をもって償うべき」かどうかなどの諸点が、従来から論じられている。そしてこれらの点については、賛否両論のそれぞれに一理があると認めることもできる。
しかし、死刑制度を考えるとき、どうしても避けて通ることのできない深刻な問題がある。それは誤判の問題である。懲罰刑については、人間が運用する制度なので、誤りは付き物だといって済ませることができるとしても、「無実の者が誤判によって死刑に処せられることがあってもやむをえない」、という人はおそらくいないだろう。
イギリスが死刑を廃止したのは、処刑後に無実が明らかになったことが大きなきっかけだった。
フランスでも、処刑後もずっと無実の可能性が論じられた事件があり、それも大きな影響を及ぼして、ミッテラン政権が誕生したとき、ついに死刑が廃止された。
そのほか、戦後いち早く死刑を廃止したドイツで、殺人事件の犯人とされて刑に服していた男が、約20年後、たまたま別に真犯人が発覚したことから、無実が証明されたという事例も報告されている。
わが国の実情は341頁以下で述べたとおりである。
このように裁判に誤りが付き物であることは、誰も絶対に否定できない。しかし、法務当局は一貫して「わが国においては、誤って死刑を執行したことはない」と主張している。そして、死刑再審無罪事件はいずれも、戦後10年くらいの間に、しかも地方で起きた事件であり、その後、世の中が落ち着いてからは起きていないと言っている。
しかし、残念ながら、法務当局の見解が誤っていることは、鶴見事件が実証している。
本書の執筆を始めたとき、死刑廃止を論ずるつもりはなかった。しかし、結果的に『実証的』死刑廃止論になった。「誤判による死刑」をテーマにした本書の性格から、それは必然的なことだった。
なお、筆を擱くにあたって、被告人の無実を解明し得たのは、弁護団全員の力の結集の成果であることをとくに強調しておきたい。
1998年5月
本の感想をメールでも募集しています。読んでくださった方はぜひ、ご感想・疑問・反論等、お寄せください。ご本人の了解を得た上で、このホームページでご紹介させていただくこともあります。