吉本隆明の『自立の思想的拠点』が徳間書店で出版できたのには、いくつかの事情があった。
僕は学生時代(学習院仏文!)から、吉本さんの本に熱中していたが、未収録の文章も図書館や古本屋で探していた。それは相当な量にのぼった。 めずらしいものには、同署に収録した「アラゴンへの一視点」がある。神保町の青空古書市で20円で手に入れた「大岡山文学」(東工大の同人誌)に収録されたものだった。
その未収録リストをもとに評論集を編めないか、手紙を出していた。しかし、その時は、春秋社の岩淵五郎さんの手にゆだねられることになっていた。
岩淵さんもそのリストを見たらしく、良くできているといわれたと聞いたことだけが救いだった。その岩淵さんが、羽田沖の事故で不慮の事故にあわれた。その雪祭りのツアーには徳間書店からも二人参加する予定だったが、直前にキャンセルしていた。出版界は大変な騒ぎだった。
その騒ぎが収まったころ、吉本さんから電話があった。あの企画はまだ生きているのだろうか、もしそうなら、岩淵さんが亡くなったので、それを託す編集者がいなくなった。あなたが作ったリストを見ると、信頼して託せると思う、という話であった。どういう出版社かは関係ない、とも云った。
それまでの徳間書店の出版物は、「アサヒ芸能」の連載小説や焼き物などの趣味関係が殆どの出版社で、堅いものは竹内好・松枝茂夫監修の「中国の思想」くらいだった。 いっぽう、吉本さんの本を出している出版社は、未来社・現代思潮社・春秋社といった評論・人文に定評のある出版社だった。
編集者や社長も、未来社は松本昌次・松田政男、現代思潮社は久保覚や石井恭二、春秋社は岩淵五郎といった有名どころ、年齢も30前後の脂ののりきった人たちだった。
こちらは23歳で、出版物は今あげたようなもの。そんなところに託す著者は普通いない。
しかし、僕には吉本さんならその可能性があるという読みがあった。
売れるという読みもまたあった。そして、最初の本が売れれば、つぎが出しやすくなるという見通しも。 出すとよく売れた。上の人たちには信じられないようだったが、これで、つぎの企画が立てやすくなった。
それ以降の文芸編集部の本をあげてみる。
安部公房『夢の逃亡』、磯田光一『パトスの神話』、稲垣足穂『ライト兄弟に始まる』、奥野健男『現代文学の基軸』、きだみのる『気違い部落から日本を見れば』、倉橋由美子『蠍たち』、『人間のない神』、島尾敏雄『幼年記』、寺山修司『さあさあお立ち会い』、橋川文三『現代知識人の条件』、深沢七郎『人間滅亡の歌』、吉本隆明『情況への発言』。小松左京や陳舜臣、水上勉などまで進出していった。
これらが、1966年から70年にかけて、僕が辞めるまでに20代前半の文芸編集部5人ほどが出した本だ。
文芸編集部以外でも、高橋和己『生涯にわたる阿修羅として』が出た。
1968年3月、入社1年、早稲田露文出の新人・久保寺進が稲垣足穂『少年愛の美学』を出した。稲垣足穂の劇的な復活につながった。
翌年、第1回日本文学大賞を受賞した。このころが絶頂期だった。 そして、お決まりの崩壊がやってくる。
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(『彷書月刊』2000年9月号)