『東京女子高制服図鑑』が一段落した頃、芳林堂で知り合ったグループのうち一番若く、優秀な営業マン・石井正巳が変わった話を持ち込んできた。 コンピュータ・ゲームの攻略本を出さないか、というのだ。
当時、任天堂のファミコンが700万台くらい売れ、攻略本も50万以上売れていた。彼はJICC出版局で企画・販売の両方を手がけ成功させたが、事情があって辞めていた。
この企画は、ファミコンではなく、どこもまだ手がけていないセガとMSX(アスキー)の攻略本だというところに新鮮さがあった。企画も販売も自分がやるというので、新しい会社を作って始めた。
株式会社スケールとした。弓立社が、読めず、発音もしにくいという反省からだった。何人もに株主になってもらった。事務所も新しく同じ寿ビルの4階に借り、編集者として北根紀子も入れた。セガ・エンタープライスとも交渉し、ハード6台やソフトを提供してもらった。セガの側も喜んで、購買者リストを貸してくれたりした。
実際にゲームをクリアしていくのは、街のゲームセンターで北根が見つけてきた高校生・中学生たちだった。
第一弾『セガ ○秘ハイテク集』が出たのは、1986年5月、その月の内に二刷りを出した。二万部くらいいった。だが、定価750円という今までにない低定価だ。販売は、石井が動かず、僕がやった。
大変ではあったが、面白い体験だった。まず、セガから借りたリストの子供に大量のDMを出した。
取次は、大取次の委託がないのであてに出来ない。
玩具問屋や新宿のヨドバシなどへ直接、一店一店交渉するのだ。交渉は、取次が隣との境がなく、覗き込んだら部数も掛け率も分かるのと違って、完全にブースの中だった。これだけで、カルチャー・ショックを受けた。
そのうえ、完全買い切り。掛けも5掛け位だという噂もあって、営業マンが交渉を怖がっていたが、書籍と同じく7掛けくらいで収まった。買い切りなので、二カ月後に現金が入った。
この後、5冊出したが、第一弾のようには売れず、撤退した。六カ月だった。雑誌がないので、素早く情報に対応出来ないというのが最大の要因だった。
一巻が2,000部買い切りで、二巻が100部になったりというクールさだが、そのはっきりした<商売>感覚がスッキリして新鮮だし、その後、出版という世界を外の視点で見るのに役だった。
こういう世界を知るのと知らないのとでは、出版を考える視点が違ってくる。そういう意味で、この仕事は、僕に大きい影響を与えた。
経営的には全く失敗で、『制服図鑑』の儲けは全部吐き出した。僕の経営者としての限界も初めて知った。しかし、他の出版経営者にないある要因を僕に付け加えたことだけは確かだ。
(『彷書月刊』2002年2月号)