弓立社にとっての離陸とは、独りで出版する段階を離脱することだった。
それは、思いもかけない形で現われた。『東京女子高制服図鑑』の出版だ。
著者の森仲之君が西日暮里の弓立社に現れたのは、國學院大学三年の時で赤瀬川原平さんの美学校の生徒でもあった。
ぼくは、その頃よく同人誌を漁っていた。中森明夫の『東京オトナクラブ』などが元気な頃だ。その中に『360°』があった。
その同人の神戸勉が連れて来たのだ。数冊のノートを持っていた。五年がかりで調査した女子高生のイラスト集だった。東京中を完壁に網羅していた。一目見て、その高度なイラストの〈線〉に驚いた。それまでに出したことのないタイプの本だったが、躊躇はなかった。すぐ出坂を決めた。
本の基本コンセプトは、装訂を頼んだ南伸坊さんの意見が大きかった。
題名を「東京女子高制服カタログ」と考えていたが、「カタログ」を「図鑑」にした。本文用紙も林真理子の『ルンルンを買ってお家に帰ろう』などではやったザラ紙を使おうと思っていたが、洋書の小型図鑑のような真っ白のきれいな紙に変えた。
表紙の写真も、制服を着たモデルの写真は生臭くなるというので、一回撮ったのだが、制服だけの写真に変えた。すべて当たりだった。南さんの意見がなかったら、これほど成功しなかっただろう。
この間に、弓立社はついに自宅から出て神田神保町に越した。まあ、背水の陣だった。それが三月のこと。
その四カ月後に『制服図鑑』を発売した。七月末という発売日も素人風で、販売のプロが最も嫌う時期だ。だが、最初からよく売れた。
大型店・書泉グランデでは、発売から五週連続で1〜3位を占めた。目の前にある東京堂では、二階にある弓立社の窓から女子高生が群がって見ているのをよく観察した。九月に入ると加速がついた。
広告はしなかった。TVではNHK第一・教育、を始め民放全局が取り上げた。週刊誌・月刊誌は凄まじかった。
「制服」「おニャンコ」「路上観察」の三つのブームが一緒になったのだ。ついには、制服で志望校を決めるとまでいわれ、女子高自体が制服を変えて人気を高めるのが流行になった。
部数は、初版4,500部、八刷で合計60,500部。五カ月だった。
ピーク時にはひと月に3万部作った。返品は、150部。取次は鈴木書店・柳原書店という小取次と東販の買い切りだけ。
片肺飛行と言っていた。東販の委託がなく、日販が全くないからだ。しかし、全然悔しくなかった。二人だけでここまでいったんだから。これで学んだことは多かった。
(『彷書月刊』2002年1月号)