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関連ホームページ「六爾の博物館へようこそ」
個人の考古学愛好家が森本六爾氏を紹介されているぺージです。


森本六爾(もりもとろくじ)1903〜1936

桜井市出身。東京考古学会を主催。弥生〜古墳時代等の論考に優れたものを多く残す。
「日本青銅器時代地名表」「日本原始農業」などの著作あり。松本清張の短編「断碑」の主人公でもある。
(現在も桜井市大字大泉に生家があり、松本清張もこの家を訪れている。)

森本六爾生家前、東に三輪山が望めます。 「森本六爾夫妻顕彰之碑」が生家の近くにあります。
大泉、天満神社 生家の近く、今でも自然が残っています。

唐古遺跡の関連で森本六爾氏の名前は知られていて、日本の考古学界では著名だが、その存在・業績をもっと身近なものにするべきだと思う。
桜井市出身の学者としてだけでなく、志が高く独創的で、個性を持ち、考古学についての視野を広めた存在として・・・。

松本清張の短編「断碑」について
あくまでも清張の視点で描かれた小説の主人公であり、森本氏そのものではないが、在りし日の彼の姿に想いをはせることが出来ると思う。
学歴・権威主義に対する意識、反骨精神、独創的な視点、思い込み、世間の批判、敵対心、たゆまぬ探究心、情熱信念の人、時代背景、いろいろな事を考えさせられる。
個性がないと言われる現代においてこそ、もっと知るべき、森本氏の意志は、確実に現在に引き継がれているのだから。(W)

「断碑」

 松本清張(或る「小倉日記」伝に収録、角川文庫)の短編小説の一部をを紹介しておく。
以下、木村卓治(森本氏)が主人公として書かれた「断碑」より


木村卓治はこの世に、三枚の自分の写真と、その専攻の考古学に関する論文を蒐めた二冊の著書を遺した。
その一つの「日本農耕文化の研究」に収められた論文は今日の新しい日本考古学の転機にとなったという人がある。明治以来の日本の考古学は、発掘した遺物遺跡の測定、形や紋様の分類、時代の古さ新しさを調べるだけで、それを遺した人間の生活を考えようとはしなかった。単に品物をならべて説明するだけの考古学であった。
…(略)…

当然のことながら、当時の考古学者は誰も木村卓治の言うことなど相手にする者はなかった。考古学が遺物の背後の社会生活とか、階級制の存在とかいうことまで及ぶのは論外だった。黙殺と冷嘲が学界の返事であった。
今になって、木村卓治を考古学界の鬼才とし、彼が生きて居れば今の考古学はもっと前進しているだろうとは学者の誰もが言う。
しかし、木村卓治が満身創痍で死んだと同じように、これらの人々も卓治のための被害者であった。
…(略)…


(一年の渡仏から)日本に帰ってきて以後の卓治の研究は弥生式土器に向かった。
ある日、彼はHという年若い学徒の書いた「籾の痕のついた土器」という一文をよんで非常に心を動かされた。大和のある土地から出土した弥生式土器の底に籾を圧した型がついている。その籾は水稲であろうという論考だった。彼はすぐ手紙で讃めてやった。
弥生式土器と水稲。水稲は農業を意味する。すると弥生式時代に原始農業が存在していたのだ。人は弥生式土器の形式分類や工芸趣味の研究をするが、誰もこのように背後の農業社会を結びつけて考えた者がない。
よし、これだ、と決めた。
口笛を鳴らし、外に踊り出たい気持ちであった。
初めて独創の主題を掴んだのである。
…(略)…

昭和八年から彼の発表した研究題目は弥生式関係が殆ど主となる。
そのあるものには当時の原始社会にすでに貧富の差と階級の存在していたことを証明した。あるものには文化の移動形態を論じた。何かと競争しているような奔りようであった。
何かと─迫ってくる死を予感して追いたてられているのであろうか。
熱のある時は、濡れたタオルを頭に当ててペンを動かした。
「─是等から当然の帰結として、弥生式文化とは一つの原始農業社会に生まれた文化であることが考えられよう。このことは、今後の弥生式系の土器・石器其の他の一切の遺物、および其等を出す遺蹟の考究に重要な暗示と示唆を与える筈である。今日、日本の考古学は生活を離れ単に形式を撫で廻すことによって一つの行きづまりを示している…」
…(略)…


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