「西郷札」 松本清張
松本清張の小説を読んでいてよく思うことだが、その結末があっけないほどあっさりと描かれていることが多い。
悪事が露見する場合なども、それを匂わせるような一文があるだけで、その後、関係者はどうなったのだろうかとしばらく思いをめぐらせることになる。
たとえば、彼の有名な出世作「西郷札」などでもそうだ。
西郷隆盛の反乱軍に同行してかろうじて一命を取り留めた樋村雄吾が数奇な運命の果てに東京で生き別れになっていた義妹・季乃と再会する。
彼は生活のため車夫をしているのだが、たまたま車で季乃の夫を家まで送り届けたときに季乃の顔を見つけて驚愕する。
雄吾の心理描写が秀逸である。そのときには季乃はまだ義兄のことを気づかない。季乃が高級官吏と結婚していることを知った雄吾はそれを義妹のために喜びながら次のように感じる。
「これは季乃が幸福だということであるが、そう考えても雄吾の心に喰い入るような淋しさはどう紛らしようもなかった。国許ではあれほど邪険にしていた季乃にこの感情は不思議で、自分でも扱い兼ねるのであった。それからの彼は何度も塚村の近所を廻ってくるようになった」
当然のことのように、たまたま彼の車に乗った季乃も義兄のことに気づく。彼女はしだいに雄吾に兄妹の情以上の感情を抱くようになる。最初はすげなくしていた雄吾も、しきりに俥屋を訪れてくる季乃との「密会」が楽しくなってくる・・・。
彼女の夫・塚村は将来有望な高級官吏である。しばらくして義兄に引き合わされた塚村が「色白の好男子だな」と言うと、思わず季乃は顔を赤くする。妻の雄吾への愛情に気づいた塚村は嫉妬のために雄吾を陥れようと一計を案じる・・・。
新富座で正装した塚村夫妻と会った後、雄吾は仲間と柳橋の茶屋で酔いつぶれるまで盃を重ねる。季乃のことを思い出しながら・・。「一輪の牡丹のような高貴な妖艶さをみせた季乃の姿に、雄吾はわれ知らず憤懣と絶望感に押しつぶされていた」
塚村の策に乗せられて雄吾は仲間と宮崎に西郷札を買占めに出かけるのだが、東京を立つ前に塚村家を訪ねる。雄吾は退出するときに見送りに出た季乃を夜道で抱きしめてしまう。実は、それも塚村が仕組んだ罠であり、塚村はふたりの姿を闇の中でじっと見ていたにちがいない。
雄吾は「塚村さんに悪い。妹として愛していこう」と厳しく自分を諌めながら宮崎に向かう。しかし、塚村の計略によって宮崎での買占めは失敗に終わる。
失意のうちに東京にもどってきた雄吾は自分が塚村の陰謀のために犯罪者として追われる身になっていることを知る。季乃は泣く泣く塚村の陰謀を雄吾に告げるのだが、雄吾は、もう残されているのは「最後の策」しかないと決意する。
追い詰められたは二人は一体どうなるのだろうか?小説の結末になっても、その回答は示されないままだ。
おそらく雄吾は塚村を殺そうとするだろう。彼が言う「最後の策」とはそれ以外に考えられない。もしそれが成功したとして、二人はどうなるのだろうか?雄吾は死ぬつもりなのだろうか、あるいは季乃と逃げのびようとするのか?
「西郷札」を読み終えた人は、みな同様の釈然としない心的状態に置かれるであろう。男らしい好男子・雄吾と彼を慕う美しい妹のためにもうちょっと気持ちのよい結末が導けないのかとつい作者に責めたくもなる。
しかし、清張はそうした「人生の美化」を頑として許さない。
思うに、人生は醜悪な動機に満ち満ちている。悪人はそれに忠実に生きるが、善人と言われる人は、ただその動機に目を向けていないにすぎない。
この小説では塚村が悪役であるが、彼とて世間の普通の男性にすぎない。ただ普通でないのは、美しい妻を持つのための代償である激しい嫉妬心と、姦計を実行するだけの「力」を持っていることだけだ。
雄吾とて完全なる善人ではない。塚村の世話にならずに車夫を続けているのは、ただ彼の意地の強さのせいであるし、西郷札で一山当てようという野心もなかったとは言えない。季乃とのことでも最後まで純愛を通せたかどうかは分からない。
うがった見方になるかもしれないが、私はこの事件の裏で運命の糸を引いているのは、季乃だと思う。結果的に彼女が雄吾を破滅を追い込んでしまったのだ。たぶん、本人はまったくの善意で、あるいは無意識で行動しているのだろうが・・・。
結末はおそらく、こうだ。雄吾は、正々堂々と彼女の夫に誅を下そうとするが、それは夫に筒抜けになっているにちがいない。季乃の無意識的行動によって。そして、雄吾は・・・。
すべからく、人生の結末は「言わぬが花」。
※追記
ちなみに、「西郷札」とは、西南の役で西郷軍が発行した軍票である。ほとんど流通することはなく、役後はただの紙くずとなった。しかし、後に政府がそれを買い取るという風説が広まったという。それが、この物語の下地になっている。
したがって、題名も「さいごうふだ」ではなく、「さいごうさつ」と読む。
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