九月の二十四日に日本アルプスに登りまして、信濃沓掛に数日滞在、一昨夜三ケ月振りで東京へ帰って来ました。そして今夜はもうすでに第一回の講演を或るところでしなければならぬことになりました。今その講演をすませて雨のなかを宅にかえって参りました。
あまり久々で大きな集まりの前に立ったせいか神経が妙に興奮しています。廂を打つ時雨のかすかな音がかえってうれしく聴かれます。
いつも思うことですが人の前に立って講演をした後はいかにも寂しい、恥ずかしいような気分に捉えられてしまいます。聴衆が多くて、自分の声を大きくしなければならなかった時ほど、壇を下りてからは、暗い心が一層深くなって参ります。もう二度と演壇に立つことはしまいと思いながらも、また頼まれては否みがたく壇に立つ自分自身をあわれと思うこともあります。
この三ケ月というものたいていは山の沈黙につつまれていただけに、一層今夜はそういった暗い心持ちを多分に見出しています。
わたくしは纏りもつかなかったような自分の講演のことを考えて目をつむっています。
浅間の高原が泛かんで来ます。落葉松の林が、山鳩の声が、白い雲が。
わたくしは終日草の原を歩いていました。そこではわたくしはただ考えること、回想することのみに終日終夜を送っていました。
わたくしは決して膚浅な自分を人の前に提示する必要はありませんでした。わたくしはいつもただ受け身の生活をのみ繰りかえしていました。
夜明け方の美しい空をじっとわたくしの胸に受け容れました。わたくしはじっと山鳩の声を聴きました。わたくしは終日山に対して坐っていました。山は絶えずわたくしに人間の智慧以上の深いものについて、高いものについて語ってくれました。わたくしは夜の高原を歩きました。天を仰ぎました。そこにもわたくしは無限なる天のささやきを聴きました。わたくしは夜も昼も自然の声を聴きました。わたくしは決しておしゃべりをする必要を持ちませんでした。
わたくしはいつも口をとじていました。わたくしはほとんど言葉の必要を持ちませんでした。
日本アルプスの秋のいただきに立った刹那、わたくしは遠く富士を見出しました。わたくしの魂は感激にわななきました。そこでは言葉の必要も、文字の必要もありませんでした。わたくしは直接自然に触れることによって言葉以上、文字以上の深いものに撃たれました。
夜が明けて朝の空を仰ぐ、太陽を拝する、落日に黙祷する。ただそれだけの簡単な生活、それが山に於けるわたくしの生活でありました。わたくしは東京に帰って来てつくづく山の生活の尊さを思い泛かべています。
言葉なしに生きられる生活、おしゃべりをすることなしに生きられる生活、わたくしは山の生活の深さを忘れることができません。
わたくしは終日山に対して坐りました。そしてかつて一度も山に飽いたことはありませんでした。偉大なる沈黙!
わたくしは山のごとき沈黙を欲します。山のごとき深き沈黙を愛します。
わたくしは信濃の高原の沈黙を思い出しています。沈黙はわたくしの魂の影を映す深い静かな淵であります。
沈黙がやぶられた刹那わたくしはわたくし自身の魂を見失ってしまっています。
今夜も山には音もなく落葉松は散っていることでありましょう。わたくしは散ってゆく落葉松のなかに佇んで沈黙の山を眺めた日を思い出しています。
八ケ岳も眠り、浅間も眠り、信濃の山という山が沈黙の夜を守っているでありましょう。わたくしは小ざかしいおしゃべりをした自分自身をあわれまずにはおれません。
時雨が廂を打っています。
わたくしはじっと自分の魂を見つめています。
沈黙を破った後の暗い心、羞恥の心、憂鬱な心!
わたくしは鞭打たれる囚人のようなわびしい心で時雨の音を聴いています。
不図わたくしは真夜中の庭の隅にこおろぎの声を聴きました。
わたくしはふたたび尊い沈黙を見出しました。その刹那にかつて日本アルプスのいただきで見出した沈黙にも似た尊い魂のわななきを感じました。
時雨は降っています。
こおろぎは鳴いています。
わたくしは一切の雑念を捨てて俯向かないではおれませんでした。
神はわたくしのおしゃべりな魂を静かに撫で給う。
――『吉田絃二郎名作集 上高地遊記』当社刊より