『夏の山々』 吉田絃二郎

 霧島の温泉は海抜二千幾百尺のところだけに、南国の八月といっても秋のように涼しい。都会から離れているだけにきわめて原始的で、湯治客のうちには米味噌を背負って山を上って来、渓川の水を掬み、流れ木を拾っている素朴な人たちもある。薩摩潟、桜島、開聞岳も遥かに眺められる。湯から上って午睡の夢をむさぼっていると水のような山気につれて郭公が鳴いて来る。二里ばかり処女林を横切って苔の径をたどって行くと、山は急に展けて草原地帯に移る。躑躅はすでに散っているが、草あやめをはじめ名も知らぬ草花が五千尺の高原を埋めている。まったく花は多い。その草花の原を正面にして韓国岳がそびえている。
 韓国岳の懐に千尺の断崖と処女林に抱かれて大波池(大浪池)がある。旧噴火口に水を湛えて出来上がったものである。水はいかにも深く、深碧の底に白い雲を抱いている。わたくしはかつて大波池ほど神秘的な山上の湖水を見たことはない。周囲二里ばかりの池を横切って郭公が鳴き、鴬が鳴き、河鹿が鳴いている。その声が太古さながらの処女林や断崖にひびいて幽邃な交響曲を奏でている。わたくしはあまりのうれしさに草の上で踊り上った。霧島の温泉では月明の夜、薩摩隼人たちの焼酎飲の唄を聴くのも哀婉きわまりなきものである。
 雲仙の温泉で夜っぴてはげしい雷鳴に脅かされ、翌早暁牧場の馬の群に草をあたえなどして雲仙岳の絶頂普賢に登ったのは八月も末であった。普賢のいただきの風穴で西瓜を冷やし、萬斛の涼味を喫しながら、白い雲の下の有明を見、さらに海を越えて九州中部のほとんど全体を一眸の下に見ることのできた刹那の快適さは今も忘れることができない。雲は普賢の岩にあたって千切れては飛んだ。雲の千切れ目から、遥かに下方に青い夏の山が見え、海が見え、筑紫の平原が見えた。雲を縦横無碍に断ち切っては岩燕が擲つごとき速さで飛んだ。
 夏の山の旅行で殊にうれしかったのは雨の日の日本アルプス上高地の経験であった。松本に下車して、島々を立つころから珍らしい強雨であったが、徳本峠では冬のように寒く、日は暮れてしまった。上高地に着いたのは十時であった。尺にも近い岩魚の馳走にあずかって山の家に梓川の瀬の音を聴きながら寝床についたが嵐の声に夜っぴて眠れなかった。夜が明けて雨は止んだが穂高も焼も雲の海につつまれてしまって、わずかに川沿いの水楊や白樺の幹をながめるくらいのことであった。
 正午ごろであった。穂高のかぐろい岩の一角から急に雲が晴れ、霧が消えはじめた。その刹那、赫と太陽がかがやきはじめると同時に、穂高の鉄のような黒い数千尺の懸崖に沿って、幾百条ともなき大小の瀑布が落ちて来た。或るものは天に懸り、雲に入ってさらに雲に入り、或るものは雲の間から飛んで岩に落ち、霧を貫いて幾屈折して霧に隠れるという有様で、玄妙、荘厳、優婉、豪宕、繊麗あらゆる審美の姿を尽しては落ちた。おりからの日の光りに雨に濡れた穂高全山の岩が銀のごとく光れば、幾百条の瀑布はさらに銀よりも白くかがやくといった塩梅で、まったく恍惚たらざるを得ない。わたくしはあの時ほど強く山の霊感に打たれたことはない。
 翌日上高地の牧場を通りぬけてやがて槍見沢の磧からはじめて山の間に雪渓の上にそびえている巨人槍ケ岳の風貌に接した刹那には思わずも涙が落ちて来た。わたくしは大地に接吻するというロシヤの巡礼たちの物語を思いながら徂徠する雲の上に動かざる槍ケ岳の姿を拝んでいた。
 いったい雨に濡れた山が急に月にしろ、太陽にしろ、光りに照らされる時は特異な美を感じさせるものである。三年前の夏、月明をたよりに信濃沓掛から浅間に登った時、峰の茶屋あたりから細雨が降り、いよいよ浅間の五六合目にかかった時は二三間先は見えない程の霧につつまれた。ところが急に風が強くなって山の雲を払い、石を飛ばし、雨を叩きつけてしまって沖天に月が輝きはじめた。わたくしは突然雨に濡れた真っ黒な小浅間が北の半天を劃って月に照らされつつ雲の中に巨人のような姿で現われたのを見た。その刹那にもわたくしはどうしても山を拝まずにはおれないような気になってしまった。

――『吉田絃二郎名作集 上高地遊記』当社刊より

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