銀行制度が生まれた明治維新時代を振り返る
江戸から明治へ過渡期の金融制度
<神話が生まれた時代を探ってみる>
「ベースマネーの増減により(原因)、マネーサプライが増減する(結果)、は神話である」とTANAKAは主張する。そして「神話ではなく、その通りの時代もあったかも知れない」がTANAKAの考えだ。ではその時代とは?
それは、明治時代、貨幣を発行することができる「国立銀行」という名前の「民間銀行」が153もあった頃、日本で銀行制度ができ始めた頃だと思った。どの銀行も十分な資金がなく、預金が増えれば融資も増やせる時代だったに違いない。そうした考えで銀行制度が生まれた明治時代を少し振り返って見ることにした。
ところが、よく調べてみると、色々と面白いことが分かってきて、神話問題がちょっとおろそかになってしまった。
明治時代の銀行制度、教科書では扱っていないこともあって、好奇心を満足させることが沢山ある。あまりにも沢山あるので、1回ではまとめきれない。そこで今回は幕末から明治維新、貨幣を発行できる「国立銀行」という「民間銀行」が設立される直前までを扱うことにする。
まずは、銀行の「自分史」である「○○銀行○○年史」から興味を引く文章を引用することにしよう。
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<非常に複雑な江戸時代の貨幣制度>
江戸時代には鋳貨として金・銀・銭の三貨が使用されていた。金、銀は幕府直轄の大判座、金座、銀座で鋳造され、銭は金座、銀座の配下の銭座で鋳造されるものと、各藩で鋳造されるものがあった。
江戸時代を通じてこれら三貨の種類は実に複雑であった。まず金貨は大判、五両判、小判、弐分判、壱分判、弐朱判、壱朱判の7種類で、いずれも計数貨幣であった。これに対し、銀貨は秤量貨幣である丁銀、豆板銀が中心で、別に計数貨幣としての五匁銀、弐分銀、弐朱銀もあり、6種類であった。
そのうえ、江戸時代を通じて幕府は前後10回にわたって改鋳を行ない、そのうち8回は量目品位を低下させた。この改鋳による分類を加味すると金、銀貨の種類はのべ67種に達した。したがって、新旧の貨幣何種類かが同時に混用される場合が多く、とくに善次郎(安田善次郎)が活躍する幕末安政以後は、混用が著しい時期で、一層複雑な両替関係が生じていた。
一方、銭貨は計数貨幣で、江戸時代に壱文銭、四文銭、拾文銭、百文銭の4種類が鋳造され、さらに分類として銅、鉄、真鍮の3種に分かれていた。
貨幣の種類が多いうえ、計算単位も複雑であった。金貨は四朱が一分、四分が壱両というように4進法(両以上は十進法)であるのに対し、銀貨(秤量銀貨)は何貫何百何拾何分何厘(十進法)で、銭貨は何貫何百何十何文(十進法)であった。
さらに、三貨の使用範囲にはそれぞれ特徴があり、金貨は江戸を中心とする関東で主に幕府と麾下の武士団が用い、銀貨は大坂を中心とした関西で商人が使用した。銭貨は庶民一般の日常生活で使用されることが多かった。
このように、江戸時代における金・銀・銭三貨は、計数貨幣と秤量貨幣に分かれ、しかも互いに本位貨幣と補助貨幣の関係がなく、並行して通用した。
したがって、三貨の間の交換は日常の相場によって行なわれた。しかも、相場は素材価値の変動、江戸・大坂間の為替取組の多少、頻繁な改鋳による品質の変化、製造数量の多少などによってたえず変動した。
金・銀・銭三貨相互の交換を業とする両替商が江戸時代に活躍する経済的背景には、以上の事情がある。
(『『富士銀行百年史』から)
<江戸時代の貨幣制度>
徳川幕府が慶長6年(1601)金銀貨幣の制度を定めてから、わが国の貨幣制度は一応全国的に統一され、その体系が維新までの約260年間継承された。
すなわち幕府はまず慶長6年ごろ、金座・銀座を設けて金銀貨幣を発行し、さらに寛永13年(1636)には銭貨を発行するなど、次第に幕府鋳造の貨幣を天下に通用させ、各藩共通に通用させることにより、貨幣制度の統一を図ったのである。
幕府は全国の主要鉱山のすべてを占有し、貨幣の鋳造権も幕府がこれを握った。もっとも防長において毛利藩が、銀幣を一ノ坂銀山(現山口市宮野付近)で、また銅銭・鉄銭を長門国荻銭屋町・同弘法寺(現荻市内)・同美禰赤村(現美東町)・周防国小郡等で鋳造したように、まれには鋳造が特定の藩によって行われることもあったが、
これらは一時的便宜のためにもので、すべて幕府の許可を得てその監督のもとに行われたものである。
当時の貨幣は大別して金・銀・銭の3種があったが、それは本位・補助といった関係はなく、3貨並立して用いられ、その通用力にも制限がなく、言うなれば金・銀・銭の3本建てによる自由並行複本位制とも言うべき複雑な貨幣制度であった(通常これを「三貨制度」と呼ぶ)。
金・銀・銭貨は次のように分けられていた。すなわち、金貨は両・分・朱の単位があり、1両以上は10進法であったが、両以下は1両が4分、1分が4朱というように4進単位の計数貨幣であった。
銀貨は定位銀貨の他は、秤量して用いる10進単位の秤量貨幣で、1匁をもって単位とし、1匁の10文の1を分、1分の10分の1を厘と呼び、また1,000匁をもって1貫目と称した。これら並立的3貨の相互の交換価値は、その比価や流通数量によって時に相場の上下はあったが、原則的には金1両が銀60匁、銭4貫文となっていた。
また、一般的に大きな取引には金・銀いずれかが用いられ、日常の少額取引には銭が用いられた。しかし、大きな取引の場合、江戸を中心とする関東では金建てが採用され、京都・大坂を中心とする関西では銀建てが採られたのである。
こうした貨幣制度も幕政開始後100年間はその面目を堅持していた。しかし、幕府財政の窮迫が現れてくる元禄時代以後には貨幣の改悪鋳造が重ねられるようになり、貨幣制度の混乱もようやく出現するようになった。
(T注 元禄時代の貨幣改鋳に関しては <荻原重秀の貨幣改鋳と管理通貨制度> を参照のこと)
また、旧幕時代にはこのような硬貨と並んで紙幣も発行された。幕末には幕府までが紙幣を発行した。そのうち最も注目されるのは諸藩の発行した国札(こくさつ)であり、一般には「藩札」とよばれるものである。
もちろん、藩札の発行は幕府の許可を受けて行われるものであり、幕府も石高に応じて発行時期の制定とか、発行禁止とかの取締りを度々講じた。
しかし、諸藩の財政が窮乏を加えるにつれて、次第に乱発傾向に陥り、藩の信用低下と通貨膨張のため金紙の開きが大きくなり、領内経済の混乱を導くことも少なくなかったのである。
(『山口銀行史』から)
<福山藩・広島藩の藩札>
貨幣の鋳造・発行権は幕府が独占的に掌握するところであったが、この幕府貨幣の補完的な役割りを果たしたのが領国限り通用の藩札であった。
一般には、寛文元年(1661)に越前福井藩の発行した銀札が最初の藩札とされているが、福山藩では、それより30年前の寛永7年に銀札を発行している。
領国経済が発展し、一藩的規模における統一された領域市場の形成により、札遣い経済の展開が可能となるに至ったのであり、藩札発行の事例は、近畿・中国を中心として、次第に増加していった。
宝永4年(1707)、貨幣鋳造との関係から幕府は全国諸藩に対して藩札の発行を禁止したが、享保15年(1730)には貨幣の不足を緩和するためにその禁令を解き、藩札は領国通貨として一般化するに至った。
この禁令解除を契機に、幕府は藩札発行の許可制を採用に、通用年限を20万石以上の藩では25年、それ以下では15年と規定するなど、領国通貨の統制に乗り出した。享保期から幕末までに藩札を発行したところは97藩を数え、江戸時代全期を通じると143藩にのぼった。
福山藩では、全国諸藩に先がけて、寛永7年(1630)、菊屋太兵衛を札座として銀札を発行している。この銀札は銀貨と並んで流通し、兌換も円滑に行われていた。
水野氏断絶の元禄11年(16987)には発行高3,502貫に及んでいたが、水野氏を継いだ阿部氏も、禁令解除の享保15年、浜口屋源左衛門を札元として5種類(5匁、1匁、3分、2分、5厘)の銀札を発行した。
そして、翌16年には、領内において金銀正貨の使用を禁止し、藩札の通用を強制している。これらの銀札は、幕府の定めた通用年限の到来期に、それぞれ改印札として発行が続けられた。
広島藩は、宝永元年(1704)、京都の豪商辻次郎右衛門、広島城下の三原屋清三郎、天満屋治兵衛の3人を札元にして、5種類(5匁、1匁、5分、3分、2分)の銀札を発行した。
しかし、ほどなく幕府の禁令が出たため一時廃止され、禁令の解けた享保15年から再び発行された。その後、宝暦9年に中断し、明和元年(1764)に復活して幕末に及んだ。
広島藩の場合も、銀札の発行と共に領内の札遣いが強制され、正貨の使用が禁止された。こうした藩札の流通は、貨幣経済の浸透を促進し、領国経済を発展させる上で重要な役割りを演じたのである。
ところで、藩札は、元来、兌換紙幣であった。領国通用が強制されたとしても、他国商品の購入や他国旅行には金銀正貨が必要であり、その際には当然兌換されねばならず、当初はそれが実効されていた。
しかし、近世中期以降、藩財政の窮乏化と共に藩札が乱発されるようになり、藩は兌換に応じることができず、藩札は不換紙幣と化していった。
広島藩、福山藩の場合もその例に漏れず、兌換制を失った藩札の信用は著しく低下し、それに伴って札価下落を食い止め、札遣いの安定化を図る方策として、弘化4年(1847)に40分の1、嘉永5年にはさらに500分の1の平価切り下げと言えば、5匁の銀札が古紙同然の1厘となることであり、札遣いを強制された領民にとって、これはまったくの暴挙であった。
こうした藩札の乱発、札価の下落が幕末の幣制紊乱に一層拍車をかけると共に、物価体系を混乱させ、人心の不安をかき立てていくこととなるのである。
(広島銀行『創業百年史』から)
<土佐藩の岩崎弥太郎==四国銀行>
土佐藩では慶応2年、高知の西郊、石立村に鋳銭座を設けて幕府の許可を得ないまま銅銭の私鋳を行った。
土佐藩が、いかに通貨不足に悩んでいたかを物語るものである。鋳銭座は開成館に属して鋳銭局となり、のち原泉局と改称されたが、開業当時は工人が124人もいたというから、かなり大がかりなものであった。
2分金の偽造
幕末の混乱期に銅銭の私鋳をおこなった土佐藩は、明治になった元年早々、大胆にも2分金を偽造した。
これはメキシコ銀貨を改鋳し、それに金メッキして偽の2分金を造ったもので、同年秋から市場に出回った。土佐藩以外にも薩摩、筑前などの西国の藩で2分金の偽造が行われている。
こうしたことは市場を混乱させ、阪神方面の国際貿易にも支障を来たし、外国の公使団から政府へ厳しい抗議が行われた。政府は事態収拾のため、偽造金100両を30両の相場で回収することとし、また、諸藩には1万石につき引替金札300両を交付して回収に強力を求めた。
同時に偽造者の自首を求めたので、高知藩が申し出たが明治3年4月、大政官布告で、お咎めなしとなった。
開成館の設立
土佐藩では前記のように財政の充実を図るため勧業殖産策を進める一方、防衛のための艦船、鉄砲の整備を急ぎ、また欧米先進国の知識の導入を目的として、慶応2年2月、開成館を設立し、後藤象二郎の総括のもとに、つぎの各局を設けて事業を始めた。
勧業局 従来の国産役所の仕事を引き継ぎ、紙、樟脳、茶、鰹節など20種の藩営専売制を実施し、産業の開発指導を行った。
貨殖局 上方や長崎への国産品の移出と防衛を担当し、特に紙や樟脳などの国産品の販売と船舶や武器の購入にあたった。物産の売り捌きや対外貿易には長崎と大阪に土佐商会を設け、岩崎弥太郎が貨殖局の役人として手腕を発揮した。
税課局 物品税や賞品の移出入の課税にあたった。
その他 山虞(さんぐ)局(山奉公の仕事)、原泉局(銅銭の私鋳)、鉱山局(、捕鯨局、火薬局、軍艦局、訳局(洋書の翻訳)を置いた。
岩崎弥太郎は貨殖局の役人を一時辞任したが慶応3年、再び土佐商会の長崎駐在員となった。しかし明治元年、上役と意見が合わず、またしても辞任した。藩ではその後、長崎の土佐商会を縮小して大阪に主力を注いだ。
しかし、こうした府県の商会所が物品を買い占めて利益を独占することは民業を圧迫するとして政府が活動を禁止したので、大阪の土佐商会は解散した。藩では明治3年9月、土佐開成社を設立し、同年10月、九十九(つくも)商会と改称したが、表面上は民営の形をとり、岩崎弥太郎は土佐屋善兵衛を名乗って社長に就任した。
この時、今日の三菱のマークである菱形模様を採用した。
その後、岩崎弥太郎は大阪の長堀の旧藩邸の一部を借りて、藩船で高知と神戸、大阪、東京間の海運業を営み、また、藩札の引き換えを行って藩の財政を助けた。明治5年1月、藩船の払い下げを受け、藩から独立して実業界に入り、九十九商会を三つ川商会と改称し、さらに同年3月三菱商会と改め、三菱王国の礎をつくった。
土佐藩では、土佐商会のほか明治元年、東京に深川商会を設け、国産品の取次販売などを行ったが、前述のとおり、政府によって藩が直接、商業活動を行うことが禁止されたので、翌2年に東京商法局を設けれ、実際の業務は商人に当たらせた。
そのほか山内家の家老で宿毛を預かる伊賀氏は慶応2年、大阪に蔵屋敷を設けて木材、紙など宿毛の物産の販売を行う一方、運送船を購入して瀬戸内海の海運事業も始めた。伊賀商法は好成績をおさめていたが、明治2年に中止した。
(『四国銀行百年史』から)
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<京都府の成立と勧業施策>
近世の京都は、江戸・大坂とともに「三都」と並び称された。江戸時代に入り、江戸や大坂が政治都市や商業としとして発展したのに対し、京都は王城の地という歴史を背景に、典章儀節の淵源にちなむ美術工芸や織物、京染、陶磁器、金具など多彩な伝統産業が発展し、かつての政治都市から一大産業都市に転換していった。
なかでも、西陣機業地は飛躍的に発展し、享保15年(1730)ごろには保有織機(高機)台数が7,000余機にのぼり、他産地の追随を許さなかった。
また、丹後でも、享保年間(18世紀はじめ)に西陣織りの技法が峰山地方に伝えられ、丹後ちりめんが農家の副業として発展し、丹後機業地を形成するに至った。そして、このような西陣、丹後の2大機業地に支えられて、京都の商業では織物問屋が優位を占め、なかには、前記三家のように江戸、大坂にも呉服店や両替商を持ち、
「江戸店持(たなもち)京商人」として成功し、また幕府の公金為替を引き受けて専門敵金融機関としての基礎を築くものも現れた。
明治2年(1869)の東京遷都は、京都の金融のみならず、産業にも大きな影響を及ぼした。
とくに、西陣が受けた痛手は大きかった。これは遷都に伴い公卿、諸侯、官員、豪商など高級品の需要層が東京へ移住したことに加え、維新による礼装など風俗の洋風化から、衣冠束帯などの有職織物がほとんど不要となり、西陣への需要が激減したからである。
維新前、京都は、江戸の100万人、大坂の50万人に次いで人口35万人を擁したが、遷都後は「かつて7万戸と称された京都の戸数が1万余戸も減少した」(『京都経済の百年』)といわれ、人口も明治7年には約23万人に減少した。
旧幕時代、京都は幕府の直轄地として、守護職、所司代、町奉行がその行政を取り仕切っていたが、大政奉還に伴い、慶応3年12月13日、新政府は旧東町奉行所、次いで京都市中取締役所とした。
そして、この役所が慶応4年3月3日京都裁判所、次いで同年閏4月29日京都府と改称され、大津裁判所総督長谷信篤が初代知事に就任した。ここに京都府が成立したのである。
(『京都銀行五十年史』から)
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<江戸時代の金融制度>
質および抵当の制度、無尽または頼母子の制度、為替・両替の制度や機関は江戸時代にいたって全面的に発達した。
都市の急速な発展、商業や海運交通の格段の発達に伴いいわゆる商品、貨幣経済が飛躍的に進展したからである。
商品の流通はたとえば松前や関東の水産物が九州のはてまで売り捌かれ、琉球や薩摩の砂糖が東北や松前までも販売せられるほどとなり、その他の商品に関しても流通の範囲は広くなり市場は全国的に拡大せられた。
また貨幣制度は江戸時代のはじめに一応統一され、幕府鋳造の金・銀・銭の3貨がはじめて全国的に通用し、農村にまで行き渡るにいたった。金融の諸制度や機関が大いに発展したのは必然であった。
江戸時代の両替商は当時の金融機関として最も重要なものであって、いまだ近代的なものではなかったが、銀行業務中の重要なものはほとんどすべてを営むに至っていた。
すなわちその本来的な業務である金銀銭の交換・売買のほかに、幕府や藩庁の公金取扱・為替・預金・貸付・手形の振り出し等の業務をも併せて営んでいた。江戸・大坂・京都の3都のほか大津・堺等の都市において両替商が多く存在した。
なかんずく大坂と江戸のそれがもっとも発達していた。
無尽または頼母子
今日無尽とは同じ意味に用いられているが、本来は相異なる意味をもつものであった。その起源は共に鎌倉時代にあり、後にその差異が失われて全く同じものとなった。
室町時代の無尽の方法は一応完成したもので、江戸時代も大体においてそれを継承したものであったが、単なる共済的のもののみでなく、商工業者の資金取得又は庶民の放資のためにも行われるようになった。そしてその総金高も数十両ないし数百両の多額に上るにいたった。
特殊な金融機関
江戸時代には特殊な金融機関が種々存在した。それらは、「札差」「名目金または名目銀」「座頭金」「鳥金」「百一文」「日なし」などと呼ばれる金融機関、金貸しが主な業務である金融機関があった。
(『第一銀行史』から)
大坂の両替商
大坂の両替商はこれを十人両替・本両替・銭両替・南両替・米方両替の5種に分けるのが普通である。
十人両替とは寛文元年(1661)大坂町奉行石丸定次が両替商の中から選抜した十軒の大両替商をいい、両替商仲間における首領たり監督者たる資格をもった者である。
十人両替は幕府公金の出納を掌り、本両替商を統括し、金銀売買相場を支配し、また一般両替業務並びに幕府・諸藩への貸付を取り扱った。
本両替或いは本仲間両替は普通の両替商であって、十人両替の支配を受ける。両替商に仕えて業務を修得し30歳以上に達した者が、一定の手続きを以て十人両替仲間および本両替仲間の許可をえるときは本両替商を開業することができた。
その数には制限はないが、江戸時代の初期においては総数200余軒、享保頃に至っては340余軒であった。
本両替の業務は金銭の両替・金銀の相場立・諸貸付・預金・手形の振出又はその融通・為替等であって、今日の銀行業務に類似していた。彼らのうち資力の大なるものは幕府や諸藩の金融機関の役割を果たした。掛屋・蔵元これである。
銭両替すなわち三郷銭屋仲間は銭の両替を業とする者であって、その数は甚だ多く普通米穀雑貨等を販売し、そのかたわらこれを営んでいた。銭両替は淳仁両替の支配の外にあった。
南両替すなわち南仲間両替は大坂南部の銭両替の仲間であって、前述した三郷銭仲間よりも資力があり、享保17年(1732)には小判銭相場聞合所を建て本両替の相場を移して売買した。
本両替商はこれを脇両替となし仲間規約を以て彼らと取引することを禁じた。仲間の員数は嘉永年間の記録によれば三郷銭屋仲間の617名に対し南両替仲間は544名であった。
米方両替は1名遺来(やりくり)両替と言い、堂島米市場にあった両替商であって、堂島町内の豪商がこれを営んだ。その業務は帳合米商内の証拠金および仲買人からの預金を預かり限月売買の差引勘定をなす等であって、米市場商人の取引上の便利のためにできたものであった。
帳合米商内にさいしては米方両替は米仲間から売付(書)または買付(書)を受け取り、同時に歩銀(手数料)と敷銀とを受領した。彼らはこの売付や買付、すなわち差紙を以て、売先や買先に取付に廻り、最後に買先或いは売先にいたって済合となったのである。
(T注 堂島の帳合い取引については <大坂堂島米会所> を参照のこと )
(『第一銀行史』から)
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<江戸時代に無尽講の全盛時代を迎える>
頼母子講と無尽とは本来違った制度であったが、戦国時代末期から江戸時代以降にはほぼ同じ意味として用いられるようになった。
頼母子講や無尽講は、成立当初から金融の性質を含むものであったが、主たる目的が神社仏閣の参拝や経済的相互扶助であったために共済的な色彩が強く、鎌倉時代から江戸時代までを共済組合的時代と呼んでいる。
その後、江戸時代になってから射倖(しゃこう)的、つまり、投機的、富銭的、賭博的に発達し、無尽講の全盛期を迎える。
(T注 江戸時代の旅と頼母子講については <旅の普及を支えた経済制度> を参照のこと)
頼母子講や無尽には、親と称する発起人と親が募集した仲間があった。この組が講で、仲間は諸衆または講中と呼ばれた。
講中は規約に従って集会し、懸銭を拠出し、入札または抽選の方法によって落札者を決めたのである。落札によって受け取る金銭は、取足と呼ばれた。落札した後に懸金をしなくなることを取退(とりのき)無尽とか懸捨(かけすて)無尽と呼んだが、取退無尽の流行に直面した幕府は、賭博に類するものとしてしばしば禁止したのである。
この時代を射倖団体時代と呼んでいる。しかし、その一方では、純粋な頼母子講や無尽が、庶民階級に深く浸透していった。
江戸時代においては、農・工・商の庶民階級はもちろん、下級武士の階層も生活の圧迫から無尽、頼母子講を広く利用した。やがて庶民の生活共済的な目的を超えて農民、商工業者の事業資金調達の目的が加わるようになり、庶民金融機関の性格を持つようになった。
そして、さらに発展し、無尽担保金融を行う者や、無尽講に1人で何口も加入し、これを他の者に売却することを業とする者も現れるようになった。庶民の共済制度として始まった無尽、頼母子講は、こうして商業化の過程をたどっていったのである。
(『第三銀行80年史』から)
<江戸時代に発達した「無尽」>
共済金融(株)(⇒T4共済無尽(株)⇒S13鳥取無尽(株)⇒S26扶桑相互銀行⇒S64ふそう銀行⇒H3山陰合同銀行)は大正2年12月25日、鳥取県東伯郡倉吉町大字1丁目1031番地1,現在の倉吉市に資本金1万2,000円で設立された。
営業の目的は「一定の会員を募り相互の融通の便利を図り又貸付金営業を為す」となっている。
「無尽」は鎌倉時代に始まり江戸時代に最も発達したが、明治以降においても依然盛んに行われた庶民的な相互金融組織である。
無尽は本来「尽くることなし」の意味で仏典に由来した言葉であり、インドから中国、朝鮮半島を経てわが国に渡来したものと言われている。
無尽業は大正4年10月には全国無尽業者2,363(うち鳥取県8、島根県22)を数える盛行を示したが、なかには不健全な経営に陥るものも少なくなかった。
ここに、政府は無尽加入者の権利を保護するため、4年11月「無尽業法」施行(6月公布)に踏みきったのである。
同社は無尽業法施行に伴い11月、同法による事業方法ならびに無尽契約約款の改正に関する大蔵大臣の認可を受けて、共済無尽株式会社と改称した。そして、5年3月、無尽業法の規定により資本金を最低限の3万円に増資した。
無尽業法施行により、厳しい免許要件を満たし得ない小業者は整理され消滅した結果、5年末、全国無尽会社の数は136社に減少した。
しかし、その後増加傾向が続き、昭和8年末には276社を数えるまでになった。11年政府は銀行に対して、いわゆる「1県1行主義」を掲げて合同を奨励していたが、無尽会社についても経営の健全化、低金利政策の実施や国債の消化などを図るため、14年2月にはとりあえず「1県数社主義」を打ち出したが、この方針はその後「1県1社主義」に進展することになる。
(『山陰合同銀行五十年史』から)
<無尽・質屋など多様な地方金融の担い手>
明治初年、山形県内には国立銀行や銀行類似会社等が相次いで創設され、金融の途もしだいに多様化してきたが、一般の庶民の間でいぜん馴染みの深かったのは質屋や貸金業などの貸金資本であり、庶民間で相互に金銭を融通し合う頼母子講(無尽)であった。
当時の県内質屋ぼ数は明治19年時点で300軒、同年末現在で貸出総額はおよそ12万3000円、この貸出口数が14万6000口であったので、1口当たりの貸出額は84銭程度と、きわめて零細なものであった。
当時の県内の世帯数はおよそ11万6000世帯で、貸出口数はその1.27倍にあたり、質屋の利用が相当一般化していたことをうかがわせる、このように質屋は庶民の間における小規模金融の担い手の1つであったが、高利であり小口でもあったため庶民層もこれだけに依存していたわけではなかった。
そので頼母子講と称する講集団が組織され、庶民相互間の金銭の融通が盛んに行われていた。ただこれがどの程度普及していたかについての統計資料は見当たらない。
このほか藩政時代から明治期を通じ、きわめて重要な地方金融の担い手となっていたのは、地主および商人層であった。多くの富商や大地主は貸金業務を営み、その主要な収入源となっていたが、一方ではこれが土地集積の梃子ともなっていた。
県内最大の大地主本間家では、小作米売却金に匹敵する貸金の利息収入をあげていたとされており、また山形の豪商長谷川家や佐藤家などは、藩政時代から各層の事業資金を広く貸し付けていたとされている。時代と共に大地主の間にはこの貸金部門を銀行として分離独立させるものも出た。
明治21年に本間家によって設立された本立銀行、鶴岡の風間家によって大正6年に設立された風間銀行などはその例である。
(『山形銀行百年史』から)
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<太政官札の発行>
明治新政府が成立した際、わが国の通貨制度は極めて混乱していた。金・銀・銅・真鍮・鉄等各種の金属貨幣が流通していたが、徳川時代における改鋳と稚拙な製造技術のため、目方や純分が均一でなく、各種通貨の間の交換比率は非常に複雑であった。
(T注 元禄時代の貨幣改鋳に関しては <荻原重秀の貨幣改鋳と管理通貨制度> を参照のこと)
そのうえ各藩によって濫発され、その価値が下落した大量の藩札も存在しており、さらに贋造通貨も横行し、円滑な商品流通が通貨面から阻害される状況にあった。
新政府は徳川時代の遺産の1つとして以上のように不統一で紊乱(ぶんらん)した通貨制度を引き継いだ。このような情勢のなかで、慶応4年(1868)閏4月19日、富国の基礎を建てるため一時の便法として金札(太政官札)を発行する旨の太政官布を公布した。
太政官布発行のねらいは、「広く之を民間に貸下げ、其資本を充実にし、依て以て殖産貿易を振興し、富国の源を涵養するに在」り、新政府による資金創出策の第1歩であった。
それは、各藩や商人等に支配されていた全国の商品流通機構に介入し、上からこれを統制しようという流通主義的な殖産興業政策であったと指摘されている。
上記太政官札は慶応4年5月25日から発行された。これより先、閏4月25日に「大に商業を振起し政府の為に間接税の収入を増加せしめる」ことを目的として会計官中に設けられた商法司と、その下部機関である商法会所が太政官札の貸付を担当した。
しかしその流通は困難を極め、その価値は非常に下落した。政府の政治的権威が確立しない段階で発行され、しかも兌換の用意が特にあったわけではなく、発行額にも厳しい制限のなかった政府紙幣が広く通用するはずがなかった。
また太政官札の発行は、確固たる財政的基盤をいまだ有していなかった新政府の財政的理由から、「一は以て国庫の窮乏を補充」することを主旨としていたことも見逃すことができない。
慶応4年5月から翌明治2年6月までの太政官札発行総額4,800万両の6割以上が、財政資金の不足補填に充当されたと推測される。それが太政官札の価値下落を一層激しくしたことは否定できない。
政府は太政官札の円滑な流通と価値の維持を図るため、金札(太政官札)の相場取引取締りやその通用を阻害する者の処罰など、さまざまな強権を発動したが効果のあろうなずがなかった。
太政官札の流通難と価値下落から財政難に悩まされた政府は、ついに2分銀、1分銀の改鋳吹増しを余儀なくされるに至ったが、これが幕藩期以来の幣制混乱に一段と拍車をかけた。
これに伴い、先進国からは円滑な貿易取引への大きな障害としてわが国通貨制度の混乱に対する抗議が続き、重大な外交問題となった。太政官札の貸付を軸とする流通主義的殖産興業政策は失敗に帰し、明治2年(1869)3月15日、商法司は廃止された。
商法司廃止後半月を経た3月30日に会計官副知事を兼任することになった大隈重信は、2年5月28日の布告で太政官札の製造を中止し、その発行高を制限する一方、明治5年までに太政官札を政府が新に鋳造する貨幣と交換することにし、その後交換未了分に対しては月5%の利息を付することにした。
しかし、一片の布告で解決のつくような問題ではなかった。
(『日本銀行百年史』から)
<太政官札という不換紙幣>
江戸高輪の薩摩藩邸で史上名高い西郷・勝会談が行われたのは、慶応4年(1868)3月13,14日の両日であった。
その13日に、東山道軍はようやく武州蕨宿(現・埼玉県蕨市)に到着している。これに従軍してきた三井組の手代堀江清六は、兵糧米大量調達の特命を受けて江戸に潜入、夜、駿河町の店に入った。
三井高喜(たかよし)ら江戸の首脳は、この時、堀江から多大の情報を得たものと推測される。
この慶応4年は旧暦の閏年で、4月の次は閏4月であった。その6日朝、上州(群馬県)の山間を流れる烏川の水沼河原で一人の元幕府高官が、東山道軍の隊士の手により、従者らとともに斬に処せられた。
前月来追捕令の発せられた小栗上野介忠順である。倒壊直前の幕府にあって製鉄所建設や兵庫商社設立、幕府紙幣発行など才腕を発揮した小栗は、こうして数え年42歳の生涯を閉じた。
辛くも身を逃れたその妻子を、後日三野村利左衛門は長く自邸内に迎え入れて旧主に報いている。
閏4月19日、政府は紙幣発行の布告を発した。「王制開始にあたり富国の基礎を建て、世上の国窮を救助するため、皇国一円通用の金札を製造し、諸藩や商家農家に貸し付けることとした」というのがその布告の趣旨である。
この太政官札発行を立案、推進したのは、当時実質的な財政担当官であった三岡八郎(由比公正)で、三岡の主たる意図は、全国各地の産業振興のための資本供給にあったと考えられる。
しかしこの金札には、目前の国庫の不足を補うという役割も与えられており、政府全体としてはむしろこの面を推し進めてゆくことになる。
政府にはもちろん正貨の準備はないので、この金札は不換紙幣である。金種は十両、五両、一両、一分(4分の一両)、一朱(16分の一両)の5種で、これを3千両発行し、諸藩には1万石につき1万両の割合で興業資金として貸し出すほか、京阪近郷の有力商家には金札役所を通じて貸し付けることとされた。
太政官札製造に際し、三井次郎右衛門(高朗=たかあき)や大阪両替店の名代役吹田四郎兵衛は、銅販の製版師や印刷業者を斡旋するなど、「五ヶ国通用銀札」の経験を生かして政府に協力した。
金穀出納所は2月に会計事務所と改称されていたが、閏4月21日にはさらに会計官と改められた。同25日、政府は商業振興機関として会計官の中に商法司という部署を設置した。
商法司の事務所を商法会所と言い、京都では、三井、小野、島田の為替方3組が会計基立(もとだて)金収納業務のために共同で建てていた為替御用所をその会所にあてることにした。
(『物語三井両替店』から)
<太政官札と三井と渋沢栄一>
太政官札は前述のように政府から諸藩に貸し付けられたが、この借入紙幣を使用して企業活動を始めたのが、静岡藩にいた渋沢栄一である。慶応3年、幕府のパリ万国博覧会使節団の一員として渡仏した渋沢は、明治元年11月帰国後、徳川慶喜の退隠していた静岡に居を定めた。
静岡藩の借り受けた太政官札は53万両に上がったが、渋沢は藩役人に説いてその中の30数万両に民間出資金も加え、「商法会所」を設立し、一種の商社活動を開始した。
しかし、全国各地で実際に肥料などの物産を買い付けようとすると、太政官札はなかなか通用しなかった。そこで渋沢は明治2年2月、東京へ出て三野村を訪ね、この紙幣をまとめて正金に換えたいと相談した。三野村は快くこの両替に応じている。この時、太政官札の交換レートは、額面金額の2割引ほどであった。
渋沢はこの明治2年の暮れに、大隈重信に説得されて大蔵省に入る。静岡から東京に移って来た渋沢に対して、三野村は何かと好意を示し、三井入りを勧めたことも再三であったといいう。
明治2年7月までに結局4千8百万両も大量発行された太政官札は、三岡の意図はともかく、その過半が歳入不足の補填に充当されてしまった。
そして氾濫する不換紙幣は、政府が金融制度を整理、確立してゆく過程で大きな難題と化してしまう。しかしこの不換紙幣と会計基立金とによって、明治政府は発足時の危機を切り抜けたのであり、この時期に三井は、政府にとって不可欠の支柱になっていたのである。
(『物語三井両替店』から)
<明治政府の貨幣制度改革>
維新直後の幣制は、しばらく旧幕時代の幣制をそのまま引きついでいった。江戸時代の貨幣制度は、非常に入り組んでおり、時代を経るほど金銀貨幣の品質が低下し、その計算は複雑をきわめた。
その大要は表のようであった。
<<江戸時代の貨幣>>
────────┬────────────────────────────
金貨 │大判 5両判 1両判 2分判 2朱判
銀貨 │1分銀 2朱銀 1朱銀 5匁銀 丁銀 豆板銀
銅・真鍮・鉄銭 │当百銭 4文銭 1文銭
藩札 │諸藩および旗本が発行したもの
────────┴────────────────────────────
また、明治元年末の旧貨幣の流通高は明治2年5月制定の新貨に換算すると次の通りであった。
金貨 8,761万円
銀貨 5,266万円
銭貨 603万円
藩札 2,464万円
合計 1億7,094万円
明治政府は、明治2年(1869)2月には造幣局を設置し、銀貨を本位貨幣、金貨を補助貨幣と定め、名称も両・分・朱・文を廃し、円・銭・厘と改め、十進法を採用した。
形状も円形に統一し、同年12月、藩札の流通を禁じ、4年7月の廃藩置県と同時に、その時の相場で藩札を回収することとした。
さらに4年5月、「新貨条例」を公布し、金本位制に改め、5年12月には、ドイツに依頼して近代的な紙幣を製造して、それまで発行されていた太政官札その他の政府紙幣を、順次引き換えたので、11年以後は新紙幣に統一された。この紙幣は俗にドイツ紙幣と言われた。
(『埼玉銀行史』から)
<「新貨条例」の制定>
明治初年において流通していた貨幣は、種々雑多で不統一を極め、品質も粗悪であった。そのうえ、地方には1,694種にものぼる藩札が流通しているという有様で、貨幣制度は混乱の極にあって収拾できないような状態にあった。
そのため、政府は明治4年5月、「新貨条例」を公布して近代国家に要請される幣制の統一を進めることにした。同条例では純金1,500mgを1円とし、これを基準として、その100分の1を銭、銭の10分の1を厘とすること、新貨幣1円と旧貨幣1両を等価とすること──
などが定められた。この新貨条例によって、わが国も法制上で一応、西欧先進国と共通の貨幣制度をもつに至ったのである。
(『秋田銀行百年史』から)
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<政府紙幣の発行>
明治新政府は発足当初、大政奉還後ではあっても幕府諸侯の領地からの歳入は少なく、維新の各地転戦の資金は三井、鴻池などの富豪から調達、借用する有様で、著しい財政難にあった。
政府は慶応4年5月から太政官札と呼ばれる5種類(10両、5両、1両、1朱、1分)の金札を発行した、太政官札の発行の建前は、一般社会の困窮を救済することとされたが、実際には大半が新政府の財政に窮状から国庫の欠乏を補填することに充てられた。
太政官札は明治2年6月までに4,800万両が発行されたが、不換紙幣であったため通貨価値が安定せず、最初の1年間は流通が不円滑で、地方にあってはほとんど通用しなかった。
そこで政府は、明治2年5月の布告で明治5年末までに太政官札を新貨幣と交換することにし、その後交換未了分に対しては年5%の利子を付けることとした。これによって太政官札はようやくその信用を増し、流通は次第に円滑となったが、当時少額紙幣が少なく取引上不便であったため、明治2年9月、太政官札と引き替えに民部省札(2分、1分、2朱、1朱)を750万両発行した。
その後、廃藩置県後の赤字財政補填のため明治4年10月に大蔵省兌換証券を600万円、北海道開拓費捻出のため明治5年1月から開拓使兌換証券250万円を発行した。
これら4種の紙幣は総称して政府紙幣と称され、次第に広く流通していった。
しかし、正貨の裏付けのないこれらの不換紙幣が雑多に流通するにつけ、偽造札も多くなり始め、加えて各種紙幣の不統一による流通不便もみられるようになった。
また、政府紙幣は金兌換をうたっていたが、事実上これらの政府紙幣と交換すべき金貨、銀貨などの正貨を政府は保有していなかった。
そこで、政府は太政官札などの金札を新紙幣(正貨)に交換する当初の構想を断念し、新紙幣を発行する方針により政府紙幣の統一を図ることとした。
新紙幣は明治5年4月から発行され、順次政府紙幣との交換が行われた。この紙幣はドイツで印刷され、従来に比して精巧なもので、額面は100円、50円、10円、5円、2円、1円、半円、20銭、10銭の9種類であった。
<政府新紙幣発行数量> (単位 円)
種別 |
発 行 事 由 |
金 額 円 |
第1種 |
官省札回収のため発行 |
52,897,165 |
第2種 |
旧藩札回収のため発行 |
22,618,245 |
第3種 |
開拓使経費補填のため発行 |
1,100,000 |
第4種 |
大蔵省兌換証券回収のため発行 |
6,784,333 |
第5種 |
開拓使兌換証券回収のため発行 |
2,463,520 |
第6種 |
出納費へ繰替貸のため発行 |
8,000,000 |
第7種 |
西京・大阪・神戸為替会社へ貸付のため発行 |
525,444 |
第8種 |
西南征伐費支弁のため発行 |
27,000,000 |
合 計 |
|
121,388,707 |
|
『明治前期財政経済史料集成』第13巻『明治貨政考要』から
(『百十四銀行百二十五年誌』から)
新貨条例の制定
明治政府が成立した際、わが国の通貨制度は極めて混乱していた。江戸時代における度重なる改鋳と稚拙な製造技術のため、目方や分量が均一でなく、各種通貨の間の交換比率も非常に複雑であった。
(T注 元禄時代の貨幣改鋳に関しては <荻原重秀の貨幣改鋳と管理通貨制度> を参照のこと)
さらに贋造通貨も横行し、円滑な商品流通が通貨面から阻害される状況にあった。このため、政府は慶応4年4月純正画一な貨幣を製造する方針を決定し、明治3年大阪造幣寮を建設、同年11月には「新貨幣品位及重量表」を発表し、1円銀貨を本位貨とする銀本位制の採用を内定した。
しかし、渡米中の大蔵少輔伊藤博文の強い主張により、欧米列強と同様の金本位制を採用することに方向転換し、明治4年5月10日、わが国最初の貨幣法である新貨条例を公布した。この新貨条例によって従来の両は円に改められ、1円金を原資とする円・銭・厘による10進法の貨幣単位が定められた。
また、純金2分(1.5グラム)を1円とする金本位制が採用された。当時アジアでの貿易決済通貨であったメキシコドル銀貨とほぼ同一の品位・量目の貿易用1円銀貨にもほとんど無制限の通用力を認めたため、実質的には金銀複本位制となった。
新貨条例は、その後再三の改正を経て貨幣条例、貨幣法へと発展していった。そしてこれがわが国における近代的な統一的貨幣制度確立への出発点となる画期的な制度の発足であった。
(『百十四銀行百二十五年誌』から)
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<為替会社の設立>
新政府は殖産興業政策を推進するに当たって、民間での近代産業を育成するため、近代的な金融機関の発達を図った。
明治4年、商業の振興を目的として、商法司という役所を設けたが、翌2年2月にはこれを通商司に改組した。この通商司の指導、監督のもとに、旧幕時代の御用為替方であった三井、小野、島田などの豪商から資本を募り、東京、大阪、京都、横浜、神戸、大津、新潟、敦賀の主要商業都市8ヶ所に通商会社と為替会社が設立された。
通商会社は内外商業、特に外国貿易の振興に携わり、為替会社は通商会社に資金を供給するとともに、民間の商業、生産、金融を円滑にすることを目的としていた。
為替会社は、政府から貸し下げられた太政官札や自らが発行した紙幣をもって、預金、貸出、為替などの業務を取扱い、政府の手厚い保護と多くの特権をもって経営された。
それにもかかわらず、横浜を除く各社は巨額の負債を抱えて著しい経営困難をきたし、明治6年から7年にかけて次々と解散してしまった。
その原因としては、制度が実情にそわなかったこと、会社経営に適当な人が得られなかったことなどが挙げられるが、この為替会社の失敗は新しい銀行誕生への布石となったもので、大きな歴史的な意義をもっていたと言えよう。
(『秋田銀行百年史』から)
<為替会社の設立と失敗>
「明治御一新」の下における新政府の財政はいくばくも租税収入にたよることができず、他面、貿易は連年輸入超過を続け、極度の窮乏状態に陥っていた。そこで政府は、会計基金300万円の募債と紙幣発行によってこの難局を打開しようとし、まず京阪の富豪に会計基金の募集をはかると共に、紙幣発行を全国に布告した。
これがいわゆる太政官札、あるいは金札と呼ばれる不換紙幣の発行であった。太政官札は殖産資金の供給を目的とし、農商工等殖産を志すものに貸し付け、その育成をはかろうとしたもので、毎年末に借用総額の1割を返済し、13カ月をもって完済すべきこと、返済の紙幣はただちに償却し、再び発行しないことになっていた。
しかし、この流通は円滑にいかず、東京・大阪・京都においてさえ正貨に対して6割あまりも下落し、地方ではほとんど通用することはなかった。政府は太政官札の貸付を円滑にするための金融機関の設立をはかった。
これが為替会社であった。これより先、政府は明治元年に観商のために商法司という機関を設け太政官札の貸付をなじめたが翌年にはこれを廃し、その後身として通商司なる機関を設置した。この通商司は内外の商業を振興し政府の歳入を豊にすることを目的としたもので、その下には諸商人を連合させ、外国貿易にあたらせるための通商会社と、通商会社の資金供給機関としての為替会社を設けた。
為替会社は銀行の性質をそなえた紙幣発行の特権をもつ金融機関で、東京・横浜・新潟・京都・大阪・大津・敦賀の8ヶ所に設立され、政府の手厚い保護をうけて、預金・貸付・為替・紙幣発行などの業務にあたった。当初、為替会社の貸付は通商会社と協力して行われ、利息も月1分5厘と低利で順調に普及するかのように見えたが、その資金源としては預金が少なく、貸付金は主に政府の貸下金(かしさげきん)と発行紙幣および株主の身元金によるという状態で、
経営はしだいに行き詰まりを見せてきた。この原因は、当時の実情からしてこれらの制度があまりにも急進的であったこと、会社経営に人材が得られなかったこと、半官半民のため政府の過度の干渉があったことなどによるとされるが、結局、多額の債務を残して明治5年にはほとんどその機能を失うに至った。
(『山形銀行百年史』から)
<北陸地方における為替会社>
北陸地方において銀行業の先駆をなしたのは、明治2年に設立された敦賀為替会社である。同じ頃、金沢に金沢為替会社、大聖寺に融通会社が設立され、藩の公金を取り扱い併せて一般の銀行業務を行ったが、両社ともに、敦賀為替会社と違って藩営であった。
また、越中の国で新川県が誕生した明治4年ごろ、魚津町(当時の同県庁所在地)の資産家であった寺崎与一郎が中心になって、魚津為替会社の設立を願い出ている(富山県関係文書)。
このように、北陸地方の主要地(特に物資の集散地)において明治初年に早くも現在の主要銀行業務を行う金融機関が誕生し、また、その設立の動きがあったことは注目される。
(北陸銀行『創業百年史』から)
<敦賀に為替会社設立と三井組出張所の進出>
質屋、金貸し業、頼母子講さらには地主や問屋の前貸制度などははやくから行われていたが、現在の銀行の性格を備えたものとして本県(福井県)で初めて誕生したのは、明治2年に敦賀に設立された敦賀為替会社である。
全国で8社の為替会社のうち1社が敦賀に設立された背景として、敦賀は天然の良港をもち、旧幕時代には諸藩の倉庫が立ち並び、中国や韓国との交通は無論のこと、畿内へ通ずる要港として繁栄し、地元の海運業者のほか江州商人や御用商人の島田組、三井組の支店などがあり、為替会社設立の要請が強かったことが挙げられる。
設立者は敦賀財界の有力者18名で構成され、大蔵省役人二等出伺紙幣寮の神崎正威の監督下に誕生した。
構成員は海運業14名、醸造業、地主が各2名であった。これらの社中(社員)が拠出した身元金(出資金)は2万1,550両で、3年2月に準備金として4万1,000両の紙幣(金券)が発行された。
しかし、同社は当時設立された全国8つの為替会社の中では最も小規模であった。
同社は社外預かり金(一般預金)の不足から勢い営業資金を紙幣の発行に頼らざるを得なかったが、明治4年以降は政府の方針で紙幣発行の規制が厳しく営業資金は減少の一途をたどり、規模の縮小を余儀なくされた。
貸出金は明治6年3月現在で、諸方貸出金と商社貸付金合わせて、6万3,882両2歩であった。主要貸出先は、西京為替会社、開商会社のほか同社役員を主体とした貸出が多かった。
明治4年7月に通商司制度が廃止され、5年11月国立銀行条例が公布されたのに伴い、同社は7年3月に解散した。
(『福井銀行80年史』から)
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<江戸時代、金を借りて利息を払うのは当然であった>
「明治維新後、日本は西欧の資本主義経済を取り入れた。このため江戸時代とは違った経済体制になった」と言うと、「なるほどな」と思うかも知れない。
江戸時代は資本主義経済ではなかった、と思っている人も多いかも知れない。けれども、江戸時代は資本主義的な面も多く、同じ時代の西欧と比べてもひけを取らないほど、資本主義の進んでいた面もある。
このため『資本主義は江戸で生まれた』と言う人もいる。(『資本主義は江戸で生まれた』鈴木浩三 日本経済新聞社 2002. 5. 1)
その1つは、貨幣制度で、金・銀複本位制度でありながら、銀を金の補助貨幣のように扱い、まるで管理通貨制度のように扱っていた。
その管理通貨制度的な考えは、元禄時代の荻原重秀にまでさかのぼり、幕末の金の大量の流出も、日本と西欧との金融制度の違いから生まれたものだった。TANAKAの考えは、「当時は日本の金融制度の方が進んでいた」となるのだが、それだけに西欧人に理解されずに大量の金が流出することになった。
これに関しては<グローバリゼーションによって社会は進化する> 幕末、金貨の大量流出を参照のこと。
江戸時代の金融制度を調べてみると、金を貸す機関が多いことに気づく。人々は、大名も武士も商人も農民も、「金を借りたら利息を払う」ということは当然のこととなっていた。しかし、「金を預けて利息を稼ぐ」という金融機関はなかった。
これが明治になってからに銀行制度の発達に大きな影響があったと思う。つまり、銀行ができて「そこから利息を払って金を借りる」ということには抵抗がなかったが、「預金して利息を稼ぐ」ことには慣れていなかった。このため銀行の預金が余り伸びなかったのだと思う。
バーナンキやサムエルソンのモデルに当てはまらないのは、預金が集まらなくて、トランスミッションメカニズムが働かなかったのだと思う。
もちろん「エコマネー」「地域通貨」信奉者の言う、「貨幣は交換のためだけに使うべきで、貯蓄や金融商品の売買などのマネーゲームに使うべきでない」
とか「利子の存在は富める者をより豊かに、貧しい者をより貧しくさせるだけでなく、企業にとっても負担であるため、常に経営を成長させなければ負けてしまうという競争を強いる社会ができあがります」
よりも資本主義的であった。
江戸時代には幕府も町年寄りを使って町人への融資活動を行っていた。これに関しては 幕府の財テクは年利1割の町人向け金融 を参照のこと。
地域通貨に関しては 地域通貨は金融経済学の最適教材か? を参照のこと。
バーナンキの「アグリコーラの例」は マネーサプライ決定の原理 を参照のこと。
サムエルソンのデルは 銀行はどのようにして金細工業から発展したか を参照のこと。
幕末から明治初期にかけての日本の金融制度、銀行制度を扱うのは、バーナンキやサムエルソンのモデルがあまりにも単純で、日本の銀行制度発達とは違うように思えてきたからだ。
抽象的なモデルとしてのバーナンキやサムエルソンのモデルは否定すべきとは思わないが、実際はまるで違っていた。そこで日本の銀行について、明治初期のことを調べることにした。
幸い、銀行の「自分史」である「○○銀行○○年史」という資料がとてもまとめきれないほど沢山あった。経済学の教科書で扱っていない、現場のニュアンスが伝わってくる、貴重な資料だと感じた。次週以降もこれらの資料を基に話を続けることにする。
<主な参考文献・引用文献>
『富士銀行百年史』 富士銀行調査部百年史編さん室 富士銀行 1982. 3. 1
『山口銀行史』 編纂・発行 山口銀行 1968. 9.25
『創業百年史』 創業百年史編纂事務局 広島銀行 1979. 8. 6
『四国銀行百年史』 四国銀行百年史編纂室 四国銀行 1980. 7. 1
『京都銀行五十年史』 編集・発行 京都銀行 1992. 3.31
『第一銀行史』 編纂・発行 第一銀行80年史編纂室 1957.12. 1
『第三銀行80年史』 第三銀行80年史編纂委員会 第三銀行 2003. 6
『山陰合同銀行五十年史』 山陰合同銀行五十年史編纂室 山陰合同銀行 1992. 6. 1
『山形銀行百年史』 山形銀行百年史編纂部会 山形銀行 1997. 9.30
『日本銀行百年史』 日本銀行百年史編纂委員会 日本銀行 1982.10.10
『物語三井両替店』三井銀行300年の原点 三井銀行調査部 東洋経済新報社 1984. 6.14
『埼玉銀行史』 埼玉銀行史編集委員室 埼玉銀行 1968.10. 1
『秋田銀行百年史』 秋田銀行100年史編纂室 秋田銀行 1979.12. 1
『百十四銀行百二十五年誌』 編纂・発行 百十四銀行 2005. 8.31
『創業百年史』 北陸銀行調査部百年史編纂室 北陸銀行 1978. 3.15
『福井銀行80年史』 福井銀行80年史編纂委員会 福井銀行 1981. 3. 5
( 2006年5月15日 TANAKA1942b )
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国立銀行という私立銀行が153も設立された
この時代のキーマンは渋沢栄一
明治政府がとった金融政策、試行錯誤が続く。今週は、貨幣を発行することができる「国立銀行」と呼ばれた「民間銀行」を扱う。
今週も多くの銀行の「自分史」である「○○銀行○○年史」から興味を引く文章を引用することにしよう。
(^_^) (^_^) (^_^)
<第一国立銀行操業==渋沢栄一総監役に就任>
明治維新はわが国の近代国家としてのスタートであった。維新政府は、近代国家としての体制をととのえ、西欧先進国に追いつくために、いろいろな政策を早急に実行しなければならなかった。
国民経済の面においては、まず健全通貨制度と近代銀行制度の確立、殖産興業政策の遂行、株式会社企業の育成ということがその最も重要な、しかも急を要する課題と考えられていた。
その1つの柱として政府は明治5年11月に、国立銀行条例を公布し、国立銀行(「ナショナル・バンク」の直訳)を興し、これを経済政策の中核としようとした。
国立銀行条例はさしあたって2つの目的を持っていた。第1は当然のことながら商工業金融の振興であり、第2は明治新政府が歳入を補うため発行した政府発行紙幣の銷却であった。
同条例の目指すところの二重性を端的に反映して、国立銀行は銀行業務とともに、銀行紙幣の発行、官金出納取扱、政府の命令による公債の買入、引換などの特殊な業務を兼営することとなった。
この国立銀行の最初の模範として、政府が積極的に設立をすすめ、そして誕生したのが第一国立銀行であり、その経営の最高責任者は、さきに大蔵省官吏として国立銀行条例の立案者でもあった渋沢栄一であった。
第一国立銀行の資本金の大半は旧幕時代からの両替商の重鎮として力のあった三井組、小野組の両家から出資された関係で、本来ならばこの両者が経営にあたるべきであったが、政府はこの両家の融和強力は難しいと判断し、所期の国策を遂行させるために、2人の頭取の上に、実質的に主宰していく人をおく必要があるとして、総監役という名で渋沢栄一を置くことにした。
かくして第一国立銀行は明治6年6月11日に東京海運橋兜町の本店において創立総会を開き、同年7月20日、本店および横浜、大阪、神戸の3支店がいっせいに開業した。
貨幣の単位を両から円にかえたのは明治4年であった。それから2年後、はやくも「流通の枢軸、富殖の根底」(渋沢栄一『第一国立銀行開業祝詞』から)となるべき銀行が設立されたわけで、そのスピーディーなことな驚くばかりである。
こうして才一国立銀行は設立されたが、その業務は初めから順調にすべり出したわけではなく、先駆者として種々の困難に遭遇しなければならなかった。
たとえば健全通貨制度の確立ということを国立銀行の使命の1つとし、銀行に金兌換紙幣を発行させ、これによりかつて政府が発行した不兌換紙幣を銷却しようとしたのであるが、すでにかなりの額の不兌換紙幣が発行せれていたばかりでなく、輸入の増加や、海外の金価格の騰貴などによって、紙幣と金(キン)との値打ちの開きが次第に拡大した。
このため銀行紙幣は発行すれがすぐ兌換さを要求されるという状態になり、創立1ヶ年後の明治7年6月以後は、銀行紙幣を発行することが、事実上できなくなってしまった。
(『第一銀行小史』から)
<第一国立銀行 半期実際報告表> 単位千円
期・年 |
紙幣流通高 |
預金 |
貸付 |
公債証書 |
純益 |
配当金 |
1/6下 |
752 |
9,113 |
3,250 |
1,400 |
93 |
2.25 |
2/7上 |
1,002 |
9,982 |
2,373 |
2,354 |
130 |
4.37 |
3/7下 |
460 |
5,949 |
3,111 |
2,337 |
102 |
4.09 |
4/8上 |
190 |
5,400 |
1,925 |
2,282 |
108 |
4.19 |
5/8下 |
779 |
4,756 |
1,787 |
2,408 |
138 |
5.75 |
6/9上 |
883 |
4,556 |
1,856 |
2,792 |
113 |
5.75 |
7/9下 |
1,197 |
2,515 |
2,909 |
1,346 |
152 |
7 |
8/10上 |
1,184 |
2,561 |
2,709 |
1,618 |
144 |
7 |
9/10下 |
1,185 |
3,109 |
2,693 |
1,453 |
148 |
7 |
10/11上 |
1,131 |
5,508 |
3,076 |
1,830 |
168 |
7 |
11/11下 |
1,195 |
5,216 |
4,802 |
1,370 |
168 |
8 |
12/12上 |
1,192 |
4,064 |
3,909 |
1,651 |
181 |
8 |
13/12下 |
1,196 |
5,193 |
4,992 |
1,531 |
204 |
8 |
14/13上 |
1,196 |
3,606 |
3,784 |
1,636 |
182 |
8 |
15/13下 |
1,198 |
3,279 |
3,356 |
1,593 |
195 |
8 |
16/14上 |
1,195 |
3,650 |
3,666 |
1,607 |
202 |
8 |
17/14下 |
1,196 |
4,446 |
4,661 |
1,582 |
237 |
9 |
18/15上 |
1,196 |
3,301 |
3,366 |
1,685 |
204 |
9 |
19/15下 |
1,190 |
3,942 |
3,538 |
1,739 |
186 |
9 |
20/16上 |
1,200 |
3,697 |
3,679 |
1,890 |
163 |
9 |
|
(『第一銀行小史』から)
<国立銀行条例の公布>
明治4年末に大蔵省内に銀行条例編纂掛が設けられ、紙幣頭渋沢栄一、同権頭芳川顕正らによって検討がはじまり、5年6月には草案が完成された。
こうして同年11月に「国立銀行条例」が公布され、ついで翌6年3月にな「金札引換公債証書発行条例」の公布となった。
国立銀行条例は前文28条、161節から成り、その内容は銀行規範の最初のものであったため、世人一般に理解を深めさせるべく、法規条項的な条文に加え、事務取扱要綱的記述も多く、懇切丁寧なものであった。
同条例の要旨は、次ぎのようなものである。
@ 元金(資本金)
人口10万人以上の都市……………………50万円以上
人口10万人未満1万人以上の地…………20万円以上
人口1万人未満3,000人以上の地…… 5万円以上
A 紙幣の発行
A 資本金の10分の6を政府紙幣をもって大蔵省へ上納し、同額の公債証書を受け取る。
B この公債証書を抵当に同額の銀行紙幣を紙幣寮より受取ってこれを発行する。
C 資本金の10分の4は、本位貨幣(金貨)をもって兌換準備とする。この準備は、つねに発行紙幣の3分の2を下ってはならない。
B 銀行の業務
A 為替・両替・預り金・貸出・証券および貨幣地金の売買等を本務とする。
B 預り金の2割5分は、支払準備金ろしてつねに手許に積立おく。
C 大蔵卿の命令により国庫金の取扱いを行う。
このように国立銀行の業務は、今日の普通銀行業務とほぼ同一であるが、兌換銀行券発行の特権が与えられ、さらに官金取扱いが現在以上に重要な業務であるなど、中央銀行的なな性格をも持ち合わせている。
これは国立銀行を語るうえできわめて特徴的な点である。
「国立銀行条例」の立案者である渋沢栄一は、国立銀行の仕組みを次ぎのように述べている。
「例えば百万円の銀行をたてるには六十万円の司負紙幣を大蔵省に差し出し、金札引換公債証書を受け取り、他の四十万円は之を金貨として交換の準備に充て、前の金札引換公債証書を再び政府へ納めて、政府より六十万円の銀行紙幣を受け取り、之を其銀行の融通資本とし、
而して其紙幣を所有する人より正金の交換を望なるる時は、前に述べたる準備金を以て之を交換し、其準備金は常に発行紙幣の3分の2を下らざる高を存する制であった。
故に此銀行紙幣にて、試みに年1割の利を得るも、其高六万円なり、又金札引換公債証書にて三万六千円の利息を得て、合計金九万六千円となるにつき、即ち百万円に対して年九歩六厘の利益となるの計算にして、之に其銀行の諸預かり金、又は為替割引等より生ずる利益もあれべ、相当の営業となるべしとの想像であった」
(山梨中央銀行『創業百年史』から)
<正貨兌換の行き詰まり==国立銀行条例の改正>
国立銀行条例は銀行紙幣が正貨と兌換されることを建前としていた。しかし、明治7年ごろから政府紙幣と正貨との間に値打ちの開きを生じたために、政府は同条例にもとづく多くの国立銀行が設立されることを期待したにもかかわらず、条例のしたに設立された国立銀行は第1、第2、第4、第5のわずか4行に過ぎず、その発行」紙幣下付高も142万円にとどまり、1500万円の銀行紙幣を製造、準備していた政府の計画と大きく食い違ったのである。
明治5,6年ころ、正貨との兌換が明治されていない不兌換政府紙幣の流通高はすでにかなりの巨額に達していたけれども、正貨と紙幣の値打ちが変わらなかったので、条例の趣旨と食い違うような事態がこようとは考え及ばなかった。
ところが、明治7年にいたり様子は一変した。第1に政府紙幣増発の弊害が現れ始めた。第2に輸入の増大により正貨の流出が甚しくこれが紙幣の値打ちの下落に影響した。
第3に世界的な金価格の騰貴が紙幣の値打ちを引き下げた。これらの結果、明治8年6月になって金貨は政府紙幣に対し千円につき17,8円の打歩、つまりプレミアムがついた。
このような情勢において、国立銀行が条例にしたがい、自行発行の紙幣を顧客の要求のまませいかに替えていけば、金準備がやがて底をつく。そればかりではない。銀行紙幣が長く市場に流通する目的そのものが果たせなくなる。
また各銀行は正貨との交換の多いところほど大きな損失をこうむることになるから、本来ならば流通させるべき紙幣を、空しく金庫の中に積んでおくという状態であった。
開業して日が浅く確実な預金者や貸付先を見出すことがなかなか困難であり、また民間人の預金額も少なかったので、発行紙幣の流通が不円滑とあっては、その営業は困難をまぬかれない。
資本金の10分の6を公債証書に換え、公債について政府から年6分の利子を受けるだけであるから、発行紙幣を流通させることができなければ、運転資金は、わずかな預金と資本金の10分の4に当たる金額だけにとどまり、年1割の利益をおさめることが望みがたかった。
やむを得ず4つの国立銀行は連盟で、正貨兌換の制度を改めて、政府紙幣をもって兌換に当てるべきことを申請した。しかしこれは条例に反するから、条例を改正しない限り実行することはできない。
だからといって、政府として国立銀行の困難を放置することもできない関係上、救済策として、8年、9年の両年にわたり、同額の銀行紙幣を抵当にとって、国庫の準備金のうちから政府紙幣を貸し下げ、一時の急を救った。
(『第一銀行小史』から)
<第一国立銀行の紙幣>
国立銀行で発行された紙幣は、政府が国立銀行条例の公布に先だって、明治4年9月アメリカのコンチネンタル・バンクノート社に発注して作らせたもので、券種は20円、10円、5円、2円、1円の5種類。
図柄は日本から送られたものによったが、版下を書いた人はアメリカ人の図工だったので、なんとなくバタくさい監事の奇妙な画になった。
大きさはいずれも縦8センチ、横19センチと今のどる紙幣のように同じ寸法。色もまたみな表が墨色、裏は緑色だから、ガス灯やランプの光で見た当時の人々はさぞ見分け難かったであろう。
なお大蔵卿印、出納頭印、記録頭印、国立銀行印、大蔵省記番号(アルファベッドとアラビア数字)、国立銀行記番号(十二支と漢数字)などを紙幣寮で印刷押印、頭取および支配人の記名押印は発券銀行で行った。
(『第一銀行小史』から)
<株式会社第一銀行への改組>
第一国立銀行は明治6年6月創立以来23年3カ月余の年月を経て同29年9月をもって営業満期となった。
その満期以前において発行紙幣銷却の義務を果たし、営業満期銀行処分法の規定に従って、東京府知事を経て大蔵大臣に出願し、29年6月26日をもって満期後「私立銀行」として営業継続の認可を得た。
そして同年9月26日から株式会社第一銀行と称し、第一国立銀行の権利義務中消滅したもの以外の一切を継承し、国立銀行時代最後に225万円であった資本金を倍額増資して資本金450万円をもって営業を開始した。
営業開始時の支店は、大阪、神戸、横浜、京都、新潟、名古屋、四日市、釜山、仁川の9ヶ店であった。
(『第一銀行小史』から)
<金本位制の確立>
明治30年3月29日貨幣法が公布され、金本位制が確立した。もともと明治4年両から円に変わるときの新貨条例は金本位制をとったのであるが、1円銀貨をも造ったために、事実上は金銀複本位制だった。
それがたまたま世界の銀価の下落時に当たり、金貨の海外流出を引き起こし、政府は明治11年5月貨幣条例(さきの新貨条例を改称)を改正して金銀復本位制とし、1円銀貨の国内無制限通用を許した。
(『第一銀行小史』から)
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<国立銀行の設立と発展>
明治維新政府は成立後、版籍奉還、廃藩置県、秩禄処分など封建的諸制度をつぎつぎに廃止し、統一国家の建設を急速に推し進めてゆく。
そして、先進列強諸国の重圧に対抗してゆむために、あらゆる面で西欧の進んだ諸制度をできるだけ早く導入し、近代化をはかる政策が採られてくる。
すなわち、文明開化であり、殖産興業であり、富国強兵策等々である。金融面も同様である。幕末以来、幕府の貨幣改悪や、洋銀の流入、藩札の濫発などにより通貨制度は混乱し、インフレは進行していたのであるが、維新後も政府の不換紙幣の濫発などによって乱れは続いた。
この混乱した通貨制度を統一し、あわせて殖産興業の資金を供給するために、先進国の銀行制度の導入がはかられるのである。
そして、アメリカの銀行制度を視察してきた伊藤博文の建白にもとづき、ナショナル・バンク制度を範として制定されたのが明治5年の国立銀行条例である。
第1、,第2、第4、第5国立銀行の4行が政府の指導のものに設立された。
国立銀行は資金源として銀行券発行の特権が認められていた。しかし、それは金貨兌換の義務を負っていたため、当時のインフレでは、銀行券の発行は当然少額に留まらざるを得ず、国立銀行の経営は困難を極めた。
このような銀行の窮状と、秩禄処分によって公債所有者となった旧武士階級の窮乏化を救済しようとして行われたのが、明治9年(1976)の国立銀行条例の改正である。
改正の要点は、公債を資本として銀行を設立することを認めたことと、兌換の廃止である。この改正で銀行の設立が容易になり、また、政府、地方行政官の積極的指導が行われたこともあり、さらに、西南戦争で資金需要が増大したことなどによって、明治10年代の初めには国立銀行の設立ブームがおこり、
12年末には153行に達した(政府はここで国立銀行の設立を打ち切ったので、その後は私立銀行、銀行類似会社の設立となる)。
この時期に設立された国立銀行の中には、いろいろ性格を異にする銀行が含まれており、たとえば、すでに商業活動の活発化していた地方では、商業金融の必要から銀行が設立され、また城下町では、士族結社的ないわゆる士族銀行も設立されている。
東北地方における前者の典型が、福島県中通り地方の生糸地帯に設立された銀行である。
さて、先進国では通常は、ある程度産業が発達し、商業活動も活発となって銀行が必要とされるようになるのであるが、わが国では産業が発達する前の(地域差はあるが)沢山の銀行が設立されたのである。
これがその後わが国の銀行のあり方に、大きく関わってくることになる。
(『東邦銀行小史』から)
<国立銀行の乱立>
改正条例は国立銀行にとり利便が非常に大きかったので、国立銀行の設立を願い出るものが相次いだ。明治12年12月には実に153の国立銀行の設立をみたが、京都第百五十三国立銀行を最後に、その後の設立は許されなかった。
このいわゆる”ナンバー銀行”のほかに、三井銀行のような私立銀行も各地に設立され、明治15年末には私立銀行はその数において、国立銀行数を26上回る乱立ぶりとなった。
もっとも資本金総額は、国立銀行4,420万6,100円に対し、私立銀行は1,697万7,800円で、国立銀行の優位は動かなかった。
このように銀行は相次いで設立されたが、一般に近代的銀行・会社に関する知識が乏しかったため、新設の国立銀行の多くは、幹部たるべき行員を第一国立銀行に出向させて銀行の実務を修得させた。
中には第四十国立銀行のごとく第一国立銀行の行員の派遣を請い、自行員の実務練習の教師役を務めてもらう銀行もあった。
このように後進銀行の指導にあたり、銀行実務の普及に貢献した功績はまことに大きなものであった。
(『第一銀行小史』から)
<特殊銀行の創業>
株式会社第一銀行発足後、特殊銀行が相次いで設立された。
日本勧業銀行 明治30年8月開業
農 工 銀 行 明治31年1月 静岡県農工銀行をはじめ同33年8月までに各府県とも開業、その数46行。
台 湾 銀 行 明治32年9月開業
北海道拓殖銀行 明治33年4月開業
日本興業銀行 明治35年4月開業
農工銀行を除き、これら諸銀行の設立に当たり、渋沢頭取は、内閣から設立委員を命ぜられた。
このように、日清戦役後には、新たに多数の特殊銀行が設立されたほか、手形交換所も増加し、金融機構は著しく整備される一方、新商法が公布され、国内景況の一進一退のうちに」も、軽工業に近代的機械生産様式が確立し、海運や鉄道事業にも大きな発展がもたらされた。
日露戦役後の企業熱勃興とこれに続く時代になると、さらに、重工業、化学工業、電気事業についても基礎が確立され、それとともに銀行業界も格段の発展を遂げた。なかでもとくに顕著なものは外資導入の発展と特殊銀行の発達であった。
(『第一銀行小史』から
(^_^) (^_^) (^_^)
全国各地で「第○○国立銀行」という民間銀行が設立されることになる。その様子を少し見てみよう。
<長野県内国立銀行の設立状況>
長野県内では国立銀行が5行設立された。これは全国でも多い方である、全国で5行以上の設立は9府県のみであった。
国立銀行名 |
開業 明治 |
所在地 |
資本金 千円 |
初代頭取 |
第十四国立銀行 |
10. 8. 5 |
南深志町 |
100 |
大池源重 |
第十九国立銀行 |
10.11. 8 |
上田町 |
100 |
早川重右衛門 |
第二十四国立銀行 |
10.11. 1 |
飯田町 |
80 |
坂本則敏 |
第六十三国立銀行 |
11.12. 1 |
松代町 |
100 |
吉池文之助 |
第百十七国立銀行 |
12. 1.15 |
飯田町 |
50 |
太田伝蔵 |
|
国立銀行5行の設立地は、いずれも旧藩の城下町であり、地域における経済の中心地であった。
商業をはじめ、製糸業、養蚕業もこれらの地域を中心に営まれており、銀行の利業も蚕糸業を主な対象とした。その中で飯山だけは地元有力産業がなかったため、第二十四国膣銀行は、創業後いち早く長野、上田に出店した。
金禄公債の安全有利な運用方法として、国立銀行への出資が政府によって奨励されたので、士族の多くが株主として参加した。
なかでも、第六十三国立銀行、第百十七国立銀行は、株主数、持株数とも士族が圧倒的な比率を占めていた。
これに対して、第十四銀行、第十九銀行は、平民である商人地主の出資比率が大きかった。しかし、いずれにせよ士族は禁輸・経済の事情に暗いので、多くは有力な商人、地主が実質的な設立推進者となっていた。
(『八十二銀行50年史』から)
<弱小資本の山形県下の国立銀行>
山形県下の国立銀行は程度の差はあれ、そのほとんどが設立後間もなく経営難に直面した。これは明治14年からのいわゆる松方デフレ期に、貸出金が回収不能に陥って経営を圧迫したことが直接のきっかけであったが、ものもの本県の国立銀行はいずれも資本金が10万円以下という弱小銀行で、その経営基盤の脆弱性からもたらされたものであった。
さらに初期の経営者は、近代銀行経営についてはほとんど無知に等しく、これがもとで思わざる失敗をかさね、混乱を増幅していったケースも多かった。
しかもなお、銀行という機能についての一般の理解もいまだ浸透せず、社会的遊休資金をひろく預金として集めるといった銀行本来の役割を果たすにはほど遠い状態で、むしろ自己資本の貸付所的な性格が強かった。
ちなみに明治19年の山形県内国立銀行の預金総額はおよそ20万円、これに対し貸出総額は52万円と預金総額を大幅に上回っているが、これはむしろ自己資本51万円と見合っており、このことを示している。
しかし、当時の国立銀行が経営の脆弱性と金貸資本的性格をもっていたとしても、明治初期の商品経済の発展に、一定の積極的役割を果たしていたこともまた事実であった。
とくに送金・荷為替・その他手形の取組みなど新しい為替機能を通じ、山形県の商品流通を促進し円滑化する役割を果たした点については、改めて注目すべきである。
(『山形銀行百年史』から)
<仙台に生まれた第七十七国立銀行>
明治4(1871)年の廃藩置県により仙台藩は仙台県となり、5年には宮城県と改められた。その後数次にわたる郡の合併・分離が行われて、ようやく9年に至って現在の宮城県が形成された。
宮城県の県庁所在地である仙台は、仙台藩の城下町として栄え、藩の手厚い保護のもとで商工業も発達し、優れた工芸品なども産出していた。
しかし、明治維新の変革によって藩という保護者を失うと大きな打撃を受けて衰退の道をたどり、武士が人工の半分を占める城下町であっただけに、無職者というべき禄生活者が溢れていた。
宮城県全体で見ると、産業は米を主とする農業が中心で、商工業は遅れていたため、藩では明治3年ごろから勧業に力を注ぎ、特に士族の授産と輸出生糸の増産を狙いとして養蚕を奨励した。
その他、農業についても技術や農具の輸入を図り、士族の授産と絡めて開拓地の拡大に努めた。
一方、仙台の金融機関としては、明治初年には三井組や小野組などが活躍し、政府の公金事務を取り扱っていた。9年になって第1国立銀行が石巻と仙台に出張所を開設し、最初の私立銀行である三井銀行も、この年に宮城出張所を設置した。
この間、9年の禄制廃止により、有禄武士に対して金禄公債が交付され、公債所有者となった士族の生活を安定させるため、いくつかの試みをなそうとする動きが見られた。
その1つが国立銀行設立計画であり、10年8月には、宮城県の士族・遠藤温ほか士族5名と商人1名が発起人となって改正国立銀行条例に基づく国立銀行の創立願書を提出した。
発起人となった士族は、いずれも一般士族とは異なり財産家で、そかも金貸業を営んでいたところから、その経験を生かしての銀行設立計画であったと思われる。
設立の許可は同年12月27日付で下り、翌11年1月12日付で「第46国立銀行」の称号が下付された。また、10年6月には、東京・深川の国立銀行創設協同社から宮城県内の士族に対して、所有する公債をもって銀行設立に賛歌するよう呼びかけがあった。
この銀行は11年3月に許可が下り、第60戸口立銀行として設立されたが、宮城県の士族308名が金禄公債を提供して株主となった。なお、同行は31年8月に満期解散した。
禄制改革にあたって、士族は自らその授産方法について衆議して決すべきであるとして、宮城時亮県権令は明治10(1877)年11月に県内士族による士族会議を開催した。
会議は前出の遠藤温が議長、副議長の氏家厚時がなった。席上、蓮田繁幸等が「金禄公債を保存しなければ士族の物楽は必至であり、全士族は結社して打開策を立てるべきである」と発言し、まず士族結社をつくることを可決、次いで打開策の1つとして銀行設立案がまとまった。
11年1月、士族会議が開催され、士族結社の社長に増田繁幸、副社長に氏家厚時をそれぞれ選挙したのち、銀行創立委員として菅克復ほか20名を選出し、銀行設立の出願が具体的に進められた。
同年2月20日、増田繁幸、亘理隆胤、松前広致、中島信成、後藤充康、氏家厚時ら6名が発起人となり、資本金20万円の銀行の創立願を大蔵省に提出した。
この間、発起人の代表として河田安照る、渡辺幸兵衛が状況し、第1国立銀行の渋沢栄一頭取に会って銀行設立に関して懇切な教示を得、その具体案を練った。
大蔵省から国立銀行として77番目に許可され、明治11(1878)年4月26日付で「第77国立銀行」の名称が下付された。
その後、先に設立許可を得ていた第46国立銀行との間で、ともに士族を主体としていたことから両発起人は合併が得策であるとして同9月に合併願書を提出し、許可されて資本金25万円で第77国立銀行として発足することとなった。
やがて株式の募集も予定通り完了し、株主の多くは現金でなく金禄公債をもって充当した。同年10月17日、創立総会を開催して創立消暑と定款を議決した。翌18日には役員の選出を行い、頭取には氏家厚時、取締役には増田繁幸、中島信成、亘理隆胤、佐藤信義(第46国立銀行の発起人の1人)がそれぞれ選出され、中島が支配人を兼任した。
本店は仙台区大町1丁目40番地の豪商・日野屋仁兵衛の住居跡に置かれた。
開業準備が整ったろころで、創立証書、定款、誓詞書などを県を通じて大蔵省に提出した。やがて大蔵省の命による県の調査などの手続きも完了して、11年11月7日付で開業免状が下付され、同12月9日、営業を開始した。
(『七十七銀行120年史』から)
<新潟県の国立銀行>
政府は、旧士族の秩禄を廃止するため、明治6年12月、太政官布告第425号ならびに第426号をもって士族以下禄高100石未満のものに家禄・賞典禄奉還の出願を許し、翌7年3月に布告第39号で「秩禄引換公債証書発行条令」を公布して同公債証書を支給した。
超えて11月、布告第118号によって100石以上にも奉還を許し、同時に、第119号で「資金被下方規則」第1・2号を改めたが、第2条では「禄高百石ヨリ以上ハ、五捨石ハ現金、其餘ハ都テ公債証書ヲ以テ相渡スヘク」
となった。つまり、奉還の高が150石であれば、50石は現金、残りの100石は公債証書を渡し、他はこれに準ずる、というのである。
新潟県では、8年1月13日付県庁布告第10号をもって、7年10月までに許可済みのものは、8年1月15日から25日までの間に秩禄公債証書および同年の利子を公布する旨を通達した。
かくて、華・士族の秩禄処分のため1億7,400万円にのぼる巨額の金禄公債(禄券)が発行されることになり、新潟県だけでも禄券高240万1,415円、ほかに利子1年分16万7088円余に達している。
しかし、一時に巨額な公債を発行すれば公債価格の急落は必至であり、士族の困窮っを救うためにはなんらかの対応策が必要であった。そこで政府は「正貨兌換ノ制度ヲ改メ通貨即チ政府紙幣ヲ以テ兌換スルノ制トナサレンコト」という先の国立銀行の請願を入れて、
金禄公債を銀行紙幣発行の抵当とすることを認め(これには大蔵省紙幣寮付属書記官・イギリス銀行学士アーラン・シャンドがインフレを懸念してkりこくした)、明治9年8月1日、太政官布第106号で「国立銀行条令」を改正した。
政府としては、国内における40万人に及ぶ士族の動揺を抑え、さらには、多額の金禄公債を資本として国立銀行を設立させることによって、同時に民間金融の疎通を促進するという一石二鳥の効果をあげることに狙いがあった。(中略)
明治9年8月の「国立銀行条令」改正後、全国的に国立銀行の設立ブームが訪れた。このブームは新潟県にも波及し、11年11月以降12年7月までわずか8カ月間に、当行──北越銀行の前身である第69国立銀行のほか3行が開業した。
新潟の第4国立銀行を除いた国立銀行4行の本店所在地はいずれも旧藩の城下町で、経済の中心地でもあった。その資本も旧士族の金禄公債が主体であり、株主に占める士族の割合は圧倒的であったが、持ち株は3株以下がほとんどであった。
金禄公債を安全・有利に運用するため、国立銀行への出資金とすることが政府によって奨励されたが、士族は金融経済事情にうといから、有力な地主や商人が設立に実質的な推進者となり、多くの士族は、零細な株主として設立に賛歌するにすぎなかった。
しかし、なかには士族の主導権の強いものもあったが、設立数年後にしてその性格を変え、士族の役員がその地位を失って地主や商人がこれに代わっている。
また、士族の株主も増資が行われるごとに著しく後退している。
なお、この国立銀行条例の改正により、既設の国立銀行もあらためて開業免状の交付を受けなければならなかったため、第4国立銀行は、資本金を10万円増額し30万円として9年8月に営業継続を出願し、同年12月に開業免状を下付された。
(北越銀行『創業百年史』から)