丸橋 静子(まるはし しずこ)
滋賀県愛知郡出身 俳人
昭和4年、杉田久女門下に入り、俳句に開眼。昭和7年高浜虚子、星野立子の選で二度『玉藻』の巻頭を飾り、昭和34年、「ホトトギス」の同人に推される。俳句の指導をする一方、小倉で教育委員、人権擁護委員、調停委員などの公職も務め、小倉の小、中学校母の会会長など多くの会にも関係し、多忙な活動を展開した。急逝後に遺句集『あじさい』が出版され、小倉に句碑が2基(小倉南区蒲生の大興善寺境内、小倉北区城内の八坂神社境内)建立されている。
鶴島 正男(つるしま まさお)
福岡県田川郡勾金村(現香春町)出身 火野葦平資料館館長、放送作家、高校教師
若松高等学校、若松商業高等学校で教職。昭和36年、日本放送作家協会会員となり「ガジュマルの樹の下で」(NHK芸術祭参加番組)を島尾敏雄と共同執筆。昭和47年、北九州市市民文化賞を受賞。昭和48年、火野葦平資料館を若松につくる運動を仲間たちと始め、「火野葦平資料の会」会長として資料館の運営にあたった。
大隈 岩雄 (おおくま いわお)
1910年2月26日〜1989年6月15日 (明治43年〜平成元年)
文学散歩は昭和21年から始まり、北九州を中心に東は長野、西は対馬、五島と続けられ、399回に及ぶ。聞いた話をもとに『北九州の民話』(小倉編と第二集)を出版。ライフワークは北九州の祭りの研究で、井手浦の尻ふり祭り、隠蓑のしびきせ祭りなどにスポットをあてた。また、田楽、猿楽の一形態で、胸につるした太鼓を打ちながら踊る「楽打ち(がくう)」にも造詣が深く、「道原楽」「石田楽」「沼楽」が福岡県無形文化財に指定されるのに貢献した。 鍼灸業のかたわら昭和27年、曽田共助、劉寒吉らによって小倉郷土会が再興される時に参加して世話人。昭和53年、同会会長に就任。北九州の文化財を守る会、北九州民芸協会での要職に就いた。『ひろば北九州』の4号(昭和53年11月)から65号(平成元年7月)まで10年間「古里の風物詩」を書き続けた。
「ひろば北九州」2007年4月号に掲載
西田 直養 (にしだ なおかい)
豊前国小倉(現北九州市小倉北区)出身 国学者・歌人
「ひろば北九州」2007年5月号に掲載
八橋 検校(やつはし けんぎょう)
1614年〜1685年6月12日 (慶長19年〜貞亨2年)
山口県萩市「八橋検校之碑」によると小倉出身 箏曲の開祖
『六段の調』『乱』『組歌』など数々の名曲を作り、若いころから琴・三味線の名人とあがめられ、後に久留米の善導寺で筑紫箏を修行し、平調子という画期的な調弦法を考案、箏曲を広く一般の人に普及させることに成功した。「八橋検校頌徳碑」が小倉城庭園に建っている。
「ひろば北九州」2007年6月号に掲載
伊藤 伝右衛門(いとう でんえもん)
1860年11月26日〜1947年12月15日(万延元年〜昭和22年)
中間市中鶴炭坑の開発に成功し「大正鉱業」を創立。嘉穂銀行、第17銀行(現福岡銀行)の取締役など歴任。43歳で衆議院議員2期6年間務め、伝右衛門の奔走により国営事業として遠賀川改修が13年かけて実施された。また、地域への貢献に女学校設置と育英会の創設がある。 筑豊の炭鉱王の旧宅(飯塚市幸袋の旧伊藤伝右衛門邸)は平成19年4月28日から一般公開されている。
「ひろば北九州」2007年7月号に掲載
大倉 和親 (おおくら かずちか)
1875年12月11日〜1955年7月1日 (明治8年〜昭和30年)
東京都出身 実業家
明治37年29歳で日本陶器初代社長に就任し、食器を製造しながら高圧碍子の研究や衛生陶器の開発を進めた。小倉を日本初の衛生陶器生産地と決め、TOTOを大正6年5月15日に設立。 和親の遺志により遺産は科学技術振興の「大倉和親記念財団」設立に使われ、現在も研究資金の助成などを行っている。
「ひろば北九州」2007年8月号に掲載
谷 伍平 (たに ごへい)
1916年10月1日〜2007年6月20日 (大正5年〜平成19年)
昭和14年、東京大学法学部卒業後に鉄道省に入省。国鉄門司鉄道管理局長、職員局長、西部支社長、東海道新幹線支社長を歴任。その後、請われて昭和42年、北九州市長に初当選し、五期二十年間、市長を務める。退任後、北九州市立美術館長に就任。84歳で北九州森鴎外記念会会長になり、「生涯現役」を貫いた。 市長時代の1981年(昭和56年)『鴎外旧居』(市史跡)を買収、修復の上一般公開した。無類の読書家で、昭和50年からの32年間で3,751冊を中央図書館に寄贈した。 昭和52年11月(財)北九州市都市協会を創設、昭和53年2月「ひろば北九州」を創刊し、北九州のまちづくり及び文化振興に多大なる貢献をした。
「ひろば北九州」2007年9月号に掲載
岡田 武雄 (おかだ たけお)
1914年1月11日〜2007年6月6日 (大正3年〜平成19年)
「ひろば北九州」2007年10月号に掲載
戸川 幸夫(とがわ ゆきお)
1912年4月15日〜2004年5月1日 (明治45年〜平成16年)
生後すぐに若松市(現・北九州市若松区)の実業家、戸川益男と母の実姉い乃夫婦の養子になった。大正8年に八幡小に入学した戸川は父の仕事の関係で上京するまで3年間、同小に通った。東京日日新聞(現・毎日新聞)在職中山形での体験をもとに書いた『高安(こうやす)犬(いぬ)物語』で、直木賞、新鷹会賞を昭和30年に受賞して作家活動に入る。執筆活動の中で、動物文学を確立。37年『戸川幸夫動物文学全集』(全15巻)で芸術選奨文部大臣賞を受賞した。40年、沖縄・西表(いりおもて)島(じま)でヤマネコを見つけ、828日間、自宅で飼育した。戸川は、紫綬褒章、児童文化功労者、勲三等瑞宝章を受章しており、テレビの「シリーズ 授業」で、八幡で心のこもった教育を受けたと、回想している。戸川文学の原点は八幡にある。
森田 光コ (もりた みつのり)
1931年7月15日〜2007年9月17日 (昭和6年〜平成19年)
北九州市若松区出身 実業家
修多羅小学校から旧制若松中学校、その後新制高校を経て昭和25年、学習院大学に進学。合成洗剤の販売が九割を占めていた昭和49年に「環境によくない」と「石けん事業」を宣言する。自ら悩んだ湿疹が石けんで消えた体験や入院で死を意識したことがきっかけだ。「肌にも環境にも優しい」無添加石けんの普及に突き進む。平成3年に出版した合成洗剤と比較して無添加石けんの安全性を強調した『自然流「せっけん」読本』で全国から注文が殺到。年間2億円だった売上高が13年後には55億円に急増、千人程度だった友の会の会員が約20万人に拡大した。 平成12年に「兵庫県環境にやさしい事業者賞」、「九州山口地域経済貢献者顕彰財団の経営者賞」、平成14年「福岡ひびき経営者賞」、平成15年に第一回「北九州市環境賞奨励賞」などを受賞。地域活動にも熱心で「若松を愛する会」会長や若松高校同窓会会長も引き受けた。
「ひろば北九州」2007年12月号に掲載
岡部 宏輔 (おかべ こうすけ)
1906年12月1日〜1996年11月4日 (明治39年〜平成8年)
福岡県遠賀郡長津村(現中間市)出身 実業家
父の仕事の関係で、大正2年に若松に転居。同年4月に若松尋常小学校入学。前の机に玉井勝則、のちの「火野葦平」がいた。大正10年、旧制東筑中学校に入学。昭和3年大学を卒業し、父の跡を継ぐため、「共働組」に入社。25年に第一港運を創立し、代表取締役社長。 本業のほかに洞海湾消防団名誉会長、全国防犯協会連合会副会長、日本港運協会理事、裏千家淡交会北九州支部副支部長など48の肩書きを持つ。52年、勲四等旭日小綬章を受章。 若松商工会議所会頭だった岡部と吉田敬太郎若松市長が中心になって募金活動を行い、昭和35年8月1日に火野葦平文学碑を高塔山に建立した。映画ロケの世話を40年間以上続け、若松ロケは28回を数えている。また、岡部は「高倉健の育ての親」といわれている。
「ひろば北九州」2008年1月号に掲載
赤坂 小梅 (あかさか こうめ)
1906年4月20日〜1992年1月17日 (明治39年〜平成4年)
福岡県田川郡川崎町出身 芸者、歌手
16歳で芸者を志し、八幡市の置屋「稲本」に入る。「梅若」を名乗り、稲本の小倉市移転に伴って、旭町の検番所属になった。24歳で「小倉節」でレコードデビュー。25歳で上京。赤坂の芸者置屋「若林」に籍を置く。小梅は民謡の価値に目覚め、戦後民謡発掘のため、全国を旅する。全国各地を回り200曲にのぼる民謡を発掘してレコーディング。「黒田節」は最大のヒット作である。「小倉節」「小倉音頭」「北九州小唄」「門司港祭り」など北九州を歌で全国に紹介した功績は大きい。
「ひろば北九州」2008年2月号に掲載
横山 房子 (よこやま ふさこ)
1915年1月21日〜2007年9月1日 (大正4年〜平成19年)
北九州市小倉北区出身 俳人
20歳頃より俳誌「天の川」に投句。横山白虹主宰「自鳴鐘」に創刊より参加。のち白虹と結婚する。白虹没後は主宰を継承。著書に『背後』『侶行』『一揖』 『干支の盃』 『えにし〜俳句侶行』など
「ひろば北九州」2008年3月号に掲載