棺桶作り
倉庫は、 日頃、 そう忙しい仕事ではない。よく湯沸かし場の、 隙間でずる寝をしていた。この隙間は暖くって寝るのは最高だった。特に、 私の気に入りの場所である。たまに同僚が
「おい、 徳、 クラワーが捜していたぞ」 と言っていた。
囚人の病室には近寄らないようにとの注意をされていたが、 私の野次馬根性が頭を擡もたげげて来て、 暇なときはそっと遊びに行った。かれらは病人とはとても見えない面構えで、 したたかさを感じた。例によって猥談を持ち出す。これは万国共通だと思っているのだろう。クラワーと関係が出来たかと真面目な顔で聞いてくる。この国には貞操観念と言う言葉は無いのだろうか。流刑の地シベリでは死語になっているのかもしれない。女囚に子供が出来るとモスクワに帰れる。と言う事を聞いたような気がする。
スターリン、 あんなのは駄目だ。と、 吐き捨てる。彼らもここまでくれば、 もう恐いもの無しである。言いたい事をずけずけと言っている。だが、 この流刑の地シベリアからは一生抜け出せないのかもしれない。
ある日、 ナチャニックが
「トクナガ、 ちょっと」
といって、 板置場に連れて行く。
この所長は、 私がサボっているのを心得ていて、 何彼と仕事を言い付ける。赤ら顔で背が高く、 肩には大尉の肩章を付けていて、 大きめの目がいたずらっ子のようによく動く。
服装はいつもきちんとしていて、 ちょっとオシャレなカピタン (大尉) である。
名はニカネンコと言った。
この板で、 死体をいれる棺桶を作れというのだ。釘は、 と聞きくと、 ないと言い、 針金で作れと言う。
ソ連は、 平和産業を無視して、 軍需産業ばかりに力をいれた為、 日常使うものまでが不足していて、 紙から鉛筆までも無い始末だ。タバコを巻く紙さえ不自由している。ドイツとの戦いでは、 相当の打撃だったようだ。これだけ徹底して出来るのは、 官僚機構が確りしているからか。警察組織の所為か、 とに角、 ないないずくしで、 不自由この上ない。
棺は、 すべてソ連人の入院患者のものだった。巾60センチ、 長さ2メートルの箱を作り、 それに蓋をつけて出来上がりだ。鉋(かんな)などは見たこともない。従って粗削りのままである。
まず、 釘作りから始めなければならない。ナチャニックが、 何処からか針金を持ってきた。板は枕木を取ったあとの廃材で、 まだ生々しいものだ、 その中の広い部分を選び出して使う事になる。釘は打ち込んで最後を曲げると生木なのでよく割れる。これは、 私の責任ではない。
作った棺は、 前の日の夕方、 馬車で墓地まで運ぶ。その時は既に別のグループが穴を掘っていて、 その穴に棺を入れて帰って来るのだが、 道がないような所なのでガタガタ揺れて、 私が作った棺は、 途中であらかた壊れてしまう。それを、 穴のなかで、 何とかカッコよく直して帰ってくる。
明け方、 暗いうちに、 4人で死体を墓地まで運ぶのだが、 これは順番で、 前の晩に発表される。
死体は、 全部解剖され、 人類に、 最後の奉仕をして天国への道を歩きだす。それにたづさわっている日本人もいた。
「最初、 解剖した時にね、 夕食に肉のスープだろう、 思い出して、 喉を通らなかったよ」
「今では、 平気だけどね」
慣れるものですかねー。
内臓は血を洗い流すと淡いピンクだの緑色もあって、 結構綺麗なものである。ソ連では解剖に必要な死体には事欠かない。今後医学の進歩があるとすれば、 囚人のお蔭である。
死体は解剖のあと、 また縫い合わせて元の姿にする。一応シャツと、 パンツは着けているが、 これも粗末なものだ。
明け方、 その扉を開ける時は嫌だった。夏は扉を開けた途端、 死体にとまっていた何百という蝿が吃驚して、 ぶーんと言う音と共に顔にぶっつかつてきて、 こちらも面喰らう、 目を開いたらもうそこには1匹の蠅の姿もないのである。蝿も食べ物がないのか、 凄い集団だ。
仏(ほとけ)は、 粗末な担架の上で静かに眠っている。血の気がなくて無表情だ。歳は40前後だろう。彼は、 この流刑の地、 シベリアで、 一生を終えたことになるが、 どんな人生を歩いたのだろう。窃盗犯だったのだろうか、 それとも政治犯? デッチ上げによって親兄弟、 恋人とも引き離され、 涙の中に死を迎えたのだろうか。今は、 その顔からは、 何も知るすべもないが、 哀れを誘う。
ソ連の首相とも言うべきスターリンは、 相当数の囚人、 流刑囚を作り出した。
ソルジェニーツインは 「収容所群島」 の中でこう言っている。
−−−この不可思議な群島へはどうやって行くのか? そこへは絶え間なく飛行機が飛び、 汽船がかよい、 列車が轟音(ごうおん)をひびかせて走っていく。だが、 飛行機にも、 汽船にも、 列車にも行く先の表示はいっさいない。出札係も、 ソ連人の旅行を斡旋するソフツーリストや外人旅行者の世話をやくインツーリストの係員も、 もしあなたがそこへ行く切符がほしいと言ったら、 それこそびっくり仰天するだろう。
そして私やあなたのようにそこへ死にに行く者は、 必ず一つの関門を通らねばならない。それは逮捕である。逮捕! それはあなたの生活全体の急回転とでも言えようか? あなたへの落雷とでも言えようか? 耐えがたいショックとでも言えようか? これには誰でも慣れることができるとはかぎらず、 気が狂ってしまうこともけっして稀ではない。逮捕! それは突如として一つの状態から別の状態へあっという間もなく放り込まれることである。
「私が? なんのために?」
これは、 これまでにも何百万何千万回と繰り返され、 しかも一度として返答を貰ったことのない問いかけである。
「これは何かの間違いだ! よく調べてみればわかることだ!」
いや、 これが逮捕というものである。それは目もくらむばかりの稲妻と落雷であり、 その瞬間から現在はたちまち過去に変じ、 まったくあり得ないことがれっきとした本当のことになるのである−−−。
まず逮捕、 理由は後から幾らでも出来ると言うことだ。まったく慄然たる思いである。この仏は如何なる理由によるものか、 死者はその過去を語ろうとはしない。
その、 担架を4人で担ぐのだが、 そこで問題が起きる。頭のほうだと重いし、 足のほうは、 軽いのは軽いのだが、 冷たい足が、 頬に当たって気持ちが悪い、 そこで、 ジャンケンとなる。 死体の前でジャンケンをしている姿は、 死者への冒どくのような気もするが、 現実は致し方ない。
墓地は、 病院から2〜3百メートルの小高い丘の上にある。坂を登っている途中、 何かに躓つまずいて1人が転ぶと、 同時に五人が転ぶことになり、 死体は投げ出される。それでも彼は文句は言わない。死人に口無しである。
朝の墓地には、 数字を書いたソトバの杭が行儀よく並んでいて、 中には完全に草に覆われているのもある。こんなところで死ぬのは、 哀れだなとの思いが一瞬頭を掠める。エッチラ、 ホッチラ担いで、 私の棺桶に投げ込み、 土をかけて一巻の終わりである。
「スパコイノーチ」 (おやすみ) といって合掌して帰って来る。
始めのうちは、 後ろからついて来ているのではないかと気に掛かる。振り返って、 後ろに居たら吃驚ものだ。
冬は、 この墓掘りも大変である。凍った大地は、 鉄より堅いように感じる。そこで、 その上で火をジャンジャン燃やすと段々溶けてくる。薪は沢山あるから心配いらない。ましてよその国のだから気前がいい。その後を直ぐ掘ると、 割合簡単に掘ることができる。それでも冬はどうしても浅くなるので、 雪解けになると、 あちこちで棺が飛び出していて、 中にはくたびれた足、 そのものが外を眺めていることもある。
「どうせ、 死ぬなら夏に願いたいものだ」 そう思うのも無理からぬことだ。
私は6ケ月の間に10個ほどの棺桶を作った。
のびる採り
シベリアでも6月の声を聞くと、 さすがに春めいてくる。若草が芽生え、 名も知らぬ小さな草も花をつける。太陽の輝きも日を追う毎に強くなる。
私たち4人はその太陽の中で 「のびる」 採りをしている。冬の間に不足したビタミンの補給のためだ。 「のびる」 とは何と無く 「のんびる」 「のんびり」 につながる言葉のようだ。ポカポカ陽気に眠気がくる。
その頃は日本人も信頼を得たのか、 逃げる心配はないと見たのか、 我々日本人4人だけである。ナチャニックの人選で私が責任者と言うことだ。4泊5日の外泊である。病院から歩いて1時間位だろう。半ば崩れかけたコンクリートの小屋が我らの塒ねぐらである。4日分の食糧と寝具を馬車からおろし寝る準備もできる。
「のびる」 は禿げ山のアチコチに点在していた。が、 いざ採る段になるとそう簡単にはいかない。交替で留守番兼炊事当番をする。のびる採りを始めて3日目の昼前、 私が一人昼食の準備をしている時であった。煙に目を擦っていて、 開いてみるとそこにソ連の若い兵隊が銃を腰に睨んでいた。脱走兵と見たのであろう。
私は、 801ナザレタ (病院) から、 のびる採りにきていることを言うが、 なかなか分かって貰えなかった。押し問答をしているうちに、 彼は、 そこに置いていた、 4人の命の綱である4キロのパン1個を小脇に抱えて逃げる。
「ストイ! (待て) 」
と大声で叫ぶが、 一度振り返りそのまま走って消えた。私はびっくりした。
「国内でもソ連兵は掻っ払うのか」
「捕虜の上前をはねるのか」
皆を呼び集めて説明するが、 証人とてはいない。皆の疑いの眼差しには閉口した。
とに角、 塒(ねぐら)をたたんで帰ることにした。
病院では、 ナチャニックが不審な顔で出迎える。もう一日あるはずだがと思っている様子だ。少ない 「のびる」 を見て不機嫌である。説明するが、 完全に理解したとは思われなかった。何となく後味の悪い出来事だった。
のびるは、 ソ連の囚人のほうに回されたのか我々の食卓にはのぼらなかった。
夫婦喧嘩
クラワーも仕事になれて、 友達もできたのだろう、 帰りが時々遅い時があった。ある日、 倉庫に熊のような旦那が来て、 鬼のような顔で、 文句を言い出した。口汚く罵っている。
彼女も負けてはいない。一生懸命反発している。巨人と巨人の争いである。私はフレー、 フレー、 クラワー頑張れ、 と心のなかで応援する。
夫婦喧嘩は、 大きいほど面白い。
様子では、 旦那のジェラシーのようである。遂に熊の感情が爆発した。やにわに、 目の前にある、 台秤(だいはかり)の錘(おもり)を投げつけて後ろも見ずに帰っていった。
クラワーの顔が一瞬蒼白になり、 次は真っ赤になって、 顔がくずれたと思うと急に目の縁に涙が盛り上がった。
その錘(おもり)は見事、 彼女の太い腕にあたり、 腕からボトリと床に落ち、 ゴロゴローと音を立てて私の足下に転がってきた。拾い上げると、 それは5キロの錘(おもり)だった。 クラワーの、 大きい腕は赤くはれあがっていて、 更に大きさを増していた。
彼女は大声を出して泣く。大きくとも、 そこは、 やはり女か。オーウ、 ウォーと、 あの75キロが涙を流して泣くのだから、 吠えるような声に狭い倉庫がゆらぐ。私も可哀そうとは思うのだが、 これを慰める言葉は分からない、 ただ、 痛いだろうと、 さすってやるだけである。しばらくして、 てれくさそうに
「トクナガ、 日本でもこんなことがあるの」
と聞くので、 私は、 この時とばかり、 日本の良さを吹き込んでやった。
「うん、 日本の夫婦は、 みんな仲良しさ」
「日本の男性は、 サムライだから女は絶対殴らないし、 いつも優しいよ」
「日本は、 景色はいいし、 温ったかいし、 みんな ニコニコしていて、 パラダイスだ」
「そして、 年を取ったら、 子供が面倒をみてくれるんだ」
一寸カッコよく言ったら、 分かったのかどうか
「日本に行きたいなー」
と言った。単純なクラワーである。
日本人の捕虜は、 60万と言いうが、 夫婦喧嘩に遭遇した人は、 そう多くはないだろう。とに角大声で泣くのには驚きだった。喜怒哀楽を、 外に出すと言うことだろうか。私は、 その声に最初唖然とした。
今頃、 彼女はどうしているかなと、 時には思い出す。もう70の坂は越えている筈だが、 今では、 いいおばあちゃんになっている事だろう。あのマールチカ (男の子) ジェーオシカ (女の子) もそれぞれ家庭を持って、 人の親となっている頃だ。
そんな事があって、 彼女は早く家に帰るようになった。
案外、 あの熊もいい所があるのかもしれない。
映 画
私達は、 病院の雑用係りと言ったところだが、 40〜50人いたようだ。朝の点呼のあと、 それぞれ仕事の割り当てがある。ナチャニックが炊事場の4人と私に、 列の外に出るように言うので、 なんとなく得意な気分と、 皆に申し訳ない気分が交錯する。
倉庫に行くとクラワーが待っていた。
「トクナガ、 これを家に持って行ってくれない」
「一寸、 まずいな」
4キロのパン1個である。結構大きな量かさになる。 共産主義社会では、 見つかるとかなり重い罪になる筈だが、 こんな事は、 結構この国では行われているのだろう。私は引き受けることにした。
「何とかなるだろう」
衛兵は、 チョルネ (黒) という顔なじみで、 山のカントラ (事務所) に行くのはいつもフリーパスだが、 一寸冒険だ。チョルネの怒った顔が目に浮かぶ。彼は笑うと、 とてつもない善人の顔になるのだが、 日頃は苦虫を噛み潰したような顔である。
パンを、 クルリとシャツに包み衛門に向うと、 心臓の鼓動が高鳴るが、 ままよ!。私は、 右手のパンを見えないようにして、 窓に体を押し付け 「カントーラ」 と、 殊更大きい声で言って衛門を出る。チョルネは、 わかった、 と、 言うように鷹揚に頷くが、 ヒヤヒヤもので、 うしろから呼び止められそうな気がして、 何時の間にか、 早足になっているのに気付く。
彼女の家は、 墓地と反対がわの丘の中腹に有る。くねくねとした細い坂道を登って行くと、 塗料が剥げてはいるが、 かなり広いログハウスである。ノックをすると、 5〜6歳の男の子が出てきた。ママからだと言うと、 分かったような顔で受取った。繊病質の色の白い子で、 やせていた。
「母親とは大分違うな」
と言うのが私の感想である。
帰り道、 坂を下りていると、 その子が、 トクナガさーんと呼んで走って来た。あれ、 たしかに俺の名前を呼んだぞ。シベリアでは余り話題がないから、 クラワーが、 教えたのかもしれない。その手に煙草を握っている。母親に言われていたのだろう。ハー、 ハー息をしながら、 タバコを渡し
「スパシーバ」 (ありがとう)
と小さな声で言って、 その後クルリと後ろを向いて逃げるように走って行った。
彼は、 生まれて始めてみる異国人だったのだろう。帰ってクラワーに話すと、 体を捩(よじ)って笑いだした。
この倉庫には、 入院患者の持ち物を預っていた。囚人の全財産であろう。粗末な袋に名前が書き入れてある。私は時々クラワーから煙草を貰っていた。 「煙草がない」 と言うと、 その袋の中から見付けだして、 大きな手で一掴み気前よくくれた。お蔭で病院にいる間中、 煙草には不自由しなかった。しかし、 患者が退院する時、 トラブラないかと心配したが、 後で考えてみると、 病死した人の持ち物だったのかもしれない。山の上のカントラではイワノフにねだられた。 「トクナガ煙草あるか」 「うん」 私が煙草の袋を出すと、 彼は新聞紙に巻いて残りを返した。何と無くあべこべのような感じである。
ある日、 映画があるというので、 心待ちにしていた。夕食を早目に済まして、 室内の準備もスピーディである。映写機が持ち込まれ、 食堂の後ろにスクーリンが張られると、 何と無くお祭り気分になってくる。交わす言葉も何処となく明るい。やっぱり皆も期待しているようだ。
映画のことを、 ロシア語でキノウと言った。キノウが今日あるのである。今日、 キノウがあるのだ。
いよいよ始まる頃、 ナチャニック (所長) が私に女医さんを呼んで来いと言う。女医さんは少佐で美人だ。軍服をスマートに着こなして、 いつも書類を脇に挟んで歩いている。
ギリシャ彫刻の女神のような顔だが、 彼女の笑顔を見たことはない。年は40の前半だろう。私は部屋をノックして中にはいると、 彼女は怪訝な顔でペンをおいた。
映画が今から始まるから、 ナチャニックが呼んでいる旨を伝える。
私は仕事の関係上、 食糧の名は大分覚えたが、 映画への招待の言葉は分からない。
色々の単語を並べてみる。
それでも何とか分かったようだった。
室内の電気が消され、 音楽が流れて映画館の気分になって来たが、 映画は、 おとぎ話のようなもので、 余りよく分からなかった。言葉も訳がつくわけではないのだ。多分捕虜にも映画を見せているとの、 ソ連特有のパフォーマンスだったのだろう。
とに角、 映画は、 期待外れのうちに終わった。あとには、 祭りの後の、 あの佗しさだけが残った。
その頃、 日本新聞が、 ハバロスクあたりで印刷され、 手にはいるようになった。祖国日本の現実、 知人の運命はおろか、 自分の明日も見えない状況になった時、 如何に情報に飢え、 日本新聞を読んだか想像できるだろう。お蔭で戦後の様子も、 ほんの少し分かるようになった。活字に飢えていた私達はその日本語の文字を貪(むさぼり)読んだ。
新聞のことを、 ガジエタといった。発行の主な目的は帝国主義粉砕、 共産主義礼賛だった。 日本の帝国主義は、 こんなに悪を重ねて来た。ソ連の共産主義は、 最高で、 着々とその成果を挙げている。
ひどく空虚に見える紙面で、 少々反発を感じた。思想教育の始まりだったように思うが、 すでに世情の噂になっているような、 つるし上げ等はまだまだなかった。やっとデモクラシー、 デモクラート等の言葉を耳にした程度である。それでも政治というものに目を開かせてくれた様に思う。その外に日本新聞が人気があったのは、 煙草の巻紙にちょうど好かったからである。前にも書いたように、 紙はなかなか手に入らなかった。私は、 その新聞の白紙のところを重ねてロシヤ語学習のノートにした。
ダ モ イ
倉庫で、 一人新聞を読んでいると、 帰って来たクラワーが
「トクナガ、 やっぱり帰りたいの?」
「カニューシナ」 (もちろん)
「ここで一緒に働かない?」
「家で、 ママが待っているんだ」
「そう」
「帰ったら、 パパや、 ママによろしくね」
「パパはいない、 死んだ」
「そうなの、 かわいそうな、 トクナガ」
と言って、 しんみりする。完全に言葉は理解できないが、 何処の国でも庶民は皆同じだ。親が子を思う心、 兄弟の情愛、 そして隣人愛。この庶民感覚で政治が行われたら、 戦争など起らないのではないかと思うが、 どうであろう。特にソ連人は明るくて素朴なように感じた。 しかし、 これに政治が絡むと直ぐ変になる。政治とは庶民を不幸にするものである。
何処の国でも、 本音と建て前はあるようだ。
シベリアに来て、 三度目の冬が過ぎ、 夏も終わりに近づく頃
「どうも、 ダモイの身体検査みたいだ」 と同僚が言った。
「病人から返すという噂だ」
「いって見よう!」
私は、 半信半疑ながら場所を確かめて走って行くと間にあった。
外来患者の診療室の前である。逸速く聞きつけた人が大分並んでいて、 どうもそんな雰囲気である。私も人の後に並んだ。順番がきて靴を脱いで足を見せた。祈りを込めて
「ドラースチ ドクター」
「今年の冬を越すのは無理だ」
調べているソ連の軍医は、 私の足の指を切った少佐だった。これが私には幸いした。
彼は思い出したのか。
「わかった」 と言って名前を書き込んだ。
「シメタ、 帰れそうだ」 「外の人には悪いけど、 先に帰して貰うよ」
と心のなかで呟やく。私はこのドクターが神に見えた。鬼になったり、 神になったりするドクターである。
今まで寝ても醒めても頭のなかにこびりついていたダモイが実現するのだ。
ダモイの喜びは地獄からの生還である。私の胸は興奮に震える……。
帰ってクラワーに話すと、 何とも言えない顔をする、 永いあいだ二人で一緒に働いてきたので、 何だか別れが辛いような気にもなってくる。
それから、 10日ほどして、 それが本物となり発表された。だが、 いままで東京ダモイで散々騙されているので、 疑いの心もおこる、 が今度は事実のようである。
「クラワー、 あとは大丈夫か」
一寸からかいたくなってくる。彼女は何も言わずに笑っていた。
暫くして、 遥か向こうの線路に、 長い貨車が停まった。
「あれに乗れば、 帰れるのか」
機関車からは、 力強い煙が噴き出し風に靡いている。汽笛を聞いて望郷の思いが更に燃え上がる。
その貨車が、 私のダモイ列車になった。お世辞にも綺麗な汽車とは言えないが、 これに乗らなければ又何時の日になるかわからないのだ。
病院からのダモイは私唯一人だった。同僚のうらやましげな顔を見るのは辛かったが、 これも仕方がない。
クラワーをさがしたが、 何処にいるのか姿は見えなかった。気にかけながら衛門に行くと、 チョルネが笑顔で手を差し出した。
「ダモイか、 よかったな」
「ドスビダーニヤ、 チョルネ」 (さようなら、 チョルネ)
貨車の所までくると、 あちらのラーゲリ、 こちらの収容所からも、 沢山の日本人が集まって来ていた。何処にこんなに居たのだろう、 と驚くほどである。
汽車は中々出発しない。外を眺めていると、 ソ連の女性が、 一人歩いて来るのが目についた、 目をきょろきょろしている。私は、 力一杯手を振る。クラワーである。息を弾ませ走ってきた、 手のなかのパンは餞別だ。丁度その時、 ボゥオー、 ボゥオーと汽笛が鳴りだした。ソ連兵が扉を閉めに廻ってきた。危機一髪だった。
「スパシーバ」 (ありがとう)
「ドスビダーニヤ、 クラワー」 ( さようなら)
「ドスビダーニヤ、 トクナガ、 ママによろしくね」
慌ただしい別れだった。扉が閉まると、 クラワーの姿も見えなくなった。もう逢うこともないだろうが、 ソ連で唯一人、 心の通った女性だった。
一台の車両には、 行きと同じように4〜50人位乗っている、 どの顔も飢えと、 重労働に痛めつけられ錆びてはいるが、 一様に明るさが感じられた。これからまた訪れてくる零下40度の厳冬から開放されると思うだけで心は弾む。汽車が動きだすと、 一斉に歓声が上がり、 笑顔が広がる。行きの不安と違って、 帰りの期待だ。車内に開放感が漂う。
「まだまだ、 何処に連れて行かれるか分りませんぞ」
私は、 心のなかで叫ぶ。その頃はソ連兵の言うことは、 すべて裏返しに受取るようになっていた。彼等が白と言えば黒、 黒と言えば白と考えて間違い無かったのだ。 移動する度に、東京ダモイに騙され通しだったので、 疑いの気持が頭をもたげ、 行く先の不安からなかなか離れられないでいる。
汽車は、 全速力で走っている、 途中、 小窓から覗いてみても、 人家などは見当たらない、 ただ僅かにツンドラの草が見えかくれするだけだ、 千キロなど距離じゃないと言われるシベリアの景色は、 あまり変わり映えがしない。森林にはいると一日中森のなか、 ツンドラ地帯にはいると一日中その景色から抜け出せない。シベリアの広さが思われる。
私は汽車に乗るといつも鉄道唱歌を口ずさむ。歌のリズムと汽車のリズムが見事にマッチしているようで、 ついつい口を開いている。
今は山中か、 今は原、 今はシベリア、 さようなら。
一緒の貨車に、 腎臓が悪いという人がいて、 顔がむくんで、 とても辛そうだ。
「大蒜(にんにく)があったらなー」
と言っていた。途中給水のためか、 汽車が停まったので、 添乗のソ連人に聞くと、 近くにバザールがあると言うので、 一緒に行って見たが、 ここはごく小規模のバザールで、 大蒜(にんにく)は見あたらなかった。
折角、 ルーブル紙幣を預って行ったのだが、 無駄になってしまった。彼はがっかりである。 それでも、 家に4人の子供がいることや、 故郷は宮城県だと言うことなど、 訥々(とつとつ)と話だした。
「シベリアで、 色々な作業をさせられたが、 一番きつかったのは、 枕木運びだったねー」
「コールタールの池から、一本一本引き上げて、 台車に積むんですよ。シベリアの鉄道は広いでしょう、 タールが染み込んでいて、 重い、 重い、 60〜70キロは、 あったんじゃーないかな。担いでも腰がふらふらで」
「地獄の枕木作業といっていました。お蔭で肩はこんなですよ」
彼の肩は、 たこが出来て盛り上がっていた。彼はそう大きい方ではなかったから、 さぞこたえたことだろう。
「それから、 病気になったお蔭で生き延びました。戦友も随分、 これで死にましたよ」
彼は、 当時を偲ぶ目になり、 瞼を閉じた。
ソ連は、 弱い人、 病人から帰すと言えばいかにも人道的のようでカッコいいが、 ただ単にソ連にとって役にたたないから、 早く帰しただけである。
汽車は時々停まる。トイレ休憩というところだ。これが、 いつ停まるのか分からないので、 停まった時は、 みんな一せいに下りて放尿となる。一列に並んでのツレションだ。
体をほぐし深呼吸などして気分を変える。
丁度、 その時、 近くで働いているという、 日本兵に出会った。短い間の立話だったが、 彼はもう日本には帰らない。ソ連の国籍を取って、 今ソ連軍の佐官待遇で、 水道の設計をしていると言っていた。
今、 考えると、 私たちも一時期、 ソ連国籍を取ったら早く日本に帰れる、 と言う噂を聞いたことがあった。ソ連からの帰国は国家と国家との交渉では1956年 (昭和31年) に終わった事になっているが、 市民レベルでは今なお続いている。そんな人が、 まだ、 まだ、 沢山かの地に残っていることと思うが、 彼等も今、 いい年になっているだろう、 どんな思いで暮しているのか。唐ゆきさんの男性版で、 あの大きい北斗七星を仰いでは日本恋しやと、 ジャガタラ文ならぬ、 シベリア文をしたためているのかも知れない。
待て、 暫し、 自由渡航はもう直ぐだ。
ナホトカ
汽車は、 単調なリズムで走っている。行きと違って、 小さな窓は開け放しだ。色々な風景が現れては消えて行く。町並みが消え、 コルホーズも後の方だ。バザールらしき人の波も無くなった。出発して何日目だろう。やっと2年越しの恋人ナホトカについた。本当に遠いナホトカだった。ここまでくると何だか緊張感が解けてくる。そこは、 順番待ちの日本兵で溢れていた。
薄汚れた十数棟のテントが並んでいて乗船を待っている。くたびれた目や、 元気な目もあった。住んでいた場所や、 労働の状態で様々である。
人の話では、 日本からの迎えの船が来ないとのことだった。
海を見るのは何年ぶりだろう。ああ、 この海の涯てに日本があるのだ。
穏やかなブルーの海は、 岸辺に近づくに連れて、 無色透明となって足下の砂を濡らし、 白砂を薄茶色に染め上げていて、 そこまでが、 海の領分だと主張しているかのようである。黒いのは砂鉄なのか、 細い帯となって何処までも続いていた。足下の小さな砂は、 歩くに連れてキュッキュッと鳴った。その砂浜は緩やかな傾斜を海に滑らせていた。テントは、 その砂の上に立っている。その砂浜が尽きたところには、 もう山がせりだしていて、 突き出した岩の上に、 海風に痛めつけられたような木が2〜3本へばりついている。山はかなり高く、 切り立った断崖が今にも崩れ落ちそうだ。
沖に眼をやると、 海は深碧(ふかみどり)の大きな抛物線を描いてゆるやかに息ずいていた。そのうねりの上を一条の金の帯が陽の光りにきらめいていて、 うねりに合わせて踊っている。どちらを向いても山又山の中で過ごした者にとっては、 海は異国に見えた。
しかし景色にばかり見愡れている場合ではない。頼みの迎えの船はまだ来ないようだ。
みなの顔に焦りの色が見える、 先にきて待っている人の話では、 ここまできて、 又、 何処かへ連れて行かれた部隊もあるとのことだった。全く、 油断も隙もならない。
海に向って 「おーい」 と呼びたい衝動にかられる。
海の水を手で掬い嘗めてみると遠い昔の味がした。子どもの頃の潮干狩が思い出される。
ここは、 臨時の波止場なのか、 人家などは見あたらない。一週間ほど、 そこで足止めされていたが、 ある日突然、 一緒に来た汽車の人達の帰国が始まった。
ソ連では、 何事も突然に行われるのである。
いよいよ帰えるのか、 と思った途端
「徳永は、 残るように」
私は、 どうもこんな事になりそうな気がしていた。
「そら、 来たぞ」
係の説明では、 テントの電灯を引くのに2ケ月も前から残されている電気屋が、 今度は帰ることになり、 お前は、 それの後任だと言うのだ。
こちらに来て履歴書を書いた記憶はないのだが、 先方には分かっているようだ。私の帰国は、 当分お預けのようである。 久しぶりに、 ペンチとドライバー、 そしてナイフを腰にして電気屋さんの開業である。結構繁盛した。 新しいテントに電灯を取り付ける、 電気がつかないからきてくれ、 電球の替わりは何処にあるのか。変圧器の容量は未だ大丈夫か。
繁盛するのも善し悪しである。計算したり、 テントを見たりで一日は足早に過ぎていく。 当分、 私はここに居座る覚悟を決めた。丁度一週間目、 まだテントで寝ている時であった。 「おーい、 徳永は居るか」
「お前は、 明日帰えることになった」
と係員が手袋と、 靴下を持って来た。一週間働いた報酬なのか。これも旧軍時代の戦利品のようである。
戦後、 ソ連は満州から人と物のとを大量に盗って行った。昭和20年の8月15日以降、 日本軍の抵抗が止むと、 彼らはソ連軍の総力をあげて、 一せいに日本資産の収奪にかかった。 人は、 60万の軍人軍属、 義勇隊の若者だ。物は発電機、 モーター類で動力の基礎になるものが、 多かったようである。
東洋一といわれた水豊ダムも、 7基の発電機のうち5基までが撤去された。台座を爆破して、 発電機を運びだすくらいであるから、 外のことはおして知るべしである。
私が、 入隊前に住んでいた、 吉林市を流れる松花江の上流に、 大豊満の発電所があったが、 そこの発電機、7万キロワット、 6台もそっくりもって行ったようである。
私は入隊前、 一度見学に行ったことがあるので、 そこには親近感を持っていた。排水の向むうに、 鮮やかな虹を見たのは、 まだ頭のなかに残っている、 大規模な発電所だった。 吉林では大豊満の発電所のほかに満州電気化学工業、 浅野セメント、 特殊製紙などが徴発の対象になって50%から80%が持ち去られた。
我が満州人造石油に於いても80%が解体搬出された。その他、 動かせるものは椅子から机、 医療機械、 注射器から聴診器に至るまで、 トラックに満載し凱歌を上げながら運び去った。誠に火事場泥棒である。参考迄に書いてみると
捕虜 594,000名
飛行機 925機
戦車 369台
機関銃 13,825挺
野戦砲 2,662門
小銃 300,000挺
自動車 2,300台
馬 14,774匹
弾薬・補給品倉庫
742ケ所
補給倉庫は、 関東軍、 10年分の生活物資があったようで、 勿体無いかぎりである。
発電所関係では
大連甘井子火力発電所 (発電機全部9万KW)
錦州阜新火力発電所 (発電機全部15万KW)
撫順火力発電所 (発電機全部30万KW)
佳木斯火力発電所 (発電機全部2万KW)
ほか、 東安鶏火力 ・ 大豊満水力 ・ 小豊満水力 ・ 鴨緑江水力発電所等も被害を受けている。ソ連政府その者が泥棒と化したのである、 まして一般の兵においては尚更である。
しかし、 一番は何と言っても北方領土四島である。たった9日間の戦闘で、 これだけの収穫である。それなのに厚かましくも、 北海道半分の分割占領も要求していた模様で、 時のアメリカ大統領ルーズベルトは、 スターリンの極東に於ける途方もない野望を見抜き、 これが長い米ソの冷戦の原因ともなったのだ。
我々は、 一応の出国なので、 税関検査があった。
「金を持って居たら、 残されるそうだ」
「書いた物は取り上げられるぞ!」
色々な囁きが聞こえる。
「ここで残されたら、 どうもならん、 今までの苦労が水の泡だ」
大部分の人が帰えりたい一心で危険と思われるものはすべて捨てた。
部屋にはいると、 そこには大きな机があり、 新しい軍服を着た税関吏が、 てきぱきと検査を続けていた。順番に机の上に荷物を広げる。 私が荷物を机にあげると、 カランと渇いた音がした。私の全財産は食器だけである。検査しようにも検査のしようがないのだ。
税関吏もあきれて
「貧乏ですね」
と、 日本語で言って笑った。
「何を言ってるんだ、 何にもくれなかったのは、 そちらの方でしょう」
という言葉を呑み込む。
地球上に平和を
毎年、 年末になると忠臣蔵、 即ち赤穂浪士のあだ討ちの模様がテレビに登場する。あらゆる苦労に耐えて、 無事主君のあだ討ちをするのであるが、 それまでの苦しみを手を変え品を変え描いてゆく。 そして最後は討ち入りで、 無事本懐を遂げる。めでたしめでたしの様だが、 全員切腹ということで悲劇に終わる。さてそれからである。仮に吉良の子孫があるとする。彼らは赤穂に関係のある人を父の仇と付け狙うことになる。 あだ討ちをしたときから、 自分が仇とねらわれる身分となるのである。私たちは、 シベリアにいる間耳にした言葉に、 日露戦争の報復だ、 また敗戦当時の中国人が、 日本軍の残酷な仕打ちに対するし返しだと、 殺人、 暴行を恣(ほしいまま)にしたが、 日本にも蒙古襲来のときは、 対馬、 壱岐、 博多の住民に対し、 見るに堪えない仕打ちをしているのも歴史の事実である。これでは何処までいっても、 尽きることのない悲劇を繰り返すのみである。今度は、 我々の子孫がソ連、 中国、 その他の国に父母の仇だとしたら、 いつまでたってもこの問題に終止符は打てないだろう。相手を咎めているかぎり争いは絶えないのである。真に地球上の平和を望むなら、 民族の恨みを捨てて、 何処かで思い切って区切りを付けるべきであろう。
国連で不戦の誓いに調印し、 ここらで一線を画すべきである。更に各国軍備を零ぜろにして、 国連にのみ警察権をもたした状態にすれば、 その膨大な軍事費は、 国民の福祉として生きてくる筈だ、 今世界は、 3百年間平和を続けた我が国の、 徳川幕府の政策を見習うべきである。世界の安全保証は日本にとっても最大の国益のはずだ。
そろそろ地球規模で新しいライフスタイルを考える時が来ているようである。
乗 船
検査が済んで、 岸壁に行くと、 そこにはもう船が着いていた。少し風が強いようだ。
時々、 波しぶきが飛んで来る。しかしここまで来れば、 濡れるなどもう問題ではない。
船体には、 漢字で高砂丸と大きく書いてある。これが、 我々が引き揚げるための母国の船なのだ。白い船体は薄汚れて塗料が剥げ、 所どころに錆を浮かべていた。敗戦後の、 故国の姿を象徴しているかのようである。これは病院船か、 赤十字のマークも見える。
いよいよ苦しみ抜いたソ連ともおさらばだ。だが乗船し、 船が岸壁を離れるまでは油断ができない。夢にみた日本はもう近い。心臓の鼓動が高鳴り私は少なからず興奮している。
風は、 少し強くなって来たようである。船はゆっくりした上下動を繰り返していて、 おいでおいでと手招きしているようだ。
ソ連の係官により名前が呼ばれて行く。風で名前を聞き漏らしたら大変だ。私の全身は耳になる。風は益々強くなり、 打ち寄せる波の音に、 係り官の声が途切れたり、 或いは大きくなったりした。
「フクナガ」 と呼ばれても 「トクナガ」 と聞こえ身を乗り出す。
次々に名前がよばれ、 私の側から離れて行く。
名前がなかったらどうしよう、 一瞬不安がよぎるが、 遂に来た。
「トクナガ、 マナーブ」
「確かに、 俺だ」
「ヤアー」
私は鎖を外された犬となり、 周囲のものは、 一切眼に入らない、 ただ見えるのは一条のタラップだけである、 風が吹いて一瞬落ちそうになったが委細かまわず一気に掛け昇り、 船に転げ込む。地獄の境を越えたのか。
ふと縁切寺に駆け込む女性のことが頭をよぎる。 彼女達も、 こんな気持ちだったのだろうと、 自分の体験を通して分かるような気がする。
白衣の看護婦さんが、 10人ほど入り口に並んでいて
「永い間だ、 ごくろうさまでした」
そのことばに涙が溢れる。何年振りに聞く優しい日本女性の言葉だっただろう。
タテヨコ大きいソ連女性を見てきた目には、 日本女性の楚々たる白衣姿に神々しささえ感じた。
「やはり日本の女はいいなー」 囁きとも溜め息ともつかぬ言葉が聞こえた。
ようやく解きはなされた鎖だ。私たちはもう自由なのだ。あの地獄の鐘ともさようならである。頭で分かっていても、 又引き戻される恐怖を覚えて、 はやく、 早くこの地を離れたいのだ……。
待ちに待った出航の汽笛が鳴り、 我々は皆一せいに甲板に駈け上がる。甲板上は人で溢れているが半ば強引に隙間に立つと、 だんだん、 対岸の人の姿が小さくなってゆく。
ここまで来ると、 今までの苦しみや、 憎しみも薄らいで来る。 不思議なものである、
私は萬感を込めて、 ドスビダーニア (さようなら) と呟く。
船のなかで夜を迎える。夕食は、 白い御飯に若芽の味噌汁、 それに小さな魚がついていた。それが何にもまして御馳走だった。今までの手製のスプーンではなく、2本の箸で夢中で食べて満腹感を味あう。
あー、 夢に見た、 日本の味である。が、 脂っこい料理になれた舌には、 少しもの足りないような気がした。籾を脱穀して食べた病院の米の飯のほうがおいしかったようにも思う。
残念だが何時の間にか飼い馴らされていた自分に気づく。
考えてみると、 一昨年、 新吉林を後にして、 大きな運命に弄ばれ、 それが運んで行くところへ運ばれて来ただけのことだ。残念ながら、 自分というものはこの2年間消えていた。ただ他動的に自分に押し付けられて年を重ねたに過ぎない。
しかし、 流刑の地シベリアの実態はこの体を通して知ることが出来た。誠に悲惨な体験だった。ソ連の共産主義は楽園を夢見て地獄を造った。
船の揺れに身を任せて横になるが、 興奮で目がさえる。やたら故郷のことが気に掛かる。帰ったら家の者はどんな顔で迎えてくれるのか。母の顔、 姉、 友人の顔が、 次々に浮かんでくる。兄貴は沖縄から無事帰って来ているのだろうか。戦後の日本はどんな状態なのか。
私たちは、 これまで大きな試練に耐えて来た。これからもまた、 大きな忍耐と精進を以て、苦難と取り組まねばならないだろう。焦土の復興のために。
満州人造石油のその後
私は今、帰還船高砂丸の船内で、種々の思いに耽っているが、私が入隊前に住んでいた新吉林、 満州人造石油はどうなったのであろうか、 私はこの地で、 さなぎから蝶へと脱皮していったのだ。もし私に人格というものがあるとすれば、 大部分がこの時期に形成されたと言っていいだろう。私にとって新吉林は第二の故郷である。当然のことながら満州人石のその後は詳しく知りたいところであった。幸い同期の朋友(ぽんゆう)、 同じ電気課の大曲伸次氏より手記を貰うことができたので、 中島達二著 「満州の思いで」 とこの二つを参考に少し書いて見ようと思う。著者は元満州人石附属、 江北病院の院長である。
昭和20年の8月9日、 夜明け前、 独身寮の若者は次々と起き出していた。南側の窓を開け身を乗り出して口々に叫んでいる。松花江を挟んだ対岸の吉林市街が真っ赤に燃えている。見る間に、 右、 左と火柱があがった。吉林が火事だ!!。
「朝鮮人の暴動だ」 「いや、 火薬庫が爆発したのだろう」
「飛行機の爆音を聞いたので、 アメリカさんの空爆だ」 と思い思いに無責任な事をしゃべって眺めていた。対岸の火事である。一時の喧噪が過ぎると周囲は又もとの静けさに戻った。
朝になって知らされたのはソ連の参戦であった。
「うわー、 こりゃーやばいぞ」
当時、 日本とソ連の間には不可侵条約が結ばれていたので、 この度の、 ソ連の参戦は晴天の霹靂へきれきとなって皆の心を貫いた。会社に行ってもその話で持ち切りである。
幹部の中には、 この時点で我が国の負けを予測し、 一応家族を引き揚げさせた目先のきいた人も居た。若者はまだそれだけの逼迫感はもっていなかった。やがて来る8月15日、 敗戦の詔勅を聞く事になる。本社前の広場でその詔勅は聞いたが、 ラジオのせいか全く意味不明であった。上司に日本は負けたんだと言われて、 ただただ茫然自失となった。
新吉林では終戦の詔勅を聞いてもしばらくは平穏が続いていた。対岸の吉林では日本軍の糧秣倉庫が住民に襲われた。8月18日の夕暮れ時である。手に手に獲物を持って引き揚げてくる何十人もの姿が目撃されている。周囲はすでに険悪な空気に包まれ始めていたが、 会社の方では幹部の努力により、 現地従業員の給料は払われたから比較的穏やかだった。だが日本人には銀行封鎖ということで払われないので、 しばらくは売り食いで凌いだが、 独身寮の若者がそうそうたくわえがあろう筈はない。仕方がないので会社では比較的生活にゆとりのある家庭に分散、 宿泊させる事にした。
前出、 大曲君と同僚の山家君とは、 電気工事課の係長、 藤野氏の家に転げ込んだ。居候生活である。藤野氏の家は山の麓にあったが、 やがて来る冬の準備にと、 早速石炭運びをすることになる。その頃はボイラーは運転停止で、 暖房は個人でやるより方法はなかった。6畳間のタタミを上げ、 床板をめくって石炭を詰め込むのだ。あと一ケ月もして、 皆が準備にかかる頃にはその石炭が有ると言う保証は無かったからである。家庭持ちはあらゆる準備をするものだ。一時が万事で独り者の考えとの違いに感心した。とは言え、 会社の石炭置場までは距離にして約1キロ、 二人で担ぐ石炭の重さは肩の骨を砕く思いであった。汗だくとなりついに音をあげ、 山家君のみに断り藤野邸を逃げ出した。寮に帰って見るとそこはもぬけの殻で、 荒らされていた。4〜5人がたむろして自炊をしていると言う社宅を見付け、 そこにもぐり込んだ。ていの好いルンペン生活者となる。
空き家になった社宅、 倉庫、 会社の施設など、 金目の品物を捜し廻ったが、 もう中国人に荒らされた跡ばかりで、 目ぼしいものは何も無かった。その頃、 線路を挟んだ向こうの社宅を借りて駐屯していた日本軍がまだ残っていた。第386部隊と言った。この部隊が撤収する際、 知らせてくれたので、 其処にいた4〜5人が飛んでいった。そこは宝の山であった。 食料品、 医薬品、 被服等々、 特に多かったのは乾パンで林檎箱一杯担いで帰った。味をしめてもう一度引き返したのだが、 その時はもう中国人の団体が占領していて、 とても寄り付けなかった。ともあれここ当分の食料と金に換わる品物も確保した。
8月20日頃、 日本刀、 拳銃等の武器を警察に持参するようにとの命令がくる。後で持っているのが見つかれば、 即銃殺との脅し文句もついていた。皆んな先祖伝来の刀やピストル、 猟銃を警察にもっていった。その噂は瞬く間に広がって、 日本人は武器はもう持っていない。無抵抗だからやらねば損と、 終わりには中国人にも悪い奴が出る。その頃から次第にこそ泥が荒らし始める。社宅周辺は、 いままで余り目にしなかった中国人の姿が多くなって来た。団体で歩き回り、 日中目を付けた所を、 夜襲ってくる。盗難の噂は毎日のように広がった。戦々恐々の日々である。日に日に周囲は不隠になってくる。比較的人目につきにくい外れの社宅、 又は女だけの住まいが最初に狙われた。昼間はさほど心配はなかったが、 眠られぬ夜がつづいていた。
社宅の片隅の召集留守家族のA子さんが満人に襲われ暴行された。その上何日も居続け居座ってしまった。その中国人は、 流暢な日本語を話す会社の傭人だった。日頃美人の噂の高いA子さんに目を付けていたのであろう。見兼ねた会社の若者が、 その中国人を2〜3人がかりで打ちのめして追い出した。当時の雰囲気からするとこれは快挙であった。社宅の女性達は恐怖におののいている。 「誰か頼れる人が欲しい」 これは利害を超えた生きるための必須条件であった。会社では取りあえず、 用心棒として若者を派遣して宿泊させた。お互い明日の命の見えない時である。起居を共にするうちに愛が芽生え、 幾組もの夫婦が誕生した。さきに、 私にお守りと千人針をくれた村田朝子嬢も、 その中の一人であった。世情不安の時であったが、 友人を招いてささやかな披露宴をした。相手は私の同僚の川原崎龍三君で、 同じ電気課である、 彼はいい奴だった。色白で体は小柄であったが、 剣道の達人でその剣さばきは、 多くの人の称賛の的であった。私が帰国して一度連絡があった。その葉書には長男が生まれたと書かれていた。その後連絡がとだえてしまった。風の頼りでは、 彼は死亡したという。残された彼女は苦労したと思うが、 長男ももう大人である。いまは何処かで幸せに暮している事を祈るのみである。
国府軍が来たと思ったら、 何時の間にか中共軍に入れ替わる。国府軍、 中共軍と目まぐるしい変転であった。国府軍はかなりいい加減で略奪はする、 女と見れば襲う者もいたがさすがに中共軍は軍規が正しかった。
9月の中頃、 満州人石 (人造石油) の日本人は全部進駐して来たソ連軍の管轄にはいった。 銃を手にしたソ連兵が我が物顔に社内を歩き始めた。こん畜生と思うのだがどうにも仕方がない。最初は時計、 万年筆が没収の対象だった。見付けると 「ダワイ」 と言ってとった。両手に時計をはめて威張っている兵隊は珍しくもなかった。
若者は、 会社で機械の撤去作業に追い捲られた。ついこの間まで営々と築き上げた設備を、 今度は解体し、 荷作りするのである。何だか泥棒の片棒を担いでいるようで、 国が負けたとはいえ辛い毎日であった。発電機、 変電設備、 大型電動機を初め、 メーター、 スイッチ類に至るまで一切合切、 それこそ根こそぎである。跡には、 ほこりと、 空気だけとなった。
希望の見えないなげやりな日々が続く。
ソ連兵のわが江北地区への進駐は、 工場の解体が主目的であったから、 一ケ小隊くらいと思われるものが、 工場のすぐ近くの寮に泊まっていて、 社宅の警備はしてくれなかった。満人の警察はまったく役に立たなかったばかりでなく、 泥棒の道案内をするので油断は出来ない。そのように、 略奪には誠に都合のよい状態だったから、 ソ連兵の泥棒達は毎日夕方か夜になるとやって来る。主として夜間行動できる将校や下士官達であった。昼間も来る。大垣社長の家財道具一切もトラックに積んで運び去ったのは昼まだ太陽が明るい頃であった。跡はちょうど転居した家のようになってしまった。その他は、 ほとんど夜間にくる。さすがに悪いことをするのだから気が咎めるのか、 酒気をいつも帯びていた。彼等がくる度に、 全部の人、 特に女達は裏山へ逃げた。裸足で裏の畑の南瓜や瓜を踏んだり、 蔓に足をとられて転んだりしながら必死に逃げた。誰も守ってくれないのだから、 自分で警戒するよりほかはないのであるが、 先方には武器、 日本人は全くの無力、 しかも石一つ投げる訳にはいかない。他人に迷惑がかかるからである。そこで昼間は白や赤の旗を掲げて知らせたが、 夜は男達が要所、 要所の叢に潜んで、 「そら来た!」 とリレー式に無言の警報を発し逃げるより方法はない。幸い敗戦後は除草していないので、 隠れるのはもってこいの状態であった。
江北病院は社宅の東に少し離れてある。ここは会社の病院で、 総合病院だった。ここにはまだうら若い看護婦さんが10人ほど残っていた。
「ソ連兵や、 満人の泥棒の事ばかり心配していては、 夜もおちおち寝られない」
そこで誰が考えついたのか、 病院の天井をくり抜いて、 そこを寝室にすることにした。ずいぶんとゴミやほこりが溜っていたが、 掃除をすると結構広い、 電線を引いて6個の電球をぶら下げ、 万年床を敷いて下界に下りる必要のないように、 万端の用意をした。
やがて日暮れになると、 全員が梯子でこの天井裏に這い上がる。先頭の者が入り口のスイッチをひねると天井裏はたちまちまぶしいばかりの明るさになる。この天井銀座 (彼女達はそう呼んでいた) に最後の人が登ったあとて、 梯子を外して貰えば、 下の廊下からは絶対に分からない。しかも下の音は小さい音でも手に取るように聞こえる。火事を除けば全くの安全地帯であった。
機械の解体作業には、 僅かだが給料がソ連の軍票で支払われた。収入がとだえていた人達は、 これで食いつないだ。
ある日、 ソ連側から接待婦(まだむ)を出せとの命令に、 重役連は頭を悩ました。出さないと外の女性の責任は持てない。と言う但し書きつきである。ソ連軍の将校の相手だという。重役会議が開かれたが、 名案があるわけはなく、 やむをえず、 吉林から、 プロを呼んで頼みこみ、 高額の要求を呑んでその場を切り抜けた。
工場の解体作業は10月末にはあらかた終わった。終わると、 ほっとするのも束の間、 今度は収入が跡絶えて、 又、 売り食い生活に戻った。一日中何もすることがないので、 同僚が用心棒として住み込んでいる派遣先を尋ねた。それが狙いではあったが、 時には食事にありついた。
10月の初め、 わが大曲君はふとした弾みで 「ギックリ腰」 になり2〜3日動けなかった。基礎体力が弱ってなかなか治らないので、 江北病院に診てもらいに行った。この時は、 内科と外科のみで細々と診察施療をしていた。無論無料であった。 (もともと、 住居、 電気、 水道料は払った記憶がない。その頃も電気や水は不自由しなかった)
敗戦と共に、 入院患者は全員退院となり、 各自通院していた。その中に同僚の杉本、 野中、 上鑢君や先輩の清水さん達がいた。
新吉林をあとに
その間にも、 会社幹部の帰国の努力は続けられ、 首脳部は朝鮮に向かって出発した。11月1日、 第一次撫順行きの列車も出発する。二次の出発は明けて1月3日、 寒い日である、 白銀の中をのろのろと荷物を担いだ列が、 新吉林の駅まで続いた。若者は布団袋一個とリュック、 水筒に飯盒だけである。家庭持ちは、 かなりの物を担いできていた。あれだけの略奪に会いながら、 よくも隠していた物だと感心した。通院組は病院から薬や器具類を運んでくれとたのまれた。貨車は有蓋車で布団袋を下に敷き、 毛布を被って新吉林の駅を出た。新吉林の駅で遅れたのは、 駅関係の中国人みんなに金が渡らなかったからであった。昨夜、 よろしくと、 若干の金を駅長に送ったのだが、 警備の者迄は行き回らなかったらしい。そこで金の追加である。また、 若干の金が支払われた。それでも、 汽車はのろのろと走った。
吉林駅に着いたのは正午過ぎ、 列車は一番西のプラットホームに停まった。ここで長時間停車した。その間、 国府軍の警備兵に略奪を受け何個かの荷物を奪われた。ここでも金の要求があった。まるで通行税を取られるようなものだ。色々の難問をくぐり抜け新京に着いたのは真夜中だった。勿論ここも貨物駅の引込線である。この駅には駅長も助役も三通りあった。ソ連 ・ 中国 ・ 日本の三通りである。ソ連は勝利者で中国は面めん子つ (顔) 上であるが、 日本人の駅長、 助役は首にしたくとも、 列車が動かないのでそのままである。さてその日本人の駅長は
「この情勢下で、 撫順に引っ越して行くなんて以ての外だ。それよりも、 ここで下りて、 日本人会の厄介になって、 宿舎の世話をしてもらえ」 と全然相手にしてくれなかった。
もしここで下ろされたら、 金もないし、 仕事も当てにできないからルンペンになるより外はない。だから会社の幹部連中も希望を捨てないで根気よくねばった。その間4日。
ある日、 日本人の助役の一人が
「現在は列車は動いていないが、 週二回新京のソ連司令部から四平市 (四平街) の本部へ金を取りに行く二両編成の列車が出る。何日の何時かは分からないが、 この次に出る時内密に連結して上げるから、 決して列車から下りてはならない。今、 少しだから頑張りなさい」
と言ってくれた。地獄で仏である。
敗残の撫順
1月8日の真夜中に動きだした列車は、 公主嶺 ・ 四平 ・ 奉天に停まったのみで無事撫順に到着した。それにしても有り難い事であった。この助役さんは満州人石全員の救いの神であった。この人には発車の前に感謝の意を込めて、 若干のお礼をしようとしたが、
「お互い日本人、 困っている貴方がたを助けるのは当然のこと」 と手も触れなかった。 しかし、 この助役さんの名前は、 誰も知らないままである。聞いても言わなかったようで、 この混濁の世に一輪咲いた蓮の花であった。
撫順に着いたのは、 新吉林を出てから7日後で、 行程にして5百キロである。
迎えてくれたのは茶褐色のぼた山で、 あちこちに水蒸気があがっていた。露天掘りの石炭層の上にある油母頁岩ゆぼけつがん (オイルシェル) の山で、 これは油を含んでいて大量に積むと自然発火する。夜になると、 チョロ、 チョロ赤い炎が無数に燃える。その時の何とも言えない臭気が、 ここ撫順の匂いとなっていた。 ここでは、 貨物駅である大官屯から電気機関車で液化工場まで引っ張っていかれ、 取りあえず空き家になっている所に収容された。
1月9日午前11時頃である。その頃の撫順は中共軍の勢力下であった。明くる日、 所持品検査のあと、 新たに宿舎の割り当てがある。ここは独身寮らしい。入って見ると、 空き家で、 畳表は剥がされ、 電灯線まで盗まれていて物置同然であった。鉄筋コンクリート三階建で、 中央に玄関踊り場があり、 その横が階段になっていた。その階段を登ると両側に6畳の間が10部屋ほど並んでいた。一階には出征留守家族が入り、 若者が二、 三階に二人づつ分散してはいった。玄関の突き当たりが炊事場、 食堂、 風呂場とトイレがあり、 一階の奥さん達が炊事場で皆の賄いをうけもった。そうして一応団体生活の形ができていった。落ち着かない日々が続く。 「中共軍が去り、 国府軍来らず」 この10日余りは無政府状態になった。この絶好のチャンスを、 強欲な中国人どもが逃すはずはなかった。軽金属工場がその暴徒に襲われたのである。あとには、 ゴミ以外は何も残っていなかった。中国4千年の歴史の中、 政権交替の度にこんな事は繰り返されてきたのであろう。
その後国府軍が入ってきた。中共軍は一発の弾丸も使わず撤退して行ったが、 これは中共軍の作戦で、 憮順は逃げたはずの中共軍によって完全に包囲されて、 糧道を断たれたらしい。 食糧の値段が目に見えて高くなった。これは国府軍の作戦負けで、 今度は中共軍の天下となる。
さらにソ連軍の管轄になると石炭掘りの労働がまっていた。はるばる5百キロ、 苦労を重ねて来たのにこの撫順も安住の地ではなかった。
御存じと思うが、 撫順炭鉱は露天掘りで特に有名である。この方法が取れれば、 これが一番能率的であり、 経済的である。
当時、 労働に出る人には昼食に弁当が支給されたが、 病人は働かないからと、 朝夕の二食だけであった。病人と雖いえども、 やっぱり腹は空くものである。
やっと落ち着いた頃、 同僚の桜木、 松本、 菊池君ともう一人の4人が、 撫順の生活に失望
して新吉林に引き返えした。この話を聞いて病人組はびっくりした。現在、 治安は乱れており、 交通網は各地で遮断されている。食料や、 この寒さをどうして乗り越えようと考えているのか。こちらに来るときは団体で、 金や、 食料を持っていてさえ一週間もかかったのにと、 その思い切りのよさに驚いた。後で分かった事であったが、 彼等は無事到着し、 結局は撫順組より何箇月か遅れて、 無事日本に引き揚げている。
若者が住んでいる独身寮の裏は社宅群で、 中央に社員倶楽部があって、 そこで江北病院疎開組が診療所を開いていた。しかし、 重病人は手に負えないので、 住まいより遠く離れた満鉄病院に週一回通院した。液化工場前で電車に乗り、 30分あまりで、 電鉄撫順駅に着く。この電鉄は途中から撫順炭坑にも繋がり、 満鉄とも連絡できる様になっていて、 その頃は無料であった。終戦前は市街と炭坑、 液化工場、 軽金属工場、 化学工場等を結ぶ郊外電車として重宝され、 奉天に行く鉄道と並走していた。
満鉄病院は、 建物や設備は堂々としていたが、 薬品や材料の補充がないので、 よほどの事がない限りその場凌ぎの治療であった。先輩の清水さんは、 肺結核と結核性骨髄炎とかで左肘が化膿して曲がったままだった。同僚の野中君は脊髄カリエスで背骨が30度ほど曲がり、その頃はもう 横腹から背中にかけて化膿して腫れ上がっていた。二人とも見るに忍びない姿であった。杉本君も骨髄炎で足を引きずっていた。上鑢君は、 肋骨カリエスで、 右胸中央部に穴が開き、 始終膿汁が出ていた。大曲君はその中でも一番軽かった。病名は腰椎カリエスとなっていたが、 実は単なるギックリ腰だったらしい。それは昭和19年の8月に、 江北病院に肋膜炎で入院していたので、 医師が結核性と誤診してくれた様である。野中君は溜まった濃汁を注射器で吸い出すだけで、 コルセットも造って貰えなかった。ガーゼや包帯が沢山いるので、 自分で持参するなら造って上げようとの事であった。
病院の診察治療は昼頃に終わる。そこを出ると、 大通りに食べ物屋が二軒、 軒を連ねていた。その一軒の牡丹江食堂で、 通院患者5人で久々に素うどんを食べたが、 それが物凄く美味しかった。干天に慈雨ではないが、 じわじわと五臓六腑にしみていった。
その頃次々と日本人開拓団の群れが撫順に雪崩込んでくる。これに比べると、 吉林組はまだ好い方であった。その人達は服らしい布を身に付けているのは好いほうで、 中には麻袋を腰に巻いている人の姿も見かけた。彼等は人間とは思えないほど汚れ、 その異様な臭気に顔を背けた。彼等は寒さに震え飢えに泣いた。
撫順の2月はまだ真冬である。その時期、 発疹(チフス)が流行(はやり)だした。寒さと、 栄養失調で体力が衰えている時に追い討ちである。多くの日本人が毎日死んだ。何人も馬車に乗せられて行くその姿に涙した。満州奥地から遥々(ここ)まで辿り着いたと言うのに……望花神社の参道の両側が墓地となった。彼等はさぞ辛かったであろう。天を恨んだであろう。
依然として日本人には食糧難が続いて、 少しばかりの高梁が主食となった。米の値段は急速に上がっている。皆が湯気の上がっている白米に思いを寄せていた。
何時の間にか街には市場が出現し、 物の売り買いの場ともなっていた。日本人が売って食料に代えたのか、 或いは盗難に合ったのか、 日本軍の貨物廠からの物資なのか。米やメリケン粉、 バター、 チョコレート、 食用油。手拭、 毛糸、 純毛のシャツ等がその市場で売られていた。大島の袷が15円ぐらいで、 ぶら下がっていたが買手はなかった。純毛のセーター、 背広、 オーバー、 シューバー。昔の持ち主が愛用の品に再会する事もあった。高価な蒔絵の重箱、 食器類が二束三文で並んでいた。
通院組5人は、 新吉林を出るとき、 病院から預った医療品を、 診療所に返さずに売ることにした。注射器等は結構高く売れた。思い掛けない金が入ってきたので、 みんなで腹一杯食おうと言うことになり、 米、 白酒(ぱいちゅう)等を買って帰った。通院して帰って来ると疲れがひどく、 むしろ病気が進行して行くように思われる。階段の昇り下りさえも苦痛に顔を歪めていた。トイレは一階だけ使用する決まりになっていたが、 ふらふらの時に三階から一階まで行けるものではなかった。こんな時は良くしたもので、 三階中央の先に通院組の清水さん、 上鑢君がはいっていて、 その先、9部屋位が空室になっていた。勿論、 畳はなく、 床板は薪代わりに剥がされ、 所々に床板止めの垂木だけになっていたが、 薄暗くなると大小便とも、 その部屋を順番に利用した。
彼等は先日買ってきた米を、 昼頃になって焚くことにした。全員が炭坑に出かけた留守である。杉本、 野中君の部屋で、 煙が窓や廊下に漏れないように慎重に焚き上げた。真白い御飯を飯盒の蓋につぐと、 湯気が顔を柔らかく撫でた。その香りに喉が鳴る。おかずは無かったが、 岩塩をまぶし白酒を少しづつ飲みながら食べた。その美味しかったこと、 世界のどの料理にも勝る思いであった。どうせ我々には、 昼飯はないのだからと、 あまり悪いことをしたと言う意識はなかった。皆に内緒にしていたのだが、 こんな事は得てして洩れるもので、 直ぐにばれてしまった。身を粉にして働いている人の身になって見れば当然であったであろう。
「皆んなの世話になり、 ただ飯食っている癖に、 自分達だけ白米食って、 酒飲んで」
と非難ごうごうで、 張本人の大曲君は、 袋叩きに逢うところを、 明日から炭坑にいって皆と働くと言うことで許して貰った。
炭坑は、 独身寮から線路を越えて2キロの所にある。三箇所に分かれていた。本抗があり周辺に大山坑ともう一箇所採炭坑があった。ソ連軍の管轄で、 中国人が監督者である。今迄とはまるっきり立場が逆になっていた。東西一里、 南北半里、 誠に雄大な真黒い谷間である。一番高い所に捲上げ機があって、 そこから見ると玩具のような電車がいかにも忙しそうに走り回っている。働いている人は、 蟻ほどではないが実に小さく見える、 この真黒い谷は見る人により地獄を思わせた。大きな擂り鉢のような採炭場で、 甲子園に例えたらグランドが露天掘りの底で、 観覧席の一段が巾10メートル、 高さ5〜6メートル位の階段になっており、 その階段が17段あり、 上から7段目位から下は全部石炭であった。その石炭の上にレールが敷かれ、 炭車が走っている。 女、 子供、 病人は別として元気な若者は、 毎日、 毎日がこの蟻となり石炭の積み込みに明け暮れた。銃を持つソ連兵の監視のもとである。
「おい、 俺達は何時になったら帰れるんだろう」
話す言葉も力なく、 帰国という言葉もうつろに響いた。
ダイナマイトをその壁に仕掛ける。 「ダーン」 「バーン」 崩れた石炭をショベルで炭車に積み込む。積込みが終わると、 中央にある捲き上げ機に扉を開けて流し入れるようになっていた。従って各階のレールは時々移動させなければならない。積込みに時間がかかるからだ。 戦時中の最盛期では、 一日1万屯以上も掘り出したようであるが、 その頃は作業している階段も3〜4段になっていて、 底の方はほったらかしになっている。自然発火した石炭が煙をあげていた。炭車は7屯積みで、 ショベルで規定の位置まで積み込み、 あとは人力で集合炭車まで押して移し、 空の炭車を掃除をする。監督の中国人の機嫌次第では水洗までさせられる。その頃は、 鼻の回りと言わず、 顔中真っ黒けとなる。疲れも相当のものだ。終わるとショベルを返して中国人の証明をもらい、 それを集めて代表が賃金を受取って一日が終わる。つらい日中逆転の日々が続いていた。江北病院の看護婦さん達は、 院長の診療に付いていかない日は、 煙草巻と、 その販売で生活の足しにしていた。
その頃、 日本人が街を歩いていると、 拉致(らち)される場合があった。その中には帰って来る者もあれば、 そのまま帰らない者もあった。捕虜の員数合わせのためシベリアあたりに連行された様子である。一日、 一日の不安な状態は、 誰も彼もが、 自分だけが不幸で危険に取り囲まれているとしか思えないような真理状態になっていった。ある日、 疲れた体をいたわりながら寮に帰ると、 清水さんが死んでいた。薬はなく日に日に衰えていった。かねて隠し持っていた青酸カリによる覚悟の死であった。左肘から流れ出た膿汁は煎餅布団を通して根駄板迄腐らしていた。可哀そうに、 地獄の苦しみであったに違いない。その亡骸を毛布にくるんで埋葬した。最初の犠牲者であった。
ソ連兵が引き揚げると、 撫順は中共軍の管轄となったが、 給料をくれないので、 みんなやめてしまった。それからは、 各人がそれぞれ職さがしをせねばならなくなった。それでも食事は高梁飯と塩スープがあったから、 会社から幾分の食費が出ていたのかも知れない。
市内には楽な仕事は無かったので、 背に腹は代えられないと、 農作業の手伝いに行った。だがここでも根をあげた。辛いのは辛かったが、 何よりも豚と野糞とで、 ぬかるんだ環境がたまらなく、 我慢ができなかった。
その頃又、 第二の犠牲者が出た。野中輝之君である。カリエスがいよいよ悪化し、 横腹の化膿は止まらなかった。彼も清水さん同様青酸カリによる覚悟の自殺であった。上鑢、 杉本の両君の落胆は見る人の同情を誘っていた。
しかし、 5月に入ると内地帰還の噂が広がってきた。暗黒に閉ざされていた瞳に光が差し込んでくる。6月には本決まりとなり、 送還業務が始まる、 奉天あたりから逐次開始されたようである。その順番は生活困窮者からと言うことであった。ほんとに帰れるのか。
6月15日遂に汽車の客となる。
但し持てる荷物は制限付きである。その荷物制限とは次のようなものであった。
1、 金銀及びその製品は不可
2、 現金は千円まで
3、 手で握ってのぞく刃物は不可
4、 書いた物は没収
5、 書籍の持ち込み禁止
6、 衣類は身に着けたものの外、 夏、 冬一揃え
7、 その他、 身分不相応のものは不可
この7番は、 誠に彼等にとっては好都合、 引揚者にとっては不都合で、 彼等が身分不相応と思えば、 取り上げる事が出来るのである。この規定により、 日本人はほぼ裸同然にされた。 しかし、 もうそんなことはどうでもよかった。とに角帰れるのだ。
6月15日、 撫順出発、 だがこの時もトラブルが続いた。横の連絡はその場その場でしている様子であった。途中、 錦州に止められ、 無蓋車に乗せられて葫蘆島(ころとう)に着いたのが6月28日、 実に14日間の空費である。そこの広場で最後の所持品検査。検査が終わってやっと海の香りを嗅いだ。この海の向こうは日本なのだ。迎えの船は9千5百2屯、 熊野丸である。この船を見た時の感激は筆舌に尽くせない。
ああ!日本へ帰る。一時の油断も出来ない亡国の民の悲哀を一身に受けて来た満州の生活よ、 さようならだ。
これが、 今まで生きてきた唯一の望みだった。これで日本人だけの国に帰るのだ。
いつしか目に涙が宿っていた。
かくして、 命だけを持って帰って来たのである。いろいろな苦しみがあり、 犠牲者も出たが、 開拓団ほどの死者もなく、 大部分の人が故郷へと散っていった。
一路舞鶴港へ
話を元に戻そう。我々は帰還船高砂丸の船内にいる。夜明けを待ち兼ねて、 甲板に出て見るが、 まだまだ何も見えない。真っ暗らのなかに、 規則正しいエンジンの音のみが、 単調なリズムを刻んでいる。
あの大きかった、 北斗七星は、 今は姿を小さくして見送っている。迎えるのも、 見送るのも北斗七星だった。北斗よ、 さらば。さらばもう一眠り。
次に目覚めたときは、 太陽はもう頭上だった。快晴だ。海の色を、 そのまま上に上げたような空に、 バニラアイス色の雲が軽やかに浮かんでいる。海は穏やかだ。日の光を反射して前方の海面は、 星屑を撒いたように、 キラキラと輝いている。自ら水先案内を買って出る灰色の鴎が、 いとも軽々と海面を掠める。一匹の飛魚がとんだ。小さな水飛沫(しぶき)が上がり又もとの海に消える。時間が経つにつれ日の光が暖かくなり、 捕虜の心を溶かし始める。ベイジュ色のイルカもお供している。緩やかな微風が、 思い出したように頬を掠めて行く。ふとラーゲリで別れてきた友の寂しそうな顔がうかんだ。うまく行けば次のダモイもあるだろうが、 大半は、 あの零下40度と空腹に堪えなければならないのだ。命をもって帰って来いよ。
高砂丸は我々を裏切る事なく、 長い間の夢の実現に協力している。夢は刻一刻と現実のものとなってきた。一路舞鶴港へ。希望と一抹の不安を乗せて……
かすかに見える薄墨の山々、 あれが故国だ! とうとう帰って来たぞ。 快よい風が吹いて、 甘酸っぱい空気を運んでくる。
「おーい、 日本が見えるぞー」
その声にドタドタドタと甲板上は人の山となった。見ている間にますます舞鶴の港は近づいて、 山々は秋の日を浴びて金色に、 暖かく、 温かく輝いている。黄金の国ジパングと言ったのはこのことか。私たちは食い入るようにその姿を眺めている。
「ああ、 日本だ!」
捕虜生活の、 フィニッシュである。開放感に全身の関節が弛んでくる。思えばハードな2年だった。が、 この2年は私には5年にも10年にも感じた。
よくもまー、あの地獄から、 生き延びて来たものだ。万感交々、我ながら自分の体が愛おしくなって来る。唯、 唯、 感謝あるのみ。
その景色を眺めているうちに、 私の胸はキューンとなり、 涙が胸の内側を濡らし始める。 前方のその景色は、 だんだんぼやけてきた。あちこちで、 鳴咽が聞える。隣も泣いている。顔を拭くのも忘れ、 ただ流れるに任している。
見渡せば、 涙、 涙−−涙の顔が並んでいた。
昭和22年、 10月30日の事である。 おわり
おわりに
私は、 この 「北斗七星は大きかった」 を書くにあたり、 色々の資料を開いてみた。読んでいるうちに考えが変わってくる。
今度の大東亜戦争で一番苦しんだのは、 私たちシベリアの捕虜であると思っていた。零下40度の異国の地で、 銃下の労働を強いられたのであるから、 骨身に染みている。しかしこれは男の世界である。
終戦後、 満州に捨てられた女性の事には思いもいたらなかった。誠に汗顔の至りである。
ソ連兵の日本婦人への暴行はすざましいものだった。12〜13歳の少女も70歳近い老婆もその例外ではなかった。白昼でも、 又雪の上でも傍若無人にその暴行はおこなわれた。
10人の内3人は自殺をしたとの証言もある。敦化では23人という、 青酸カリによる集団自殺が行われた。大東亜戦争の一番の犠牲者は在満の婦女子であった。皺(しわ)寄せはいつも一番弱い所にくる。私はいま敬虔(けいけん)な気持ちで彼女達の冥福を祈る。
今まで日本は、 戦争に負けたという経験はなかった。ノモンハンではかなりてひどくやられた様子であったが、 これも握り潰されていた。従って日本人は、 敗戦ということに余りにも無知であった。ヨーロッパでは地続きの為、 あるいは勝ち、 あるいは負ける。こんな経験は何度もしているので、 従ってその心構え、 対策は十分に出来ている。その点日本には敗戦のシナリオを書くライターがいなかったのである。戦局我に利あらずという時には、 婦女子は逸速く安全な場所に移動すべきであった。
大東亜戦争が終わってほぼ半世紀が過ぎようとしているが、 毎年肉親を求める中国残留孤児の痛ましい姿が、 テレビあるいは新聞の紙面を埋める。彼らは、 日本人として生まれ、 中国人として育ち、 周囲からは、 小日本鬼子(しゃおりーべんくいつ)と罵られ、 苛められて育ってきた。完全な中国人にもなり切れず、 なつかしの母国に帰れどそれを裏付ける人々は既に無い。中国人でもなし、 日本人でもない、 中途半端で拠り所はないのである。彼らに何の罪があろう。
彼等も今 「何故」 「なぜだ」 と……。
彼等の魂の叫びが私の心を抉えぐる。 「小日本鬼子(しゃおりーべんくいつ)」 何という痛ましい言葉であろう。
時の政治屋が始めた戦争のつけはいく世代も続くのである。
「戦争」 人類史上において絶え間なく繰り返される戦争。その多くは正義を掲げての戦いである。それが皮肉にも、 人間の持つ理想が原因となる場合が多い。だがその悲惨さと、 悪は、 はっきりしている。戦争は、 政治家が起こす最大の罪悪である。果たしてその果てに幸せが待っているのか。
ここで「収容所群島」の作者、A・ソルジェニーツインの言葉を添えて置こう。
「祝福に値するのは、戦争における勝利ではなく、敗北なのである。勝利は政府にとって必要なものだが、敗北は国民にとって必要なのである。政府は勝利の後に、又、勝利が欲しくなる。敗北の後には自由が欲しくなる。敗北は、国民の内面生活を深めて向上するからである。ボルタワの戦いにおける勝利は、ロシアにとって不幸であった。その勝利は、200年にわたる大きな緊張と破壊と不自由をもたらし、多数の新しい戦争の原因となった。一方、ボルタワにおける敗北は、スウエ−デンにとって救いとなった。戦争をする意欲を失ったスウエ−デン人達は、ヨーロッパで最も繁栄した。最も自由な国となった」と。
私もいま66歳を迎えた。あと10年も立てばもうこの世に存在しないであろう。恐らく戦争の経験者はこの世から消滅し尽くすであろうが、 私たちが辿った道は二度と歩かないで欲しいと思う。繰り返すが、 歳月の流れは早く思い出も薄らいでゆく、 しかし、 今、 満州、 シベリアでの受難の思い出をたぐると、 戦争の恐ろしさが、 まざまざと蘇ってくる。前大戦の物語にはまだヒューマニズムが残っていた。現代戦は、 戦う者も戦わないものも一様にその残酷な渦巻の中に叩き込んでしまう。純真で神のような尊く美しい幼い命さえも、 草を摘むように無造作に踏みにじれるのだ。何としても戦争だけは避けなければならない。日本だけでも戦争に巻き込まれてはならないとの思いが切々である。消え行く者の義務(つとめ)としてここにこの拙文を記す。
最後になったが、 福岡在住の記録作家 友清高志氏の助言に助けられた。心から礼を述べたい。なお、 青木政実氏にも助けられた。感謝。大曲伸次氏手記有り難う。
1991年 (平成3年)12月25日ソ連邦は解体した。ゴルバチョフソ連大統領は公式に辞任を表明し、 新たに12の共和国の独立を認めた。激動の一年であった。ソ連はここに、 共産主義革命以来72年間の幕を閉じたのである。このあと民族紛争が心配だが。
奇しくもその日は、 私の 「北斗七星は大きかった」 の脱稿を見た日であった。
平成3年12月25目 著者
参考資料
楳本捨三著「かくて関東軍潰ゆ」秀英書房
桶谷秀昭著「昭和精神史」文芸春秋
角家文雄著「昭和時代」学陽書房
保坂正康著「瀬島龍三」(参謀の昭和史)文芸春秋
麻田直樹著「大草原の墓標」(大東亜戦史)富士書苑
友清高志著「満州慟哭」講談社
斎藤六郎著「シベリア捕虜志」波書房
若槻泰雄著「戦後引揚げの記録」時事通信社
恩田重宝著「シベリア抑留」 講談社
吉岡幾三著「トンホワの赤い壁」 (大東亜戦史)富士書苑
丸尾俊介著「語りかけるシベリア」三一書房
竹田正直著「酷寒シベリア抑留記」光人社
酒井東吾著「シベリア俘虜記」映史社
中島達二著「満州の思いで」非売品
斎藤邦雄著「シベリア抑留兵よもやま物語」光人社
前のページへ |
最後まで読んで頂き有難うございました。 |