[トップページ] [平成13年一覧][地球史探訪][210.759 大東亜戦争:和平への苦闘][238 ロシア]

-----Japan On the Globe(203)  国際派日本人養成講座----------
          _/_/   
          _/     地球史探訪:終戦後の日ソ激戦
       _/_/
_/ _/_/_/        北海道北部を我が物にしようというスターリン
_/ _/_/         の野望に樺太、千島の日本軍が立ちふさがった。
-----H13.08.19----35,299 Copies----302,006 Homepage View----

■1.北海道北半分をソ連に■

     1946(昭和21)年8月16日、終戦の日の翌日、スターリン
    は米大統領トルーマンに対して、釧路市と留萌市を結ぶ線以北
    の北海道の北半分に対して、ソ連側の占領を認めるよう要求を
    送った。
    
     同年2月11日に、米英ソの指導者が結んだヤルタ協定では、
    樺太の南半分と千島列島がソ連に引き渡されるよう決められて
    いたが、これをさらに北海道北半分にまで拡げよというのがス
    ターリンの新たな要求だった。樺太、千島列島、北海道北半分
    をソ連圏内に収めてしまえば、オホーツク海はソ連の内海とな
    り、太平洋への出口も自由になる。
    
     このスターリンの野望により、終戦後も激しい日ソ間の戦い
    が樺太と千島で展開されることになった。

■2.樺太国境での激戦■

     終戦の日のわずか1週間前のモスクワ時間8月8日午後11
    時、ソ連は佐藤駐ソ大使に対して宣戦布告文を手渡し、その一
    時間後に攻撃を開始した。翌46年4月まで有効であった日本
    との中立条約を一方的に破棄し、さらにソ連に和平仲介を依頼
    していた日本政府に対して、宣戦が布告されたのである。樺太
    でも早速9日朝から、国境線を超えてソ連軍の散発的な砲撃と、
    小部隊の越境偵察が始まった。
    
     樺太はもともと日露混住の地であったが、明治8(1875)年の
    樺太・千島交換条約により、樺太はすべてロシア領、千島列島
    はすべてが日本領となった。明治38(1905)年の日露戦争の勝
    利の結果、北緯50度以南の南樺太が日本に割譲された[a]。
    南樺太の面積は四国の約2倍にあたり、終戦時の人口は季節労
    働者を含めて約40万人であった。
    
     南樺太への本格的な侵攻は10日から始まった。戦車95両、
    航空機100機を持つ第56狙撃軍団が、国境近くの小集落・
    半田を攻撃し始めた。ここでは陸軍2個小隊と国境警察隊の約
    100名の兵力が防戦し、大半が戦死したが、ソ連軍主力を一
    昼夜にわたって食い止めて、ソ連軍には大きな衝撃を、日本全
    軍には異様な感激を与えた。
    
     半田を落とした後、ソ連軍は国境から10キロほどの日本軍
    の主防御地帯への攻撃を開始したが、日本の歩兵第125連隊
    約3千人が森林や山岳を利用した永久陣地にこもって頑強な抵
    抗を示し、ソ連軍に足踏み状態を続けさせた。その間に老幼婦
    女子を列車で南に避難させ、なおかつ主要な鉄橋を次々と爆破
    して、自らの全滅を賭してもソ連軍南下を防ごうとした。
    
     15日正午、ポツダム宣言受諾に伴い、天皇の終戦に関する
    「玉音放送」が行われた。国境沿いで戦闘中のため連絡のとれ
    ない第125連隊にも、18日にようやく戦闘停止の師団命令
    が伝達され、連隊は武器をソ連軍に引き渡した。これまでの戦
    闘による被害は日本側死者568名、ソ連側死者約1千名、戦
    車数十両破壊と推定されている。
    
     日本側は邦人保護のため、ソ連軍に現地で留まるよう要請し
    たが、ソ連側は傲然と拒否して、南下を続けた。
    
■3.8月18日、ソ連軍、占守島強襲上陸■
     
     日本のポツダム宣言受諾が確認された15日、アメリカは即
    座に全軍に戦闘停止命令を発したが、極東ソ連軍総司令官ワシ
    レフスキー元帥は、樺太南西岸の真岡、および、千島列島北部
    の占領を命令した。樺太ではまだ国境を越えたばかりであり、
    千島には足も踏み入れない状態では、停戦後の占領は不確実で
    ある。さらに継戦の必要があった。

     千島列島北端の占守(しむしゅ)島には、第91師団を中心
    に、約2万5千が防備に当たっていた。カムチャッカ半島南端
    とはわずか10キロ余の海峡をはさみ、ソ連極東から太平洋へ
    の出口を扼する戦略拠点であった。

     ソ連軍は上陸用舟艇16隻など、計54隻の艦船、総人員8
    千3百余名で、18日午前2時に占守島北端の国端岬に急襲上
    陸を図った。まだ薄暗く霧深かったが、霧中射撃の訓練も十分
    に積んでいた海岸配備部隊は、即座に敵を発見し、野砲、速射
    砲などで猛烈かつ正確な砲火を浴びせた。
    
     撃破された船艇は確認されただけで13隻以上に達し、3千
    人以上のソ連軍将兵が海中に投げ出され、死傷者が続出した。
    しかしこの混乱の中をソ連軍将兵は泳いで上陸し、反撃を試み
    た。この後、島北端の四峰山を巡って、激しい攻防が繰り返さ
    れた。
    
■4.ソ連の悲しみの日■

     堤第91師団長は、優勢な師団主力を占守島北部に集中して、
    一挙にソ連軍を水際に撃滅するという決心をし、準備を始めた。
    しかし、それを知った方面軍参謀長から、18日16時までに
    戦闘行動停止の命令が来た。日本軍は軍使の長島大尉一行をソ
    連軍に送ったが、射撃されて死傷者続出し、長島大尉も単身敵
    中に潜入して行方が分からなくなった。日本側が反撃行動を停
    止しても、ソ連軍は攻撃を続行してきた。

     19日朝、再度の軍使が送られ、午後正式な停戦交渉が始ま
    った。何度かいざこざがあった後、21日に正式な降伏文書の
    調印が行われた。一日で占守島全島を占領し、急いで千島列島
    を南下しようというソ連軍の計画は、日本軍の抵抗により大き
    く狂ってしまった。

     ソ連側の記録によると、日本軍の死傷者は1,018名、ソ連側
    は1,567名であった。イズヴェスチャ紙は「占守島の戦いは、
    満洲、朝鮮における戦闘よりはるかに損害は甚大であった。8
    月19日はソ連の悲しみの日である」と述べてた。激戦の行わ
    れた四峰山では、戦後、戦没者の記念碑が建てられた。

■5.真岡への侵攻■

     北千島と共にワシレフスキー元帥が占領を命じた真岡は、樺
    太の南西岸にあり、3千トン級の船舶数隻を同時接岸できる港
    をもっているため、ソ連軍は真岡を北海道上陸作戦のための使
    用兵力を大陸から送り込むための中継基地として考えていた。
    
     真岡はもともと人口2万の町であったが、16日夕から本土
    への引き揚げが開始され、19日夕刻までに6千人が出航して
    いたが、乗船を待つ避難民がまだ1万5千〜8千人いた。
    
     真岡への攻撃は20日早朝に始まった。数隻の大型軍艦が町
    中に艦砲射撃を行い、その後、上陸したソ連兵は山へ逃がれる
    人々を背後から機関銃や自動小銃で掃射し、手榴弾を投げつけ
    た。引き揚げ船へ向かう女子供たちの上にも、容赦なく砲弾が
    降り注いだ。厚生省資料ではこの時の民間人犠牲者は約千名と
    している。
    
■6.さようなら、これが最後です。■

     この時の悲話の一つとして伝えられているのが、真岡電話局
    に残って、通信維持の使命に殉じた9人の乙女たちである。9
    人は引き揚げの指示を断って、ソ連軍の砲撃開始後一時間半に
    渡って、市街の惨状を報告し続けた。今も詩吟「氷雪の門」で
    伝えられる最後の放送は次のようであった。
    
         内地の皆さん、稚内電話局のお友だちに申し上げます。
        只今ソ連軍がわが真岡電話局に侵入いたしました。これが
        樺太から日本に送る最後の通話となるでありましょう。私
        たち9人は最後まで、この交換台を守りました。そして間
        もなく、9人そろってあの世に旅立ちます。
        
         ソ連軍が近づいております。足音が近づいております。
        稚内の皆さん、さようなら、これが最後です。内地の皆さ
        ん、さようなら、さようなら、、、
        
     9人の乙女は青酸カリを飲んで自決した。戦後建てられた稚
    内市の「乙女の碑」を昭和43年に訪れられた昭和天皇と香淳
    皇后は深く頭を垂れて、冥福を祈られ、次の御製、お歌を残さ
    れた。
    
        樺太に命をすてしをたやめの心を思えばむねせまりくる
        
        からふとに露と消えたる乙女らの御霊安かれとただいのる
        ぬる
    
■7.真岡近郊での戦闘■
    
     真岡に付近にいた配属部隊は、すでに16日に終戦に関する
    師団命令を受けて、真岡市から東方2キロの荒貝沢に移り、一
    部の兵の召集解除を始めていた所であった。残っていた人数は
    3〜4百名程度と推定される。
    
     ソ連軍の急襲に、仲川大隊長は即座に17名の軍使一行を派
    遣したが、一行は荒貝沢の出口付近でソ連兵に制止せられ、指
    示に従って、武器を地上に置いた所を、突然自動小銃で乱射さ
    れ、ほとんど全員が射殺された。
    
     21日朝から、ソ連軍は荒貝沢に接近して、戦闘が始まった。
    荒貝沢は真岡から樺太最大の町豊原への途上にある。その豊原
    は、樺太南部の交通の要路であり、避難民でごった返していた。
    豊原に向かうソ連兵を一刻でも長く引きつけておくために、日
    本軍将兵等は全滅覚悟で戦かった。
    
     近くからの応援も得て、日本軍は23日2時頃まで抵抗を続
    けた。その間、ソ連軍は航空機による豊原攻撃を行った。豊原
    駅前広場には避難民数千人が集まっており、駅には大白旗を掲
    げ、救急所の天幕には赤十字が明示してあるにもかかわらず、
    爆弾5,6発、焼夷弾約20発の攻撃を受け、駅前の避難民に
    100人以上の死者が出た。
    
■8.スターリン、北海道侵攻を断念■

     トルーマンからは北海道北部のソ連占領を認めないという返
    事が18日に届いたが、スターリンはすぐには応えず、ワシレ
    フスキー元帥は、8月25日までに樺太全島と千島列島の北部
    諸島、9月1日までには千島列島の南部諸島と北海道北半分を
    占領するよう命令を出した。
    
     占守島への強襲上陸が始まったのが18日早暁、真岡侵攻が
    20日早朝と、ソ連軍はトルーマンの回答を無視して、8月2
    8日に予定されていた降伏文書正式調印(実際には9月2日に
    延期された)までに、北海道北部占領を既成事実化してしまう
    事を狙っていた。
    
     22日には、ソ連軍が上陸を予定していた留萌沖で、樺太か
    らの引き揚げ民を満載した日本船3隻を潜水艦で攻撃した。う
    ち2隻は雷撃により沈没。1隻は海軍の特設砲艦で、雷撃によ
    り船尾を破壊されたが、浮上した潜水艦と砲撃を交わして、な
    んとか留萌港にたどり着いた。この攻撃により民間人約170
    0名の死者が出た。
    
     22日になって、ようやくスターリンはトルーマンあてに北
    海道占領を断念する旨の回答を送り、ワシレフスキー元帥は
    「連合国との間に紛争や誤解が生じるのを避けるために、北海
    道方面に一切の艦艇、飛行機を派遣することを絶対的に禁止す
    る」という電報を打った。
    
     22日は、千島列島北端の占守島の日本軍との間で降伏文書
    の調印が行われた翌日で、それ以南の諸島はほとんどが手つか
    ずの状態であり、また樺太では真岡近郊での戦闘の最中であっ
    た。日本軍の頑強な抵抗により、ソ連としては樺太と千島列島
    の占領を優先するためには、もはや北海道をあきらめざるをえ
    ない状況に追い込まれたのである。
    
■9.樺太、千島の占領完了■
    
     24日早朝、アリモフ少将が戦車隊を従えて、豊原に到着し、
    日本軍の施設をすべて接収し、樺太庁の行政も停止させた。こ
    れにて樺太の占領は完了した。
    
     千島列島に関しては、24日以降、順次、日本軍将校を同船
    させて小型艦艇数隻からなる偵察部隊が南下し、各島で日本軍
    の降伏を受け入れながら占領を続けていった。

     択捉、国後については、当初は「アメリカ軍がやってくるは
    ずだから我々は手をつけずにかえるのだ」と言って、上陸しな
    かった。この二島はかつてロシア領になった事はなく、日本固
    有の領土であった。したがって、ヤルタ協定でソ連に「手渡さ
    れる」ことになっていた千島列島にこの2島が入っておらず、
    日本本土の一部として、アメリカ軍の占領地域に入っていたと
    解釈されても不思議はなかった。
    
     しかし、アメリカ軍が来ていないと知ると、ソ連軍は8月2
    8日に択捉島に、9月1日に国後島に上陸した。さらに千島列
    島に含まれず北海道根室半島の延長である歯舞諸島、色丹島に
    も、ソ連軍はそれぞれ9月1日、4日に占領した。歯舞諸島占
    領が行われた9月4日は、降伏文書正式調印の二日後である。
    
■10.終戦後の戦死者と民間人犠牲者■
    
     樺太および、千島の戦いでは、日本軍将兵約3千名、民間人
    約3700名の命が奪われた。このほとんどが8月15日の終
    戦以降のソ連軍侵攻によるものである。さらに捕虜にされた樺
    太約1万8千名、千島約5万名の日本軍将兵は本土に帰ると騙
    されて、シベリアなどに送られた。
    
     スターリンは14日の時点では捕虜のソ連領移送は行わない
    と言っていたのだが、北海道占領を断念したとトルーマンに回
    答した21日の翌日、日本軍捕虜50万人のシベリア移送の極
    秘命令を出している。ロシアの研究者の多くが、これは北海道
    占領断念の代償だったとしている。
    
     もし、樺太、千島での日本軍の頑強な抵抗がなければ、北海
    道北部はソ連に占領されていた可能性がある。そうであれば満
    州や樺太で起きた民間人虐殺が北海道でも繰り返されただろう。
    そして、北海道北部は北朝鮮や東ドイツのように共産主義独裁
    政権が支配していたであろう。樺太と千島の防衛に一命を捧げ
    た日本軍将兵3700人と、その後のシベリア抑留に苦しんだ
    約7万の将兵に心からの追悼と感謝を意を捧げたい。
                                          (文責:伊勢雅臣)
■リンク■
a. JOG(181) 北方領土交渉小史〜スターリンの「負の遺産」

■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
1. 中山隆志、「1945年夏 最後の日ソ戦」★★、国書刊行会、H7
2. 原田実、「風化する北の『ひめゆり』」、正論、H11.9

_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ おたより _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/
■「終戦後の日ソ激戦」について 幸雄さんより

     私の祖父は戦前より樺太で大工をしていたそうです。わたし
    の父も昭和16年に豊原で生まれたそうです。祖父は戦争の激
    化とともに召集をうけ、戦場に赴き、捕虜となって抑留された
    と聞きました。

     昭和22年ころに北海道に戻っていた家族と再会し、10年
    ほど前に他界しましたが、私は高校生になるまでに何度か祖父
    のところに遊びに行き、色々な話を聞かせてもらいましたが、
    ただ、戦地の話と抑留生活の話だけは、聞かせてもらえません
    でした。

     ただ、悲しそうな眼をして黙っていました。その雰囲気だけ
    で、それ以上、尋ねることができませんでした。何故かは良く
    わかりませんが、何か、祖父の声ではない悲痛な叫びが聞こえ
    たような気がしたからかもしれません。

     今となっては、その当時を知る親類もなく、詳しいことは何
    一つわからないのですが、祖父が語ることの無かった話のごく
    一部でも知ることが出来、改めて、祖父に、そしてその当時戦
    った日本軍の将兵の方々に心から感謝したいと思いました。そ
    して私は、祖父のように寡黙で、忍耐強い男にはなれないと思
    いますが、少しでも近づけるよう頑張っていきたいと思いまし
    た。偉大な先人たちの事をもっともっと知ることによってこの
    国は必ず立ち直ることが出来ると確信しています。

■ 編集長・伊勢雅臣より

     このおたよりに次の皇后陛下のお歌を思い出しました。
    
           英国にて元捕虜の激しき抗議を受けし折、かつて「虜
          囚」の身となりしわが国人の上もしきりに思はれて

        語らざる悲しみもてる人あらむ母国は青き梅実る頃

   
============================================================
mag2:28106 pubzine:2354 melma!:1946 kapu:1766 macky!:1127

© 平成13年 [伊勢雅臣]. All rights reserved.