ここから本文エリア 30年の物語 78成田開港から
鉄塔撤去2008年04月01日
新東京国際空港公団の工事局で勤務していた坂場修一(62)は67(昭和42)年当時、空港用地の測量を担当していた。 航空写真を事務所の床一面に広げ、住宅を一軒一軒数えた。予定地にある住宅の特定に、正確さを期したという。 同年10月10日、反対派約千数百人とのにらみ合いが続く中、公団側は予定地の基準杭(くい)を3地点に打ち込んだ。 これで境界線や標高を確定するための作業が本格的に始まったが、反対派の農民が住む予定地に入るのは、「容易なことではなかった」。 似たような地形が折り重なる印旛沼周辺で迷子にならないよう、地図と方位磁石を使って作業地点にたどり着く訓練もした。 その後、72年に完成したA滑走路建設に携わった。砕石や山砂、アスファルトなど、関東一円から資材が集まった。旧国鉄・成田駅から建設現場近くまで専用貨物列車が走り、1日約6千台のトラックが往復した。「国家的大事業に参加している充実感があった」と坂場は振り返る。 ■ ■ だが、反対派が滑走路の南側に建てた、高さ62メートルの鉄塔が、工事を進めるための「障害」になっていた。 「撤去しない限り開港はできない。仲間と、塔の話をするたびに暗い気持ちになった」 撤去するため、工事用道路を鉄塔まで延伸する必要があった。道路の延伸に向け、用地内にある農道や水路の接収許可を県に求めたが、反対派からの報復をおそれる県は許可を出さなかった。 状況打開のため、坂場は、上司から地元農民との協議を促され、罵声(ば・せい)を浴びせられながら、鉄塔近くの農家に通った。農家と親しくなると、反対同盟行動隊長の内田寛一(86)に接触を試みた。 内田宅の離れには、支援学生が暮らす「団結小屋」がある。「公団職員と会ったことが学生たちにばれると、内田に迷惑がかかる」と考え、坂場と上司は、学生が離れに戻る午後8時ごろをねらって、内田宅を訪ねた。 「国のやり方は間違っている」。内田は、土地を奪われる農民の悲しみや怒り、強制代執行の不当性を訴えた。だが、内田は農道のう回路建設を条件に、坂場らの要請を受け入れた。 坂場は内田の話を聞きながら、「高額の買い取りなのに、なぜ農民が土地を手放さずに反対し続けるのか。少し理由がわかった気がした」。 その後、警察官らは流血の事態を避けるため、速やかに鉄塔を撤去する訓練を、極秘に実施した。77年5月6日、鉄塔は撤去された。その日に撤去することは、一部の幹部にしか知らされなかった。 ■ ■ 64年に運輸省に入省した黒野匡彦(現・成田国際空港株式会社=NAA=特別顧問)は71年の強制代執行当時、地方に出向していた。 「当時は、成田闘争にはまったく共感を感じなかった」という。 公団総裁やNAA社長だったころ、用地内の農民と話し合おうと、何度も現地を訪れて説得を試みた。その時、農民からじかに闘争にまつわる話を聞いた。 「国や公団は当時、農民と土地が密接不可分だったことを、十分認識していなかったのではないか」。黒野は、農民の話に耳を傾けながら、そんな思いを抱いた。 ■ ■ (開港前夜編はこれで終わります。大和田武士、鹿野幹男が担当しました)
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