歴代の元厚生次官を狙った事件が、意外な展開を見せた。「次官を殺した」という男が警視庁に出頭し、銃刀法違反容疑で逮捕されたからだ。男は血が付いたナイフやスニーカーなどを持参しており、さいたま市と東京都中野区で3人が殺傷された事件への関与をほのめかしているという。
捜査当局は連続殺傷の容疑者との見方を強め、裏付けを急いでいるが、ふに落ちない点もある。極刑も予想される重大事件を犯したという割に、男が妙に落ち着いて、悪びれた様子を見せていないのも不気味だ。幼いころにペットの犬を保健所に処分されたことに腹が立った、と供述したと伝えられるが、元次官や妻を襲う動機としてにわかに信じられるものではない。男が出頭したことで、謎に包まれた事件が、ますます不可解さを増したようにさえ映る。
言うまでもないが、男のナイフが凶器として使われたものか、男自身が実際に2件の犯行に及んだのか、といった点を物証をもとに確認することが先決となる。その上で捜査当局は犯行の真の動機、共犯者の有無、背後の事情を徹底的に解明しなければならない。
男がこの段階で、あえて警察のシンボルとされる警視庁本庁舎を選び、証拠の品々を手に名乗り出た理由についても、納得のいく説明がほしい。自己顕示欲やゆがんだヒロイズムに駆られる犯罪者は少なくないが、暴力団の対立抗争事件などで因果を含められた組員が自首するのにも似て、ひょうそくが合いすぎている印象も残る。事件後、「第3の犯行」や捜査の難航を懸念する声も聞かれていただけに、今後の捜査で疑問や不審を一掃しない限り、関係者は安心できまい。
それにしても、厳罰に処せられることを承知で、大罪を犯そうとする者がいる現実に、りつ然とせざるを得ない。警察は容疑者の出頭で一息ついた様子だが、独自の捜査で男を割り出すことができたか、犯行を未然防止する手だてはなかったのか、といったことも検証されねばならない。
最近、各地で爆弾事件が発生するなど治安情勢には不穏な側面も見受けられる。欲求不満やストレスによるとみられる突発的な暴力事件も目立ち出している折だけに、警察は不審者対策を強化する必要もある。
注視すべきは、事の当否はともかく、事件発生後、多くの市民が連続テロの可能性を感じ取ったり、テロが起きても不思議ではないと考えている様子が明らかになったことだろう。年金をめぐる混乱がいっこうに収拾されないだけでなく、いわゆる格差社会の深刻化、雇用情勢の悪化などを背景に、人々のいら立ちや社会不安が広がっている証左ではないか。
政治や行政の責任問題を抜きにして、今回の事件については語れない。
毎日新聞 2008年11月24日 東京朝刊