「元事務次官を殺した」と小泉毅容疑者(46)が警視庁に出頭した5時間ほど前の22日午後4時半ごろ、山口県柳井市の実家に電話があった。
「おやじ、おれ」
「毅か。元気にやっちょるか」
「手紙を送った。明日の正午ごろ着くはずだから読んでくれ」
「よし、分かった」
それだけの会話だったが、10年も音信が途絶えていた長男の声を久しぶりに聞き、父(77)はうれしくなった。「嫁でもつかまえたか。やったな」。手紙を待ち遠しく思いながら床に就いた。
しかし、ほどなくテレビを見ていた妻に起こされる。元厚生事務次官宅連続襲撃事件の急展開を知らせるニュース番組で、長男の名前が繰り返し読まれていた。「まさか」と思いつつ、長男宅に電話した。「お客様の都合でおつなぎできません」と自動音声が流れるだけだった。
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小泉容疑者は1962年1月、柳井市で駄菓子屋を営む両親の間に生まれた。三つ下の妹と4人家族。父には幼いころ手がかかった記憶はない。地元の高校に進み、佐賀大理工学部電子工学科に現役で合格した。
しかし、入学後、歯車が狂い始める。留年を重ねた末に退学。大学に呼び出された時、父は息子を責めなかった。「アルバイトに精を出し過ぎたのか」と思い、「人生は長いからしっかりやれ」とだけ伝えた。
上京した小泉容疑者は、コンピューターソフトの開発会社に入社する。父は「前途洋々だ」と喜んだが、2、3年で退社。その後は別のソフト会社を転々とし、横浜で宅配便のアルバイトをしたこともあった。このころから実家との連絡は間遠になっていく。
駄菓子屋をたたみ、食品の卸売業を細々と営んでいた父は、広島市の食品卸会社での仕事を勧め、小泉容疑者も従った。1年後の電話では「おやじの後を継ぐため、今は小郡町(現山口市)で修業している」と言った。
3年ほどたった98年夏ごろ、実家に顔を出した小泉容疑者は「埼玉に行く」と告げた。インターネットでコンピューター関連の仕事を見つけたと言った。父の商売の売り上げは年間二、三千万円、利益は15%程度。「おれが継いでも共倒れになる」。淡々と話した小泉容疑者は30分ほどで出て行ったという。
それから10年。両親は息子の声を聞けなかった。電話はいつも留守番設定されていた。「元気にやっちょるか」と伝言を残し、地元の大島みかんを送ってやるとメッセージを吹き込んだこともある。母は何度か手紙も書いた。だが、一度も返事はなかった。
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<今回の決起は年金テロではない! 34年前、保健所に家族を殺された仇(あだ)討ちである! (略)最初から逃げる気は無いので今から自首する>
22日夜、テレビ局のホームページに小泉容疑者の書き込みがあった。2時間後、小泉容疑者は警視庁に出頭。「ペットを保健所に処分されたから」。動機についてそう供述した。
父が覚えているのは、自宅で飼った「シロ」のことだ。小泉容疑者が拾ってきて小学2、3年まで育てた白い雑種犬。寿命で死んだ時、泣く息子を慰め「運命なんじゃから」と一緒に木を1本植え、墓を作った。
もう1匹。「保健所」について尋ねる記者に、父は記憶の糸を手繰った。「小学生のころだったか、野良犬を餌付けしてかわいがっていた。人に激しくほえるので保健所に電話して連れていってもらった」。そして戸惑うように聞き返した。「息子はそんなことを覚えているんですか」
父にあてた息子の手紙は23日夜、届いた。父は記者に「中身は言えない」と言った。【三木陽介、内田久光】
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元厚生事務次官宅を襲ったと供述している小泉容疑者とは、どんな男なのか。46年の軌跡をたどる。
小泉容疑者の父親は23日、山口県柳井市の自宅で、報道陣に対し「これほど悪いやつがおるんか、という気持ち。ショックでいても立ってもいられなくなった。裁判を受ける前に自分で腹を切れ、と言いたい。我が身をささげたい気持ちです」と話した。
父親や同級生によると、小泉容疑者は遠足のおやつに好きだったソフトキャンディーの「ミルキー」を持参し、うれしそうに食べていた。
同級生らから「ミルキー」の愛称で親しまれていたという。【内田久光、鈴木美穂】
元厚生事務次官宅連続襲撃事件で、さいたま市の自宅で殺害された山口剛彦さん(66)、美知子さん(61)夫妻の葬儀が23日、同市内の斎場で営まれ、親族や親しい知人が別れを惜しんだ。
密葬の形式で営まれ、親族や江利川毅・厚生労働事務次官、山口さんの後任の次官だった羽毛田信吾・宮内庁長官ら参列者約40人が見守るなか、花で飾られた遺影とともに出棺。位牌(いはい)を胸に抱いた長男(36)は、涙をこらえるように青空を見上げていた。
葬儀後、長男は「犯人であると出頭してきた男が逮捕されたと聞き、少し安心致しましたが、両親が帰ってくることはなく、私たち遺族の悲しみや心労が癒えることはありません。今後の捜査を見守りたいと思っております」とのコメントを出した。また、江利川次官は「最後のお別れをし、深い悲しみと強い憤りを感じています。一刻も早く事件の全容が解明されることを願っています」とコメントした。【岸本悠】
硬骨漢と慕われ続けた元次官は、なぜ凶刃に倒れなければならなかったのか。
65年に旧厚生省に入省した山口さんは、81年から年金課長を4年間務め、国民共通の基礎年金制度の骨格作りに奔走した。未明までの仕事が続く中、当時部下だった同省幹部は「自分も疲れているのに、新婚まもない自分を気遣い続けてくれた」と振り返る。
国会の大蔵委員会で山口さんが説明に立ち続けた84年ごろ。山口さんは、当時大蔵大臣だった竹下登元首相から渡された1枚の紙片を懐にしのばせていた。
《自分は社会で懸命に働く年齢になった。故郷の母親は年金で静かに暮らしている》。そんな内容で、山口さんはその後も紙片を持ち続けた。
「何があってもぶれない。骨太で仕事に誠実な人だった」。幹部はそう振り返った。【野倉恵】
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■識者に聞く
07年に長崎市長が暴力団幹部に射殺された事件の時もそうだったが、こうした事件が起きる度にコメントを求められ、戸惑っている。もっともらしい説明はそもそも無理だし、事件から学ぶべき教訓も見つけられず、「また起きるのでは」との不安が残り続けるからだ。
私は長崎市長として「天皇の戦争責任はあると思う」と発言し、90年に右翼団体幹部の男に撃たれて重傷を負った。今回は動機や背景が分からないが、本人だけでなく家族まで標的にする乱暴で卑劣な事件だ。私も自分が狙われるのはある程度納得できたが、家族も狙われていたら、とても信念を貫けなかった。
二つの社会の変化が気になっている。一つ目は衝撃的な事件が続き、反応が鈍くなっているということ。二つ目に話し合いを大切にし、暴力を否定する社会の力が弱くなっていることだ。
変化は01年の米同時多発テロ以降、顕著になっているのではないか。いかなる理由があろうとも暴力は許されない。市民も政治家も行政も、毅然(きぜん)として対決する心構えが大事なのに、そうした機運が盛り上がってこないことに不安を感じる。(もとしま・ひとし)
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■小泉毅容疑者の経歴
(1)80年3月まで 山口県立柳井高校卒
(2)80年春~ 佐賀大学に進学、退学
(3)80年代半ば 東京近辺、コンピューター関連会社や宅配便業者で働く
(4)93年ごろ 広島市の食品卸会社に就職
(5)95年3月 山口県小郡町(現山口市)の食品卸会社の営業所へ
(6)98年8月 大宮市(現さいたま市北区)、実家との音信が途絶える
毎日新聞 2008年11月24日 東京朝刊