Print this Post Article Lists Back

乱中日記:「李舜臣の人間性が現れた資料」(上)

 「あまりに個人的で、敏感な記録…驚いた」

 今回新たに明らかになった『乱中日記』32日分の内容は、これまで伝えられていた草稿本や木版本(『李忠武公全書』)には全く見られなかった新しい事実を含んでいる。忠武公・李舜臣(イ・スンシン)自身の率直な思いをありのまま記したこの内容がこれまで知られていなかったことについて、順天郷大のノ・スンソク教授は、「忠武公の死後、編纂者が“あまりに個人的で敏感な記録”のため後世に伝えるには不適切だと感じ、意図的に削除したためだと考えられる」と語った。

◆なぜ既存の『乱中日記』では見られなかったのか

 国宝第76号『乱中日記』は、李舜臣将軍の親筆草稿本だ。壬辰年(1592)から戊戌年(1598)まで7年間の日記が編まれているが、唯一乙未年(1595)の日記の草稿本だけは伝わっていない。現在、『乱中日記』で見ることができる乙未年の日記は、1795年(正祖19年)に王命によって刊行された木版本『李忠武公全書』に収録されたものだ。しかしこの書物は、書き写す過程で文の内容がかなり欠落あるいは修正された。

 今回発見された資料を収録している顕忠祠所蔵の『忠武公遺事』は、『李忠武公全書』より100年ほど早い17世紀末の記録だ。このため、『忠武公遺事』6部目に当たる『日記抄』には、元来『乱中日記』草稿本に載っていながら後日『李忠武公全書』編纂時に欠落した乙未日記の内容が記録されている可能性があるというわけだ。新たに発掘された日記32日分のうち、29日分が乙未年の内容である理由がここにある。残る3日分は、現存する草稿本からも抜け落ちた部分だ。

 『忠武公遺事』は、『乱中日記』草稿本と共に李舜臣の一族である徳水李氏の宗家に代々伝えられてきたもので、別冊付録のような存在だった。現在、顕忠祠遺物館に所蔵されている。しかし、その価値が注目されることはなく、書物の先頭にある「再造藩邦志抄」という文のタイトルが、書物全体の表題であるかのように誤解されていた。2000年、朴恵一(パク・ヘイル)元ソウル大教授(原子核工学)らが『忠武公遺事』のうち『日記抄』の原文と内容を一部紹介し、「『乱中日記』から抜け落ちた部分を補完し得る」と評価したが、内容の全てを明らかにしたものではなかった。

『乱中日記』の新たな内容が含まれている『忠武公遺事』(再造藩邦志抄)の『日記抄』部分。/写真=兪碩在(ユ・ソクジェ)記者

兪碩在(ユ・ソクジェ)記者

朝鮮日報/朝鮮日報日本語版

このページのトップに戻る