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開港以後のソウル、その商売風景とは(下)

 江華島条約(1876年)による開港は、鍾路の六矣廛(御用商人)に代表される京城の商界を脱皮させる契機となった。六矣廛は国役を負担する代わりに国家から独占的産業活動を保障され、ヤクザと結託して利権を守っていた。しかし、開港と共にマッチ・苛性ソーダ・和釘・石油といった文明開化の品や商人たちに押され、次第にその地位を失っていった。

 鷺梁津(ソウル)と済物浦(仁川)を結ぶ電車(当時の電車は「縮地法を用いる鉄の車」「黒い怪物」と呼ばれた)の往来は、商売の変化を加速した。「祖先の墓地を揺るがし、一族を滅亡に導く」として反対した人々も、この新奇な「鉄馬」に乗ろうと集まった。西大門‐東大門の片道が5銭(6000ウォン=約595円)で、一度乗っただけでは「元手を取っていない」と言い、終点でも下車を拒否する始末。電車に乗ろうと田畑の一部を売って漢城までやって来た家族の場合、色好みの放蕩息子が妓生(キーセン=芸妓)の置き屋で遊ぶ代わりに一日中電車に乗る、ということもあった。電車(に乗ること)もまた、両班と常民の差別で押さえ込まれてきた一般民衆の心のしこりを解してくれた。

 韓国と日本の商人による商権争いには、民族的自尊心も加わった。和信百貨店と三越百貨店(現在の新世界百貨店の位置にあった)との間の競争は日帝時代、清渓川以北の鍾路を中心とした「北村」の韓国人と珍古介(忠武路・乙支路一帯)を中心とする「南村」の日本人の競争が背景になっていた。1905年に日本が断行した奇襲的な貨幣改革は伝統商人の息の根を止め、六矣廛を補完した仲買人たちが上客と取引した後に銅銭を数える音も、次第に消えていった。

パク・ヨンソク記者

朝鮮日報/朝鮮日報日本語版

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