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開港以後のソウル、その商売風景とは(中)

1930年代初めごろの忠武路の入り口。日本語の看板や丸い帽子をかぶった通行人の姿が見える。/資料写真=朝鮮日報DB

 1927年に人口30万を数えた京城で、質屋を営む者の数は1406人(日本人606を含む)にも達し、28年暮れに本紙に掲載された漫文漫画は、高利貸しの横暴を「吸血魔」「銭食動物」と表現した。両班とは食べ物に事欠いてもひもじくない振りをし、心配事があっても悩んでいない振りをするものだったが、そんな彼らの中にも体面を捨て商売を始める者がいた。慶尚道観察使(道知事)を務めた王族のイ・ジェヒョンが代表的だ。家の一部を取り壊して飴・砂糖・染料・針・米を売る雑貨店を起こし、日本人が経営する商店が透明なショーウィンドーで収入を上げるや、13年にガラス工場を経営する実業家に転進した。時代の流れを見抜いたこの先駆的企業家は、翌年に第1次世界大戦が起こるとインフレーションを予見し米を買いだめするが、その年は豊作で、逆に潰れかかった。

 1910年前後には、「鉄のロバ」と呼ばれる自動車が朝鮮に入って来た。「乗ってみたいが死にたくはない」という思い込みが広まったのは、「乗り込んだら死ぬ」という噂のせいだった。タクシーは28年当時、4人乗り基準で1ウォン(現在のレートで12万ウォン=約1万1900円。以下同じ)。車1台で市内を回るのに3ウォン(36万ウォン=約3万5700円)かかったため、タクシー観光は一定階層以上の人たちだけの贅沢だった。

 ロト(宝くじ)のように金を掴むことも、自動車のお陰で可能だった。タクシーを走らせていたチョン某氏は、寒い日にブツブツ不平を言いながら穴の開いたタイヤを取り替えていたが、偶然見つけた金鉱を即座に67万ウォン(836億ウォン=約83億円)で売り、満州の新京に出向いて土地を買い、資産総額300万ウォン(同3600億ウォン=約357億円)の不動産王となった、と雑誌『三千里』は報じている。

パク・ヨンソク記者

朝鮮日報/朝鮮日報日本語版

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