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朝鮮通信使が受けたカルチャーショック

【新刊】申維翰(シン・ユハン)著/カン・ヘソン訳『朝鮮学者の日本見聞録』(イマーゴ)

 水路5210里、陸路1350里、所要時間261日、朝鮮人475人と随行日本人1000人余り…。釜山から出発し、対馬・大阪・京都・名古屋を経て江戸まで…日本に向かう朝鮮通信使の人数と旅程だ。壬辰倭乱(文禄・慶長の役)の前まで8回、交流が一時中断した後、1607年の「丁未通信使」を皮切りに19世紀までに再び12回、日本に朝鮮通信使が派遣された。

 非嫡出子として生まれ、25歳のとき国家試験「国子監試」に合格、朝鮮時代の最高学府「成均館」に入った申維翰(シン・ユハン)も、1719年の「己亥使臣行次」(再開後第9回朝鮮通信使)で文官「製述官」に抜てきされ、日本を訪れた。これはその記録をつづった本で、言わば「外交公式使節の日本旅行記」だ。

 朝鮮時代後期の知識人が見た日本には、2つの側面があった。戦乱の傷跡がまだ癒えていない時期、再び膨張する軍事力と経済力を警戒する一方、文化的には依然として「野蛮」と見なす考え方がぶつかり合う。「こんなすばらしい景色が何の間違いか蛮族の地にあるとは」という嘆きがその代表例だ。対馬藩主に頭を下げあいさつするのを拒否し、相手が注意しても「日本」ではなく「倭」(中国などから見た日本の呼称)と呼ぶことに固執する。

 だが、この本は当時の朝鮮人の目に映った日本風俗史でもある。日本の性風俗について詳細な記録を残しており、「男娼」文化にも言及している。著者が「世の国々はどこでもみだらで惑わされるものを警戒するが、“陽”だけあり“陰”がないのに互いに感じ合い、喜び合うことができるというのですか」と尋ねると、相手は「学士(文官、申維翰のこと)はあの楽しさが分からないようですな」と答えたと書いてある。

 著者は「かの国の風俗に惑いされるのは分かる」と舌打ちしているものの、詳細な問答を記録しているのを見ると、とてつもないカルチャーショックを受けていたことが分かる。天皇と将軍が権力を分担する日本の政治体制を珍しがるのは当然だが、臣下である関白について「偉人は鋭く、秀逸で、明晰(めいせき)だった。“武”を好む一方で“文”を嫌い、質素さを尊び、ぜいたくを排除した」と客観的に記述している。訳者は「近代以前の日本紀行文の代表作で、朴趾源(パク・チウォン)の『熱河日記』と共に朝鮮紀行文学の双へきを成すに値する」と評価している。

キム・ソンヒョン記者

朝鮮日報/朝鮮日報日本語版

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