Print this Post Article Lists Back

朝鮮総督府による言論弾圧の実態とは(下)

 総督府は、両紙を廃刊しなければならい第一の理由として、「反日民族意識が起こらないようにしなければならない」という点を挙げた。総督府が廃刊計画を作る前の1938年、「朝鮮日報」は7万部、「東亜日報」は5万5000部を発行していた。

 総督府は、両紙廃刊のため5つのシナリオを作成し、それぞれの長所・短所を分析していた。例えば、両紙を統合・整理する場合。日帝は、「2つの民間紙が総督府の機関紙たる『毎日申報』に買収されるという悪感情を呼び起こす恐れ」を問題点として挙げた。また、「朝鮮日報」は平壌に、「東亜日報」は大田に移転させ、地方紙にしてしまう案も検討されたが、地方に分散させると両紙に対する統制が困難になる、という問題点が浮き彫りになった。

 鄭教授は「総督府の『諺文新聞統制案』は、総督府が『朝鮮日報』と『東亜日報』の廃刊を画策した内幕を見せてくれる重要な資料だ」と語った。強制廃刊ではなく、「合意廃刊」だったと主張する一部メディアの主張は、根拠のないものだ。結局1940年8月10日、総督府の強要により「朝鮮日報」と「東亜日報」は廃刊となった。

 鄭教授は、日帝が作成した資料の解析と関連し、注意点についても指摘した。「(検閲)機構はメディアを徹底して統制するために存在した。そうすることで、自分たちの統制と指導でメディアが変わったということを見せなければならなかった。抗日的だったメディアの論調が顕著に変わったり、180度転換したという表現には、(検閲機構の)業務上の業績を誇示しようという意図が隠れていることを念頭に置いて(秘密資料を)読み解かなければならない」

廉康洙(ヨム・ガンス)記者

朝鮮日報/朝鮮日報日本語版

このページのトップに戻る