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朝鮮総督府による言論弾圧の実態とは(中)

 1920年3月5日に創刊された「朝鮮日報」は同年8月27日、日帝から最初の発刊停止命令を受けた。この日の社説「自然の化」が問題視されたのだ。この社説は当時、米国の国会議員視察団の一行が朝鮮を訪問することになったのを契機に発生したソウルと平壌の万歳運動を日帝が暴圧的に鎮圧したことを批判したものだった。1940年に強制廃刊されるまで、延々と続く抵抗の始まりだった。

 「朝鮮日報」と「東亜日報」は1940年8月に廃刊されるまで、両紙ともそれぞれ4度にわたり発刊停止処分を受けている。廃刊直前まで、両紙は毎年少なくとも6000部、多ければ56万部もの押収を受けた。押収件数は「朝鮮日報」が廃刊時までに481件、「東亜日報」が436件だった。

 日帝の植民地経営に執拗に抵抗する民族紙を統制・弾圧するために、日帝は高等警察課・図書課・情報課から成る検閲機構に警務局のエリート官僚を派遣した。鄭教授は、「担当課長の大部分は日本で最高の名門・東京帝国大学出身で、在学中に高等文官試験に合格した秀才だった」と検閲官たちの経歴を細かく整理した。

 エリートらで構成された検閲機構は、どのようにメディアを検閲したのだろうか。鄭教授は、ある日本人が書いた文章を通じて当時の風景を伝えている。「夕刊が出るくらいの時分に、警務局図書課へ入ってみよ。そのころになると、検閲係の机の上には100燭光の電球が輝いている。(中略)一字一句たりとも見逃さず、検閲者の目が光る。(中略)急に電話を手に取り、京畿道警察部に『○○新聞の第○○○○号第○面○○○という題の記事は、治安妨害で差し押さえが決定されたため、措置をお願いする』と告げた」

 徹底した統制と弾圧策にも関わらず、「朝鮮日報」と「東亜日報」の存在は日帝の植民地経営にとって大きな負担だった。総督府は両紙を廃刊するため、図書課で作成した秘密資料の中で最終決定版というべき「諺文新聞統制案」を作った。

廉康洙(ヨム・ガンス)記者

朝鮮日報/朝鮮日報日本語版

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