小宮神社とその周辺の歴史をひもとく

一、武蔵西党と小宮氏

武蔵には武蔵七党といって、西、横山、村山、猪俣、野与、児玉、丹の七党といわれている。日奉氏は武蔵七党、西党の首領で、日奉宗頼を祖とし、平安朝の中頃、武蔵の国司として下向し、任期が来ても帰京せず日野郷に土着し、西党の本拠とした。由井の牧、小川の牧などを支配し、その氏族は多摩川、秋川沿いに広がり、なお相模の都築、橘樹郡に及んだ。源頼朝が鎌倉幕府を開くにあたり、挙げて頼朝の軍に従って功名をあげた。そして次第に繁栄をかさねその氏族二十数家を数え、各地にそれぞれ拠点を定めてその地名を名乗った。本市の小川、二宮氏がそれである。 その中に、小宮神社を建立したと伝えられる平山右衛門季重は、宇治川・一の谷の戦いで活躍したといわれている。
小宮氏も日奉一族で小川氏から分かれたようである。小宮は二宮社に対応する名と思われる。七党に数えられる武蔵武士は、いずれも地方行政にかかわるようになって勢力を増していったのである。一村を有した武士でも、彼は村の行政官である。そして武士が警備面より次第に軍事面に重きをおくようになり、本市に基盤を置く小川、二宮、小宮氏は、冶承、寿永の内乱以前は諸記録にはその名は見えないが、それ以降の文献には散見されるようになる。戦闘に参加することは、自家を栄えさすか又は滅亡に導くかいずれかであるが、小川、二宮、小宮氏のような小規模な武士も武蔵国のおくにひっそりと領地を守っているだけではすませぬ時代がやってきたのである。

源実朝が承久元年(一二一九)に公暁に殺害される事件がおきた。執権北条義時は、次期将軍推挙に苦慮した。公家方は、こうした幕府側の動揺を見て、承久三年後鳥羽上皇はついに倒幕の軍をおこした。承久の変である。
この合戦は、幕府軍の圧倒的な勝利のもとに終結した。西党の小川、小宮氏は、幕府軍として出陣し、小川氏は、宇治川の合戦で戦功があり、薩摩甑島および肥後国益城郡内に七十町歩の領地を与えられ、その子小太郎季直が、新補地頭として下向した。

 小宮氏も承久の変後伊予弓削島の地頭職を得ているので、承久の変に参加し戦功があったものと考えられる。また南北朝初期に肥前国内の地頭小宮三郎通広も日奉姓を称しているので、西党の小宮氏と推定される。

小川氏から分かれた小宮の祖重行は、現在、草花に小宮の地があるので草花地区を本拠とし、主に平井川流域を開発した在地領主であったと考える。
承久の変で戦功を挙げたのは重行の子久行であろう。久行の後は弓削島荘の支配に失敗するが、本貫地草花にいた嫡流は、平井川上流地までその支配権をのばし、室町末期には秋川流域までその勢力を進展させていった。このことは関係史料でいくつか見出すことができる。

五日市横沢の大悲願寺は金色山吉祥院と号し、天正一八年(一五九〇)
上杉景勝等連署禁制に「武州多西郡小宮谷・吉祥院」とある。同寺古鐘銘写に
寛正二年(一四六一)「檀那小宮中務沙弥憲行」とある。
彼は同寺過去帳に日奉姓を称しているので、明らかに西党の小宮氏である。

また草花北小宮の小宮神社にある寛正四年(一四六三)銘の銅鐘は
武州多西郡小宮郷大明神に大檀越「上野介憲明」が納めたものである。
この憲明が小宮氏と推定されている。

二、小宮神社と小宮郷

小宮神社由来について、小宮神社参拝のしおりより、そのまま引用すると
氏神さまの小宮神社は、鎌倉時代の承元元年(一二〇七)、武蔵西党の平山右衛門尉季重によって建立されたと伝えられ、小宮郷の小宮大明神と称されて、広く人々の信仰をあつめていました。 室町時代には、この地方の豪族であった小宮上野介憲明が当社を祈願所として、社殿を再建し、寛正四年(一四六三)に梵鐘一口を奉納しました。この梵鐘は西多摩地区では最も古く、東京都全域では三番目に古いもので、昭和二十四年五月二十八日、文部省より国の重要美術品に認定されて、現在も当社で大切に保存しています、 室町時代後期より戦国にかけては、この地方に勢力を伸ばした大石氏や後北条氏など、豪族たちの祈願所となりました。

江戸時代に入ってからも、当社は多摩郡小宮領八千石の総鎮守として、人々の信仰が厚く、徳川幕府からは社領として御朱印七石を下賜されました。
このように長い時代にわたって、奉護されてきました当社は、明治二年、社号改称の令により社号を「小宮大明神」から「小宮神社」に改め、今日に至っています。 御祭神は伊邪那岐命 とあります。

前述の梵鐘について、次のような銘文が刻まれている。

武州多西郡小宮郷 大明神御寶前 奉鋳鐘一口 銘曰大器雖晩 早成刻銘 
.
蒲牢忽吼 鳥獣彰形 警夕應律 鳴霜入聴 音含ニ徳四海安寧

寛正四年癸未林鐘日 清 之銘 大檀越上野介憲明 願主別当秀全 
.
大工小河郷重能

この梵鐘に多西郡小宮郷とあることから、十五世紀中ごろには、小宮郷をとなえていたことがわかる。

律令制の郡郷制下においては、小川郷であったと思われるが、中世に入って、世を経るごとに、小川郷が細分化されて、いくつかの郷名を生じたと考えられる。だいたい秋川流域は秋留郷、平井川流域は小宮郷、平井郷などに分かれたようである。

草花から平井川を越えた対岸を「原小宮」とよんでいるし、草花と菅生の境には「小宮久保」と呼ばれる地名から考えると、小宮神社を中心とした地域が小宮郷の中心で、小宮といわれた時代があったのではないだろうか。
江戸時代になると、この地域を中心に小宮領という呼び方があらわれる。塩野家文書の慶長三年
(一五九八)の『検地帳』には『武州多西郡小宮領草花郷』とある。江戸初期にはすでに小宮領は使われていたようである。そして元禄期をすぎるころから「武蔵国多摩郡上草花村」となった。

.三、地名について

小宮という地名は、小宮氏が居住したから小宮と呼んだのか、小宮という地に本拠を構えて小宮氏を名乗かであるが、小川郷に住んでいた小川氏と、草花付近に住んだ小宮氏は、同じ西党の同属関係にあった。そして小川郷の人々が鎮守と祀る神社が、小川明神であって、この神社は武蔵総社が誕生したに時に二宮に列せられるような大社であった。それ故、この社を大宮とよばれ、草花に分かれ住む同族の人々の祀る神社は、小宮とよばれたのではないだろうか。こう考えると小宮氏は小宮という土地の名前をとって名字とし、平安末期には有力な武士団として成長してきたと思われる。

ここで小宮神社周辺の地名について紹介しておく。
草花上下のうち上草花は西にあります。下草花に接するあたり、現在の南小宮、北小宮の地を門前といいます。大行寺の門前だからです。また南小宮、北小宮はいうまでもなく小宮神社の南と北ということを意味しています。また、原小宮の東の方は下モ小宮という小字名になっています。

小宮の西に羽ケ田があります。羽ケ田はハケとタであって、羽ケの田である。つまり「ハケにある田」とういことである。ハケは東日本に散見される地名で、丘の端の部分を意味している。 羽ケ田の西南に上御堂、下御堂という小字があって御堂と総称します。 この地は古く延文の頃(一三五八)堂があったと伝えられています。

羽ケ田と小宮久保の間の低地に小宮谷とよんでいるところがあります。地番では二七八八番地の南のあたりで、土塁らしきものが近年まであったという。ここが小宮氏の館跡ではないかという伝承がある。

小宮久保は草花の西端で、西は鯉川で菅生に接している。鯉川のふちは低地になっているので久保とよばれている。この小宮久保は、天文二十年(一五五一)広徳寺文書に出てくる窪にあたるといわれている。また、ここには地蔵堂がある。堂は陽向寺開山の玉仲大和尚が応永年間(一三九四-一四二七)に創立したといわれている。本尊は石彫の地蔵菩薩で、弘法大師、爪書きの作という伝承がある。八月二十四日縁日には多数の参詣人で賑わったそうです。

松山の地名はおそらく、草花丘陵の南麓に位置しているので、丘陵の松林からとったものであろう。
原小宮は平井川南の平らな一帯を「原の方の小宮」といっていたのが「原小宮」となったものだろう。
原小宮の西方に小字代田がある。代は台の意味で、川沿いの段丘のように、上の平らな高地のことをいう。代田は低い所は平井川流域に田があるので台地とはいえないが、少し高めの土地にある田を代田とよんだものであろう。
原小宮一〇一番地には小宮神社遙拝所があります。小宮神社の真南に位置しています。その傍に桜株があり、その樹齢は不明ですが百五十年ぐらいは経っているものと推測されます。この桜株の根元には、高さ二尺余(六十cm)に小宮大明神と刻した石碑がありましたが、今は根元に埋没して見えません。昔はここを通称、明神さまといっていましたが、この石碑から伺い知ることができます。また、今の原小宮会館のところは、もとここに小宮神社の拝殿がありました。このように平井川の対岸にあるという地理的状況から、このような氏子としての営みしていたものと思われます。

また、小宮神社の遥拝所に隣接して原小宮蕃椒(とうがらし)地蔵尊があります。これは昭和9年に当地の原小宮平凡会会員の手により現在の地に安置されました。それ以前は桜株の根元に野ざらしになっていました。当時、朝鮮総督府官史の地元出身の青木作太郎氏が帰国されまして、野ざらしの地蔵尊を見て雨露をしのぐ小屋を建ててそこに安置すれば、必ずご利益があるだろうと当時の青年有志(平凡会)に申されました。早速平凡会の人達は会員の一人田中秀一氏より1坪の土地を提供して頂き、そこに地蔵尊を安置しました。それが現在の地蔵堂です。
当時オデキ(吹き出物)が流行し、地元の人達は非常に困っていましたが、何処ともなく口伝えで、蕃椒地蔵尊に願かけて、治ったら赤いよだれ掛け又は赤頭巾を奉納すればよいと、言い伝えられました。以後各地よりお参りする人達が現在まで続いています。縁日は、毎年10月24日で、大きなとうがらしの提灯を奉納し、当時は大変な賑わいだったそうです。

四、寺院

神社が中世における有力武士の祈願所であったが寺院もまた同様であった。
神仏混淆の時代には神社とはより密接な関係があった。また寺子屋という言葉が
示すように当時の農村における教化の中心でもあった。このように、その時々に
よってそれぞれの役割を果たしてきた。ここで小宮神社氏子内にある寺院について紹介する。


()大行寺

草花字北小宮三〇三六番地に在り、山号は鎮守山、院号は明王院という。真言宗豊山派、もとは五日市横沢の大悲願寺の末寺であった。本尊は不動明王で、元禄十四年(一七〇一)鎌倉の三橋但馬守らの作といわれる。
草建は建永二年(一二〇七)と伝えられ、開山は隆豊上人となっている。寺伝によれば開山当時は開基と伝える平山右衛門尉季重の祈願所となっていたという。その後室町時代になって、寛正年間(一四六〇―六五)小宮上野介憲明の祈願所となり、寺領七石を賜ったという。

江戸時代になると、慶安二年(一六四九)徳川家光より
御朱印地十三石を受領した。
大永年間(一五二一―二七)と寛文年間(一六六一ー七二)の両度の火災あった。
文化財として写経の残欠がある。一行十七字、六行分と四行分とあり、六行分は
弘法大師直筆、四行分は光明皇后真跡と伝えているが、いずれも奈良時代初期のものと考えられ。この地方最古の珍しいものである
また、神仏混淆の時代までは小宮神社および瀬戸岡の神明社の別当職であった
明治六年(一八七三)草花村、原小宮村、平沢村など五か村連合組合立開明学舎が開校したとき当寺が校舎にあてられた。

()陽向寺

草花字松山二五四一番地に在り、山号は花松山といい、臨済宗建長寺派に属している。五日市小和田の広徳寺の末寺であった。本尊は木造釈迦如来の坐像で、高さ約七七センチである。寺伝によれば、応永三年(一三九六)小宮十八騎の一人高尾伊予守の創建で、一説によれば、当時初めは原小宮にあったのを、後年になって現在地に移転したのだという。
慶安二年(一六四九)徳川家光より御朱印地五石を受領している。境外(草花二七六七)に地蔵堂がある。これについては、地名の項で「小宮久保」で述べている。なお当寺は、大正十年(一九二一)草花・菅生・瀬戸岡・原小宮の四か村が合併して、多西村が誕生した時、役場として使用されていたことがあり、翌十一年まで続いた。

()長泉寺

草花字羽ケ田二九六六番地に在り、山号を薬王山といい、臨済宗建長寺派、
五日市戸倉の光巌寺の末寺であった。本尊は木造釈迦如来の坐像である。
この寺の開基は関口次右衛門という人で、創立年代は不詳であるが、
寛文年間(一六六一ー七二)前後であろうといわれている。境内に薬師堂があって、弘法大師爪書きと伝える石造線刻像を安置している。明治三十八年経済的に維持困難となり、慈勝寺に合寺されて廃寺となった。

平成十六年秋 田中良作


なお、本稿を草するにあたり左記資料を引用させていただいた
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付記を以って感謝の意を表します。
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秋川市史

五日市町史

秋川市・多西郷土精史

秋川市地名考

小宮神社参拝のしおり(宗教法人 小宮神社)

多摩のあゆみ二十五号より、西党武士の興亡(倉員保海氏)、
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武蔵西党の小宮氏(湯山学氏)、西党武士と秋川市(小林君一氏)

西多摩郷土研究第9号より、西党日奉氏(古谷剛次郎氏)

原小宮蕃椒地蔵尊(田中兼雄氏)

秋川市史年表よりの関係事項

大化元年 (六四五)
このころ「武蔵国」成立(十九郡)大和朝廷下に入る

白雉六年 (六八五)
「武蔵国」の名がつき二十一郡を含める。府中市に国庁を設置

文武四年 (七〇〇)
諸国に牧地を定め牛馬を放つ

貞観六年 (八六四)
毎年官牧(立野、由比、石川、小川各牧)より四歳以上の馬五十頭を
中央政府に貢納を始める(一〇六四まで)。

延長五年 (九二七)
小川牧『延喜式』に記載される。
『延喜式』に記載する武蔵二十一郡に多麻がのる

天歴のころ(九四七以降)
武蔵七党の発生

平治元年(一一五九)
平治の乱おこり武蔵武士の斉藤、岡部、猪俣、熊谷、平山、金子ら源義朝に従い敗れる

元暦二年(一一八五)
平山季重一の谷合戦に活躍。
正勝神社は横山党菅生太郎有季の祈願所と伝える


文治四年(一一八八)
畠山重忠伯母円寿院のために慈勝寺創建と伝える


建久元年(一一九〇)
頼朝の上洛参内に武蔵武士らが供奉する。
平山小太郎、小宮七郎らの名が見られる。

建久六年(一一九五)
頼朝の奈良東大寺供養に、西党小宮五郎左衛門、平山右衛門尉
ら供奉人として参加      

建永二年(一二〇七)
大行寺創立と伝う、平山右衛門太夫季重の祈願所鎮守山大行寺

承元元年(一二〇七)
小宮神社、平山季重により社殿建立と伝う。承元年間、多東、多西に分かれる

承久三年(一二二一)
承久の乱おこる。小河、二宮、小宮氏ら幕府方に加わり戦う。
この功により小宮久行、弓削島(愛媛県)の地を賜る。

嘉禎四年(一二三八)
将軍頼経上洛供奉の随兵中に小宮左衛門次郎直家、小宮五郎左衛門尉の名見ゆ

延応元年(一二三九)
伊予国弓削島荘の新補地頭、日奉西党小宮久行の名見られる

永仁四年(一二九六)
5月幕府、伊予国の東寺領弓削島荘雑掌と三分二地頭代所務相論を裁決。
小宮頼行と小宮茂応の地頭職を没収した。
弓削島荘は塩の荘園として東寺に重視されていた。


元弘三年(一三三三)
新田義貞が上野国に挙兵、武蔵国に進む。武蔵国分倍河原に北条泰家をやぶる。鎌倉を攻略。武蔵七党ら新田義貞軍に加わり北条軍と戦う


延文元年(一三五六)
大石信重目代職に補せられ、二宮館に移り住居す、
二十八年間大石一族で多摩・入間二郡を支配。

応永三年(一三九六)
小宮十八騎の一人高尾伊予守が陽向寺を創立

応永八年(一四〇一)
珠陽院の五輪塔に応永八年三月の銘あり。八月珠陽院創立

寛正四年(一四六三)
小宮上野介憲明、小宮神社の梵鐘と文殊菩薩像寄進。
鋳工銘に大工小河郷重能、名見られる


慶長三年(一五九八)
草花村慶長3年の地詰帳(検地帳) (塩野半右エ門)存す

寛永十六年(一六三九)
原小宮村検地、田村茂兵衛

寛文八年(一六八二)
上草花村、雨宮勘兵エ検地

寛文年間(一六六一-一六七二)
長泉寺創立と伝う

元禄二年(一六八八)
草花村が上、下に分かれる