博士課程学生K君(いろんな意味で有名人)と先日話したことをふと思い出したので、書く。
平衡統計力学の基本仮定として、等重率とエルゴード性というのがある。エルゴード性は時間平均をアンサンブル平均で置き換えてよいということ。それに基づいて、小正準集合では、(だいたい)同じエネルギーを持つ「すべての微視的状態」を同じ重みで足す。この仮定のもとで確かに熱平衡の性質が求められることは、結果が熱力学と一致することで保証される。この最後の部分は、最近の田崎さんや佐々さんの教科書などで常識化してきたのかなと思うのですが、それ以外に統計力学の仮定を正当化する論理はない。
それはいいのだけど、問題は、すべての微視的状態を足すところにある。簡単のために理想気体を考えると、「すべての微視的状態」の中には「すべての粒子が容器の半分に集まった状態」とか「すべての粒子が容器の10分の1の領域に集まった状態」とかいった、どう考えたって実現しっこない状態が含まれる。マクロな容器を考えている限り、そんなものは(原理的にはポアンカレ回帰があるとしても)決して実現しない。つまり、すべての微視的状態を足すというのは「ありえない状態」についても膨大に足していることになる。
「すべての微視的状態を足す」という処方を採用するからといって、決してすべての状態が実現すると考えているわけではない。というのが常識だと思っていたのだけど、学生はそういう理解をしていないらしい。
本当は「すべての微視的状態」ではなく、「実現する状態」だけを足せばいいのだ。ところが、後者のほうが難しいので、計算するための処方として「すべての微視的状態」を足す。状態を選り分けて、「観測時間が1秒だとしたときに実現しうる状態」なんてのを取り出して部分的に足すよりも、全部足してしまうほうが圧倒的に易しい。
では、どうして実現しない状態も足していいのかというと、上で考えたような「実現しない状態」の数は圧倒的に少ないので、足しても足さなくても結果に影響しないからだ。ほとんどすべての状態は容器中に粒子が均一に分布する。もちろん、均一に分布する状態だってすべてが実現するわけではなく、ごく一部しか実現しないが、巨視的には違いがないので、それでよい。
というのが、平衡統計力学がうまくいく理由。
それとも、普通は「すべての微視的状態が本当に実現する」と教えるんでしょうか。まさかね。
[追記]
最初、正準集合で書いたのですが、そうすると、ボルツマン重率からくる確率の問題とごちゃごちゃになるので、小正準集合に変えました。この場合、(ある範囲のエネルギーを持つ)すべての微視的状態は等確率で実現するので、話が混乱しにくい。(なので、鞍点法の話を書いたんだけど、消しました。あれはあまり関係なかった)
[追記]
要するに、実際には観測時間内に実現するのは位相空間のごくごく一部でしかないのであって、「すべての状態を回る」どころではない、ということです。「"統計"力学というくらいなんだから、全部を回るとは想定してないんだろう」くらいに考えている人は、それでよいです。それが「すべてを足す」ことと同じ結果を与えるのは、結局、下のコメントででてきたように「ありふれた状態」が「圧倒的にありふれている」からです。
この記事に対するコメント[9件]
1. coterra
— November 22, 2008 @23:38:34
ある立方体中に理想気体が散らばっているありふれた,しかし,ある固定された一状態を考える.この状態が実際に起る可能性は(粒子がふえるほど)極めて,極めてちいさい(本当に固定してしまうと無限に小さい).これと,どこか一方に粒子達がかたよっている状態の可能性とは同等なのではないのですか? 異常さが目立つだけで...
僕は何か別の見当違いなことを言ってますか? 基礎的なことのようで,専門外だからと言い訳してはしかれれそうですが...
特定の微視的状態をひとつ指定したとすると、観測時間内にそれが実現する可能性は事実上「ない」でかまいません。上で、均一な状態もごく一部しか実現しないと書いたのは、そういう意味です。
まさに「ありふれた」というところがだいじで、そういう状態しか実現しないということなのですが、状態を適当に粗視化して「似た状態はだいたいおんなじ」と思って眺めないと、どの状態も実現しないことになってしまいます。
3. NOB.Y — November 23, 2008 @00:59:09
何か良い素人向けの説明がないのかなあと思っています。
私は、リスクについては日本に住んでいると1年間で交通事故で死ぬ確率が約1/10000あるが、だからといってこのリスクを避けるために外出しない人はいないよね。これに対してXXは…、とか言ってますが、わかってもらえないことが多いですね。
4. こなみ — November 23, 2008 @01:04:37
たとえば2つの等しいサイズの容器を連結して気体分子を自由に運動させた場合,「ありふれた状態」は圧力が等しい状態です。しかし,それは2つの容器内の分子数が正確に等しい状態ではない!
等しい圧力からの非常に小さな揺らぎを考えてやると,その範囲に収まる微視的状態の数は,可能なすべての微視的状態のうちのほとんど全部を占める。だから圧力が等しいというふうにほぼ正確に予言できる。
これは非常に強調したいところで,女子大の授業でのレポートに,こんな計算機実験のテーマを設定しています。
http://www.cs.kyoto-wu.ac.jp/~konami/simulation/Diffusion/fluctuation.html
言いたいことはこんなふうにまとめてあります。
つまり,この結果をざっというならば,1兆人が1兆回カウントしたとして,気圧が
1気圧からたった 100億分の1だけ外れるという現象を見る回数が 20回ばかりある
だろうということです。やってみますか?・・・って,だれもそんな無謀なことは
考えませんね。まして,ふつうに気体が入った容器の中で,観察可能なほどの圧
力の揺らぎが起きるというのは,宇宙の歴史全部を通しても起こりえないほどの
確率なのです。
高校生のときに読んだガモフの「原子の国のトムキンス」に,こんなことが書かれていたような気がするんですが,どうだったかな。
5. とれかん — November 23, 2008 @02:08:30
例えば「全分子数がいくつのときは、平均がいくらで、分散がいくら」と具体的に言えば良いのではないでしょうか。
その分散が小さいと思うか、どうかは、感覚の問題ですけど。
その値が予想以上に小さいときに小さいと感じるのではないでしょうか?
予想とあまり違わなかったときは小さいとは思わないような…
6. coterra
— November 23, 2008 @07:38:01
菊池さんの,「本当は...」のパラグラフが,理解できていないことから,#1の僕の質問があります. 全部足すのは易しいから...と書かれていますが,僕には全部足す方が本来的に思えるんです.ひつこいようですがそこにひっかかっています.「学生はそういう理解をしていないらしい」とありますが,学生がどういう理解をしてしまっているのかを具体的に教えてくだされば僕へのヒントになりそうな気がします.
7. nakanishi — November 23, 2008 @09:29:51
8. たざき
— November 23, 2008 @19:00:36
12 月に出るぼくの「統計力学」の教科書では、ここで問題になっているような点も丁寧に正確に説明しました。ぼくの知る限り、そういうことがちゃんと書いてある本は他にはない。それ以外の点でもすぐれた教科書だと信じています。統計力学を教えている方は、是非とも、ぼくの本を教科書や参考書にすることをご検討下さい。統計力学を学んでいる方・学ぼうと思っている方も是非とも、ぼくの本を使ってみて下さい。ネタではなくて、マジです。
ブログのコメント欄で議論するテーマではないと思いますが、いちおう、論点を整理しておきます(これは、既に分かっている人向けに書いています。そうでない人は、ぼくの本をみてください。立ち読みや図書館でもいいので)。
まず、「マクロな系において、エネルギーがほぼ U に等しい状態のうちのほとんど全ては、マクロな性質を見るかぎり、そっくりである」という「凡庸さの原理」がある(もちろん、何らかの意味での正当化は必要)。この「そっくりな性質」こそが平衡状態の性質だとみなす。あとは、その「そっくりな性質」を抽出する方法を考えればよい。もっとも単純な戦略は、「どうせほとんどがそっくりなのだから、全部、平均してしまえ」という方法。この戦略を「等重率の原理」とよぶ。全ての状態で平均するのは「そっくりな性質」を抽出する戦略に過ぎないので、目の前にある平衡状態に於いて、本当に全ての状態が等確率で出現していると考えるのは誤り(これが、このブログの記事の趣旨だと思う)。
以上の議論に時間発展は登場しないし、時間平均も不要。実際、平衡状態は「一瞬で」観測しても、ちゃんと平衡状態になっている。
今日の数理科学で言うエルゴード性は力学系の測度論的な性質だけれど、上でいう「凡庸さの原理」とは全く無関係。平衡統計力学の基礎付けとしての意味はないと考えるべき。
ま、普通は何らかの極限を考えるのでしょうね(典型例は大数の法則)。
> ほとんど全ては、マクロな性質を見るかぎり、そっくりである
あるいは、逆に、そうなっているものを「マクロな性質」であるとする。