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世界文化遺産の平等院があり、年間400万人もの観光客を集める京都府宇治市。その市内に、下水道はおろか上水道さえ未だ十分に敷かれていない集落がある。在日コリアン約60世帯250人が暮らす「ウトロ51番地」。戦時中に、国策の軍事飛行場建設のために集められた朝鮮人労働者の元「飯場」で、戦後国から何の補償も受けることができないまま、そこに暮らすことになった人とその家族たちが住み続けてきた約2万1000平方メートルの地だ。
ウトロの地名は、その昔、宇治へつながる地の意味で「宇土口(ウトグチ)」と表記されたが、いつのまにか「口」(くち)が「ロ」(ろ)と読まれるようになり、読みやすくカタカナ表記されるようになったもの。
「どこから来はったん?」 「大阪です」 「暑いのにごくろうさん」 看板、いつ頃から立ててるんですか、と聞くと、 「もう10年も20年も前からや。うちら、ここ出て行け言われても行くとこないもん、みんなで(看板を)立てた」 と。「大正生まれ」というその人は、「まあ座ろか」と軒先に置いた箱の上に座布団を用意してくれた。天気がどうの気温がどうのと世間話をしたあと、いつからここに住んでいるのですかのこちらの問いに、 「昭和17、18年。戦争中からや」 8歳のときに家族で慶尚南道から日本に来て、大阪の堺や住吉大社の近くに住み、10歳くらいから仕事ばかりしてきた。19歳で結婚。先にここウトロへ来ていた父親に、「召集される心配のない飛行場の仕事がある」と言われ、夫婦で移って来て飯場に住んだと、問わず語りをしてくれた。 「戦後はもう言うに言えん苦労の連続や。ここ、雨降ったら水がつく。駅から下り坂になってるから、あっち方面から水がどんどん流れてきて、床上浸水。家中がびちょびちょになって不衛生で。畳も流れて。やっと乾いたと思ったらまた雨や」 「食べていかんならんから、ありとあらゆる仕事してきたで。建設現場もあちこち行って、朝から晩まで働いた。大阪も奈良も京都も行った。この前、大阪行ったら見なれた建物があったんで、ああここへも来てたんやなあと思った。日本語が読めへんから、それが大阪のどこやったんか分からんのやけど」 そこまで聞いた時、「アンニョン」と、近所のお宅から、さらに年輩と思しきハルモニ2人が出てきて、隣に座った。 そして、3人は「今年はほんまに暑いなあ」と言いつつ、庭先に植えたキュウリが大きくなった、瓢箪も鳳仙花も実をつけたと、そんな話をひとしきり。始めは日本語で話していたが、途中から朝鮮語が交じってきて、いつしか朝鮮語のみで泣いたり笑ったり。あとで聞くと、朝鮮語で話したのは「唐辛子には時々目が飛び出るほど辛いのがある」「この前、大変な目にあった」という話だったとのことだった。 「そやね。そら、朝鮮語のほうがわかりやすいときもあるわな」 と、先のハルモニ。こんなふうに、誰が誘うでもなく、もう何年もここで毎日井戸端会議をしているのだという。夕方になり、手押し車を押した相当年輩と見受ける一人のハルモニがよたりよたりと歩いてきた。 「どやった? 楽しかったか? 座るか?」 先のハルモニたちが声をかけるが、手押し車のハルモニは遠い目をしたままだ。認知症が進んでいると見受けるその人は、ウトロの中心部にあるデイサービス施設「ハナマダン南京都」からの帰り。言葉こそ発さないが、先のハルモニたちに囲まれ、穏やかな表情でしばらくの時間を過ごす。 このようなウトロの「ご近所コミュニティ」は、昨日今日に始まったわけではない。食べ物を分け合い、仕事や生活の情報を交換し合い、みんなで助け合ってきたと、ハルモニが言った。もしもこの地から追い出され、新しい隣人の中で暮らさなければならなくなったとしたら、新たにこのようなコミュニティが構築できるはずがない、と容易く察することができる。
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