報道 

[雑誌面等] [新聞紙面]
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[『ウトロ調査団・宇治市への質問事項』(1997.08.04宇治市へ提出)]
[『ウトロの戦後史』/週間金曜日(1997.7.25)]
[『韓国ウトロ調査団・金景南氏インタビュー』/CBS時事ジャッキー「今日と明日」(1997.6.6/20:35-21:00)]
◆ 『露地の片隅に温もりが生きる』/asahi shimbun Weekly AERA(1993.8.17-8.24)


■『露地の片隅に温もりが生きる』  〜「ウトロ」に暮らす人々


京都府宇治市に、ウトロと呼ばれる地区がある。在日韓国・朝鮮人ばかり80世帯が住んでいる。土地の明け渡しなどを求める訴訟も起きているが、ここには今も懐かしい生活風景が、息づいている。

編集部:小林慶二 写真:小川省平 
asahi shimbun Weekly AERA(1993.8.17-8.24) 

露地1
ウトロに道らしい道は一本だけ。露地は通路であり、遊び場であり、交流の場でもある



「私はウトロの露地にこだわって写真を撮ってきました。露地は人をつなぐ機能を持っている。かつて日本の街のいたるところにあった、人の温もりが感じられる露地が、ここにはまだ残っている」
「地上げ反対!ウトロを守る会」の会員で、数年前からここで写真を撮り続けてきた宇治市役所の職員、小川省平さんは、ウトロの魅力をこう説明する。

ウトロは平等院で知られる宇治市にある。80世帯、約380人が住む、幅約100m、長さ300mの、矩形状のこの土地には、登記された道路はない。五年前までは、水道もなかった。

家並みの間の露地を抜けると、唐辛子やにんにくを植えた隣家の中庭や、時には玄関の真ん前に出る。滝田ゆう風に言えば、すべて「通り抜けられます」。

全世帯が韓国・朝鮮人家庭。キムチを漬け、ピンデトク(朝鮮風お好み焼き)を作り、祖国と同じ味にこだわり続けてきた。水曜と土曜の週二回、韓国から輸入した唐辛子など食料品を売る小型トラックが尼崎からやって来る。




大畳一間一家族が住む

ウトロの発祥は、太平洋戦争直前の1940年、国と京都府、国策会社、日本国際航空工業が飛行場建設に乗り出した時にさかのぼる。

飛行場建設工事のため約1600人の朝鮮人労働者がここに集められた。大部分は徴用逃れの家族持ちだったという。

数え年16歳で故郷、慶尚南道(キョンサムナムド)を追われ、長野、新潟、三重などの工事現場を回り、妻と2歳の子を連れてウトロに来た金壬生(キムインセン)さんはこう語る。
「竹中組(現竹中工務店)の大きな作業員宿舎が三つあった。六畳一間に一家族。屋根は杉皮を敷いただけで冬には雪が舞い込む。雨が降れば洗面器をあっちこっちへ持っていったり、みじめなもんやった」
亡夫と共に作業員宿舎で働いた文光子(ムンクヮンジャ)さんは、
「それでも工事中はよかった」
という。
「夫はモッコ担ぎ。私はご飯たきで給料は出なかったが、食事はできた」

生活が最も苦しかったのは、終戦直後、飛行場建設が中止され、日本人たちがさっさと現場を去っていった後だった。




仲間頼って近郊から移住

「竹中組とかは『おまえらどないせい』ともいわんと、さっさとおらんようになった。出産間近の妻と四歳の長男をとりあえず帰国させ、金を儲けて国に帰ろうと思い続けながら、時が過ぎてしもうた」(金さん)
「仕事も食べ物もなく、ヨモギや芋のつるで飢えをしのぎました。ひもじい思いをしないで済むようになったのは、宇治市の失業対策事業で仕事がふえ、子供が大きくなった昭和30年代の終わりごろからでした」(文さん)

貧しいながらも同じ民族が住んでいるというので、近郊から韓国・朝鮮人が移ってきた。空き地に豚小屋を造り、屑鉄を集め、廃品を回収して生計を立てたが、苦しい生活が続いた。



同胞が助け合い生き抜く

夏は宇治茶の茶摘み、学校の帰りには屑鉄を拾って家計を助けた当時の子供たちは、こんな記憶を語り合う。
「まだ義務教育の教科書を買っていた時代でしょう。お下がりを貰うんですが、それも予約ですよ。衣類も、サラ(新品)なんか着たこともない」
「一番かなわんのは雨降り。番傘でしょう、すぐ穴があく。朝鮮、傘さしとらへん、アホが濡れとる、いわれるでしょう」
「表にゴザ敷いて寝ころんでたら、中学校のみんなが修学旅行に出て行くのが分かるんです。もう、ワーッと泣いたのを覚えてますわ。先生が旅費出さんでもいいから来なさいと言ってくれたんやけど、やっぱり行けませんでした」

貧しさを生き抜けたのは、同胞たちの助け合いだった。金玉子(キムオッチャ)さんは、
「お昼ご飯食べるとき、表にゴザ敷いて、チシャの葉っぱを畑からむしっておいでいうてね。みんなおかずとかあるもんを持ち寄って、輪になって、ご馳走がなくても楽しい、安心してました」


露地2
焼き肉はウトロの自慢の料理。通りがかりの近所の人も気軽に仲間に加わり、世間話に花が咲く。最近の話題は裁判だ。



住民の八割近くが土建業


60年代後半からの高度成長はウトロにも恩恵をもたらした。バラックを壊し、家屋の新設が増える。町内会長の金山教一さんもこの時期に建設業に乗り出した。
「学歴も縁故もなく、大企業にも入れない我々は、汗を流して金を稼ぐしかなかった」

現在でもウトロの住民の八割近くが土木、建設業に従事している。生活保護世帯は80世帯中十数世帯で2割に近く、宇治市平均の0.7%をはるかに上回る。

市のケースワーカー斉藤正樹さんは、
「老人が多いが、アルコール依存症の若い人もいる。ここを出たが、日本社会に適応できず、帰ってきた人たちです」

80年代に入ってもウトロには水道がなかった。住民は水道の敷設を市に再三申請していたが、日本国際航空工業から引き継いだ土地の所有者である日産車体(本社、神奈川県平塚市)が、
「住民は土地を不法占拠している。水道を認めれば、居住を認めることになる」
との立場から、配水管の敷設に応じなかったからである。

85年3月、ウトロは当時、宇治市内で続発していた放火事件に巻き込まれた。消火栓がないために披害が広がった。

この事件をきっかけに樋口謹一京大教授(当時)らが中心となり「ウトロ地区に水道敷設を要望する市民の会」が結成された。87年2月、宇治市で開かれた「ウトロの水問題を考えるシンポジウム」で樋口教授らは、
「市が四十年間もウトロ地区に上水道の配水管を敷設せず放置したことや、私たちを含め市民がそれを知らなかったことを恥じるべきだ。その償いのためにも、解決に向け市や市民は力を注がなければならない」
と訴えた。地域住民とウトロの初めての共闘だった。

そうした住民パワーに押されてか日産車体側は87年3月9日、宇治市役所を訪れ、水道管敷設に関する同意書を提出した。工事は翌88年1月に始まり、4月から給水が開始された。

だが、水道管の工事と前後して、ウトロの土地が売りに出された、との噂が飛んだ。住民が登記を調べると、ウトロの土地はすでに2度にわたって転売されていることが判明した。

87年3月、日産車体か3三億円でウトロの住民だった平山(許(ホ))桝夫氏へ売られていた。

平山氏は2カ月後の同年5月9日、買収した土地を4億5千万円で不動産業者、西日本殖産に転売している。

西日本殖産は89年2月、ウトロ住民に対し、土地明け渡しと建物の撤去を求める訴訟を起こし、現在京都地裁で係争中だ。

水道問題で結束した市民たちは89年3月、京都市で「地上げ反対!ウトロを守る会」の結成大会を開き、
「ウトロの問題は、戦前の日本の朝鮮への侵略、植民地支配がなければ起きなかった問題である。また、この侵略支配の歴史的清算(戦後処理)が行政の責任でなされていれば生じなかった問題だ」
とのアピールを採択した。同会は90年、会員の主婦、田川明子さんをドイツのカッセル市にあるフォルクスワーゲン社に派遺した。




NYタイムズにアピール

強制労働に従事したユダヤ人らへの賠償が既成事実化し、外国人労働者の採用が常識化している同社の労働者は、
「ウトロに住む在日韓国・朝鮮人は、隣接する日産車体京都工場に一人も採用されていない。また戦後補償も受けていない」
との田川さんの説明に、
「信じられない」
と唖然としていたという。

また今年3月にはニューヨーク・タイムズ紙へ「日本のウトロのコリアンからの緊急の訴え」と題する1ページ広告を出した。反響は予想外に大きく、米国各地から1万8千の投書が寄せられた。韓国の文化放送(MBC)は45分のテレビ番組を作って放映した。

裁判の先行きは楽観を許さないが、金壬生さんは、
「日本政府がほっといたからここに住みついたのに、いまさらどこへ行けというのか」
と話す。文光子さんは、
「もしここに日本人が半数でも住んでいたら、日産も住民に断りなしに土地を売らなかったはず」
と民族差別を追及する。

ウトロの戦後はまだ終わっていない。


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