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蒙古襲来絵詞から読む元寇

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→ 蒙古襲来の時代


参考文献
1)太田彩『絵巻=蒙古襲来絵詞』日本の美術414 至文堂2000年11月
2)『八幡大菩薩愚童訓』日本思想体系20寺社縁起(岩波書店)
3)『竹崎季長絵詞』日本思想体系21中世政治社会思想上(岩波書店)

前巻
文永の役
蒙古軍、博多の息の浜(オキノハマ)に上陸。
竹崎季長は,一門の江田又太郎秀家と兜を交換し、これを目印にお互いに助け合って戦うことを約束。
江田又太郎秀家は,肥後の国玉名郡江田郷を本拠にしている武士?
 兜の交換は、恩賞請求をするときにお互いに証人となるための事前協議。
戦功をあげたくてはやる竹崎季長は,肥後国武士集団に先駆けて出陣した。

博多湾を臨む箱崎宮の前にある松並木の中を出陣。
豊後国守護職 大友頼泰の配下の武士4名も出陣した。

大将少弐三郎左衛門景資(肥後国守護代?)の陣の前を季長が通る。
下馬を勧められたが,景季はわずか5名で手柄を立てるには先駆けするしかないと申し述べ,
蒙古軍の待ち受ける赤坂に馳せ向かうのであった。

景資の本陣は,住吉の鳥居近くにあった。
景資は,黒漆塗の唐櫃(からびつ)に腰を下ろし,手に日輪の扇を持っている。
この前を威風堂々,肥後の国の武士たちは出陣して行った。

住吉鳥居を通り過ぎて赤坂に向かう途中の小松原で,季長は,菊池二郎武房の一行と出会った。
総勢,百余騎。武房はすでに敵と戦い,首二つを薙刀に貫いて引き上げてくる途中であった。
それを見た季長は,いっそう奮い立ち蒙古軍に向かって駆け出すのであった。

菊池武房に破れた敵の本隊は,麁原へ退却した。別の一隊は別府の塚原へと退却した。
塚原から鳥飼の干潟へ進み,本隊と合流しようとした蒙古軍を討ち取ろうとした季長は,
馬が干潟に脚を取られ逃がしてしまった。
敵軍は麁原に陣を構えて鐘を打ち鳴らしてひしめきあっていた。
武勲をあせり馳せ向かう季長に対して藤源太資光は味方を待って合戦に臨むよう忠告したが、
季長は先に功績を挙げることが肝要と突進していった。
季長の合戦は、麁原から鳥飼潟の塩屋の松原が舞台となった。
まず、旗指が馬を射られて跳ね落とされた。
季長以下3名も馬を失い痛手も被り、あわや一巻の終わりかとみえたところに、
肥前国御家人白石六郎通泰が後方より援軍を率いて攻めてきたため、敵は退却を始めた。
こうして、季長は一命をとりとめただけではなく、互いに勲功の証人となることを誓い合ったのであった。
さらに敵を追って攻め入る三井三郎資長と退却する蒙古軍。画面には、松林の向こうに博多湾が見える。
馬を射られながらも、奮戦する季長。

恩賞申請
文永の役の翌年に鎌倉へ行く(建治元年6月3日卯時)
周囲の反対を押し切って、季長は、恩賞申請のため竹崎を発ち関東へ向かった。
お供は、中間の弥二郎と又二郎のみ。
旅費を工面するために馬の鞍を売り、もし願いが叶わなければ出家をして二度と故郷には帰らぬ覚悟であった。
出立にあたって、季長は熊野三山に祈りを捧げ、修験者にお布施を与えた。
長門の赤間関まで来た季長は,烏帽子親である守護代の三井新左衛門季成のもとを訪れた。
季成は宴席を設け歓待し,季長に馬と路銀を与えたのであった。
8月10日 伊豆の三嶋神社に参拝。武運長久を祈念。
11日 箱根権現に参拝。
  12日 鎌倉に到着。三嶋神社で精進したままの身で,由井が浜の潮湯で潔斎。
      鶴岡八幡社に参詣して布施を奉じた。
    <この間、八幡宮に参詣し、恩賞の申請が滞りなくできることを祈願>
10月3日 御恩奉行秋田城介安達泰盛の前で、昨年の戦功を話し、何の恩賞もないことを訴えた。
     安達泰盛は、季長に恩賞を授けることを約束。
11月1日未時 季長は幕府の見参所に召され、所領安堵の下文と馬を賜ることに成功。

後巻:弘安の役
季長は、蒙古軍と戦った伊予の国御家人河野通有を見舞うために館を訪れた。

文永の役で勇名を馳せた菊池二郎武房が陣取る石築地の前を威風堂々と行軍する季長。
武房の視線は季長からはずれ、微妙な雰囲気まで描かれた場面。
季長「敵の将軍の船は帆柱を白く塗っている。出撃して、鎌倉殿のために一旗揚げて見せよう。
ご存命ならば、戦いぶりを報告してくれ」と意気込み出陣していく。

7月5日
幕府の使者合田五郎遠俊と安藤左衛門二郎十綱が早朝に到着。季長は、二人に兵船が無いことを説明。
<幕府軍は鷹島の戦いに勝ち、蒙古軍は沖へと船を出していった。
との報に接し、季長はぜひ戦いに参加し武勲を得たいと勇むが、
合田五郎は「逃げたものはどうしようもない」と言うだけであった。
季長は、太宰少弐経資に手勢を差し向けたいと訴える。
肥後国詫摩別当次郎時秀や大野小次郎邦隆らの船は次々に追撃していく。
肥後国守護安達盛宗の印である連銭の旗を立てた大船が来たのを合田五郎が見つけて、
見て参れと言う。季長は、小舟に乗って沖を行く大船に乗り込もうとしたが断られる。

酉の刻になって、やっと船を見つけ息の浜漕ぎ出す季長。
肥田二郎秀忠・小野大進・頼承・焼米五郎・宮原三郎が乗り込んでいた。
他には、草野次郎経永・大矢野親子らが乗り込んだ兵船や
薩摩国守護下野守久親・久長兄弟の兵船が描かれている。

季長は、自分の船が来ないため「たかまさ」の兵船にむりやり一人で乗り込む。
兜を置いてきたので、脛当(スネアテ)を脱いで結びあわせ兜の替わりに額を被った。
それでは格好がつかないからと近くにいた若党の兜を季長に勧めたが、
季長は「もしこの若党が怪我でもするようなことがあれば妻子が嘆くから」と申し出を断った。

7月6日早朝
季長は合田五郎仮の館に出向き、自分の船がなかったため他の兵船に便乗し戦功を上げたことを報告。
合田五郎は関東へ注進することを約束。

蒙古軍は、銅鑼(ドラ)や太鼓(タイコ)を打ち鳴らし、旗を振りながら兵士を鼓舞する。
季長は敵船に乗り込み、大矢野三兄弟とともに敵を制圧。ついに敵の武将の首を切り落とすことに成功。
<敵軍の風俗が違う描写あり>
季長と従者は、息の松原で肥後国守護安達盛宗のもとに赴き、
志賀島の開戦で従者の野中太郎長季・藤源太資光が負傷し馬を殺されたことなど証人を立てて報告。
安達盛宗に敵将の首を差し出す。

季長は、文永の役で安達泰盛から本領安堵の下文や馬を直接賜ることのできたただ一人の武将であり、
大事の時には真っ先に敵陣めざし突っ込んでいく役目を仰せつかっていることを「永仁元年2月9日」の日付で記す。
季長は、関東下向に先立って参詣した肥後の甲佐大明神のおかげで海東郡の所領を安堵されたことに対する神恩に
感謝していることを「永仁元年2月□□」の年号で記す。

元寇のときに恩義を受けた安達泰盛と盛宗親子、そして文永の時の指揮官であった武藤景資は、
弘安8年の霜月騒動で倒される。
季長は、甲佐神社とこれらの人々への感謝の意を込めて絵巻物制作を企図したか?

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