ぴんぴんした年寄りはいたわるに値せず
― 年功序列・終身雇用・戦後高度成長の罪過について ―
今 本 秀 爾
日本人のなかには未だに戦後の高度成長時代の社会を肯定的に評価し、戦後民主主義を有り難く重宝がる人間が少なくない。だがこれは同時に「無節操かつ無責任」な日本人の高慢かつ無反省な態度を如実に示している。単なる権力維持装置のイデオロギーにすぎない「勤勉さ」という虚構と同時に、未だ多くの日本人に信じられているのは「お年寄りを大切にしよう」といった類の、無意味でまさに「無節操かつ無責任な」スローガンの類である。学校の義務教育の現場で、これまた「無節操で無責任」な教師や教育委員によってしきりに説かれる「思いやり」「いたわり」「やさしさ」といったこの手の空虚な言葉が氾濫することによって、その言葉の意味を十分に斟酌しようともせず無意識に鵜呑みにし平気で口癖にしている多くの人間こそ、実際これらのスローガンの意味するところを何も理解していない。こんな恥知らずでよそよそしく冷酷な言葉がこの世にあろうかと思うのは、他ならぬ真に手を差し伸べられるべき身障者や不具者あるいは心身虚弱なお年寄りたちに違いないのである。「思いやり」や「やさしさ」といった漠然とした言葉によって、いったい彼らの苦しみや日々の悩みの何が解決されるというのか。「いたわり」「やさしさ」とはいったい何を求め、かつ何をすべきだという倫理なのか、何一つ明らかにされない。
「年寄りはいたわるべきである」という虚構された教訓はその典型である。こうした広く日本社会に受け容れられている嘘は、まず以下の極めて単純な論理によって真実を欺き誤魔化しつづけているからだ。
(1)年寄り=弱者=庇護を必要とする者という短絡的な図式の存在
(2)年寄り=経験者=知恵に長けている人間という短絡的な図式の存在
まず(1)について。年寄り=弱者というのは、仕事も生活力も十分に与えられず、家族の支えもなく生活保護を必要としている孤独な人たちについては当てはまるが、大多数はそうではないどころか、これまでに築いてきた財産や権威や地位といった特権を思いのままに振舞い、若輩者に対して己の権力を行使しつづけている人間は少なくない。そうした権力行使を支えてきたのが他ならぬ終身雇用であり年功序列制度という、儒教社会一般にみられる封建的な階層構造である。ここでは人間は実力や努力によっては評価されず、どんな愚鈍な人間でも、およそリーダーとなるに相応しくない人格でもある程度の年齢が経てば人の上に立つことができ、一人前として君臨することになる。国会議員の当選回数による序列化のように、「経験」の度合いと年数のみがものを言うのであり、意見やアイデアの中身によって人間が客観的に評価される機会はほとんど存在しない。こうした年寄り至上主義の社会において、つねに屈従を強いられているのが多くの有能な若手の人間である。彼らはいくら努力しても、年寄りが引退しない限りは自分の望むことは何一つ自主的にできず、長い間ひたすら無駄な下積み生活を強いられる。それも「出る杭は打たれる」から文句ひとついえず、意見を言えば「反抗」と見なされマイナス評価を受け、出世や自分の立場に影響を被る。こうした脅迫と屈従にさらされつつ、若い芽の才能がことごとくつぶされてきたのが戦後までの日本社会であり、そうしたなかでぬくぬくと己の地位を確保し、有無をいわさず認めさせてきたのが、他ならぬ「年寄り連中」なのである。 したがって「お年寄りを大事にしよう」とは、こうした権力の座に君臨しているか、してきた多くの権力者のこれまでの放縦な行いを正当化するどころか、さらに手を貸せ、若者よ、死ぬまで俺達の面倒をみろ、という一種の奴隷に対する要求を突きつけるスローガン以外のなにものでもない。
さらに(2)について。「年寄り」であるからといって、「よい」経験が豊かな人間であるとはかぎらない。「愚鈍な」経験を何十年もつづけてきた人間より、1年ですべてを悟って賢明な人生を選択できた人間のほうがはるかに立派であり、正当に評価されねばならないはずであるのに、経験が多い=賢明であるといった浅薄な誤解を多くの日本人が犯してしまうのは、偏に日本人の多くが経験主義と権威主義とに洗脳されつづけているからである。実際、経験が豊かであるというのと、人間的に成長しているというのはまったくイコールでないどころか、その逆である事例が非常に多い。「人生経験が豊かである」というのはちょっと違う。それはたとえば一つの会社、一つの職場、ひとつの組織や環境で長年生活してきた人間は除外されるだろう。そうした組織人間は所詮一つの世界しか知り得ないのであり、一つの価値尺度でしか物事を見れない。それに対して人間的に成長するということは、自分と違った価値観なり生き方をしている多くの人間と出逢い、対話し、交流をもつことによって、あるいはそうした人間の書物を読むことによって、できるだけ広範な世界観を共有できるようになった人間のことを指す。こうした人間は、残念ながら今日の忙しい組織社会においてはまれにしか存在していない。ところで「経験者である」と威張っている人間の多くは、実はほかならぬ前者のほうである。つまり一つの組織のなかで長年居座りつづけている猿山のボスが、自分こそは偉いと自己主張しているのだから、これは救いようのない精神的な貧困さである。こうした過ちを避ける意味でも、「年寄りは偉い」などと軽々しく考えてはいけないのである。それは制度的にも社会の権威的にも支えられつつ、そうした社会環境なり風潮が許してきた、とくに戦後の経済構造のもっとも大きな罪過であり、多くの若い人々の奴隷的労働と犠牲のうえに成り立ってきたことがらだということを忘れるべきではないのである。
したがって、馬鹿で愚鈍でぴんぴんしている年寄り連中を居座らせないためにも、これからは「若者の権利と権威」を高めるべく、あらゆる手段が講じられなければならない。かといって徒らにリストラするだけでは、かえって若い人々が多忙になり負担が増えるだけだから逆効果になってしまう。具体的にはそうした年寄りには、「安い」労働力として精一杯働いてもらうのが経済効果を考えるうえでも一番なのである。つまりこれまで真に能力ある有能な若者たちが強いられてきた立場を、今度は年寄り連中に代わりにやってもらうのである。真の弱者である人たちこれまでの苦労や苦しみは、実際に本人が味わってみなければけっしてわからない。この場合、真の弱者でありサポートされるべきは、有能な若い人材なのだから、彼らにこそ高い給料を与え、労働意欲を高めるようにすればいい。さらに年金も、若い間から「先物」として選択制で受け取れるような措置が講じられることも認められるべきである。今まで散々人をこき使い、他人の犠牲の上に己の栄光をみてきた人間たちにこれ以上いい待遇や生活を与えるべきではない。
公平な社会、平等な社会というのは「年寄り」に甘い社会のことではない。真の弱者はこれから人生を謳歌しようとする多数の若い有能な人材である。彼らの希望をなきものにし、若者を刹那主義に追い込んできたのは他ならぬ今の年寄りたちであることを、まずもって彼らは自分の胸に手を当てて懺悔せねばならないはずである。それでいて「近頃の若者は・・・」とのたまう年寄り連中の破廉恥な言動はあまりにも無節操で醜い。こんな日本に誰がした、こんな若者に誰がした、すべては彼らの無節操と無責任さの賜物なのだから。真にいたわり、手を差し伸べられるべきは悲しいかな、多くの若者たちである。それゆえこれからのスローガンは、「年寄りよ、若者をもっと大切にしろ!」ということになるはずである。
戦後民主主義なり高度成長は、現在のような無責任で無節操な日本人を大量生産した過ち以外の何物でもなかった。これまではよかった、今までは日本は繁栄してきたのだから、というのは単なる詭弁にすぎない。その蔭でどれだけの人間が犠牲を強いられ、ひたすら耐えつづけ、涙を飲んできたるのかがまったく議論にすらされていない。結局笑えたのは少数の特権者であり、裕福な年寄りや年功者たちであっただけである。