──
本サイトではこれまで、Google の問題を指摘してきた。
ただし、私は別に Google に恨みがあるわけでもない。Google を絶対に使わない、と思っているわけでもない。毎日何十回も Google の検索を使っているし、Google を「なくてはならない」と感じている。Google を全否定しているわけではない。
そこで、Google の功と罪をともに論じて、われわれの態度はどうあるべきかを示そう。というのは、ここを勘違いしてる人(特に一方的な賛美論者)があまりにも多いからだ。
つまり、世の中には、「 Google はすばらしい」と一方的に賛美するばかりで、目が曇ってしまっている人が多いからだ。
──
(1) Google の功
Google には、功がある。
その第1は、「検索」だ。これは、「ランキング」という技術をうまく用いることで、従来の検索法式に比べて、圧倒的に高精度の検索結果をもたらした。このことは、何年も前に立ちたび報じられたとおり。今さら繰り返すまでもない。
その第2は、「検索」以外の各種サービスだ。「検索」技術を応用して、「パソコン内の全文検索」というソフトを無償提供したのが、一例だ。また、ネット上のオフィスアプリというのもある。(以前はともかく、最近ではうまく利用できるようになってきた。ブラウザの機能向上のおかげで。)
これらの各種サービスは、多岐にわたっている。そして、そのうちの一つとして、「ストリートビュー」などがある。(本サイトがいろいろと取り上げたサービスだ。)
さて。これらのサービスは、どうか? 本サイトではこれまで、かなり否定的に述べてきた。「こんなものはなくてもいい」とも述べた。
しかし、なくてもいいだろうが、あればあったで便利なことも多い。「カレンダー」や「メール」ならば、他の代替手段もあるが、ストリートビューには代替手段はない。
実際、ストリートビューには、便利な点もある。たとえば、次のものだ。
→ ストリートビュー : 銀座の情景(デビアン銀座)
このビル(デビアン銀座)は、くねくね曲がったビルとして、有名であり話題になっている。写真もある。
ただ、写真はあるにしても、現場がどうなっているのかは、よくわからない。そこで、周辺の歩道も含めて、現地の様子を探るには、上記のストリートビューが便利だ。どうすればそこに行けるかもわかる。
また、北西方向に 50メートルほど移動すると、Mikimoto Ginza2 という「ピンクの穴あきビル」が見つかる。これも興味深い。銀座の散歩という感じがして、地方の人には楽しいだろう。
このように、ストリートビューには、明らかに利便性がある。
(2) 行き過ぎ
問題は、その行き過ぎだ。
商業地ならば「便利だ」と喜んでいればいいだろうが、住宅地にまで「便利だ」と喜んでいるわけには行かない。「便利だ、便利だ」と言っているうちに、自分の自宅まで覗き見されて、全世界に公開されてしまう。
こういう問題点に気づくことが必要だ。
要するに、利便性というものは、諸刃の剣である。
・ 何かを知るときに、便利である。
・ 何かを知られたくないときに、邪悪である。
この区別を、はっきりと理解することが必要だ。単に「便利だ、便利だ」と浮かれているわけには行かないのだ。新しいオモチャをもらって喜ぶ子供じゃないんだから。
(3) 一方的な賛美
Google には功罪がある。また、Google のサービスの利便性には、諸刃の剣がある。……そういう両面価値に気づくことが必要だ。これこそが何よりも大切だ。
しかしながら、世間には「片面的な認識」が多い。物事を見て、プラスの面だけを見て、マイナスの面を見ない。片目だけを開けて、片目を閉じてしまう。これは「偏見」とも言える。
このような「偏見」をする人の代表は、野口悠紀雄だ。彼はこう言う。
第一に問題になるのは、「グーグル・フォビア」(グーグル恐怖症)とでも呼びうるものだ。すでに述べたように、ITの専門家ほど、Gmailに対して拒否反応を示す。「プライバシーをグーグルに握られてしまう」と恐れるからだ。こうした考えが「グーグル・フォビア」である。「Gmailを使って、データをネットワークの上に置く」という方法をとれるかどうかは、まず最初に、「グーグル・フォビア」を克服できるかどうかにかかっている。( → 出典 )彼は「あえて Google への警戒心をマヒさせよ」と主張する。しかし、その結果、どうなったか? もちろん、周知の通り。マイマップやカレンダーや Picasa では個人情報の流出が起こっている。ストリートビューも似たようなものだ。それでいて、そういう問題には、あえて目をふさごうとする。
未来に生きられる人間の条件はグーグル・フォビアを克服できるかどうかです。( → 出典 )
比喩的に言えば、「虎への恐怖症を克服しましょう。そうしてこそ、虎に近づけるのです」と主張するようなものだ。しかし、その結果、虎に食われてしまっては、何にもなるまい。
( ※ 実際、虎に食われた飼育員がいる。報道済み。ネット上で検索できる。)
虎に対しては、警戒心が必要だ。「恐怖症を克服することが大事だ」などと唱えるのは、犠牲者を増やすばかりで、社会的に有害である。このような人物は、社会的にきわめて有害であり、ウィルスのような人間だ。彼が間違った思想を社会に増殖させるのを防ぐ必要がある。
しかしながら、現実には、彼の間違った思想をマスコミはひろげるばかりだ。彼とマスコミとがグルになって、ペストかウィルスのような思想を社会に蔓延させる。そのせいで、社会には被害者が続出するハメになる。
( ※ 悪の増殖機能をもつマスコミの責任はきわめて重い。)
【 補説 】
ついでだが、野口悠紀雄の言っていることは、まったくの嘘八百だ。
第1に、Gmail を使ってファイル管理するのは、ちっとも便利ではない。いちいちネット上にアップロードしたりダウンロードしたりするのは、能率を著しく低下させる。通常ならばデスクトップか特定フォルダにあるショートカットをクリックするだけでいい。あるいは、ワープロやエディタの履歴からファイルを呼び出すだけでいい。1クリックでファイルを呼び出せる。なのに、Gmail を使っていちいちファイルをダウンロードしたりアップロードしたりするのでは、パソコンの利便性を大きく損なう。( 野口方式が便利なのは、「複数の仕事場において別々のパソコンを使う」という人だけである。かなり限られている。)
第2に、同じ目的であるなら、Dropbox の方がずっと便利だ。ネット上の記憶領域を、一つのドライブのように扱えるからだ。つまり、この方法ならば、前述の難点をなくすことができる。(時間がかかるという点は仕方ないが。また、容量の点から、有料になることもあるが。)
以上の点は、Openブログに示したとおり。下記を参照。
→ Dropbox (紹介) ,Gmail と超超整理法
( ※ 彼は「フォビア」という言葉を使う。しかし、「高所恐怖症」「女性恐怖症」という言葉はすでに日本語に定着しているのに、あえて「フォビア」という言葉を使う必要はない。たぶん彼には日本語能力が欠落しているのだろう。日本語が不自由なんですね。そんな人の意見はもともと聞く必要がない、とも言えるだろう。)
(4) 大衆心理
さて。野口悠紀雄のような見解は、社会的には病原菌のようなものなのだが、人々はその意見を喜んで聞く。ではなぜ、あえて病原菌のような意見を聞くのか? あるいは、換言すれば、なぜそのような悪の意見が社会に伝染病のように蔓延するのか?
そのわけは、人々がそれを好むからだ。
ではなぜ、人々がそれを好むのか? 理由は簡単だ。こうだ。
「人々の判断基準は、自分の利益(エゴ)だけである」
「自分の利益(エゴ)ばかりを気にするとき、社会の利益や自分の損は考えない」
要するに、「自分だけ良けりゃいい」と思って、さもしい考え方をするから、社会の利益には目もくれない。それが巡り巡って、自分の損にもなる。
そのことは、ストリートビューなどを例にとって、これまでも述べてきた。
例。: 「自分さえ良ければいい」と思って情報公開すると、他人に自分の情報を公開されてしまう。各人がエゴイズムで動くと、全員が損する。( → Google 使用禁止を )
今の社会には、「自分の儲けのために Google を利用したい」という発想をする人々が多い。
「自分を Google 化すれば、年収10倍」(勝間和代)
「 Google こそ新時代の情報技術の最先端だ、その真似をして儲けよう」(梅田望夫)
「 Google のネット・ツールで生産性と給料のアップ」( ASCII 編集部)
「 Google の真似をして、企業業績のアップ」(週刊・東洋経済)
馬鹿じゃないの、嘘つくな、と言いたくなるところだ。
だが、こういう詐欺師の口先三寸の言葉にあっさり引っかかる人々が、「大儲け」を狙って、著作や雑誌を購入する。そのせいで、人々がいくばくかの金を払うから、詐欺師ばかりが儲かる。
Google は詐欺師のための餌になっている。 (^^);
(5) 自己の利益よりも
とすれば、今、われわれは真実に気づくべきなのだ。曇りない目で、Google の真の姿に気づくべきなのだ。
野口悠紀雄や他の連中の叫ぶ一方的な賛美を聞かずに、Google が危険な病原菌である、という真実に気づくべきなのだ。
そして、そのために必要なのは、心を歪ませるものをなくすことだ。つまり、「儲けたい、儲けたい」という欲をなくすことだ。「儲けたい、儲けたい」と思えば思うほど、「利益を差し上げます」という Google や詐欺師の言葉に引っかかってしまう。
それよりはむしろ、澄んだ目で、「自分の利益」以外のものに目を向けるべきだ。特に、社会の利益に目を向けるべきだ。社会の利益は、自分の利益ではないが、社会の利益にも目を向けるべきだ。……そして、それは、「公益心」「優しさ」「思いやり」のようなものだ。
そして、「公益心」「優しさ」「思いやり」があれば、Google が社会にもたらしている損失に気づくようになる。そのとき、自分もまた損をこうむっていることを理解する。
こうして、「自分の利益」から離れることで、「社会の損得」を通じて、「自分の損」にも気づくようになる。
このときようやく、Google の危険性がはっきりとする。こいつがいつのまにかわれわれの個人情報を食い物にして肥大している、という現実に気づくようになる。それまでは自分の利益ばかりを追っていたから、気づかなかっただろうが。
( ※ ここでは、「情けは人のためならず」という諺が成立する。他人の損に気づく優しさがあるからこそ、自分の損を減らすことができて、自分にもメリットが戻ってくる。)
(6) Google の罪
エゴイスティックな欲望にとらわれなければ、Google の真実を理解できるようになる。その真実とは、功罪がなかばする、ということだ。そして、功の点にはすでに気づいていただろうから、罪の点にも目を向けるようになる。
では、罪とは? それは、本サイトが詳しく指摘している。(高木浩光氏もそうだ。)
ストリートビュー、マイマップ、カレンダー、Picasa。これらは「個人情報漏洩」というひどい害を社会にもたらしている。そういう真実に、今はっきりと気づくようになる。
前にこう述べた。
Google は、当初は、「情報技術のために尽くそう」という若者らしい方針があった。それは Google の初心であった。Google はもはやモンスターと化してしまっている。なるほど、Google には、すぐれた技術とすぐれた収益性がある。人々はそこに目を奪われる。いわば恋する異性に惹かれるように。
しかしその後、違法な YouTube を買収したころから、Google は明らかに変質してしまった。若々しい理想を見失い、金儲け至上主義になってしまった。かつてのビル・ゲイツにも似て。
そして今や、プライバシーを暴露して、利用者に多大な迷惑をかけてまで、やたらと個人情報を収集して、個人情報を貪欲に食い物にしている。Google はもはや怪物(モンスター)になってしまったのだ。誰もが制御できない巨大な悪としての。
そして、こういう現状を、われわれははっきりと認識する必要がある。
( → 前出項目 )
しかし、Google の本質は、攻撃的な拡張性なのだ。どんどん増殖するウィルスや癌細胞のような。そこでは、成長することだけが目的となり、社会との調和という発想が欠落している。そのせいで、癌細胞が 宿主(= 人間)を破壊するように、Google は社会を破壊していく。自らの成長の代償として。
Google という怪物は、馬鹿でかくなりすぎてしまった。失敗しても、修正すら容易ではないので、修正ができない。小回りが利かない怪物である。そうして、個人と企業の秘密を暴露しながら、修正すらしないで、悪の行為を継続し続けるのだ。Google は、個人の情報を食い物にして、自分ばかりが肥大化していく。
そして、そういうふうに急成長する Google を見て、羨ましがって、「自分も Google みたいになりたいなあ」と思うような、愚かな人々が出てくるわけだ。悪の癌細胞みたいな怪物を、すばらしい正義の先端企業だと錯覚しながら。
( ※ 実は、Google が修正できないことには、理由がある。Google がもはや若々しさを失ってしまったことだ。「公開で成功した」という過去の成功体験にとらわれるあまり、「公開で反社会的な害悪をもたらす」という現実を理解できない。痴呆老人と同じで、自分のしていることを自分で理解できない。Google はもはやアルツハイマーのボケ老人と同じ症状を発している。……これが怪物の正体だ。)
(7) セキュリティ
Google をめぐる事実については、すでに述べたことで尽くされている。
このあと、時代について、一般的な考察をしよう。
現代におけるコンピュータの意義は何か?
コンピュータで大切なのは、情報処理か? かつてはそう思われてきた。だから人々が重視したのは、次のような情報処理能力だった。
・ CPU、メモリ、ハードディスク、DVD など、ハードの高性能化。
・ OS やアプリなど、ソフトの高性能化
・ ネット基盤の整備
かつてはこれらのことばかりが重視されてきた。そこでは高性能化すればするほど状況は改善すると思われてきた。
しかし、その後、新たな事態が出現した。それは「悪」の登場である。ウィルス、スパイウエア、フィッシング、迷惑メールなど、新たな悪が次から次へと現れてきた。これらは、高性能化すればするほど、かえって社会に損失をもたらすようになった。
現代はもはや、「情報技術の発達はすばらしい」と素朴に信じることのできない時代になったのだ。
時代はもはや変わった。そこでは「新しい技術は便利だ」と賛美していればいいのではなく、「新しい技術は危険だ」と警戒する意識も必要になった。
そして、ここでは、重要な概念は「セキュリティ」という概念なのだ。
野口悠紀雄のように、「 Google を信じていれば能率が上がる」と思うのは、古すぎる時代錯誤的な発想だ。そんな発想を取る人が多いから、個人情報の漏洩という問題が続出する。
それよりはむしろ、「セキュリティ」という概念を重視するべきなのだ。
もちろん、学校でも、「セキュリティ」を教えるべきだ。
今、「ネット・リテラシー」というと、コンピュータやアプリの操作法を習得することだとばかり思っている人が多すぎる。しかし、そうではない。コンピュータやアプリの操作法を習得することも大切だが、それと同時に、「セキュリティ」についても学ぶべきだ。つまり、次のことを。
「コンピュータやアプリを操作すれば、便利な点もあるが、危険な点もある。下手をすると、悪意あるものに触れて、いつのまにか大切な情報を流出させてしまう」
つまり、情報技術については、「功」と「罪」をともに知る必要がある。野口悠紀雄みたいに、「功」ばかりを書いて、「罪」を書かないのは、あまりにも「ネット・リテラシー」が低い発想なのだ。
われわれはもはや、新しい時代に入った。それは新たな情報化の時代だ。その世界は、バラ色の世界ではなく、善と悪の入り混じった世界だ。そこではもはや、素朴な技術信奉は成立しない。むしろ技術信奉に警戒心が必要なのだ。……そこで大切な概念は、「セキュリティ」という概念なのだ。
このことをはっきりと理解しておく必要がある。
( ※ 話は次項に続く。新たなテーマでとらえ直す。)