H先生
資料(『科学・社会・人間』、No.104-107(2008)の3論文)をお送りいただき、まことに、ありがとうございました。3編、一気に読みました。
(まず、本質的なことではありませんが、No.105, p.47の「原子炉の溶融が仮定されながらも」とp.48の「前原子力安全基盤機構理事長」は誤りです。重大事故でも仮想事故でも炉心は、溶融せず、考え方として、環境被ばく評価の場合の放射能は、不思議なことですが、機械的に、そのように、想定しているだけです。石川先生は、北大退職後、原子力安全基盤機構の前身組織の原子力発電技術機構の顧問で、改組にともない、そのまま、原子力安全基盤機構の顧問であっただけだと記憶しています。石川先生は、脛に傷を負っているため、日本原子力技術協会のような民間組織の理事長は、務まったかもしれませんが、政府関係組織の理事長には、絶対になれなかった人材です。)
吉岡斉先生が、瀬尾プログラムとそれによる原発災害評価結果について、『科学・社会・人間』、No.104(2008)で、わずか1頁の問題提起をしただけにもかかわらず、それも採るに足らない無視すればよいような程度の低い内容に対し、小出先生が『科学・社会・人間』、No.105(2008)で10頁も反論したのは、やりすぎです。
さらに吉岡先生が、『科学・社会・人間』、No.106(2008)で、饒舌ではあるが、議論の内容と方向を意識的に変え、ごまかしにごまかしを加えて16頁の議論をしています。査読なしの同人誌のエッセーであるため、その程度の内容でも掲載されているのでしょうが、査読付の学会論文誌であれば、絶対に掲載されません。と言うのは、単に、誤りだけでなく、論証困難か論証不可能な問題が多く含まれているからです。吉岡先生は、原子力産業界の考え方と情報を基に主張していますが、私が単純に同意できないことも少なくありませんでした。
(吉岡先生は、No.106において、瀬尾プログラムが"無意味"であると、繰り返し主張しており、その根拠として、瀬尾プログラムでは"急性放射線症"の評価をシーベルト(Sv)でしており、厳密には、吸収線量のグレイ(Gy)にすべきとし(ただし、途中から、放射線の種類による荷重係数をかけたグレイ当量Gy・Eq)としている)(ここで問題になるのは、Gy・Eqで採用する荷重係数とSvで採用する荷重係数は、異なる点であり、適用上の条件での定量的評価における工学的差を無視し、吉岡先生は、そのことの厳密性を指摘して、"無意味"としています)、瀬尾プログラムも「ラスムッセン報告」も原水爆の"急性放射線症"の文献の半分もみな、Svを採用しており、それは、厳密には間違いだとしている。一般論として、厳密には、そうかもしれない。しかし、瀬尾プログラムも「ラスムッセン報告」も、原発災害評価の適用条件での定量的評価における工学的差を考慮し、妥協策として、意識的に、そのようにしたと推察でき、特に、原水爆での"急性放射線症"の放射線種類と原発災害評価での"急性放射線症"での放射線種類は、異なり、原発災害評価での"急性放射線症"の対象となる支配的な放射線の種類と荷重係数を考慮すれば、工学的評価として議論する限り、Gy・EqとSvでの評価の間には、有意な差はなく、瀬尾プログラムが"無意味"ということには、なりません。吉岡先生は、広島市が設置した「広島市核被害想定専門部会」での情報や独自の文献調査を基に、原水爆での"急性放射線症"についての議論にウェイトをおいて議論を進めているようです。原水爆では、中性子の影響が大きく、原発災害では、核分裂生成物からの遅発中性子やウランを初め超ウラン核種からの自発核分裂中性子もありますが、支配的な放射線は、ガンマ線やベータ線です。瀬尾先生は、最初から、そのことを念頭に、プログラム全体の構想と該当部分のプログラミングをしたものと推察されます。)
(私の技術論からすれば、瀬尾プログラムも「ラスムッセン報告」もそうですが、一般論として、世の中にないものを作り上げる場合、最初から、厳密な評価ができるわけではなく、利用目的と要求精度によって、意識的に、第ゼロ近似、第一近似・・・・と、近似度を上げていくのが、エンジニアの具体的な手法ですから、今の時点で、瀬尾プログラムや「ラスムッセン報告」に改善すべき事項が認識されたとしても、驚くべきことではなく、想定の範囲内になっており、問題は、要求精度と適用する近似度にすぎません。原発災害評価は、解析に対する考え方と解析条件の設定によって、結果が数桁も変動し、どのような条件が現実的なのか、甘いのか、厳しいのか、厳しすぎるのかが、分からないというのが現状です。推進派(意図的に甘い条件を設定)と反対派(意図的に厳しすぎる条件を設定)の設定条件と解析結果に対し、どちらがよいとか、真実とは言えず、真実らしきことは、数桁の不確定を持つ結果の中に入っているであろうという程度のことです。私の立場からすれば、推進派と反対派とも、確率論的安全評価(PSA)の結果を採用し、社会リスクを発生確率と組み合わせて、議論することも考えていただきたいということです。)
(吉岡先生が、瀬尾プログラムが"無意味"だと主張したいのであれば、自身が理想とするような完全な原発災害プログラムを作成し、ベンチマーク実験解析を実施し、その信頼性を証明して、社会に公表すれば良いだけで、実に、解決策は単純です。そのようなことが実現できれば、社会への貢献度も大きく、慶賀すべきことです。)
それから、工学的な意味がまったく理解できていない論理展開に、小出先生からのこれ以上の反論は、不要のように感じました。
(たとえば、多くある中で、たったひとつ挙げるとすれば、原子力資料情報室の上澤千尋先生が実施した六ヶ所村核燃料再処理工場の災害評価に対してです。使用済み燃料貯蔵プールからの1%放射性物質放出の根拠・必然性に疑問を投げかけています。しかし、核燃料再処理工場では、停電時に非常用ディーゼル発電機の起動失敗等による冷却系機器によるプール水に対する能力低下にともない発生する最も典型的な想定事故です。過去に、実際に、ドイツでそのような事故が発生し、きわどいことが起こりました。上澤先生の正当な解釈にもかかわらず、戦闘機の墜落でも想定しているのかと意味不明の見当違いの想定原因を推定し、コケにしていますが、不適切です。文献は、全体的に読むもので、自身の議論に都合のよいところだけを作為的につまみ食いするものではありません。吉岡先生の他の論文を意識的に調査して分かったことは、たとえ、査読付論文誌『年報 科学・技術・社会』においてさえ、査読者の能力不足のために、文献の作為的解釈や引用範囲不適切な例(本欄のバックナンバー参照)がそのまま掲載されていることです。私の目は、節穴ではありませんので、今後、十分にご注意ください。)
吉岡先生は、(自ら異論派御用学者と名乗っているのに違和感を持ちましたが)、故・広重徹(科学史研究者)の批判手法をそのまま真似し、『原子力の社会史』(朝日選書、1999)で行ったような、つまり、議論の仕方と結果が誰を利しているのかにまったく無頓着に(同書や今回の議論では、明らかに、電力会社を初めとする原子力界の宣伝に堕していますが、そのようなことを意識的にしているのか、それとも、ミクロな議論に夢中になり、マクロな影響に、悪意はなくても気づいていないだけなのか、図りかねていますが、私は、恐らく、前者(確信犯)であろうと推察しています)、議論している点が見苦しく、醜いと感じました。それに、誤記と誤解が多く、驚きました。吉岡先生は、そのことに気づいていないのでしょうか、それとも、意識的にしているのでしょうか。私には吉岡先生の二転三転しているかのように見える政治的転換がよく理解できません。吉岡先生の信用と将来のためにも誰かが助言してやらなければならないでしょう。
以上は私のマクロ解釈です。いずれ時間をかけて、ミクロ解釈、つまり、私の考え方と理解を詳細にまとめてみたいと考えています。もちろん、私は、第三者ですから、公正に、両者の提起・論証した問題に対して、厳しく吟味してみたいと思っていますが・・・。
取り急ぎお礼まで
桜井淳