氷海口碑(たぶん第4話か5話くらい)
氷海に吹く凍える風。
それは背筋を刺激し、肌を粟立たせる。エルス・ショットは風の中で、水平に剣を構えた。
炎に打ち鍛えられた、鋼に鋼をまとった平坦な刃。持ち慣れたその武器は、手先よりも容易に自分の意思に応えてくれる。たったひとつの、叶わない願いを異とすれば。
鋼の重さに従って、それを振り下ろす。激しくはなく、ゆっくりと。風に触れたその刀身は、氷そのもののように冴えた光沢を発していた。意識しなければその刃は、鞘に納められたベルトの重しでしかない。だが自分の手で抜き放てば、自らの意志として二度と還らぬものをむしり取る。
それはとても冷たい……
そこは街の外れで、人の気配が薄い――ないわけではなく、だが吐息にあふれた街中ほど息苦しくもない――その場所は、いつの間にか彼女の私的な空間となっていた。法的な権利があったわけではない。が、誰も構いはしない。
白い荒野。まだ氷海の影響を受けるような距離ではないが、街よりは氷海に近い。ここより以北は魔の領域となる。
正視はしない。横目でだけ、遙かな秘境を眺めた。
氷海。それが見える。白い靄のごとく霞んだ風と空とが、そこへと向かう愚か者を睥睨すべく広がっている。巨大なるもの。それは自然の道理として、近づけば近づくほどますます巨大化していく。
「迷いは? エルス・ショット」
いつものように予告なく、背後からの声が訊ねてくる。彼女は振り返らない。見れば、彼はそこにいるかもしれない――いないかもしれない。
いると断言もできず、いないと決めつけるのも危険過ぎる。
どちらを望むわけでもない。だから振り返らない。
風に固まった唇の表皮を、こすり合わせて開く。彼女は告げた。
「あなたはわたしに約束したわね。氷海でも使える剣をくれると」
「君が相応しければ。そして望むならば」
「あの魔物と戦えるのはわたしだけだと、あなたも認めたはず」
「認めた。あとは、君が挑むかどうかだ」
「そう言っているでしょう」
「本当にそう思っているのなら、剣などなくても、君は行くはずだ」
「あなたは――」
風に髪を撫でられて。
吸おうとしていた息に氷海の冷気が混じって、エルスは言葉を止めた。言いかけた言葉を忘れるために、かぶりを振る。
誓いが、自らの胸に刻んだ誓いが言葉を締め付けていた。その男の顔を見てはならない。そして、その男の言葉に腹を立ててはならない。
ゆっくりと彼女は言い直した。
「わたしにとって剣が必要でなくても、剣にはわたしが必要でしょう」
「あれが本当に魔物なのか。ぼくたちが知りたいのは、それだよ」
声は構わずに、話の先を変えた。悪びれもせず、続けてくる。
「黒騎士……みなはそう呼ぶ。愁嘆の者だとね。怪物だと噂している。だからぼくは来た。それが本当の怪物なのか見定めるために」
「そんなことは――」
「分かってる。君にはどうでもいいことだろう。でも忘れないでエルス。もしあれが本当に魔物なら人の手には負えない。君は死ぬことになる」
「やってみなければ分からないじゃない」
不敵に告げたつもりだった。が、男はやはり気にせずに、自分の言葉だけを語り続ける。
「氷海が怪物領域ならば……いいかい。この世界はもう終わりなんだ。人の終わり。地図の終わり。知識の終わり。歴史の終わりだ。怪物は、この世において最初で最後。すべてが閉じる」
「だからなんなの! そんなものがなくても人は死ぬわよ!」
怒りが誓いを忘れさせた――いや、忘れさせるだろうことは、その手前で悟った。そこで思いとどまらなかったのは自らの卑しさだと認めつつ、彼女は無視した。振り向いて、その男の姿を探す。
抜き身のままぶら下げていた剣が、視界の隅に揺れていた。男は、どこにも見あたらなかった。
神秘調査会はアスカラナンの無害な研究者の集い――と言う者もいる。
違うことを言い出す者もいる。ただ分かっているのは、マグスなる力の主がその組織を作り、そしてその力を周囲に貸し与えることを代償として、知識の収集に努めている。これは容易に両立した。彼らの力が必要とされるのは、常に、不可解な出来事、困難な事例が発生した時だったからだ。それらの事象から、あるいは事態の内外に騒ぐ人々から、彼らは知識を集めて去っていく。
マグスはそれほど珍しい存在とは言えない。マギなる技。その使い手マグス。力の出所をと問われれば、彼らは不透明な笑顔を浮かべ、こう答える。「マグスの技、マギ。マギの使い手、マグス。どちらが先かなど、誰も知らない」
彼らは普通に生活している。そして、どこにでもいる。求める時に現れる。求めない時にもいる。