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「にっぽん」というイメージでゆがめられた現代日本

パトリック・スミス著、ノ・シネ訳『日本の再構成』(マティ) 

 西洋人は日本を、西洋流に想定した「東洋」あるいは「日本」のイメージで考える場合が多い。『日本の再構成』は、西洋人が日本を見る際のこうした枠組みに対し、反旗を翻す。著者のパトリック・スミスは、1987年から91年まで「インターナショナル・ヘラルド・トリビューン」紙の東京支局長を務めたのをはじめ、20年以上アジアで活動してきた米国人。これまで西洋に日本を知らせてきた学者としてはエドウィン・ライシャワー、エズラ・ボーゲルなどが挙げられるが、これらの研究者は実際には日本を歪曲(わいきょく)してきた、とパトリック・スミスは毒舌を浴びせ掛ける。

 パトリック・スミスは、西洋人が日本に見いだす日本的な伝統の強みというものを認めない。逆に彼は、日本は十分な近代性を備えていない国で、これは米国の責任によるところが大きい、という趣旨の主張を展開している。

 パトリック・スミスの主張は、敗戦以後の日本は国民の選択を通じ自ら進むべき方向を決定すべきだったが、冷戦構造下で共産主義を防ぐという名目を掲げた米国が、第2次世界大戦に責任がある旧体制の関係者を登用したため、これが挫折した、というものだ。著者は「日本は独立国家のふりをしているものの、実質的には米国の軍事保護国だ」「米国は日本が民主主義国家だと信じるよう世の中をあざむいた」と語る。パトリック・スミスは、ライシャワー教授の著書『日本の今日』を、「事実無根の話ばかりで、歴史の仮面をかぶった宣伝文句にあふれた本だ」と批判し、安倍晋三前首相の母方の祖父・岸信介元首相を「戦犯にしてならず者」と容赦なく表現した。

 パトリック・スミスの論理は、最後にはいささか突拍子もない方向に飛んでいく。彼は、日本の再軍備を「侵略」と結び付けて憂慮する視点を「知的怠慢に等しい」と主張する。日本人は再軍備に対し拒否感を示しているが、その一方ねじれたやり方で極右の声を上げ、全国民が否定してきた欲望を再び表出したがる矛盾した感情を持っている。これを克服するには、米国が作り上げた日本の現行平和憲法は廃棄すべきであり、再軍備を含む日本の行く末は(米国ではなく)日本人自らが行う討論を通じ決定すべきだ、というわけだ。

 著者の主張は、日本を取材したことのあるメディア関係者ならば一度は悩むであろう問題だ。ただし、彼が排除しようとした「西欧の枠組み」は、依然としてこの本とその主張を縛っており、そこに限界がある。日本という国をひとまとめにして「日本はこうだ」と断定したり、わずかな例え話を通じ日本全体を裁断する著者の過剰な自信は、読者にとっては煩わしい。実際に著者の主張の通り、日本が敗戦の束縛から完全に抜け出し自らの道を歩いていくことに決めたとして、そのとき当然発生するであろう東アジア全体の緊張局面と周辺国の憂慮は、全く彼の関心事ではない、ということを意味している。原題は『Japan:A Reinterpretation』。

崔洽(チェ・フプ)記者

朝鮮日報/朝鮮日報日本語版

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